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「少女の頭部」ピカソ 1926年

2013-08-29 | 芸術

理解できない事象には自分を変える力がある。なぜならそれは自分の外側にあるものだから。その事象は、夏の雷のように突然現れ、人を散々脅かしては短時間で去っていく。時には雷は自分の殻を直撃して、それを破壊する。

意味不明で奇怪な美術作品群。これもまた、理解不能な「雷」のようだ。とりわけ、タイトルに挙げたパブロ・ピカソの作品は、彼が20世紀最大の画家と呼ばれてから既に何十年が過ぎ去ろうとしている現代においても、大概の人間にとってはそのようなものに見える。
事象の多くが、区切ることさえ困難で曖昧な“体験”として現れるのに対し、絵画作品は、たかだか数メートル四方の四角形に区切られた小さなモノであり、それは恰も体験を閉じ込めたカプセルだ。「その体験が与えてくれるであろう世界」への希望。雷が私の殻を破ってくれることへの期待。それが、私の美術作品への憧れの小さくない部分を占めていることは恐らく間違いない。

モノクロで描かれた「少女の頭部」。あどけなさを残しつつも端正で無表情な顔。その右半分は仮面を被っているようで、その表情はうかがいしれない。「仮面」の顎のような曲線はチョークで描かれたぼやけた線に繋がり、首のラインをなぞる。
その仮面と少女は同一人物でありながら、その2つの横顔の唇は1本の曲線で区切られ、キスをしているようにも見える。そう見ると、不思議と 仮面のような右の目は、単純にキスをするときに閉じた眼のようにも見えてくるし、中央の曲線とその真ん中に位置する小さな丸は、もしかしたら彼女の乳房と乳首なのかもしれない。

画家が一体何を考えてこのような構成に至っているのか、彼の絵を初めて見たのは多分小学生の頃だったと思うが、その頃から一貫して全くわからない。しかしそのシンプルで明確な線で区切られた構成は、どんなに謎の形状を描いていても、決して一つの作品としての統一感を失わず、さらには美しさと質感までも感じさせる。これはこの線一本一本の意味を理解せずとも、感じられる作品のメッセージである。小さく、無名で完成度の高いとは言えないこのような作品であっても、ピカソの「迫力」を雄弁に語ってくれる。

先に、「憧れの小さくない部分を占めている」と書いたが、私の美術への憧れを構成するもう片方は、人を何万年も前から育んできた自然の風景が、人に言いようもない感動を与えるのと同じように、理解のフィルタリングを意に介さずダイレクトに人の根源に飛び込んでくるその普遍的な「美」であることは間違いない。優れた美術作品は、人の殻を破ることなく、人の心にしみいり、その中から自分を変えていく。


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