市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

未知座小劇場宮崎公演 非物語性の物語

2014-05-20 | 演劇
 これから宮崎市公演の井筒の内容について話してみようと思う。実は、いわゆる未知座の井筒には、物語の主題にまとめられる内容はない。なぜなら物語を離れているからである。三人の女優が演じる人物を能になぞって、一人を里の女(打上花火)たかはしみちこを業平の妻、もう一人を旅の僧(西行)としてみても、相互の関係、行為の意味は物語りを形成していない。物語の制約から自由になる、解放されるという趣旨で、この形式はすでに小劇場やテント劇でのパターンとなっていた。そして観客から物語を奪って与えられたものは、脱日常とう軽さであった。笑い、ギャグ、アイロニー、パロディの万華鏡のような変幻模様が、日常風景を超えさせるともいえた。それは間違いなく演劇の快楽足りえたが、その軽るさに体制批判という毒が仕込まれてはいたのだ。日常生活のやりきれぬ単調な繰り返し、世間体、組織からの逸脱を可能にする軽さだったのだが、80年代になると、軽さは、軽さだけとなり、過剰なまでの消費生活の気楽さと見事に一致していった。軽さの王国となり、考えるとか、批判するとかのうっとうしい奴は、苛めの対象でしかなくりだした。そして、現在、軽い、軽い、だけの日本に、憲法改正、軍事国家、集団的モラルの復権への日常が、踊りでてきている。

 このような背景を思うとき、未知座の井筒は、笑いを駆動力としながら、観るものをまさに井筒の底にひきこむ重力があった。三人の衣装も持ち物も、今様でもなく、平安時代でもない。土地謄本というサンスクリットの巻物を掲げる西しゃん、井筒に投げ込まれうペットボトル(マラカスにもなる)遊女風な業平の妻、作務衣で白髪で、吠え立てる里の女と、舞台は道化たちの登場なのである。しかし、笑えない。衣装も小道具も象徴として、観客の意識を引き付ける。どこにむけ、意味するものはなんなのかと、観客を誘い込む。舞台では、日常の立ち居振る舞いは消され、動きは様式化されときには、不思議な三人の舞踏のような動きにもなる。われわれは、その象徴を解こうとする。しかし、言葉という手がかりがないのだ。そのうちにわかってくる。三人のだれも、、自分の欲求が適わないこと、いつまでもどうどうめぐりで、問いも答えも水月のようにくだけちることが、みえてきだした。井筒の周りで今宵は月見を楽しむ宴は、無意味なのかもしれない。台詞の意味・内容を理解できない観客にも、無意味を知ろうとするストレスが高まっていく。これは意図されたことか、ぼくのたんなる受け取り方だろうか。手につかめない欲求に、三人の煩悩がもえつづけることが、劇を進めていく。この舞台の流れを、ぼくは本を読むように解読しようとし、その衝動を避けられずにみつづけていかざるをえなかったのだ。だからこそ思う。では、本を読まない世代、あるひは、読書好きでも読書に値する読書をにまで足していない世代、感性が理性よりも働くも若者の受け取り方はどうであったろうかと、知りたい思いがするのであった。かれらは、だれよりも息を呑んで舞台を見つめていた気配が感じられたから、彼らの心中になにが生じていたのか、知りたく思った。それは今はおいて、だれしも共通したことは、台詞の具体的な意味をつかめなかったことであろうかと思う。台詞により、筋道をつかまめなかったことは、まちがいない。それでいて、三人の台詞、行為、有無をいわせぬ吸引力の重力に観客はとらえられたと、ぼくは思う。

 そして比喩的に言えば、その重力に引き込まれ「井筒」の底の水月見の水面で、なにを見たのかとなる。これが井筒の終わりだが、この終局の数分間は、その意外性によって圧倒されたのである。そのシーンは、いきなり現れた。舞台は荒れ寺からコタツのある彼女らの大阪の町の4畳半の部屋になった。業平の妻は、現実の働き人になり、ラジオのスイッチをいれる、コタツにはお茶が準備される。古いラジオから流れ出したのは、ケイウンスクの「すずめの涙」である。どこかささやくようにして、上手で井筒の女(打上花火)は白髪の鬘をあっさりと剥ぎ取り作務衣の上義をゆっくり抜くと球団の野球服であった。大阪のこんなおばさん居るという実感が、4畳半のアパートにリアル感を高める。演歌が圧倒するような音量で部屋も、登場人物も観客を覆いつくしていく。すべてを日常に返し、日常の繰り返しを受け止め、もういいと、葛藤も争いも理屈も消え、あるのは涙だけじゃないか、つまり涙こそだと、日々を再確認させてくれるのだ。過去、現在、未来をつなぐ共時的な、もののあわれこそ、美であり、愛である。それが日常を浄化して超えさせうる。、観客は、感情の水面にに身を浸してく。この終局、井筒の予想もできなかったクライマックス、ここに作家・演出の黒木明のこの劇の寄せた思想を納得できたのであった。この重力の中心に向かって劇は集約されていたのだとわかるのだった。

 意味がないからこそいいのだ。NHKの大河ドラマや海女ちゃんのようにモラルの意味に塗りこめられないのが、いいのだと言える。三木ちゃんが、こんな清らかな演劇はないと泣いたのも、理解できるのであった。

 こうして内容は、三人の女優の表現力、彼女らの思想にあったのだ。それを引き出して表現にした演出者黒木明氏の思想も含めて、彼女らを讃えたいと思う。あの台詞のつややかさ、聞き易さ、リズム感、マグマのようなエネルギーと変幻性(つまりどんな人物像、悲劇・喜劇にも変化しうる幹細胞的台詞)それを生み出す身体に甘美な演劇性をあじわえたのであった。

 最後に、今宮崎市のアマチュア劇について思うことを述べおきたい。まだ、現状ではこの三人の演技、そのような台詞・身体の域に達するのは、きわめて至難の業である。だからこそ、劇の物語が、俳優たちの演技を支える。つまり、彼ら、彼女らは、物語という「いかだ」にのり、あるいは「松葉杖」で歩行をささえながら、観客という川、あるいは観客の群れのなかを、渡っていける。しかし、物語=筏を、非真実と侮蔑し、筏つまり物語りから飛び降りて、観客の川に身を投げる。すると、そこに生じたのは、もはや演劇ではなく、叫び声でしかなくなるのだ。物語を非真実として、たしかに多くはそのとおりではあり、物語を投げ捨てる判断は悪くはない。しかし、ときにはそれは野暮となる。いきがったあげく、演劇が消滅することになる。嘘つまり非真実が、かれらの演じる内容になってしまう。問題はその状況を自覚できないことにある。そのままだと何十年も先きまでもだ。真実として信じてうたがわない非真実の出店を、観客のまえに未来永劫に開くことになっていく。このような状況のときに、井筒の非物語性を上演した2014年5月12日の公演は、宮崎市の演劇界に大きな意味を残すことになったと、ぼくは思うばかりである。

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