スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

滝澤正光杯&プラド

2016-10-18 19:19:39 | 競輪
 被災地支援競輪として行われた千葉記念の決勝。並びは新田に山田,吉沢‐小林の関東,深谷‐椎木尾の中部近畿,荒井‐柳詰の九州で浜田は単騎。
 椎木尾がスタートを取って深谷の前受け。3番手に荒井,5番手に新田,7番手に吉沢,最後尾に浜田の周回。結果的に浜田はずっと関東を追走するレースになりました。残り2周のバック手前から吉沢が上昇。バックで深谷を叩いて打鐘。うまく4番手に入ったのが荒井。6番手を内の深谷と外の新田で取り合う形になり,ホームで外から極めた新田が奪取。椎木尾が山田の後ろにスイッチしたので深谷が最後尾の一列棒状に。新田はバックでは柳詰との車間を少し開けて深谷を警戒。最後尾からの深谷の発進に併せて捲っていきましたが,時すでに遅し。4番手で待ち構えていた荒井がさらに併せて発進して優勝。3番手からになった自力もある浜田が半車身差の2着。その浜田と吉沢の番手から出た小林の間に進路を取った新田マークの山田が半車輪差で3着。
 優勝した佐賀の荒井崇博選手は一昨年4月の武雄記念以来となる記念競輪13勝目。千葉記念は初優勝。このレースはまともな力勝負になれば新田と深谷の争いとなるメンバー構成。ところが新田が深谷を警戒しすぎたために脚を使うのが遅くなりすぎ,力を余してしまうことに。深谷も椎木尾に切り替えられて最後尾になってしまった時点で苦しくなりました。逃げた関東ラインにとって最もよい展開ではあったのですが,さすがに500バンクということもあり,よい位置を取った荒井に有利に働いたということでしょう。したがって吉沢が叩きに来たときにうまく4番手を取ったところが勝因になったといえそうです。

 アムステルダムのユダヤ人共同体では,スピノザとほぼ同じ時期に,ファン・デ・プラドも破門を宣告されています。ただしプラドはそのときには悔悛の意志を表明する文面を読み上げ,破門を解かれています。しかしその後のプラドの行いが以前と変わらないものであるとみなされたために,1658年2月4日に再び破門を宣告されます。プラドはアムステルダムに留まりたかったのですが,結果的にそれはかなわず,翌年にはアムステルダムを去り,アントワープに移りました。
 当時のユダヤ人指導者たちには,スピノザとプラドの間には思想的な繋がりがあるとみなされていたようです。いい換えればふたりが共に破門を宣告されたことについて,何の関係もなかったと理解するのは困難なようです。そしてスピノザとプラドが知り合いであったことも間違いないといえます。ただし,スピノザとプラドの間には,立場的に大きな違いがあったようです。
                                     
 プラドは1612年にスペインで産まれました。ユダヤ教を実践する改宗ユダヤ人の家庭であったと『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』には書かれています。この当時のスペインではユダヤ教は禁止されていた筈なので,いわゆる隠れユダヤ教徒であったと考えてよいでしょう。プラド自身もユダヤ教の律法を遵守し,またそういう生活を他人に勧めていたようです。
 それがあからさまになって罪に問われることはなかったのですが,スペインのような異端審問所の勢力が強い地域で生活することは危険と思い,ローマの大司教の侍医に任命されたのを機にスペインを脱出。しかしローマもまたプラドのような隠れユダヤ教徒にとって危険な場所であるのは同じで,それからハンブルクに移り,さらに1655年にアムステルダムに移住してユダヤ人共同体の一員となりました。つまりスピノザはマラーノの子孫だったわけですが,プラドは自身がマラーノであったことになります。
 この当時のアムステルダムのシナゴーグでは,富の再分配が積極的に行われていました。基本的にスピノザは税を納める方の立場だったのですが,新参者のプラドは慈善金を受け取る立場でした。つまり経済的地位も異なっていたのです。
ジャンル:
自転車
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