市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

宮崎真空管アンプ愛好会

2007-10-22 | Weblog
  日曜日、宮崎市立図書館の視聴覚室で、真空管アンプのLPレコードコンサートに参加した。真空管アンプでレコード音楽を聴くなんて半世紀も経験しなかった。いったいどんな音だったのだろうかと、音楽よりもこれが関心があった。

 会場は20人あまりの人で、目のまえのテーブルに真空管むき出しのアンプが左右に2台、テーブルを挟んで、畳半分もある大スピーカがジョーズのような大口を空けて鎮座していた。

 一枚目はハイドンの交響曲「熊」ベルリン交響楽団でドイツ製のレコードという27分の演奏録音だった。ターンテーブルのレコードに慎重に針がおろされ、交響曲が左右のスピーカーから流れだした。これが、今、50年ぶりに聞く真空管アンプからの音楽であると、しかし、どこがどう違うのか、はっきり言って、音がややめりはりがないということと、低音がこもる、高音がきっちりと分離されるなどと思うのだが、正直いってそうなのか、自信は無かった。

 今のCD、集積回路のデジタル再現は、あまりにメカニックで温かみが無いと、言われていることは知っている。とすれば、このアンプの音は暖かいのかどうか、ということは、わからないのだ。こうして、次の60年代後半の録音というドヴォルザーク「スラブ舞曲集」36分、最後のリヒャルト・シュトラウス「最後の4つの歌」23分と長丁場を聴き終えたわけだ。

 強いて印象をいうなら、たしかにここにあるのはステージの交響楽団の演奏とは違うが、何か一生懸命、アンプとレコードが、その演奏を再現しているというひたむきさのようなもの、それは白黒映画でパリーの街角を思うような現実再現というようなものと、いうことができるような感情を味わえたのだる。しかし、これも今日だけの体験にすぎず、はっきり断定できる感想ではない。

 さて、ぼくは、今、アンプ内臓のステレオ・スピーカをパソコンに連結して、CDよりもインターネットラジオで、アメリカ、インド、ロシア、フランスとクラシックやニューエイジの音楽を聴いている。

そのとき感じるのは現実の演奏などとはまったく違うデジタル音楽の世界そのものを感じるのだし、まさにそれだけで独立している。真空管アンプのレコード音楽は、音そのものより、演奏ステージを思わせたのだ。

  ところで、このアンプの出力は3.5ワットと聞いた。(アンプには60ワットとかいろいろある)ぼくの高さ20センチ奥行き20センチ幅12センチ内臓スピーカーの出力は35ワットである。音だけでいえば、重低音のクリアさ、高音の伸び、分離などこっちのほうが、迫力と聞きやすさでは勝っているといえる。

 だが、ここには、かくも真空管アンプにこだわる愛好会のメンバー20人がいるわけだ。しかも会員はみな自分の真空管アンプを組み立て製作しているとう。まさにおどろきだが、なぜなのかここのところを
なんとか理解したい。しかし、アンプの再現した音楽だけでは理解できなかった。それにしてもいったいなぜなのか。

 それは、なぜインスタントやスターバックスのコーヒーでなくて自分で豆をひいて入れるのかということと、重なるのかな。

 ファミレスでなくて、なぜ喫茶店なのか、シネマコンプレックスでなくなぜ映画劇場なのかとも重なるかも・・・イやそんな馬鹿な;
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