穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

Q(4)章 看護兵となる

2017-06-02 14:30:10 | 反復と忘却

雷鳴は間遠になったが、雨は依然として激しく降っている。彼らはもう一杯コーヒーを注文した。老人に聞くと彼もコーヒーを飲むというので老人の分も買ってきた。

「雑役夫というとどんなことをするんですか」

あらゆる雑用だな、と老人は答えた。「食糧や武器の運搬、軍馬の世話、負傷兵の輸送とかね。「幕府の長州征伐はぽしゃっちゃったが、すぐに戊辰戦争がはじまったからね。戊辰戦争の時にはイギリス大使館の医者が負傷兵や戦病兵の世話をしてね。なにしろ漢方医じゃ手が回らないんで大活躍さ」

 老人の話によると彼は英人医師の助手になったらしい。そうしているうちに器用なこともあって大体コツを飲み込んでしまったという。。戦場の負傷とか病気というのは決まり切っているし、大名や大商人の屋敷に上がってお脈拝見なんて悠長なことはできない。即断即決で荒っぽいこともする。老人も、彼の名前は尼子林次郎というそうだが、器用だから大体のところはすぐ覚えてしまって英人医師から信頼されてほとんどのことは独断で処置したらしい。

 そして英人医師にかわいがられて戦闘の合間にはあらかた臨床の方面のことは覚えてしまったという。そうしているうちに尼子の腕の良いことが大名たちの間でも知れ渡ってあちこちの大名家に出入りするようになったという。譜代大名のご典医になったこともあるという。

 そりゃ大出世ですね、と平敷が感嘆したようにいうと「なに、ご典医といっても眼科、外科、小児科など細かく分かれていてね、それぞれに数人典医がいるんでさあ」

「そうすると、現代の大企業が専属で持っている企業の大きな診療所の医師みたいなものですね」

「そうかもしれない」

 「一度は公家の家にも呼ばれましたよ。公家と言っても相当身分が高いかたでね」

「どこですか」

「それは言えないな。恐れ多くてはばかりがあるからな。ある老女としておきましょう。白内障を患っておられてね。薬では直らない。当時西洋流の手術が効果があることがわかってきたんだが、漢方医で処置できるものがいない」

「蘭方医がいるでしょう」

「白内障の手術というのはまだ珍しかったからね。それに手術の経験があっても相手が高貴な方だから、もし失敗したら責任問題になる。腹を切らされたでしょうな。だからだれも名乗り出ないわけです」

 「そこで私にどうか、という話になった。失敗したらその場で腹を切るつもりで短刀を懐に入れて手術にのぞみましたよ」

「それで」

「包帯をとったときに目が見えるとその方が言われた時には嬉しかったですね」

「成功したわけですね」

 三四郎が「どこかで当時は眼科が一番西洋医学に遅れていたとか読んだことがあるな。司馬遼太郎だったかな」

平敷が三四郎を見た。

「たしかに眼科が一番遅れていたでしょうね。そのせいか当時の日本は眼病の患者がやたらに多くてね。さっき話した英人の医師が現状を見て、お前も眼科だけはしっかりと勉強しておけ、きっと役に立つと言われた」

 それではきっと明治の医学史には名を残されたのでしょうね、と平敷がいうと、尼子老人はわたしは見様見真似のもぐり医者だからね、ご一新で世の中がひっくり返っていたころは通用したが、だんだん世の中が落ち着いてくると民間では繁盛しましたが、医学界では認知されませんでしたね。看護兵あがりで正式に医学の教育を受けたわけではないしね。

第一私には戸籍がないんですぜ、と付け加えた。

 「長州征伐の時に家出したといったでしょう。それで民間の医者としては経済的にはかなり成功して明治の中頃に故郷に帰ったときにわかったんだが、本家に戸籍を抹消されていた。家出して長年連絡がつかないというのでね。日本で初めてきちんとした戸籍制度ができたのは明治10年で壬申の戸籍と言われているものだが、その時に家のほうで抹消してしまったんでさ」

 雨はようやく小降りになってきた。窓の外も明るくなった。電気はまだ回復しないが。

「公家の老女の手術には後日談がありましてね。成功をねたんだ漢方医の集団に京都の五条の橋の上で闇討ちに遭いましたよ。さんざんに切り刻まれてね。川に飛び込んでようやく九死に一生を得たわけだが」というと老人はワイシャツの前をすこしはだけて見せた。胸から腹にかけて刺青をいれたように切り傷の後が光って見えた。「背中はもっとひどくやられたけどね」

 

 

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