ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

教育と洗脳

2017-05-09 10:08:18 | 日記・エッセイ・コラム
教育と洗脳は違う。
でも「教育とは洗脳である」と言う人がいる。
あながち間違いとも言えない。
似てるのは確かだ。
・・・・・
人に最も似ている猿は言葉を覚えない。
しかし訓練すれば少しは対応できるようになる。
合図としてなら反応はできるのだ。
だが、概念として理解することはない。
ここが不可思議である。
合図と概念の間が。
その間に何があるのか分からない。
まったくもって!
猿は猿になる力を持って生まれてくる。
だから猿にはなれる。
そこでだ、人としての教育を徹底的にすればどうだろう。
当然だが、どうにもならない。
いかにしても言葉を与えられないのだ。
人はどうだろう。
言葉を与えられるのだろうか。
たぶん与えることはできないだろう。
では、なぜ言葉を持つのか。
それは与えられるからではなく、自ら得るのだ。
言葉が在るという環境にさえあればだ。
日本語の環境なら日本語を、
英語の環境なら英語を、
単なる合図ではなく概念として。
それが、
人は人になる力を持って生まれてくる、
ということである。
教育とはその力を伸ばそうとするものである。
だから教育は洗脳とは違う。
そも無で生まれてくるものに洗脳などできない。
問題はその後にある。
・・・・・
教育の初めは詰め込みである。
意味は後回しにしても、先ずは詰め込むのである。
江戸時代には論語の素読というものがあった。
意味には頓着せず、まず音で覚えるのである。
何度も繰り返して。
そうすると不思議なもので、
あるとき忽然と分かるようになる。
そんなものである。
文字にしてもそうである。
何度も繰り返し書き写す。
それが効果があるのだ。
詰め込みとは一種の押し付けであり、
その点では洗脳に似ている。
だが、そうではない。
意味が先か音(文字)が先か?
言わずもがな、音が先である。
疑いようがない。
だから先ずは詰め込みなのだ。
無条件に心に刻むのである。
そして土台を作る。
それが必要なのだ。
その後で本格的に教育が始まる。
教師の出番である。
なお、それでも言葉の詰め込みは続くだろう。
語彙は豊かな方がいい。
土台作りに終わりはないのだ。
しかし、ここで教育が洗脳にすり替わる恐れがある。
だからである。
この後は注意が必要だ。
・・・・・
人には力がある。
人になる力を持って生まれてくる。
教育はその力を大いに顕現させるものである。
そこを見失わなければ、教育はどこまでも教育である。
教育が洗脳に変るのは、その力が隠される時である。
そこが紙一重なところだ。
ちなみに、
言葉をもっぱら人に問う為に使うのが、
現代流のようだ。
もとより意思疎通が大事なのは言うまでもない。
その為にあると言っても過言ではない。
だが、それだけではない。
それ以上に自分に問う道具なのである。
自分の魂を写すものなのだ。
現代社会はこのことを大いに忘れている。
むしろ、より大事なのに。
自分に問うことを忘れて、
人に問うてばかりでは大事を見失い、
言葉は洗脳の具となる。
現下の世界は実にこのようだ。
本来は宗教が歯止めとなるべきだが、
その宗教が用をなさない。
むしろ洗脳の具になっている。
どうしようもない。
・・・・・
迷える子羊は、
道を行くのみ、
ただ道を行くのみ、
…。
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