市街・野 収蔵庫編

 市街・野25キロ平方で、この空間を、感性を主に、ときにサーチの結果を論理にして書いてきています。

テント劇「ただちに犬 バイタルサイン」と「こどもたち」

2011-11-21 | 演劇
今年5月に宮崎県都城でのバイタルサインをみて、全国巡演を経た後、ふたたび宮崎市での公演が実現された。これまでどおり、ぼくは、チケット売りに廻ることになったが、なかなかチケットを売るのが困難であった。ああ、また同じものかという気分を感じられたのだ。違うのだということを具体的にはっきりさせることがきわめて難しかった。なにしろ、ストリーも、表現も、主題も違いを納得させられるように言葉にできなかったのだ。その代わりに初めてテント芝居を観てみようという人にも出会えて、そういう人たちの一部からは面白がられてチケットは売れていった。

 「どくんご」テント劇の初めての人は、同じものでなくて大感激であった。物珍しさで、なにがあるのかという期待は、裏切られること無く興奮の渦に巻き込まれていったのだ。なかでも、まだ20代そこそこの保育士という女性の物語にぼくは胸を突かれていた。まだ午後6時ごろ、彼女はいきなりテントの入り口に自動車で近寄り、停車した。あわてて、他の場所に駐車してもらったのだが、芸術劇場でチラシを取って、来ることにしたという。「いいセンスですね、うれしいです」というと「同僚にみせると、みんな引くんですよ」との答えにうなづけた。さらに面白かったのは、「このチラシを家にもってかえったら、母が気づいて、どくんご、これ観たことがあるというんですよ」という。それなら、宮崎駅前で15年ほどまえにやった「トカワピークエンダワピー」か、翌年の専売公社跡地で台風の夜に初日をヤッタ「ノンノット ポケット ゴーゴー」だったと思われた。そのときに、今の娘の年頃であった女性の観客は、母となり、彼女の娘もまた偶然、このテント劇に迷い込んできたのだ。母親は一度もテント劇のことは話もしなかったという。終わって彼女も大満足であった。帰って母とどんな話になるのだろうか。はやぶさの子は、はやぶさになったのかと思うのであった。

 将来役者になるといいだして、母親を心配させた小学校4年生の百ちゃんは、今回で3度目の観劇で、今年はデジカメで165枚撮影していたそうだ。帰ると早速、芝居のシーンと、台詞を再演しているという。なにしろチケットを小学校に持参、友達や(一枚も売れなかった)や先生にも売り、買ってもらえたというのだ。シナリオを書き、役者をつのり、舞台装置をつくり、演出をやって、学級会で発表したというから、一歩間違えば天才、一歩すすめば問題児、にされかねない現代学校教育の谷間に芽をだした百合の花であるようだ。

 こどもに好評なのは、全国各地での公演記録や感想を調べるとはっきしする。これをみた子どもたちが「ただちに犬」ごっこをしだすというのがよく報告されている。ドラの音がジャーンで、「お前が犯人ダー」と1人が名指すと、全員が凍りつくシーンなどである。これをえんえんと繰り返しながら、楽しんでいくのだ。抑圧された日常が、犯人はだれというリフレインで、しだいに解消されていく。たしかに「ただちに犬」のなかには、説教じみた社会教育的な、自己反省や道徳や批判の言葉はない、総じて教育とか教養とかを説くものはない。たとえば、今回のバイタルサインでは犬の縫いぐるみに暗闇健太の女が片手に扇をかざしながら、「ね、飛び込んでごらんなさいよ」と、同じ言葉を繰り返していく場面がある。台詞これだけである。「飛び込む」という決断の怖さと勇気が、だんだん観客に伝わってくるのだ、その表現はきわめて洗練されて高度である。この一行の言葉の重さが、こどもにも伝わっていくのだ。一見、そのばかばかしいシーンは、人間とはなにかを具体的に示して、まさに教育的であるわけだ。今回は親子劇場の役員さんたちや、小学校児童のお母さんがたも何人か見えていた。一見でたらめで放埓にみえる、いや常識では、計られぬはちゃめちゃのやりたいほうだいのテント劇に、クールな内容があることを、直感的に感じられ、観ることが出来たのではなかったかと思うのだ。秋の「課題図書」とただちに「犬」こどもにとっては、犬のほうが必要である。

 40代の若い奥さんと小学生の女の子の二人連れが、ぼくの前に座っていたが、なんと奥さんは、劇の間中、笑いで、上半身を折り、こらえられなくて、ボトルの水を自分だけで飲み下し、合間に笑いの衝動に揺すられるのか、助けてえーと、娘にしなだれかかる。まるで、こどもよりもこどもとなる意識状態に、こちらも仰天させられ、かつ、こっちも笑いが止まらなくなった。押さえた積もりだったが、ぼくの笑いも突出していたと、後での実行委員たちの話であった。

 テントにこのように観客を沸かす波動が沸いていく。それはなんでだろう。この分析を求めて客観的な批評もあちこちで書かれてきている。読んでみると、それはそれぞれに違うのだ。三角という人もおれば、四画という人もいる、いや立体であるとか、球体であるとか、黄色とか赤とか、それそれの批評人が、自分の形を説いている。テント劇「ただちに犬 バイタルサイン」のグラフは、批評人それぞれのモニターに光るグラフの通りである。芝居の実態は、一つでなくそれそれのグラフに移っている。まさにロラン・バルトの主張したとおり、作品は作者に無く、それを手にしたものが、これを材料にして織り出した織布に移行するということを実証している如しだ。

 テント劇という大地と同等の空間が、観客を巻き込んでいく、観客もまた主役になっていくのだ。笑いという主役に。ステージから、社会教育的餌さを与えられ、やがて食鳥や食肉に育成されるのと違う次元の芸術空間の体験を味わうことが、可能になる。そのような可能性を発揮するテント劇という試みはもっと多くの劇団で試みられるべきなのだが、これはやろうとしても、やれない。かってのテント劇の勇であった劇団黒テントも、テント劇の巡業、再演を試みてきたが、全国巡演はほとんど不可能になってきている。テント劇をやろうとすれば、この資本主義の世界に金を持たずに、豊かな生活をしていくような技術と強いそして柔軟な志が必要であろう。ぼくが知るかぎり、どくんごは1987年ごろから代表に伊能、その妻五月、団員、暗闇健太、みほ、今は休演しているが時折旬、今年帰って来た空葉景朗を中心メンバーとして持続してきた。

 かれらの生そのものの不可思議さが、魅力的なのだ。これほどの批判的な意志をもちながら、劇は重苦しくなく、軽さがある。音楽は、どこかノスタルジーのあるアニメの音楽であり、大声で叫びながら、通常の台詞を遠ざける。しかし、それは一歩まちがえば、転落しかねない、綱渡りのようなものである。もし、観客が身を引けば、なんともばかばかしい虚ろなものしか見つからないからだ。しかし、観客を引かせないところにかれらの表現の鍛錬と力量があるのを感じさせられる。全国巡演の間に、都城市で観たときより、シーンは余計なものが省かれて純度が増していた。あのときの健太と五月は脇役のように影が薄かったが、今回は、やはり大きな存在感があり、内容を深めていた。こんな経過をしらないと、全体の表現の高さは感知できないかもしれない。観客に媚びず、それでいて唯我独尊にならず、おふざけの笑いをふりまきながら、実は一歩ひいているという表現方は、なかなか見えてこないであろう。このようないわゆる誠実さのような生き方が、ブロイラーから観客を解放する。こどもが、本能的に解放を直感するのは、この要素である。

 「ただちに犬」シリーズ、ビター編、バイタルサイン編と完結した。演出の伊能も、やるだけの表現はしたといっていた。また、あたらしい企画での芝居が出来るのが期待できよう。

 最後に一言、これからもやっぱり批評は、必要であろう。とくに批判する批評がこれからは必要だ。仲間という意識が観客に芽生えてきているので、批判意識が消えてしまう。しかし、これは危険である。同じ空間で、仲間となって固まると、ひろがりも客観性も喪失していく、自分たちだけが世界の中心になっていく。地方において芸術活動するときの大きな陥穽は、これであった。ただ、どくんごは、全国巡演において、この危険からかなり救われているように思う。それと、金をもたなくても生きていけるという全国に賛同者のネットワークも出来てきている。このことが、またわれわれに開放感と勇気を与えてくれるのである。人生は楽しめると、また未来のこどもたちに柔軟な人生模様への希望を与えると・・
ジャンル:
文化
キーワード
バイタルサイン 劇団黒テント
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