スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

報知グランプリカップ&思い込み

2018-02-07 19:17:04 | 地方競馬
 ダイオライト記念トライアルの第54回報知グランプリカップ
 発走してしばらくはキャプテンキングが先頭でしたが,正面の半ばで外からバルダッサーレがハナを奪い,向正面にかけて後続を引き離しての逃げに。2番手にケイアイレオーネでこれをマークする位置にリッカルド。その後ろに控えたキャプテンキングとロワジャルダンでこの4頭は集団。少し離れてタイムズアローが続き,さらにイッシンドウタイ。その後ろはトーセンハルカゼ,ポイントプラス,グレナディアーズ,フィールザスマートの4頭の集団。エンパイアペガサス,オメガスカイツリーと続いてタマモネイヴィーは取り残されました。最初の800mは48秒8のハイペース。
 3コーナーを回るとバルダッサーレのリードがみるみるうちに縮まっていき,4コーナーではケイアイレオーネが先頭。しかしずっとマークしていたリッカルドが直線に入るとすぐにケイアイレオーネを捕まえ,あとは後ろを引き離していく一方となって圧勝。また盛り返してきたバルダッサーレ,ケイアイレオーネ,この2頭の間を割ったキャプテンキング,そしてケイアイレオーネの外から脚を伸ばしたロワジャルダンの4頭が一時的に競り合いとなり,大外のロワジャルダンがここからやや抜け出す形で7馬身差の2着。4分の3馬身差の3着にキャプテンキング。
 優勝したリッカルドはこのレースが南関東への転入初戦。したがって南関東重賞は初勝利。JRA時代は一昨年のエルムステークスを勝っていて,それ以来の勝利。エルムステークス以降は落ち込んでしまい,一昨年の11月から昨年暮れまでの10戦は掲示板も外していました。ただ昨年の夏からは勝ち馬から1秒圏内のレースができるようになり,今年1月のオープンは5着と,復調気配にありました。元の力からいえば南関東重賞は勝てる馬で,この着差からするとさらに状態も上がっていたのではないでしょうか。どういう理由で落ち込んでいたのかいまひとつ分からないのですが,今日のレースだけでいえば重賞でもそれなりの期待がもてそうに思えます。父は2005年のJRA賞の最優秀2歳牡馬に選出されたフサイチリシャール。その父がクロフネ。4代母がアリアーン。母の7つ上の半兄が1999年に東京大賞典を勝ったワールドクリークで3つ下の半弟がNARグランプリで2010年2011年にダートグレード競走特別賞に選出されたスマートファルコン。Riccardoはイタリア語の男性名。
 騎乗した大井の矢野貴之騎手は昨年の羽田盃以来となる南関東重賞11勝目。報知グランプリカップは初勝利。管理することになった船橋の佐藤裕太調教師は南関東重賞2勝目で報知グランプリカップは初勝利。

 自由の人homo liberは真理の規範を有しているわけですから,希望spesによって不安metusを打ち消した場合でも,その希望が真理veritasではないということ,他面からいえば単に自分にとっての善bonumでしかないということを理解します。というか,正確にいうなら,そのような人のことを自由の人というのです。ところが,人間には真理の規範を見失うということがあって,その場合には恐怖metusを打ち消した希望が単に虚偽falsitasとしての善であるだけでなく,真verumであるとも思い込まれるようになります。つまりただ虚偽に陥るというだけでなく,誤謬errorを犯すようになるのです。これは,善であるものが真であってほしいという欲望cupiditasから生じる誤謬であるといえます。要するにそうであってほしい事柄を実際にそうであると思い込むようになるのです。これは目覚めながら夢を見ているようなものですが,実際にこのようなことが起こるということは僕たちは経験的に知っているといえるでしょう。ある人間が自身の希望を打ち消してしまうような真の情報について,それは偽であると臆面もなくいい張ること,つまり本気で真なるものを偽と思い込み,自身が希望あるいは欲望している偽なるものを真であると真剣に思い込んでいるというような例は実際に存在するとしかいいようがないからです。
                               
 スピノザは第三部定理九備考で,僕たちは善であるものを欲望するのではなくて,欲望してるところのものを善とみなすといっています。欲望は第三部諸感情の定義一から分かるように,受動状態における人間の本性essentiaを示します。僕たちは受動passioという状態にあるときは必然的にnecessario混乱した観念idea inadaequataすなわち偽を有しています。ただし,だから必然的に善は偽なるものであるというわけではありません。第三部定理五九から分かるように,僕たちの能動actioから生じる欲望というものもあるにはあるからです。ただ,備考Scholiumのいい方は,欲望しているものについては必然的に善とみなすのですから,僕たちはそれが真であるか偽であるかには関係なく,そのものを善とみなすということは間違いありません。実際,不安を希望で解消することは,それ自体では善です。それは希望が偽であることを認識しているかいないかとは関係ありません。

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 農林水産大臣賞典佐賀記念&主体 | トップ | 王将戦&第三部定理九備考か... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

地方競馬」カテゴリの最新記事