今年の宮崎市映画祭(第17回)を見てきて、結論として思ったことをここで書いてみよう。
見世物小屋のような映画祭を試みてはどうだろうかということだ。
見世物小屋の展示物は、大衆本位である。かれらに何かを教えようとはしない。なんといっても広報ではない。社会教育でもない。大衆は安い料金で、小屋に入る。学んだり考えたり、世のために有益な行動を知るために入るのではない。面白そうであるから入るのである。入ると、目の飛び出るような風変わりなものが並んでいる。
こちらの暮らす世が常識の世とすれば、小屋の中は、この世とは別の世界である。少しの金を払って、この世の憂さを解消できる仕掛けが、見世物小屋の本領である。こういう内容の映画祭を仕掛ける。
ではどうすれば、こういう仕掛けが出来るのであろうか。それには、最初に見世物小屋を邪魔する要素を省いてしまうことであろう。学ぶ、考えるを強制する社会教育の要素を排除するしかない。社会教育的な大衆メディアとして、身近な県広報、市広報、その他、民間組織やボランティアやさまさまの広報などを、綴じて回される回覧板がある。これくらい面白くないメディアはない。こんな情報を隅から隅まで読み通すようには、よほどの暇と忍耐力がいる。映画祭を一歩間違うと、回覧版的な押し付けの教育になりがちである。全国的に映画祭のテーマを見ていくと、この社会教育的な臭さが気になるのである。
大衆教育という視点をはずそうというのが、見世物小屋になれるスタート地点である。小屋に並べられたもののフリークな力に任せなければならない。そのような力のある見世物は、いわゆる啓蒙的や、社会倫理を梃子にした教育的視点など意味をなさない。映画作品について言えば、監督の履歴、とくに受賞履歴とか、その監督の過去の業績とかは参考にしない。まずは、作品そのものが、問題なのである。それは美味いお菓子を食って、その作者を考えないことと同じであろう。作品がどこでグランプリを受賞したとか、意味はない。お菓子を口にするとき、全国大会の金賞受賞というのが、食う味を決定するのでない。映画作品とそれを見るもの関係しか意味はない。どれほど美味いかとせつめいしようが、美味さが受賞されようがしまいが、食ってみて判断するのは食う人でしかない。、市場映画というのは、消費を目的とする無数の受賞作品が、製作されつづけられているわけで、受賞を選択基準にしていると、多くの作品を見落とすことになる。
見世物小屋は非日常へ観客を誘導する。映画館もまさにそうである。スクリーンのほかは、真っ暗というのが原則である。それは日常世界と断絶させる手段である。こうして、スクリーンに展開するシーンは、バーチャル・リアリティとなる。バーチャル・リアリティとは、仮想現実という日本語に訳されるが、仮想とはありもしない現実という意味になる。しかし、バーチャルとは虚像のという意味と、実質上の、事実上のという意味がある。これは興味のるところで、もし実質上のという意味だとすれば、映画シーンは、実質場の現実を観客に提供していることになる。つまり、見飽きた日常の現実よりも、もっと本当の現実をみていることになる。まさに別世界に入ることが可能なのである。もともと映画は、見世物小屋であるのだ。
見世物小屋を楽しむには、作者など意識に登らない。その展示物、人やモノだけが
問題なのだ。そこで思いだすのだが、映画館の映画は、途中から映画館へ入って終わりまで見て、最初に帰って、その途中まで見たらおしまいという風に見てきた。これは夕べ、知友の藤井貴利彦君と映画の話をしたとき、かれが昔の映画館の話となって思い出したことであった。どこから見ても映画を楽しめた。まさに見世物だ。途中で出入り自由という映画でも、見るに耐えるのが、映画であったのだ。今もそうであろうが、いつの間にか本を読むように教育的になってしまった。いや書物でもどこからよんでも良いと主張したのは夏目漱石であった。現在でも本は、どこからでも読むのがいいという読書姿勢はありうるし、それがベターであることも多いのだ。このように映画への接触は自由な面もある。絵画や彫刻などの芸術作品を、どの位置から見るように決められないのと同じように、どう見ようが見るものの自由であるという視点をもつべきであろう
とにかく映画祭で、実行委員会は映画を選択しなければならない。とにかく観客を
楽しませる映画を選ばねばならないのだが、それは、この世にはありえないような映画を選ぶという破天荒な視点で選んで見てはどうだろうか。その視点は「勘」とでもいうべきもので、これに頼って、後は観客との勝負するしかない。これで、観客が来なかったら、その勝負は、選んだほうが負けということになろうが、それでもいいのではないか。この勝負で、選ぶ勘が鍛えられ高まっていくはずだ。
映画祭のパンフレットを見ただけで、わくわくする見世物小屋の雰囲気、ありえない大胆な品揃え、非日常のわくわくする妖気、怪奇、愚劣さなどを充溢させた映画祭を出現させてはどうだろう。このことが、画一化され、テレビ化されて、自由な判断力、アート享受力を疎外されつつある人々を活性化できる映画祭の祭りたる所以になるのではなかろうか。
見世物小屋のような映画祭を試みてはどうだろうかということだ。
見世物小屋の展示物は、大衆本位である。かれらに何かを教えようとはしない。なんといっても広報ではない。社会教育でもない。大衆は安い料金で、小屋に入る。学んだり考えたり、世のために有益な行動を知るために入るのではない。面白そうであるから入るのである。入ると、目の飛び出るような風変わりなものが並んでいる。
こちらの暮らす世が常識の世とすれば、小屋の中は、この世とは別の世界である。少しの金を払って、この世の憂さを解消できる仕掛けが、見世物小屋の本領である。こういう内容の映画祭を仕掛ける。
ではどうすれば、こういう仕掛けが出来るのであろうか。それには、最初に見世物小屋を邪魔する要素を省いてしまうことであろう。学ぶ、考えるを強制する社会教育の要素を排除するしかない。社会教育的な大衆メディアとして、身近な県広報、市広報、その他、民間組織やボランティアやさまさまの広報などを、綴じて回される回覧板がある。これくらい面白くないメディアはない。こんな情報を隅から隅まで読み通すようには、よほどの暇と忍耐力がいる。映画祭を一歩間違うと、回覧版的な押し付けの教育になりがちである。全国的に映画祭のテーマを見ていくと、この社会教育的な臭さが気になるのである。
大衆教育という視点をはずそうというのが、見世物小屋になれるスタート地点である。小屋に並べられたもののフリークな力に任せなければならない。そのような力のある見世物は、いわゆる啓蒙的や、社会倫理を梃子にした教育的視点など意味をなさない。映画作品について言えば、監督の履歴、とくに受賞履歴とか、その監督の過去の業績とかは参考にしない。まずは、作品そのものが、問題なのである。それは美味いお菓子を食って、その作者を考えないことと同じであろう。作品がどこでグランプリを受賞したとか、意味はない。お菓子を口にするとき、全国大会の金賞受賞というのが、食う味を決定するのでない。映画作品とそれを見るもの関係しか意味はない。どれほど美味いかとせつめいしようが、美味さが受賞されようがしまいが、食ってみて判断するのは食う人でしかない。、市場映画というのは、消費を目的とする無数の受賞作品が、製作されつづけられているわけで、受賞を選択基準にしていると、多くの作品を見落とすことになる。
見世物小屋は非日常へ観客を誘導する。映画館もまさにそうである。スクリーンのほかは、真っ暗というのが原則である。それは日常世界と断絶させる手段である。こうして、スクリーンに展開するシーンは、バーチャル・リアリティとなる。バーチャル・リアリティとは、仮想現実という日本語に訳されるが、仮想とはありもしない現実という意味になる。しかし、バーチャルとは虚像のという意味と、実質上の、事実上のという意味がある。これは興味のるところで、もし実質上のという意味だとすれば、映画シーンは、実質場の現実を観客に提供していることになる。つまり、見飽きた日常の現実よりも、もっと本当の現実をみていることになる。まさに別世界に入ることが可能なのである。もともと映画は、見世物小屋であるのだ。
見世物小屋を楽しむには、作者など意識に登らない。その展示物、人やモノだけが
問題なのだ。そこで思いだすのだが、映画館の映画は、途中から映画館へ入って終わりまで見て、最初に帰って、その途中まで見たらおしまいという風に見てきた。これは夕べ、知友の藤井貴利彦君と映画の話をしたとき、かれが昔の映画館の話となって思い出したことであった。どこから見ても映画を楽しめた。まさに見世物だ。途中で出入り自由という映画でも、見るに耐えるのが、映画であったのだ。今もそうであろうが、いつの間にか本を読むように教育的になってしまった。いや書物でもどこからよんでも良いと主張したのは夏目漱石であった。現在でも本は、どこからでも読むのがいいという読書姿勢はありうるし、それがベターであることも多いのだ。このように映画への接触は自由な面もある。絵画や彫刻などの芸術作品を、どの位置から見るように決められないのと同じように、どう見ようが見るものの自由であるという視点をもつべきであろう
とにかく映画祭で、実行委員会は映画を選択しなければならない。とにかく観客を
楽しませる映画を選ばねばならないのだが、それは、この世にはありえないような映画を選ぶという破天荒な視点で選んで見てはどうだろうか。その視点は「勘」とでもいうべきもので、これに頼って、後は観客との勝負するしかない。これで、観客が来なかったら、その勝負は、選んだほうが負けということになろうが、それでもいいのではないか。この勝負で、選ぶ勘が鍛えられ高まっていくはずだ。
映画祭のパンフレットを見ただけで、わくわくする見世物小屋の雰囲気、ありえない大胆な品揃え、非日常のわくわくする妖気、怪奇、愚劣さなどを充溢させた映画祭を出現させてはどうだろう。このことが、画一化され、テレビ化されて、自由な判断力、アート享受力を疎外されつつある人々を活性化できる映画祭の祭りたる所以になるのではなかろうか。








