スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

マイナビ女子オープン&自己

2017-04-20 19:26:09 | 将棋
 明治記念館で指された第10期マイナビ女子オープン五番勝負第二局。
 上田初美女流三段の先手で中飛車。加藤桃子女王は居飛車穴熊に。
                                     
 後手が穴熊を完成させ,先手が5七の銀を上がった局面。ここでいきなり☖7五歩と仕掛けていきました。後手は銀が6四には上がれない形なので意表の仕掛けかもしれません。
 ☗同歩に☖8六歩☗同角とこちらも突き捨てて☖8四銀。6四に上がれないのでこちらに上がるほかないところですが,突き捨ててからの棒銀は珍しいのではないでしょうか。
 ☗7四歩と伸ばし☖8五銀。ここでは☗7三歩成☖同桂☗9五角が指し手の継続性からは自然に思えますが単に☗9五角と出ました。後手は☖7四銀と歩を払いつつ飛車先を直通させました。
 ここで☗7二歩と打ったのが結果的には緩手。すぐに☖8七飛成と龍を作られました。
                                     
 第2図は穴熊に囲った後手が先に飛車を成ったのですから見た目以上に大優勢と思えます。☗7二歩のところで☗6四歩と突くと☖9四歩と角を追われるのを嫌ったようですが,そういう読みであるならそもそも後手の仕掛けに対して正しく対応できていなかったということになるのではないでしょうか。第2図で☗6四歩と突きましたがこの攻めは間に合わず,以下は後手が一方的に攻め倒すことになりました。
 加藤女王が連勝。第三局は来月16日です。

 人間が理性ratioを行使するにあたって意志voluntasの役割を認めないということと,真理の規範は真理自身である,いい換えればそれは知性intellectusのうちに存在するのであって知性を離れた形相的なもののうちにないということは,いわゆる観念論として別個の事柄に言及しているのですが,スピノザの哲学の中では一貫性をもっているということ,他面からいえば関係し合っているということは理解できました。この部分についての考察はこれで終了します。
 『スピノザ 共同性のポリティクス』から,もうひとつ検討したいことがあります。
 第6章はディープエコロジーといわれる環境主義とスピノザの哲学との関連の妥当性に関する論考ですが,この中で,スピノザの哲学において自己というのがいかなるものであるかが,これはテーマとの関連があって簡潔にといわなければならないのですが,検討されています。これは僕がこれまであまり主題として設定してこなかった事柄であるわりに,スピノザの哲学の自己観ひいては人間観を示すのに重要であるかもしれません。なのでこの機会にそれについて詳細に考察してみたいのです。
 『エチカ』の第一部定義一は,自己原因causam suiの定義Definitioになっています。これは自己原因が作出原因causa efficiensであるか否かという哲学的議論に,ある意味では巻き込まれないようにするために,またある意味では決着をつけるためにという意図があったと察せられます。このことは『近世哲学史点描』の第五章で詳しく論じられていて,かつて言及したこともあったかと思います。デカルトは自己原因が作出原因ではないという受け取れるような論述をしたのですが,スピノザからすればそれはデカルトの欺瞞なのであり,実際にはデカルトは神Deusが自己原因であり作出原因でもあるといっているのです。つまり自己原因は作出原因,スピノザの哲学に相応しく訳し直せば起成原因causa efficiensであって,そのことをスピノザは『エチカ』の冒頭で宣言したのです。
 浅野は,スコラ哲学では自己原因の定義は単に原因をもたないものということだったと述べています。スコラ哲学に対する解釈としての妥当性は僕には分かりませんが,これは消極的な言明で,定義とはいえません。
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