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研究アイディア集録

スポーツ経営原理<知覚について>

2011-08-29 | 研究思考

 友人からの有難いコメントを足がかりにさせてもらって,目下中心的な仕事であるスポーツ経営原理論に組み込むべきトピックである【身体の共振性】,【言語外コミュニケーション】について頭の中を整理しておく.



 人間がスポーツをしたり,観たりする際,<知覚>が重要な意味を持つ.

 我々は,自己の身体を深部感覚や皮膚感覚を通して知覚し,他者の身体と運動を視覚を通じて知覚する.
 <共振>は,物質知覚においても登場する概念であり,知覚対象と自己身体との間のゲシュタルト的関係概念としてここでは用いている.

  ※参照:メルロ・ポンティ『行動の構造』『知覚の現象学


 自己身体の知覚は感覚器を通して行われる.
 他者身体の知覚は,視覚とミラーニューロンおよび運動野などにおける情報処理が関わっていると想定される.(脳科学を浅く広く勉強中・・・)

 スポーツ実践を通して自己に気づき,他者のスポーツ実践を観ることで他者に気づく.この身体共振的な言語外コミュニケーションは,スポーツの価値認識の原点ではなかろうか.

 コトバによる<意味づけ>は,知覚的経験以後の秩序として存在しているが,メルロ・ポンティ的に言えば,それらは<意味の秩序>であり,区別されるものではないかもしれない.


 <知覚>をスポーツに対する意味づけの原点と捉えたとき,<身体>を問い直す必要が生じる.例えば次のような問いである.

 □ <自己身体>は,外部と切り離すことができる<自己>と言えるか.
 □ <他者身体>は,自分自身と全く別物の<他者>と言えるか.

 前者の問いについては,主観性が「私」という人称を獲得しうるのは他者が構成される瞬間に他ならないとするフッサールの指摘を参照して検討してみたい.
 <自己の変様としての他者>との対比によって初めて自己が認識できるとすれば,少なくとも自己身体はアプリオリな存在とは言えないだろう.
 (さらに検討すべき事柄は,フッサールの超越論的主観性としての<原自我>というやつで,これはよく分からない・・・.)

  ※参照:フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学


 後者の問いについては,<間身体性>が答えてくれるのではないだろうか.すなわち,自己と他者とを,ひとつの器官と捉えるということである.

  ※参照:メルロ・ポンティ『シーニュ

 ここにも<対比>が登場する.
 異質性を強調して対比することを論じれば,それは間身体性に着目した超越論的議論へと展開するだろう.自己身体も他者身体も,超越論的間身体性によってのみ認識可能であり,<自我>とも区別する議論の方向性が見出せそうだ.
 一方,同質性を起点にして対比を論じるならば,それは自己性を起点にした議論へと展開すると思われる.その際,非人称的な超越論的主観性や<原自我>の扱いが難しい.

 これは<対比>概念の検討において重要な分岐点であり,議論すべきテーマだろう.
 
 スポーツ経営原理を問う際には,指摘されたように,同質性を起点にすべきかもしれない.
 スポーツ経営原理論においては,スポーツとの関わりを議論のフィールドにしているのであるから,実践主体としての自己を起点にすべきだろう.
 「多様な中に同質性を見出す」間身体的な知覚と,その後のスポーツの意味づけという営みを通して,スポーツ経営事象が構成されると捉えれば,多様な身体運動文化が制度化されてスポーツ文化として構成されていく過程や,経営対象として加工されていく過程が読み解けるかもしれない.


 ・・・とりあえず,ここまで.

 この議論は,スポーツ経営原理に留まらず,スポーツ科学原理にまで到達しうる可能性を持っている気がする.
 自然科学的領域にまで口を出すことは,いらぬ虎の尾っぽを踏んでしまいそうで怖いけれど,ワクワクしている私がここにいることは,深部感覚によって知覚できている.



***友からのコメント**************

 身体の共振性という難問、言語外コミュニケーションてのは、具体的にどんな事象を指しますか??一歩間違うとオカルト的になりそうな・・・。

 ともあれ、共振という「事実」を前提におくとすると、自己と他者の身体は、おっしゃるような「対比」されるものというより、むしろ並列的に捉えるべきではないかと思いました。異質性よりも同質性が焦点化されてくるように思われるからです。

 すると、共通のプラットホームの構築に至るためには、異質的なものを先鋭化させるよりも、むしろ多様な中に同質性を見いだし、それを磨き上げていくことの方が有効である気がしてきます。

 共通の、基礎的な要件に立脚することによって、いずれ学的な水準での議論にも共約的なものが生み出されたりなんかしませんかねぇ??
 それこそ一歩間違うと、悪しき経験主義や、オカルト的なものに陥りそうな考えではあるんですけどねw

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1 コメント

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難しいなぁ、もう (Q)
2011-09-01 19:20:17
久々に研究に復帰。
FDとかって、研究を中断してまで行う価値があるのかどうか、悩み中。。

認識論というのは、われわれの認識がどのように成り立つのか、ということを考えるものですから、「虎の尾」はあまり気にしなくていいんでないですかね。
むしろ究極的には、自然科学をもふくむ学問全体の基礎を固めるものとなるはずですし。まあ、あえて踏んでみるという趣味をお持ちなら、もちろん止めはしませんがww。

さて、
身体(性)についてでした。
恥ずかしながら現象学についてはよく知らないので何なんですけれど、超越論的な身体性は、どういう存在性を持つものなんでしょうか。

というのは、
自己身体や他者身体の認識はこの超越論的身体によって可能になる、と言われてますけれど、「よって」というのはどういう意味かな、と。
例えば、主観との間を媒介している、
あるいは、それ自体の機能として認識能力を有している、
などなど。

変な言い方で恐縮ですが、
超越論的な身体は、原事実として機能している何か実在のものなのか
それとも
他者身体を私たちがすでに認識してしまっているという事実を説明する仮説的な原理なのか、と考えてしまうわけでした。

まあ、どちらでも良いと言えばそれまでですが、
超越論的身体が議論に取りこまれているとき、
その理論がどこに向かおうとするのか、
あるいはその理論の有効な射程圏はどこまでか、
といったことを(私が)考える手がかりになるかなぁと思った次第。

いずれ
どのようにスポーツ(経営)の営みが読み解かれていくのか、とても興味深いです。

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