デュシャンはアートとは何かと聞かれ「もし私が聞いた通り、それがサンスクリットから来たものなら、この言葉は《つくる》という意味です。」と答えたが、これはヴェーダのTat Tvam Asiの古英訳That art thouにおけるart=be動詞の二人称単数直接法現在と一致する。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年8月19日 - 09:57
中動態のことを考えていると、エアコンの室外機のことを思い出す。自分の部屋の内側を冷やす為にエアコンを設置し、暑い空気を部屋の外へと室外機を使って放出する訳だけれど、もっと中動態的に考えれば、街自体を暑くしない、という別の解決方法がある様に思えるのだけれど、どうだろうか?
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年8月19日 - 11:43
@lethal_notion これは実は昔から考えていたテーマです。それと國分さんが論じている幼稚園についても似た様なことが言えます。私の近所にある沼津の幼稚園が、少子化のため閉鎖しました。都内では幼稚園が足りないと言っていますが… twitter.com/i/web/status/8…
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年8月19日 - 12:52
さてドクメンタ14原稿の続編をようやく送信。7000字弱。ノードスタットと呼ばれるエリアの記述を増やし、考察部分では京都の崇仁地区での例やウィニコットなどもふまえつつ、芸術祭のありかたそのものについても考えている。「祝祭から遊びへ」。
— 池田剛介 Kosuke Ikeda (@kosukeikeda) 2017年8月5日 - 14:01
ふと思い出したのでメモだけど、そういえば前にランシエールや國分さんの議論も引きながら、現実主義からのある種の離脱、遊離することの可能性について考えていたのだった。この辺は今回の「遊ぶこと」(ウィニコット)をめぐるテーマと通じている。
— 池田剛介 Kosuke Ikeda (@kosukeikeda) 2017年8月19日 - 13:42
madcity.jp/note04_ikeda/
ランシエールはシラーの遊戯概念をふまえているし、ウィニコットには、『中動態の世界』の議論と通じるところがあると思う。「遊び」をめぐる議論は現在のアートの問題と合わせて考えるべきことがいろいろありそう。
— 池田剛介 Kosuke Ikeda (@kosukeikeda) 2017年8月19日 - 13:49
さらに言うと、カイヨワのいう遊びの一形態であるミミクリ(擬態)は、フィクションを演じることと繋がっているわけで、早稲田文学での「虚構としてのフォームへ」の議論と通じているわけか。自己なるほど。
— 池田剛介 Kosuke Ikeda (@kosukeikeda) 2017年8月19日 - 14:15
芸術が情報と何の関係もないのは、情報とは分化の作用だから。二つの異なるものを繋げる抽象の力こそ、芸術の源泉力に他ならない。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年8月19日 - 22:04