市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

「文化ストリート」 パーフォマンスに期待

2014-04-07 | Weblog
パーフォマンスは、このボディタッチのほかにも、ゴミを全身に貼り付けたりとか、テープで拘束されたりとか、身体を使うもの、縫いぐるみと戯れたりとつづていった。その間、観客は、ただみじろぎもせずに、ものも言わず、笑いもせず、入れ替わるパーフォマーをみつづけていた。10人目は宮崎マンゴーとか、焼酎とか、食べたーい、飲みたーいと、叫ぶアジアの何処かの国の男性のパーフォマンスに笑いが起きたが、全体にほぼ沈黙の1時間半が、うすぼんやりの廃墟空間に流れていった。観客は、50人くらいのほぼ若者たち、身じろぎもしない、沈黙のの集中力に、ぼくはどろかされた。出演者たちは、この観客に感謝すべきであったろう。

 一夜の上演は、間違いなく成立し、無事に終わったと思った。宮崎日日新聞にも、写真入り三段ぬきの好意的批評が、ただちに掲載されたのである。ぼくは、なによりも、文化ストリートの廃墟が、このようにして活用され、これを可能にした若者たちの表現活動に、やっと宮崎の文化の変わり目が滲み出てきそうな、感じを受けたのであった。

 これを機会に、宮崎市独自のパーフォマンス上演を続けてもらいたいのだが、その実現のために、今回気づいたことを、述べさせてもらいたい。それはなによりも、出演者と観客になにが生じるかの問題である。宮崎の出演者、代表で企画者の成合早織以下、6名がそれぞれのパーフォマンスを製作したわけだ。そして生産品ができた。他方、生産品を買う若者たちがあり、かれらは生産品を消費する。この生産と消費の二つの行為は、まったく別のコースだ。しかし、生産品は、消費者の欲望を満たすしか、存在の意味はない。この関係が、製作者にとって一番むつかしいことであろう。ぼくは、なんどか創作料理の会にて、料理を食べることがあった。そこで、シェフが、この野菜は何処の採れ、この肉は誰の農場、このスープは、一晩かかった旨み、などなどと、その採集の過程、料理の特殊な難しい調理法とかが、本人の口から説明され、その口調は、彼の努力とお客にだす料理への配慮が、語られる。だが、口にすると、コンビニのにぎりめしのほうが、まだいいと思うことが多々あった。このように製作者の思いと、ぼくの消費が、完全にすれちがうとき、料理の意味は消し飛んでしまうのである。それはぼくだけの話であろうか。プロの調理人でさへそうだが、まして生産品の売買に関係がゆるい自主製作者のアマチュアでは、このようなミスマッチが、かなり生じる。この現実は、、鋭く製作者が自覚して行動すること、つまり批評意識が、必要である。このミスマッチを指摘する峻烈過酷な批評はありえないのだからである。ここ宮崎市ではなおさら、それはメこの宮崎市のメディアの批評を分析すればたちまちわかるというものである。それはもちろん東京でもであるから。日本そのものの体質、お・も・て・な・しの暖かい気持ちがもたらすものである。
 
 つぎに、見せるとはなにか。観客が現れ、ステージができたら、その間には、目に見えない一本の線が出現する。観客は、線の先は、ステージ、同じ文化ストリートの穴の地面であっても、そこの場所は、穴ではなくて、見られる空間に変わったのである。そこには、もう日常はないのだ。そこでは、すべての動きは、みられるために在るといえる。こちらでは、水を呑む生理的欲求を、向こうでは、ただ見せる好意が本質、意味なのである。だからあらゆる動きは、見せるために意識的にコントロールされてなければならない。すべてが、行為の具体的目標を捨てて、見られることに結実している人間行動は、われわれは、日頃いろいろ見てきている。バナナの叩き売り、チンドンやさんの歩き、演歌歌手の手の動き、無数にその事例を思い出すことができよう。ステージの動きが見られることだけが本質であるということは、殺人行為を見れば明白である。ステージでは、みられることだけだから、迫真の「殺人」が可能なのである。この行動だけでなく、ステージでは片手の取れた人形でさへ、見るものに意味を発生する。ごみ袋に入れられた紙クスも意味を持つ。片手の無い人形にライトが当たると、そのイメージが、あたかも発音のように感じられ、それと結びついた概念となる。つまり言語と変わる。紙クスもまたそうである。このようにステージは、品物たちは、言語となる。まして人の動きは、言語となって意味、概念を発するのである。このような言語が、表現しつづてけて時間が流れていく。だから、そこに無駄、意味不明、文の乱れ、単語のあいまいさ、それは線のこちらがわの日常の動きを、そのまま舞台に乗せてしまったときに発生する。そこには、混乱と退屈しかみいだせない。そこには、日常の生活的人間の退屈な飽き飽きした姿をみるだけとなるのだ。それと比べると、猫や犬の動きのなんと魅力をたたえていることだろうか。それは、かれらにややこしい日常が、概念がないからだろう。生きるという純粋な本能だけが、体の動きつくっているからであろう。動きからいえば、人間ははるかに犬・猫に劣る下等動物である。人間を檻に入れて、外から見るシーンを想像するなら、このことはただちに理解できるはずである。日常の暮らしは、それほど人間を動物以下にしてしまっているのだ。パーフォマンスは、そこから脱皮できる可能性をあたえてくれるといえないだろうか。アイデアも必要だが、その前に、いかに日常の身体動作を克服し、批判し、否定し、再生するかが、決定的に必須な訓練になるはずである。このプロセス、その技術が、パーフォマンスになろう。

 まだまだ、宮崎市の出演者たちは、パーフォマンスを始めたばかりであろうと思う。どうか持続して、人間離れした存在として、ステージに出現してもらいたい、持続すれば、かならずそうなるのはまちがいないと、ぼくは、思う次第である。

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