市街・野 収蔵庫編

 市街・野25キロ平方で、この空間を、感性を主に、ときにサーチの結果を論理にして書いてきています。

有料道路とは何、その指示言語の身勝手さ、出鱈目さ!!

2011-11-01 | Weblog
 
 坊津 枕崎、開聞岳への3家族ツアーは、ホテル・移動については経験したこともないほどのさんさんの旅であった。不快というより、苦痛を舐める経路であった。もはや旅の楽しさは、友達家族に会えたよろこびだけであり、それなら、こんな観光を目的とせずに、ただ、ひたすら快適な温泉旅行に限定すべきであったろう。美味しい食事をして、ホテルの広い温泉を楽しむという贅沢なゆったりした日程を、組むべきであった。

 この旅の予想もしなかった不快と苦痛は、高速道によって与えられた。さて、物語は先週の雨の土曜日(10月29日朝)から始まった。長崎県雲仙市および熊本県合志市に暮らす友人夫妻二家族と、一年ぶりの再会で、南薩摩観光を計画して、まずは同日11時半ごろに、川辺町道の駅やすらぎの郷で、合流することになった。そういうことで、かなりの距離を無事に間に合えるようにと、今回は高速道で宮崎ー都城インター間を走り、ここから10号線に降りて末吉で、新しく出来た有料道路に入れば、そのまま高速道路の加治木インターチェンジに自動的に入れて、鹿児島インターへ、そのまま指宿スカイラインとなり、その川辺インターで降り、約10分で「道の駅川辺やすらぎの郷」で合流できるようにした。高速道路の時間と一般道の距離をチェックして、2時間30分で余裕を持って到着できるとも分った。われながら、周到なる経路のチェックを終えたのだ。

 無事に加治木インタにスムーズに流れ込み、そのまま一気に鹿児島インターへとひた走ったのだ。まちがいなく予定時間どおり鹿児島インターを出て、指宿スカイライン入り口に着いた。そこで310円というコインを機械に投げ込むと、バーが開いて、スカイラインに入れた。ちょっと変だと思うのだが、310円という前金でなら、どこで降りても同じ料金なのかと、ふと思ったのだが、そもまま走っていくと、なんといつの間にか、一般道路に出ているのであった。家内に出口が無かったのに、この一般道路は可笑しい!というと、可笑しくはないわよ、指示通りに走ってるのだから、川辺への出口があるのよと断定した。

 しかし、なんで、こんな一般道路がスカイラインかよと、言い争って走るうりに、家内が突然、今、川辺方向は右と表示があったというので、そんなもんは出口じゃないじゃないかと言い合いしているうちに、どうも、走っている道路は、まちがいなく一般道路としか思えなくなりだして、引返して、川辺への道路標識まで行き、そこから右折することにした。しかし引返したが、その標識板はなく、ほんとにそんな道路標識を見たのか錯覚じゃないのかと鋭く問うと、見たわよ、でもないじゃないか、みたものはみたのよ、確かこの道路よと言うので、とりあえず、こんどは左折したのだ。左折すると、ガソリンスタンドが直ぐにあったので、そこに立ち寄って、川辺町の道の駅を聞いた。すると、この坂を上って、越えると、道の駅はありますと言われた。ついでにスカイラインはどちらでしょかと聞くと、今しがた右に走り出ていたはずのスカイラインは、右の4キロほど先といわれた。右に出たのになぜまた右にあるのかと、また不安がぶりかえした。するとこの道路は、道の駅に到着できるのかどうか、はるかな、回り道になるかもと、おもえだしたのだ。
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 坂道を登っていくと、濃い霧につつまれ、方向もわからなくなりだしてきた。落ち合う時間をみると、すでに11時25分になっていた。そこで、家内に、長崎からの友人に電話してもらった。すると彼はすでに到着していた。挨拶を繰り返す家内に、そんなことよりもこの225で着けるのかどうか聞いてと、せかせると、やっと225で大丈夫だといわれたと言うのだ。しかし、時間は、だが、時間を聞くにはこの位置はどこか言わねばならないと知った。聞いても無駄だったのだ。しかし、峠を降りると、霧も晴れなんとすぐに「やすらぎの郷」が、道路沿いあり、駐車場に車がいっぱいとまっていた。ほっと安心すると、家内が、ここには違うと言い出した。どうしてと聞くと、道の駅と看板にない、ここは違うよと言い出した。言われてみると、そうかもしれないと道の駅にしてはおおきすぎる。また電話すると、友人が、なんと近くから電話する姿が見えた。ここが目的地『川辺道の駅やすらぎの郷』であった。どの案内者、旅の雑誌にも、道の駅川辺やすらぎの郷と詳記されていたのだ。道の駅が無いとは、たしかに家内の主張するとおり違うと思われてもし方が無いはずだ。そのいい加減さは不愉快であった。

 つづけて、すぐに熊本県からの友人夫妻も到着した。さて、ランチの席での話しであった。スカイラインが一般道に変わってしまって大慌てになったと話題に提供すると、長崎からの友人もであった。かれはカーナビも装着し、旅なれて全国の道路事情にも詳しいのに、スカイラインの表示通りに出たのにと言うのであった。話はつぎに、スカイライン入り口の料金310円に及んだ。あの310円がそうだったのだろうと、一般道路に出るので、入るときに料金とったのだろうとお互いに納得できたのであった。と、熊本県からの友人が、ぼくたちは、出口で250円とられましたよ、なんでというのであった。かれらも深い霧でヘッドライトを照らしながら峠を降りてきたというのであった。これもまた不可解、どうしてかれらだけ250円の料金を取られる出口にでくわしたのだと。おそらくスカイラインをそのまま走り、川辺町出口から出たのだ。こちらが、まちがって中途で一般道路に出てしまったのだ。地図では、スカイラインには川辺出口とたしかにある。とするなら、あの310円は、なんの料金だったのか。だれもはっきりしないのだ。

 帰りは、このスカイラインを終点頴娃(頴娃)から入って確かめてみようということになって、その話は終わったのだが、帰りには全員で、スカイラインの終点から入っていった。このことで、こんどは、ぼくは、予想もしなかった、とんでもない目にあうことになったのだ。
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がんばっど!宮崎 なんのために?

2011-10-29 | 社会
 先週土曜日(10月22日)の夜午後7時ごろだったが、どーん、どーんという音が海岸のほうから上がり始めた。どうやら花火の打ち上げのようだった。なかなか止まないので、窓をしめ、カーテンを引いて、音を遮断した。たまたま、その時間、ぼくは本を読んでおり、ある一節に目を引きつけられていた:「社会を幸福にし、国民を窮乏状態のなかでもなを満足させるためには、大多数が無知かつ貧困でありつづけることが必要である」とあった。なんという明快さであることか。

 去年から「がんばっど」「がんばっど」のポスターがあちこちに張り出されだした。、県民総がんばるという気合を感じて生きる意志表示を、確認し合うポスターである。このがんばるの具体的目標とは、なんなのか、スボーツ選手なら勝つことであり、事業家なら利益をあげることであり、アーティストなら作品製作である。だが、宮崎市民一般のがんばる目標は、なんなのだろう。それは、市民一人一人がそれぞれにがんばろうという精神運動に還元されてしまうのである。県民総出の精神運動の中身はとなると、それが示されている文書は、お目にかかったことが無い。あったら、ぜひ教示してもらいたいものだ。

 がんばっどというのは、困難や苦しみに負けないで、乗り越えるという気合であるように思う。では、あんたの困難や苦しみはなんですかとなると、宮崎県でいちばん共通な問題は、おおくの人々にとって、働き口がないということだ。とくに高学歴を履修した新学卒の大多数は、公務員なみの給与や労働条件の企業がないということだ。それはつまり、学卒でありながら、貧乏生活をつづけていくしかないということである。将来年金も68歳以上になりそうな気配で、がんばっても未来もないという暗い状況にもなりだした。そういう状況でも満足できるには、どうすべきか。

 じつは、この方法の具体例を、この一説は示唆しているのだ。「無知かつ貧困でありつづけること」が必要だと。貧困より無知でありつづけることが満足へいたる道であるという。無知であれば、願望も限定されより少ないもので満足するからとも言う。しかし、それはまだものの無い江戸時代の大衆に当てはまるが、うまれてときから過剰なものをあたえつづけられた世代にとっては、あまり影響はないであろう。ここで考えられる「無知」は、考える力、つまり批判、判断、行動、知的活動の停止した状態のことであろう。ものを考えないで現状に甘んじていられれば、満足感はあたえられやすかろう。ブロイラーの鶏のようにである。

 なにもかんがえない大多数の貧乏人がいる限り、面倒は仕事は、低賃金で、仕事をかれらに押し付け、というよりそれでも仕事にありつけるだけで幸福になれる貧困者に、低賃金と、テレビ娯楽を与えつつければ、かれらはかれらなりに満足していける。その労働にささえられて、公務員なみの宮崎の所得者は、安楽に生活を楽しめる。もちろん地主層などは、天下の春であろう。そのためには、なによりも絶え間なく貧困者を無知にしつづけておくことであろうと思う。その最大の手段にテレビや新聞、雑誌などの巨大メディアがある。そこを、無知への縦横無尽の蜘蛛の巣にしておくこと。もちろん露骨ではなく、目に見えがたい蜘蛛の巣をはることである。それを見抜く能力がありうるかどうか。貧困者に、それが問題だ。

 貧困は受けねばならない。これはまちがいない未来への手段である。しかし、「無知」のほうは、絶対に受けてはならない。この無知克服、これこそが、宮崎「がんばっど」のきわめて戦略的目標であり、緊急にして具体的課題であろうかと、思う。しかし、そのことはまったく見えない。ただ花火が空中に散るだけである。
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宮崎市の秋 ぼくの見る夢

2011-10-24 | 日常
 日曜日は、朝起きると日本晴れになっていた。かんかんと照りつける陽射しを受けてままチャリで街の路地を走っていると、今季節が秋であると、あらためて感じるのだ。曇や小雨では秋の感じはない。春でもない、冬でも夏でもない雨と曇天の日でしかなかった。日曜も今日の月曜も日が照って、秋を感じる。秋の陽射し、秋の風、その遠い音である。こんな感じは、今よりもまだ八月の終りから九月の上旬の夏に重なっている日々のほうが、もっと深い秋の兆しを感じさせられるのである。

 それに秋は街をあてどもなく自転車で彷徨するのがいい。突然、初めて来たような通りにぶっつかることがある。9月3日台風一過の晴れの日に、現れた路地もそうだった。去年取り壊しになった喫茶店「アラジン」の正面から北へまっすぐに延びている道路が700メートル先で幹線道路と交差するのだが、その先の小さな道路に入った記憶が無かったのだ。たいがい、この幹線道路を左へ曲がって貞蔵道路に出ていくのが習慣だったのだ。なぜ、この小さな路地風の道路に入らなかったのかが、不思議なくらいであった。秋風はこんな道の存在さへも気づかせてくれるようだ。

 さて、秋をこれほど口にしたのも、いささか文学染みて気恥ずかしいが、実は感性を語っているわけではない。夏に秋が重なる季節感は、普通ならだれでも感じていることであろう。なぜ感じるのか、それは感性ではなく、この地で住み暮らしてきた記憶に基づくものである。無意識ではあるが、秋の到来はなんどもなんども夏のうちに重なっていた、陽射し、音、気配が記憶されてきていたせいなのである。つまり、宮崎市に暮らして来たからである。あるいは日本人だからである。

 もう一つ、これほど長く暮らし、さまざまの記憶が残っているはずの市街について、いまだに初めて通る道路や横丁や路地裏や住宅地があるとは、これもまた驚きである。いや、これを言うなら、我が家と通り一つを隔てた通りさへも、なんと何十年も歩いてなかったこともあるのだ。そう、たしかにぶらぶら街路を歩く癖を持たぬ人、たとえば家の家内など、結婚して以来、近所のあの道、この道も通ったこともないのを知っている。もちろん、そういう必要がないからである。普通の住民はそうであろうと思う。こういうことを言い出したのは、哲学者の広松渉のいう認識についての言葉である。「われわれの知覚的視界に直接的に与えられている世界は、極めて極限されており、往々にして居室の一隅に限られている。」という認識論の一節である。かれはつづけて述べるのだが、われわれは、直接的知覚でなく「情報」を通じて世界を知っておりそれは単に知識として知っているだけでなく、それに対して憤慨したり、思わす立ち上がったり、現場に居ると同様な行動をとるという。つまり情報によって伝達される世界は物的な世界と同じ実在性をもっていると断じているのだ。これから、論は精緻な認識の構造、言語の意味についての論にはいっていく(世界の共同主観的存在構造)もっともここまで読み解けるほど哲学的な思考は、ぼくにはないのだが、ただ、自分が知っているということの99パーセントは情報によって知っているのだということは、実に良く分る。

 自分が直接に知っているといってふんぞり返っていても、自分の力というものは、育っている土地の制約を受けているし、その土地、日本を知っているつもりが、その本体は情報を通じて知っているのだ。これも、土地の風土の制約以上の影響を受けているのだ。とくに後者については、自分が裸の王様常態であることをおもわされる。意識はテレビと広告で形成されているのではなかろうかと、考えたほうがいいのでないか、すくなくとも裸体を隠す布切れ、よければ衣服を、読書という行為で見つけ出せるかもしれないと思うのである。読書の秋である。

 このごろ夢をときたま見る。街の記憶なのだが、たいがい消滅してしまった過去の街角であったり、郊外の集落であったりする、しかし、この街が本当に実在した街であるのか、いつか夢で体験して街なのかが、はっきりしない。その街にもう一度行きたくてたまらなくなって目が覚める。だが、その街が実際の街が夢の街だったがわからない。それがはげしいストレスを起こす。ぼくの見る夢はいつもストレスでしかない。通常の夢と反対である。
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2011年どくんご実行委員会に顔をだす

2011-10-18 | 宮崎市の文化
 夕べ、どくんご実行委員会を、山崎街道のジョイフルに訪れた。先日の勧誘に返事は一通ももどってこなかったということで、委員長を引き受けた山崎以下3名(1名欠席)にぼくがアドバイザーとして参加、4名だけの実行委員会であった。

 チケットが売れない。予想通り、目標の半分くらいだ。これ以上は無理のようである。実行委員長は、さすがに20枚近くを売っていけそうである。無理でも何でも、目標は達成させねばならないと、内心思うのであったが、これは無理強いであってはならない。なんとかなるだろうということにして、久しぶりに会った一夜を、近況報告やら、これからの話やらと、和気藹々の時間が流れだした。

 昨日だったが、街角で滅多に会えなくなった知人とぱったり出会い、いつも病状を言うのが恒常の女性であったが、そのときばかりは、彼女がいつになく健康に見えたので、うれしくなった。どくんごを薦めると、あの芝居は、ね、ね、ファンの集まりでしょ!ちょっと私には不向きなんよねえと、思いがけない返事であった。昔はあんたもそうとうはずれもんだったじゃないかと、瞬間、思ったが、このまえさ、昔の店の仲間が集まってくれたのよ、みんな元気、かれも相変わらず、もてるの、ほんとおもしろい男、ほんともてるんだから。と、話がでだしたので、そんな池のなかの鯉やなまずやが、群れあってわいわいいうのもファン団子だろうがと、あああ、これだな、ぼくが人間を断つことにしたのはなあと、思うのであった。

 それにしても、こちらも5年くらい太平洋一人ぼっちを擬した「ヨット生活」だし、チケット販促の大きな障害を僕自身が引き起こしているのだ。俺のせいか、時代の変化のせいか、どくんご芝居という商品のせいか、どうなんだろう、こんな話も4人で結構楽しめたのだ。

 これまで見てきた「どくんご芝居」のあれこれを話題していくと、共通の話題作としては、1995年宮崎駅西口正面の上演「トカワピー・クエンダワピー」が一番古いものだった。いきなり丸刈り頭の女性二人が男を縄で空中に吊るしていたぶるというサディスティックな開幕に観客は寒気と嫌悪と好奇心で魅了されたのだ。テントの裾を巻き上げると、駅の正面を大声を発して走る怪優「時折旬」のわけのわからぬ演技で、通行人が目をむく始末、テント内は輪をかけて音楽と踊りのアナキーなシーンが、爆発的な笑いとなって湧き上がり、退屈な日常性をぶちやぶっいった。それに当時、宮崎駅も改築中で、その廃墟の雰囲気も良かった。まさにスワヒリ語とかのトカワピー・クエンダワピー(どこから来て、どこへ行く)であった。これは、宮崎市の都市変化への問いかけにも解釈できたのであった。90年代は日本が大きく変化させられる時代でもあった。テント芝居どくんごは、そういう時代状況を本能的に身体全体で表現できる斬新さをテントを通してやることが出来た。もちろんテント芝居は、すでに終わったという時代の流れはあったが、その本質に尚こだわりを保持して、それを納得させられて楽しかった。

 1998年には「ノン・ノットポケット・ゴー・ゴー」という幽霊船の話に引き継がれ、乗船者は「死」を切望しながら死ねないゾンビ有閑貴族を囲むゾンビたちの航海の話であった。これは嵐の夜と翌晩の二日、専売工場跡地での上演であったが、舞台は船上のように揺れるという仕掛けであった。死ぬことのほうが生きることより希望であるという逆方向の生命感に開眼させられるのであった。これが1998年であった。90年代はうしなわれた10年でもあり日本は、経済大国から脱落していった。どくんごは時代、時代の空気をたしかに担ってきたと、ぼくは思う。そんな話を交わした夜だった。

 僕自身の追憶にはしかしそれ以前が重い・1985年、宮崎市一ツ瀬病院構内での「パブリックな怪物」これはある精神病院を破壊せんとした患者の物語であったが、その一ツ瀬病院というのは、なんと芝居ではなく現実の精神病院であり、観客のおおくがその患者であった。かれらの哄笑と共感の拍手が今も耳に残っている。そして、1990年には、同じ構内デ「サクラガサイタ」が上演された。これは最大の登場人物であったし、仕掛けも大掛かりであった。皮肉にも、この年から「サクラ」とでもいうべき日本の経済が没落の徒についたのである。そしてこれは今ももっとリアルにつづいている。

 こういう話をぼくは、昔を思い出しながらしたのだが、どくんごは、仲間だけのファンの集まりではないのを、言いたかったのだ。話が終わってトカワピー・クエンダワピーのころの観客名簿があったので、開いてみせると、そのびっしりと4ページのA4の用紙に並んだ名前・住所の一覧を見て三木ちゃんは涙をうかべながら、感無類のようであった。時代はどうなるんだろうか。この名簿のような観客の復活はありうるのだろうか。

 そこはもうかんがえないことにして、とにかくチケット目標達成だけはやりたいと思って、会場を後にした。
 
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生きかた

2011-10-14 | 日常
  前回、若者の内向き志向というタイトルで、かれらをボロクソに批判したコラムを書いたが、本心はそうではなくて、その批判はむしろ中高年の市街・野人こそ、その批判の対象であるのだ。かれらに希望はないが、若者には希望があるからだ。だからこそ、言わせてもらいたいのであった。

 その後、かれらの未来に対するトンでもない仕打ちが、政府で懸案されているのを朝のNHKテレビで知った。その例の年金問題で、支給開始を68歳からにするという試案である。

 68歳!。君たち、その年齢まで、公務員をやっていける、サービス残業を課しつづける会社に、68歳まで働き続けられる。その気の遠くなるような未来まで、働かなければ、遊んで暮らせる日は来ないとは。今の高齢者をささえつづける君たちの番は、よろよろにおいさらばえて後に訪れるのだ。そんな未来しかないようなのが、今の若者である。それをしたのは、ぼくら高年者であるならば、若者を高所から批判するなどとは、盗人猛々しいとは、まさにこのことであろう。

 当日、同じテレビで、小説家の五木寛之の講演についての番組に気づいた。その中で高齢者の健康保持について、彼自身の体験をもとに紹介されたシーンもあった。手足の末端やをぼきぼきと押したり曲げたりとか、岩塩を折に触れて舐めるとか、体をストレッチするとか健康法が語られる。それは図解入りの本にもなっていた。健康であることは、だれしも関心が深いし、そうありたいと望むものであろう。しかし、なんのために健康を保持しなければならぬのか、ここが一番ぼくにとっては切実な問題なのだが、そこが伝わってこなかった。かれは人はただ生きているだけで素晴らしいと言うのだ。なぜならこの生きがたい社会を生きている、そのことだけでも大変なことなのだ、だから生きている人を賞賛するというような、表現で、いわゆる名もない庶民の生き方を肯定し、賞賛した。それは彼自身の人々へのエールであったのだろう。それはどこか、救いを説く牧師を想像させたのであった。

 しかし、この説話の揚げ足をとるならば、この世界でただ生きているだけでほめられるべきならば、犬や猫のほうがよっぽど素晴らしい存在であるともいえる。環境に優しく、地球を破壊せず自分のために大量虐殺という手段をとらない、ただ健やかに、つつましく生き続けて不満を語らないではないか。そういう言い方にならざるをえないのは、若者の生き方を思うからである。ただ生きているだけでは、人生は無意味ではないのか。
 
 これから若者がただ生きているだけでは、68歳までほんとうに、現在の職場で人間らしく、自分の成長を図りながら生きていけるのかと、自問してみればいい。こんな社会では、ほとんど生きている意味さへ無意味なのが自覚されるのではないだろうか。また、情報が巨大メディアで流され、日ごろから、自主的判断が阻害されやすい生活を送っていると、ブロイラーでの給餌を受けている環境に置かれていることも自覚できなくなる。

 だからこそ、ぼくは言いたいのだ。内向き志向だけではダメだと。68歳まで、年金が出ないというのなら、まず、ここでやらねばならないことは、生きるためだけの労働量をいかに減らすかということだ。つまり可能な限り仕事はするなということだ。そうするためには、頭蓋骨の内側に治まっている「脳」をもっともっと意識して使用するよう訓練すべきであろう。ブロイラー環境からどう脱出するかが、緊急の訓練である。その具体例をどうと説明もできるが、さしあたり、書店に行って、書架の本を、一度全冊自分の目で覗いてみるだけでも、かなりの示唆をえられるはずだ。
 
 またやるべきは、3人の仲間を作る方法がある。3人の内、2人が生活費を稼ぐ仕事につき、1人は、自由な時間で好きなことをやれる余裕を与えられる。かれが、この仲間のアンテナであり、情報を送受信を担当し、社会と結びつく。有効な情報と行動を担う。これによってより有利な仕事をつづけられる可能性を見つけることもできるし、なにより生きている刺激や目標、つまり生き甲斐を活性化できよう。仕事をつづけるということは、仕事しならが十分な自己啓発の自由時間が必須だ。これを1人でやるのが、きわめて困難な時代であるなら、3人でやることにすれば実現できよう。またグループであるということで、「脳」は頭蓋骨の空間で眠り続けないで揺さぶられ、活性化する。そうすれば世界は色づき、面白くなる。この役割は、適宜、交替していき、時間をかけてそれぞれが、日常を脱却していくのだ。

 68歳まで、より人間らしく、面白く、生きていけるべく、工夫しなければ、なんのために生きているのか、希望も夢も無い日々になるという現実が、目の前に迫ってきている。若者よ自覚して欲しい。
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内向き志向

2011-10-12 | 社会
 今年もテント劇団「どくんご」の宮崎市公演がやれることになった。ぼくは実行委員を降りたが、というのもいつまでも年寄りが顔を出しているのでなく、若い世代の実行委員会を希望しての退会であった。ところが、実行委員への勧誘案内の往復葉書を実行委員会で送ったが、今もって誰一人返信がないという。。これも時代の風なのかもしれない。若者の行動は、わけのわからぬことには、踏み込まない。未知なるものへの関心がない。余計なことはしたくない。ひたすら内にこもっていくようである。

 自動車にも乗らないというし、本も読まない。飲み会もしない。外出も友達に会うのも面倒だという。外国に留学しない。まるで、人間嫌いになったのか。あるいは超高齢者の生理的要求に似てきて、だんだん活動を身の回りだけにして、心地良い日向ぼっこに安住できるのを快楽としているようだ。、そのくせ、何万人と集合するライブや花火や、フェスティバルには、大挙して押しかけていく。まるで、昆虫や魚の巨大群である。

 こういう若者がいたるところで育っていくと、政府はなにをやるにしてもやりやすいのではなかろうか。

 ぼくの家の近所は、新しい道路が去年開通して、かっての農道は自動車道になった。4車線は十分にあるのだが、中央分離帯と、歩道面の安全帯とで、正味は2車線である。かなりの交通量になっているが、この分離帯と安全帯をうまく利用すれば、自動車の途切れ目を縫って安全に横断できるのだ。ぼくは犬を散歩させながらも、これをやっている。ところが、高校生や中学生が、自転車でたった一人、この横断をするのに躊躇なく、ボタンを押して、シグナルを赤にするものが多い、このたびに自動車が、行列をなし、排気ガスを吐き出しながら、数分間も停車せざるをえなくなるのだ。このエネルギーと時間の無駄を考えもしなくてロボットのようにボタンを押すのだ。こんな行動は世界でも北朝鮮人民くらいならするかもしれない。いや、北朝鮮人民に失礼かも。とにかく状況を自分の脳で判断できないように育ってきた高校生や中学生を毎朝みせつけられると、犬のほうがよっぽど自主的な行動をすると思ってしまうのである。

 こういう長年の始末が、この内向き志向の若者を育て上げたのではなかろうかと思う。

 もうすこし、自分たちの脳で判断できるためにも、どくんごのような小さな劇団の上演を応援していきたいと思うのだ。冒険と行動を刺激されるようなテント劇への招待を試みるのだ。ブロイラーや畜舎のなかに固定されて死ぬまで配合飼料を与えられ続けられる人生を、自ら進んで招いているような最近の内向き志向の若者の行動をみると感じざるをえないのだ。いや、若者だけでは、もちろんないのだけれど、若者だからこそ、そうであって欲しくないと、この秋、思わされるのだ。
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台風12号一過 晴れた市街・野

2011-09-03 | 宮崎市の文化
今朝、6時半にチップを散歩に連れ出した。ところが、赤江大橋への優雅な取り付け道路まで、また反対へ去年できたセブンイレブンの先まで、おおよそ700メートルの商店、住宅の並んだ市街が、快晴の空に眺められた。道路も、その両側にゆったりと並んでいる家屋、住宅、スパーや医院、美容院、居酒屋、コンビニ、保育園と、会社事務所と、ゴミ一つも感じられず、台風一過の青空の下、涼風に吹かれながら広がっていた。

 1994年、9月インドから帰った朝に感じたとおりであった。どこもかしこも、洗剤で洗い流し、洗ったあとを、ワックスをもって磨いたように感じられたのだ。その市街は、どこもかしこもであった。インドのベナレスやニューデリーの溝が溢れ、糞が溢れ、穴ぼこから汚水が溢れ、商店になった巨大で多層のテントは100年余もの塵埃でコンクリートのようになり、その商店街らしき通りで、どこを見ようと清潔でピカピカのものは存在しなかった。その輝く道路や建物は、驚異的でさへあった。あのとき宮崎市街をみて、すぐに思ったのは、選択され、磨かれる、その管理費は、生活のどの部分に課せられているのかという思いであった。それはインドとは桁違いの物価であり、税金や規制や規則であるはずと認識できた。その道路磨きの分担は、目に見えないが、心身からエネルギーを知らぬまに奪っているのではないかとも思えたのだ。その道路には、人影一つも見えなかった。それは今朝も同じであった。

 昨日(2011年9月2日)のNHK朝の連続小説「おひさま」で貧困家庭のため幼少で奉公に出された陽子の友達が、結婚して自分の店を開くと故郷にかえってくる再会の話であった。心温まる再会であり、良かったと心が和むのだった。彼女は店はいつでもだれにでも開かれている、こんなやりがいのある仕事はないと言うのだ。陽子も嫁入り先の蕎麦店を生涯の仕事と選んでいるので、この店はだれにでも開かれているという言葉のすばらしさに感動するのであった。これもいいシーンであった。ほんとに店はそうありたい、そして店で名も無く貧しく、美しく生涯を働きの場として選択できるのならば、こんな楽しい、充実した、人生はないであろうと感涙したのだった。

 しかし、しかし、店はだれにでも開かれているが、「だれも店に来ない」という現実が、より現実なのである。ぼくも次男とカフェ・雑貨店(これこそ、彼女が奉公に出されて帰ってきた安曇野に開こうとした店である)を開いて3年間で、1000万円を消費して、閉店した。経営が悪かったといえはそれまでであるが、個人の努力・経営ではどうにもならない、市街地の無人化という現況があったのだ。ここが「あさいち」の不思議な主張なのである。作者はとういう現実感や提案で、このドラマを書きつづけられたのだろうかということである。いや、そういうケチなぼくの解釈が可笑しいのかもしれない。感動すれば、それでいいじゃないかと、すこし素直になれと、ほんとこのアサイチは止められない楽しさを、毎朝与えてくれてもいるのだから・・。

 そこで、またインド映画を思い出した。インドの市街は、汚れているばかりでなく極貧者に溢れかえっていた。滞在中、ホテルを一歩でて市街を歩き出すと、その極貧者にびっしりまといつかれて、それらを振りほどくのに努力が要った。そればかりでなくて、ホテルのドアはうまく閉まらず、シャワーは水しかでない、テレビはかすんでよく見えなかった。街のテントの並んだ市場では、こんなボールペンなど捨ててしまうようなペンが数本ならんでいたりする。雨が一時間も降れば、道路は浸水してとうとうと下水のようにガンジス河岸に流れ込んでくる。タクシーの多くはワイパーも取れたままのものもあった。こんな暮らしの毎日で映画館に入ったのだ。ほとんどがミュージカルで、映画の中では、家は豪華、テレビも冷蔵庫も新品で、道路は舗装道路で、新車が走り、家族はファッションでつつまれ、豊かなる生活を謳歌する。映画館は一等席から三等席まであり、極貧者もスクリーンすぐ下のシートでわいわいとうれしげに映画の単純なミュージカルを楽しんでいるようだった。こんな人をバカにしたような映画を見て、腹が立たないのだろうかというのが、ぼくには、おどろきであったのだ。

 今、ぼくは毎朝、NHKの朝ドラを見るために午前8時までに例のイングリッシュブレイクファストの朝食を作り終え、それを入れたてのコーヒーとともに居間の42インチデジタルテレビの前に並べ、食べながら楽しんでいるのだ。腹は立たない。インドの極貧者たちも、そうだったのだと、今は思いだしている。幸いインドが、世界一の経済大国に成長する確率は、中国を抜くと予想されている。映画は現実になる。日本も「あさいち」が、現実になる要素があるのかもしれない。そこをどう嗅ぎ付けるかが、問題であろうか。作者の意図はそこにあるのかどうか、これから見えてこよう。
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映画祭とは、ぼくにとって何なのか。

2011-08-30 | 映画
今年の宮崎市映画祭(第17回)を見てきて、結論として思ったことをここで書いてみよう。

 見世物小屋のような映画祭を試みてはどうだろうかということだ。

 見世物小屋の展示物は、大衆本位である。かれらに何かを教えようとはしない。なんといっても広報ではない。社会教育でもない。大衆は安い料金で、小屋に入る。学んだり考えたり、世のために有益な行動を知るために入るのではない。面白そうであるから入るのである。入ると、目の飛び出るような風変わりなものが並んでいる。

 こちらの暮らす世が常識の世とすれば、小屋の中は、この世とは別の世界である。少しの金を払って、この世の憂さを解消できる仕掛けが、見世物小屋の本領である。こういう内容の映画祭を仕掛ける。

 ではどうすれば、こういう仕掛けが出来るのであろうか。それには、最初に見世物小屋を邪魔する要素を省いてしまうことであろう。学ぶ、考えるを強制する社会教育の要素を排除するしかない。社会教育的な大衆メディアとして、身近な県広報、市広報、その他、民間組織やボランティアやさまさまの広報などを、綴じて回される回覧板がある。これくらい面白くないメディアはない。こんな情報を隅から隅まで読み通すようには、よほどの暇と忍耐力がいる。映画祭を一歩間違うと、回覧版的な押し付けの教育になりがちである。全国的に映画祭のテーマを見ていくと、この社会教育的な臭さが気になるのである。

 大衆教育という視点をはずそうというのが、見世物小屋になれるスタート地点である。小屋に並べられたもののフリークな力に任せなければならない。そのような力のある見世物は、いわゆる啓蒙的や、社会倫理を梃子にした教育的視点など意味をなさない。映画作品について言えば、監督の履歴、とくに受賞履歴とか、その監督の過去の業績とかは参考にしない。まずは、作品そのものが、問題なのである。それは美味いお菓子を食って、その作者を考えないことと同じであろう。作品がどこでグランプリを受賞したとか、意味はない。お菓子を口にするとき、全国大会の金賞受賞というのが、食う味を決定するのでない。映画作品とそれを見るもの関係しか意味はない。どれほど美味いかとせつめいしようが、美味さが受賞されようがしまいが、食ってみて判断するのは食う人でしかない。、市場映画というのは、消費を目的とする無数の受賞作品が、製作されつづけられているわけで、受賞を選択基準にしていると、多くの作品を見落とすことになる。

 見世物小屋は非日常へ観客を誘導する。映画館もまさにそうである。スクリーンのほかは、真っ暗というのが原則である。それは日常世界と断絶させる手段である。こうして、スクリーンに展開するシーンは、バーチャル・リアリティとなる。バーチャル・リアリティとは、仮想現実という日本語に訳されるが、仮想とはありもしない現実という意味になる。しかし、バーチャルとは虚像のという意味と、実質上の、事実上のという意味がある。これは興味のるところで、もし実質上のという意味だとすれば、映画シーンは、実質場の現実を観客に提供していることになる。つまり、見飽きた日常の現実よりも、もっと本当の現実をみていることになる。まさに別世界に入ることが可能なのである。もともと映画は、見世物小屋であるのだ。

 見世物小屋を楽しむには、作者など意識に登らない。その展示物、人やモノだけが
問題なのだ。そこで思いだすのだが、映画館の映画は、途中から映画館へ入って終わりまで見て、最初に帰って、その途中まで見たらおしまいという風に見てきた。これは夕べ、知友の藤井貴利彦君と映画の話をしたとき、かれが昔の映画館の話となって思い出したことであった。どこから見ても映画を楽しめた。まさに見世物だ。途中で出入り自由という映画でも、見るに耐えるのが、映画であったのだ。今もそうであろうが、いつの間にか本を読むように教育的になってしまった。いや書物でもどこからよんでも良いと主張したのは夏目漱石であった。現在でも本は、どこからでも読むのがいいという読書姿勢はありうるし、それがベターであることも多いのだ。このように映画への接触は自由な面もある。絵画や彫刻などの芸術作品を、どの位置から見るように決められないのと同じように、どう見ようが見るものの自由であるという視点をもつべきであろう

 とにかく映画祭で、実行委員会は映画を選択しなければならない。とにかく観客を
楽しませる映画を選ばねばならないのだが、それは、この世にはありえないような映画を選ぶという破天荒な視点で選んで見てはどうだろうか。その視点は「勘」とでもいうべきもので、これに頼って、後は観客との勝負するしかない。これで、観客が来なかったら、その勝負は、選んだほうが負けということになろうが、それでもいいのではないか。この勝負で、選ぶ勘が鍛えられ高まっていくはずだ。

 映画祭のパンフレットを見ただけで、わくわくする見世物小屋の雰囲気、ありえない大胆な品揃え、非日常のわくわくする妖気、怪奇、愚劣さなどを充溢させた映画祭を出現させてはどうだろう。このことが、画一化され、テレビ化されて、自由な判断力、アート享受力を疎外されつつある人々を活性化できる映画祭の祭りたる所以になるのではなかろうか。
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宮崎映画祭(2011年度第17回 家族幻想

2011-08-19 | 映画
 あっという間に盆休みが終わった。猛暑と涼気がまだらに混じって8月もおわろうとしている。映画祭が終わって(7月9日)一月半もなり、まだそのとき見た映画について語っているというのでは、正味の切れたコンビニ食みたいなものである。もう書く気もほとんどなくなったが、家族を扱った2作品はどうも気にかかったので、その気掛かりを話してみたい。

 家族といえば、気になっていたのは、去年から今年にかけてのNHK朝の連続テレビ小説である。去年前期の「げげげの女房」後期の「てっぱん」そして今年は今もつづいている「おひさま」なんと夢のような家族愛の物語であろうかと、その臆面のない夫婦愛、親子の愛、隣近所の人々の愛と、理想の世界が語られる。見ていて、癒されるし、感動させられるし、人とはいいものだと思わされる。夫婦や親子の最高の心配り、自己犠牲による絆の深まりがつづく、家族は、堅固で安全、人生の港となり、生きていくオアシスとなり、波浪の世間を生き抜く力の源泉としてある。家族の幸せ感は、とりわけ「おひさま」では、終戦当時というモノの無い時代において際立ってくる。愛と感動がモノのかわりに溢れかえっている。あふれるばかりの愛が、生きる感動を生みだし、その感動が涙を誘う。涙好きの日本人にはたまらぬエピソードの連続である。

 もちろん、これは一つの夢物語であり、現実とは関係のないお話である。しかし、この夢物語が、多くの視聴者を魅了しているということに時代相を窺える。それは、家族が最後の砦となってしまった今である。かって容赦なく捨てられ、いや捨てさせられ、破壊されてきた戦後の家族愛が、とつぜんまた、最後の拠り所として語られ始めた今である。しかしNHK朝の連続テレビ小説の家族愛は幻想である。この中にしか生きる力を得られないするならば、それはなん危ない現実認識であろうか。こんな危ない状況を、家族愛の賛歌は裏で伝えているように思う。

 家族という単位を、社会から切り離し、そこだけを理想化することは無意味であるばかりか、人生を見失いかねないということを、確認しておくことが必須である。では映画祭で上映された2作品の家族はどうであったかを語っていこう。

 『お引越し』(1993年 監督相米 慎二)

 この映画は、小学校6年生になった一人娘レンコが、ある日、想いもしなったとつぜんの父(中井貴一)母(桜田淳子)の離婚別居に巻き込まれてしまう。その別居を止めさせふたたび家族生活を取り戻そうとしたレンコの奮闘が描かれる。これは崩壊家族の物語であるよりも、むしろ、レンコという少女の戦闘物語と見れる。レンコに風の谷のナウシカを重ねて見ていける。また昨年の映画祭で上映されたアニメ「マイマイ新子と千年の魔」の新子にも似ている。新子はともだちの警察官の父が自殺したのが、バーの女の誘惑であったと聞かされ、バットをもって友達と一緒に街のバーに殴りむ。この戦闘的行動が問題を解決していく。この展開に興味を引かれたので、離婚した両親が、よりをもどすかどうかよりも、戦う少女が目を射た。この少女を演じた田畑智子がのちに女優として大きく成長したという話である。

 もう一点は、家族で過ごした琵琶湖のお盆灯篭流しのシーンである。ここだけはこの地味な家族映画のなかで、金襴緞子のような豪華なシーンの連続であり、このシーンへの思い入れに相米監督の並でない入れ込み様を感じ取ることができたのだ。この夜、レンコの計画では両親がよりをもどしてくれるはずだったが、二人はホテルの玄関でわかれてしまっていた。彼女は1人で、夜の祭礼の群集の中にまぎれ、この祭礼に巻き込まれる。この豪華な火祭りが、日常性とは異質の世界であり、そこには霊性ともいう魂の燃焼や、生きる歓びが充溢している。そうか、祭礼とはもともとわれわれの魂の覚醒であったのだと、感じさせられたのだ。祭礼といえば町興し、村おこし、消費社会の活性化になってしまっているが、祭りのこの原始的エネルギーを捉えようとする意図は、ぼくには離婚家族の問題よりも、はるかに興味を引かれた。おそらく、相米監督が、その後、他界しなくて、映画制作をつづけたならば、現在の消費社会の物資的豊かさと消費だけが生活であることの虚しさを、根底から覆すような生の現実を捉えるような映画を作製することが出来たのではないかと思えた。

 この映画は、じつは夫婦の離婚という問題よりも、もっと本質的な生きる問題を問う主題であったと思える。家族の映画といえば、1980年の「家族ゲーム」があった。この映画は、家族がテーブルに横一列に並んで、それぞれが正面のテレビを視聴しながら食事するシーンで有名である。家族一人一人は、みんなバラバラで生活しなければならなくなっている。社会はそういう具合に家族を追い込んでいるのだ。その家族の差し迫った中心課題は、長男を一流大学に合格させることになっている。まさにかれの受験に両親、兄弟姉妹が巻き込まれている。現代社会は、そのように家族を巻き込んでいる。相米監督の映画は、この抑圧を、戦闘美少女と、祭礼の魂の活性化によって跳ね返し、家族愛よりも、もっと本源的な生きる力の所在を示した。

 現在のままの大量生産、大量消費の社会がつつくかぎり、家族愛だけでは、ドロ舟で
荒海を漂っているようなものであろうと思う。


 『今度は愛妻家』(2009年 行定 勲監督)

 1993年の「お引越し」から2009年の「今度は愛妻家」まで、家族愛の映画は飛んだわけであるが、この間には、家族については、忘れられない事件が起きている。

 家族ゲーム封切りの都市1980年には、神奈川県川崎市のベッドタウンで20歳の予備校生一柳展也が、金属バットで両親を撲殺している。本人は浪人2年目、殺されて父親は東大出で、上場企業の支店長であった。受験競争の敗北と父への劣等感が原因だとされた。ところが、今度は、1996年には、東大出の父親が、金属バットで息子を殺した。学校でのいじめを苦にして引きこもりになった中学2年生の家庭内暴力に耐え切れずに殺害した。1997年には、神戸市須磨区で『酒鬼薔薇聖斗事件』が発生、当時14歳の中学生による連続殺傷事件である。何不足の無い家族であったが、ここにも教育の崩壊が影響していた。

 1995年1月には阪神大震災が発生、同じく5月にはオームサリンテロで数千人の死傷者が出ている。危機管理が問題とされ、安全神話の崩壊が語られた。家族は、こういう不安な時代の流れに翻弄されながら、漂うしかなかったのだ。この1995年頃は、リストラも吹き荒れ、就職氷河期もまだ収まらず、生涯賃金制度も望めなくなりと変革の時代であったが、まだ、家族愛が砦であるような言説もドラマも映画も無かった。まだなにかを実現しようという意欲だけはあったと回想できる。この1995年に、宮崎映画祭も誕生もしたのだ。現実に立ち向かう批評的精神や、行動があったのだ。それが、今はきわめて希薄になってきている。集団でしか行動をしなくなった大衆の出現が、政治も文化も動かしているのではないか。

 そんなことをこの映画のあと思い出したのだ。そう思うと、この映画もまた世界とは関係なく現実離れしていた。主人公である豊島悦司のキャメラマンというのが、カメラに行き詰ったという口実で、撮影もせず、だから稼ぎも無く、そのくせ若い女と浮気はくりかえし、めし、ふろ、さけで妻、薬師丸ひろ子をこき使い、甘えまくって生きているという設定に笑ってしまう。こんな亭主にぼくなんかも一日でもいいからなってみたいもんだ。この一点の絵空事で、この映画は、つまづいてしまったのだ。今若い夫婦には、このような亭主関白がムードとして一部にあるのかもしれない。精神的苦痛に飢えていて、わざわざそんな苦労の擬態に執り付かれることがあるのかもしれないとおもえるのだ。

 ただこの映画がおもしろくないかといえば、かなり面白かった。とくに石橋蓮司のゲイが良かった。かれはあんなに魅力的な声をしていたのかと、その台詞を聞いているだけで、音楽を聴くように快適であった。そして、このキャメラマンの芸術家としての才能に惚れ込んで、弟子入りしている若い男、タレントになりたいと野心満々の女、これらの脇役が、実は現実感があったのだ。まわりは、なんとか新しい家族をつくろうとしているのだ。その背景の明治か大正かといいたいような芸術かぶれのキャメラマン夫婦の駆け引きがおもしろかったのだ。

 だが、だんだん一つ一つのシーンが間延びして長いのが、気になりだした。わかりきったことをそんなに長引かせるな、時間の無駄であると感じ出し始めた。突然の妻の死によって、妻の愛情と、妻に報いなかった痛恨と、恐ろしい淋しさに落ち込む、男の話など、あまりにもありきたりの話で、それがどうなったとしても、なんの意味もないことが、途中で分ってきだしたのだ。すると、突然、豊川悦司も、薬師丸ひろ子も石橋蓮司も演技が上手いということだけが、かんじられだしたのだ。いや、おれは、かれらの
演技の上手さだけを、見に来たのではないという思いもわきだした。そして、帰ろうと思ったのだ。

 時計をみると午後6時を廻っていた。終わりまで見ると、チップの散歩が遅くなる。帰りに買いたいパンやさんが閉まる。スクリーンの世界より暮らしのほうに意識が向かい出した。帰ろう、ぼくは立ち上がって、背を低くしながら、一番前の右の扉が外へ
出て行った。

 ぼくにこんな暮らしのことを忘れさせるほど、おもしろくは、無かったが、これくらい家族が軽く、どうでもいいように描かれていることに救いもあったのではある、家族愛とべたべた執拗に説かれるよりは、ましであったと思えたのも事実である。
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宮崎映画祭(2011年度第17回 なにをこの映画に託すのか

2011-08-05 | 映画
 今朝は、この夏で一番の土砂降りであった。さすがに途中で、自転車を宮崎銀行の玄関に止めてレインコートに着替えた。そばに80歳くらいのお婆さんも雨よけをしていて、地球も壊れていると怒った声で独り言のように言った。それからぼくに気づいて、これからの子どもたちはまこち可哀想じゃ、私らは、もうあっちが近いからいいけんどねと、言うのだった。だれもかれも贅沢しほうだいで、こんなことは、昔は無かったがと、慨嘆するのであった。中国は13億人の人口で、みんな贅沢な生活を目指していますよねと話かけたら、こどもたちが可哀想じゃがと、おばあさんはくりかした。

 『カティンの森』(2007年ポーランド アンジェイ・ワンダ監督)

 この映画を作成したとき、アンジェイ・ワイダ監督は、80歳か81歳であった。プログラム紹介によると「自身が最後に撮る映画と明言し」とある。この発言は本当かどうか、おそらくそうであったろうと思う。しかし、これが最後として、なぜこのような映画を製作したのか、見終わって衝撃を受けたのは、このことであった。

 カティンの森事件は、ソ連軍によるポーランド軍人12000人の虐殺事件としてよく知られている。この映画は、アンジェィ大尉(ワイダの父)を探しだせた妻アンナの目の前で、面会の直後に収容所へ移送されていった発端から、1943年、かティンの森でドイツが、虐殺されたポーランド将校の遺体を発見アンナも夫の死を知るまでが、物語られる。カティンの森虐殺がなぜ起きたのか、被害者の詳細も被害者の家族の話もない。戦後ソ連に占拠されたポーランドでは、虐殺はドイツの犯罪とされて沈黙を強いられ、時がながれだした。

 およそ物語りという展開はない。ただ、父アンジェイ大尉がカチンの森で、後頭部から額へむけて拳銃で打ち抜かれたという事実だけがある。もちろんストーリーらしきものはある。遺体の名前にアンジェイが無かったが、仲間のイェジから借りたセーターを着てカティンの移送されたため遺体はイェジとされた。イェジはソ連の編成したポーランド軍の将校となっていたが、カティンの嘘を知り自殺する。国内軍のレジスタンスだったアンナの義姉の息子は、カティンで父が殺されたことを隠すのを条件に、進学をゆるされるが、これを拒否し、秘密警察に狙われ射殺され、アンナの妹も、兄の墓碑にソ連の犯罪を示す言葉を書き、秘密警察に囚われる。このようなエピソードで、戦後のポーランドソ連体制下での抑圧が語られる。抵抗するまもなく、彼らは、自殺するか、射殺されるか、沈黙するかで存在を消していく。

 この映画には、希望はない。それでいながら絶望もない。こうだったという事実だけがある。この映画は記録映画のように撮られているという評もあり、記録性が高く評価もされている。しかし、記録とは、それを撮る撮影者の目、意識がかならず働いている、いや、働かざるをえない。何の感情も批判も意識もなく、ただ、事実にむけて三脚に設置されたカメラか、街頭の設置された監視カメラのような記録は、人間の手になるときは、ほとんど不可能である。だから、この映画の記録性だけをもって、記録映画のようにと呼ぶことはまちがっている。

 「カティンの森」は、アンジェイ・ワイダ監督のおよそ人間的感情、意思、批判をすべて封殺した強固な意図で作成された「物語」としての映画である。ただ、違うのは何を物語るかが、秘匿されているのだ。このことは、50年代の作品『灰とダイヤモンド』や70年代の『大理石の男』などと比較してみると、はっきりしている。この両作品もポーランドがソ連の体制に引き裂かれて、その国家のなかで生き抜く映画である。しかし、その苦悩のなかにロマンがあった。生きるよろこびがあった。灰とダイヤモンドの象徴的な廃墟に逆さになったキリストの磔刑像には,正義への問いかけがあった。大理石の男といわれたポーランドの労働英雄の業績を、ソ連支配体制に抵抗しならがら、追いつづける不屈の女子大生の生き方にもまた希望があった。しかし、カティンの森には、そんな物語はない。あるのは、虐殺された父の最期、1万2千人の将校が拳銃で撃たれた事実のみである。

 この事実の本質をなすものは何か。本質はストーリーの展開、家族の悲しみにはない。ソ連とドイツが行った犯罪の事実にだけ向けられる。ポーランドの占領政策でソ連のやったことは、軍隊の中で将校、将官を含める全将校を隔離、これを収容所に移送して、ソ連領のカティンの森と呼ばれている森の中で全員を虐殺する。それは、牛、豚の最終処理のように効率的な流れ作業で行われた。この事実、将校を隔離、全員を殺害すれば、ポーランド軍は崩壊する。ついで、その家族をすべて強制収容所に送る。これによって噂が抑えられる。つぎに大学を封鎖が起きる。大学で教授・学生の全員を行動に集め、閉鎖するの宣言の直後に学長を含む全教授を隔離、収容所の送る。これで知識層の反乱も抑えられる。一切の無駄のない効率的占領政策が実施される。

 この虐殺と抑圧が、作者の人間的感情をまったく交えずに再現されていることにかえって言いようの無い、悲劇を感じるのである。この再現とは、作者の暮らすポーランドに映画をもって報告されている。アンジェイ・ワイダ80歳、これが最後に撮る映画としている。これ以上は、もう映画で語ることはないということなのか。そのことは
祖国ポーランドやヨーロッパの未来、あるいは自分が最晩年を暮らしている日常の未来について、何も無いということを告げていることである。それは、これかも決して消滅することのない合理主義の世界を告げて終わることを意味している。映画は、まるで冷たい大理石でできたように、見事に彫りこまれている。街路も森も家屋も室内も磨かれて名画のようである。しかし、ぼくは、なにをここから、受け取ればよいのか、この冷徹さに、とてもぼくなどは絶えられない想いがするのである。この遺言のような祖国の暗さ、絶望の現代を背負って、最晩年を終えるという生き方、これは、とても日本人には理解できぬことではないだろうか。この底知れぬ闇にエネルギーを感じるだけである。ふと、かれの作品「地下水道」を思い出した。あれも暗かった。しかしまだこの作品より未来がつげられていたような気がする。











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宮崎映画祭(2011年度第17回 成人指定暴力映画

2011-08-03 | 映画
今回の宮崎映画祭で、暴力シーンにより成人指定を受けている3作品が上映された。「ヒーローショー』(日本)「キック・アス」「カティンの森}(ポーランド)である。新作12本中の3分の1が暴力を扱っている。これは、意図的であったか偶然であったか定かではないが、その視点とはなんであったのか。

 『ヒーローショー』(2010年井筒和幸監督)

 暴力シーンは、映画のエンターテイメントの主要素である。別に珍しいことでも異常なことでもない。この映画は、その過激な暴力シーンで旋風を巻き起こしたという。井筒監督の回顧談では、自分の映画の影響を受けて過激は暴力シーンが若いやつら(監督)に流行らせててしまったと、苦々しく語っている。

 このような前宣伝で、ぼくも暴力シーンが来るのを待ち構えて、注視したわけであった。相手を刀や拳銃で殺すのでなく、まさに痛めつけるのである。その適切な道具は、鉄パイプや木刀、金属バッドや、シャベルなである。その道具こそ、最高に相手を痛めつける武具なのである。そして、その暴力は、喧嘩にすぐさま勝ったことにより、負けた相手へのリンチとなって、死ぬまで加えられる。相手の肉体を、鉄パイプや金属バットで殴りつけるということで、やる方も飛び散る血、裂ける肉、苦痛の悲鳴に、不安と恐怖に突き落とされ、恐慌状態になっている。その暴力は、相手の死によって停止するまで、治まらない。まさに行くところまで行ってしまう。かって起きたリンチ事件もまさにこのようなものであったと思わせるリアリティをもっていた。

 ただし、この人間心理のリアリティと並んで、暴力シーンは同時に嘘でもある。鉄パイプや金属バットを相手の胴体や頭に振り下ろしたら、数回で絶命しよう。それが簡単に死にもしなれば気絶もしない。えんえんとつづけられ、やる方が脅えていく。とくに相手グループのリーダーに至っては、せせら笑いながら、後でお前らをみんな殺してやるとうそぶいたりする。半狂乱になっていくのは、やるほうになっていく。ようやくの果てに、やっとリーダーは沈黙する。これはとても現実的でありえない。戦闘ゲームやアニメの暴力シーンにすぎない。つまり、ヒーローショーの暴力シーンは、架空の暴力を用いながら、暴力に駆り立てられる人間を描きだしている。

 ここで、言えることは、暴力だけを描くことは、映画ではできないということである。暴力を生み出す国家権力、組織、団体、グループ、あるいは個人などを、描くことによって、暴力映画は見る人を楽しませ解放するのである。暴力は、衝撃的で非理性的でありながら、権力機構や、個人ときにはヒーローへのクールな理性的な配慮がどれだけあるかで、内容が左右される。この配慮は、「ヒーローショー」では、どれほどのものだったのか、これが問題となろう。

 つまり、この映画でなにを言いたかったのかが、問題なのだ。このクールな視点があるかどうかが、大事であろう。この点で、ぼくは、暴力シーンだけに監督の思い込みがより強く注がれているというように思えるのであった。

 このリンチがようやく終わり、死体を地面に埋めるべく河原に集結する。このときリーダーは放り込まれたバンの中で息を吹き返し、ごそごそと這出て、闇の中に逃走して消えていく。まさに仰天の復活であるが、このために後半のストーリーが主人公の逃走劇となっていく。このシーンから受けるのは、まさに喜劇である。暴力の反転であり、無効であり、空騒ぎであるという強烈なギャグである。もし、この方向で、ストーリーが展開すればクールな分析となったであろうと思う。しかし、ストーリーは、ラブストーリーの人情話となっていく。まさに竹に木を継ぐの違和感を感じ、ご都合主義の話のしめくくりを感じてしまう。ますは、暴力シーンが終わったのであとは適当に常識的に締めくくってしまうことでラブというトッピングが加えられたのである。

 ここで、さらに付け加えるならば、リンチする側のリーダー、名前は「勇気」は、自衛官あがりの配管工というのも安易過ぎる。自衛官であるなら、暴力に強い、おまけに配管工であるなら喧嘩道具もまわりにあるという設定の概念では、作者はどれだけ、この暴力の空しさを分析しようとしているのか、はなはだ疑問である。おそらく、監督はだれもやらなかった暴力シーンだけが映画のモチーフではなかったのか。「ヒーローショー」というタイトルのヒーローとは、監督のことではなかったかと思うのである。

 行き場を喪失した現代、3.11以前の若者は、ヒーローになる架空の場さへ無かったことを思う。


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宮崎映画祭(2011年度第17回)ロウ・イエ

2011-07-28 | 映画
 ロウ・イエ映画について語っている最中に中国で高速鉄道の追突事故が起こった。政府のとった対応は国家の威信であったが、個人の命を無視した対応に中国の民衆の反乱が起きている。政府の力ではどうしようもない民主化が進んでいくことを、この高速鉄道事故は、図らずも実証した。政府の都合だけで、民衆をコンとロールすることは不可能になってきたのだ。新聞も雑誌など大衆メディアも、個人インターネット情報メディアも世界の情報のネットワークも、当然のごとく活動し、真実を公開するように中国政府を圧し始めている。共産党一党独裁の全体主義支配などとは、現在の情報化社会、グローバル世界のなかでは、幻想にすぎないことをはっきり示しだしてきている。時代はすでに天安門事件でなく、本質的に変わってきているのをまざまざと知ることができる。

 その「天安門、恋人たち」が公開された2006年は、折りしもカナダ人の写真家エドワード・バーティンスキーを追ったドキュメンタリーが公開された。彼は中国をはじめアメリカ、ドイツなどと産業発展で影響を受け、開発を強いられた風景の変化を取り続けている。2008年6月に来日して『いま ここにある風景 エドワード・バーティンスキー:マニュファクチャード・ランドスケープ「CHINA」より』のドキュメンタリー映画が公開された。かれの写真や映画の一端を、ーチューブで視聴して欲しい。経済発展の裏でどれほど破壊が進んでいるのか、その歪みの想像を絶した破壊と非人間的風景が、この小さなパソコンのモニターからさへ、圧倒的に伝わってくる。そこで、にもかかわらず、そこには否定しようもない美があるのだ。文明がわれわれを否応なく飲み込む悪魔の魅惑というような美があるのだ。これが映像の強さとなって、多数の人々世界の大衆の注視をひき付けている。まさに美こそ核となるアートの普遍性と凄さ、これがある。この普遍性がある。中国の今を考えるとき、どこまで普遍性を引き出すかが、課題であろうと思う。それは、もはや独裁とか中国政府のエゴといった問題よりも同じ環境の危機を背負う人間の問題としての「視点」が必須になろう。ロウ・イエの映画作品をつづけて語ろう。

 
 『スプリング・フィーバー』(2009年ロウ・イエ中国・フランス製作 監督ロウ・イエ)

 男たち3人の同性愛を描いたこの映画もまた暗い結末で終わる。なぜ、かくも暗いのか。それにやっぱり前作天安門とおなじように、たんたんたる日常性が描かれる。禁断も劇的反転も反抗も非日常性もないのだ。およそフィーバー(熱狂、興奮)の気配は実は描かれてない。暗さと日常性、これが2作の共通の特性である。

 ただ、「スプリング・フィーバー」を「天安門、恋びとたち」の前に見たなら、ロウ・イエ監督の映画製作にかなりの斬新さを受けたのではないかと思う。政治とかなんとかの問題よりも映画としての独特の表現に惹かれたかもしれない。しかし、そうだとしても、やはり中国の政治への批判が根底にあることはまちがいなく、これぬきに彼の映画は語れないとは思う。監督は、こんどこそ純粋なラブストーリーだと語っているが、ラブ・ストーリーをなぜかくも平板な日常性の域にとどめているのか。前作の共同脚本を担ったメイ・フォンに今回は担当させている。人と人の間の日常を描くという意図をかれが生かすことができると、任せたということだ。

 さて、登場する3人の関係は、主人公ジャン・チョンと、同性の恋人ワン・ピン、その妻リン・シュエ、、リンに夫の尾行を依頼された探偵ルオ・ハイタオと、かれの恋人リー・ジンの相関関係として愛がもつれあって進んでくわけである。異性の愛、同性の愛がもつれあい、尾行するルオもジャンを恋するようになり、リージンと関係は危機になる。この相関は、同性愛とい社会的に否定される愛ゆえに悲劇の結末を迎えるということになる。これだけの相関であれば、ストーリーはどこまでもドラマチックに展開するのだが、映画に挿入された作家ユイ・ダーフの小説「春風沈酔の夜」の一節「こんなにやるせなく春風に酔うような夜は、私はいつも明け方まで方々歩き廻るのだった」と恋人たちは読み上げる。この個人の繊細な情感にこそ焦点はあるということが主題とされている。一見狂おしい同性愛という愛を主題にしながら、これもまた個人のさけられぬ感情であり、人生であり、「人間の間に存在する愛である」ことを描いたのだという。この個人であること、このいわば当たり前のことが「全体性への帰属、個人を飲み込む集団志向」を強行する中国政府への告発となることを、かれは訴えているといえるのではないか。

 「天安門、恋人たち」での彼の表現は、まったく同じ手法である。まさに、ロウ・イエの世界であり、ゆえにロウ・イエを好きなものにとっては、すプリング・フィーバーはいっそう魅力的な作品であろう。このことを否定するつもりは毛頭ないし、話は、このことでなく、別の視点のことを語ろうとしている。今思い出しているのは、1994年オーストラリア映画「プリシラ」である。この映画も3人のゲイ、ドラッグ・クィーンの物語である。1人が性転換者、1人はバイセクシャル、もう1人は若い女装フェチで、砂漠の真ん中で開かれるショーに参加するため「プリシラ号」というバスにのって、砂漠を旅していく。そのドハデで衣装と荒涼とした砂漠の対比が目を奪った。3人ともお笑い芸人だが、旅の先々で差別や同情やと出会いながら、次第に人間愛を深めていく。とくにバイセクシャルのかれは、ショー会場で別れた妻と息子に再会し、はじめは仰天して失神するが、やがて息子にゲイの愛も人間愛だと理解させることになるというハッピーな結末に至るわけだ。

 移動、行動、非日常、熱狂と興奮、歓喜と、派手派手で、脳天気で、楽天的で、かれらも同性愛の差別に苦しめられながら、幸運を戦いとるという物語でスプリング・フィーバーと逆の世界が展開する。こういうデザインが描けたのは、国という土台が違うからである。この二つの作品を併置して、どちらが優れている作品かと、問うことはおよそ意味がないだろう。しかし、どちらが面白いかということは、問うことができる。そして、答えも明快であろうと思う。どちらも好きだという人もいるかもしれない。それはそれ、こんな馬鹿話は意味が薄いという人が、スプリング・フィーバーを挙げるかもしれない。だが、自分はどちらかと自問の材料にはなるにちがいない。ちなにみ「プラシラ」は1996年第2回宮崎映画祭の上映作品の一つであった。当時のぼくは、映画祭の実行委員でもあったので、この映画を記憶していたのだ。

 あ、ついでに言い忘れたが、ぼくはプリシラを、もう一度見たいと思う。

 さて、もう一つの作品は、『いま ここにある風景 エドワード・バーティンスキー:マニュファクチャード・ランドスケープ「CHINA」より』のドキュメンタリーである。この映画もさることながら、バーティンスキーの撮影した中国の今を撮った写真に現代文明の黙示録を知らされるような現在の今、そこに未来の恐ろしい崩壊の予兆を受け取らざるを得ないのだ。この風景は現代中国のまさに人間個人の埋没を推し進める風景でありながら、日本の風景であり、未来でもあるからだ。ここで、われわれは、中国と共通の問題をかかえていることが、即差に理解できよう。すでに共産党一党支配体制による個人の抑圧という強権は鉄壁ではなくなってきている。その壁の向こうにあるものが、解放でも天国でもなく、新たな人間生存の問題として横たわっている。このまさにSF未来風景の環境にいかに向き合えるか、この現実の克服へと、アーティストの課題は向かいはじめているのではないかと思う。とくに3.11の東日本大震災、福島原発事故炉心崩壊を起こした以後の日本社会を考えるときは、中国もアメリカもないように思えてならないのだ。ロウ・イエ作品はこの課題へと向かっているとはおもえないのである。いや、そうでないかもしれない。こういう言い方はまちがっているかも。しかし、これまでの2作品からは、こう言うしかない。
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宮崎映画祭(2011年度第17回)「天安門、恋人たち」を見て

2011-07-27 | 映画
 前回に続くが、三日前の土曜日午後、窯焼きパンのカフェに出かけて、今度は蒸し暑さで、さすがに庭のテーブルには座る気になれないで、パンの山積みになった店内のカフェに座った。自転車だったので、身体にべっとりとはりつい暑気は、十分な冷房でたちまち遠のいていった。あんパンとピーチのジュースと熱いコーヒーと冷水を並べて、外をながめながらゆったりとした時間を過ごした。書こうとしている映画天安門、恋人たちは、今ここにある消費の光景とは、あまりにも対照的であるのを思い出すのであった。


   『天安門、恋人たち』(2006年中国・フランス製作監督ロウ・イエ)

 この映画は、映画祭公開の前に試写会があり、宮崎市民ホールの小会議室で見た。タイトルの天安門(事件)があるわけでもなく、北京の北清大学の学生たちが、政治や民主化運動を語るでもない。地方都市から北京の北清大学に合格して、進学してきた美人女性ユー・ホンは、チョウ・ウエイと出会い、二人は恋人となる。学生寮の狭い部屋でくりかえされる、二人の性交シーンがえんえんとつづく。思想もなく革命もなく、愛をむさぼりあいながら、満たされぬ想いがユー・ホンを孤独に追い込んでいく。見終わって感想をしゃべるのだが、端的に言ってポルノとしか言いようが無かった、他に何があるのかと、加賀さん(今年より同映画祭実行委員長)には印象を語った。そのまま、この映画をもう一度見ようという食指はうごかなかった。

 そして映画祭当日に、「お引越し」を見ようとやって来たら「天安門」であった。と加賀さんが会場の入り口に立っていて、帰ろうとしたぼくを引きとめて、天安門をこの映画館でもう一度見るようにとすすめられた。「ポルノとは、ちょっと違うと、思うんですよね・・」と彼女は言うのであった。たしかにポルノと切ってすてられない、なにかがある、やはり天安門かな、いや中国政治への批判なのか・・。なにかあるような、「とにかくもう一度見て」と乞われて、よし今度はロウ・イエが二人の恋人をどう描いたか、そこだけを追ってみようと館内に入った。

 そしたら、今度は、きわめて単純な、ありふれた大学生という若き日の男女の恋物語だとすらりとついていけた。相手をすべて所有したくなる恋のすれ違いで、破れていった恋であった。こんな話は、凡庸であるものの、この主題は手練手管を使って、文学に映画で繰り返されてきている。この映画では、たいした山もなく展開もなく、落ちも平板、なんとも既知の常識そのものの恋の悲劇が進んでいくばかりであった。だからこそ、この物語が印象にのこらなかったのだ。それは壷に描かれた薄い平凡すぎるデザインであったがため、印象にのこらず、その土台の壷が、その壷の実在だけが残ってしまったのだ。その壷の正体は、しかし、試写会の会場では分らずじまいであったのだ。
 
 見終わってありありと分ってきたのは、この壷の存在であった。それはロウ・イエが表現した中国社会、1989年の首都北京、その大学おそらく北京大学をあらわす北清大学を中心にした中国である。それは、目を疑うような大学女子寮の内部で現されていた。経済発展以前の寮である。今と対比して、近過去の風物を並べて失われた空間の美や豊かさを示す手法は多い。しかし、これとは、本質的に違うのだ。この古さには、美と豊かさなどはないのだ。4人部屋なのか、木製の2段ベッドが向き合いにあり、汚れきったあり合わせの布でし切ってある。窓もなく、片隅ではごぎぶりが這い回っているような不潔さが漂っているのだ。学生たちは、このベッドに腰掛けて、タバコの煙にまかれながら、酒を飲んだり、食い物を食ったりし、ときには空いた部屋でセックスをしたりして過ごす。一見したとき、ここは、捕虜収容所と思ったほどである。

 米国のディスコ音楽ががんがんと流れ、学生たちは飲んだり、食ったり踊ったりするホールの中で二人は一目惚れとなるのだが、そこから、女子寮は、二人の性交の部屋となる。教室では、授業よりも、騒然としたムダ話が飛び交い、そしてひたすら遊びと異性を求める学生たちの姿が溢れかえっているのだ。天安門へという民主化デモへの運動は、そんなある日起こり、学生たちはディスコに大挙おしかけるお祭り騒動となって涌き上がる。たちまち銃声にけ散らされて、逃げ惑い、ユーホンも寮ににげてくるだけだ。天安門事件とは、このシーンだけが挿入された。映画が発禁になったとき、ロウ・イエは政治は主題ではない、描いても無いと言ったそうだが、はたしてそうなのか、正面切って描かないからこそ、中国の80年代政治の暗さが、観客に衝撃を与えるのではないか。先進国の欧米の知識人の中国批判を満足させる重たいリアリズムがかれらを心地よくさせたのであろうかと、思うのである。

 ユー・ホウは、ある日、チョウ・ウエイの浮気を知って、かれの室に泊まろうとして激しい争いとなり、自分の室内に帰ってくる。部屋では1人の女性が、楽器、小さな竪琴を弾いている。その前を怒りのまま横切って、2段ベッドの端で、いきなりスカートをまくりパンツを膝まで押し下げると、しゃがんだまま、排泄行為に入るのだ。この光景は、一体何を意味するのか、いや排泄と見るほうが間違いだったのか、信じられないままだ。しかし、たしかにパンツを膝まで下ろし、排便するしゃがんだ姿勢で、怒りをおさえつづける姿に、排便のほかになにを想像しよというのだろうか。しかも、同じ部屋のベッドに腰を下ろして、平然と竪琴を奏でつづける相室の女性の動じぬ姿は、なにを意味するのか。以前、中国でうんこをするとき、囲いもなく溝の上の梁に一列にならんですると聞いたことがあるが、大小便の姿は、恥ずかしいものでもなく、きわめて日常的な習慣だという。そう思うしかないのであるが、しかし、この光景、しかも中国の名門大学を意味する大学寮の部屋で排便とは、このシーンを中国政府は、認められるのであろうかと、思うのだった。まさにこの光景こそ、痛烈なギャグではないか。しかし、ギャグなど挿入のしようもない、重たいリアリズムシーンが、この映画の基調ではある。

 開放感のない陰々としたシーンと、激情のように沸き立つ群集シーンは、天安門のきわだつ表現である。この壷の表面で恋人たちの葛藤が深くなっていく。はじめ、せリフがないといったが、ヒロインのユー・ホウの表情が、じつは多くを語っていたのだ、性交における喜びよりも虚しさ、日常のあてどもない空白の日々、それらの空しさの表情だけが見事に表現される。それは若い学生の恋というような個人的な人生など、なんの意味をもないと、経済発展に驀進する中国社会の全体主義への絶望と重なっている。ロウ・イエは映画のシーンにこの想いを込めているのだ。それを意図したかしないかと問う以前に、かくも暗く否定的に壷を表現せざるを得なかった内面に、祖国へ突きつけるノーがあったと言えよう。それは大胆であり、巧妙であり、創造的な奇才を感じさせた。

 しかし、ぼくは、この映画の表現に共感できないのだ。製作された2006年といえば、すでに中国には2億人とも2億5千万人ともいえる中間所得層が大都市を中心に誕生している。もし、部屋で大小便するような、ごぎぶりが這いずり回るような中国の未開発住居などはいっそうされていたろうし、また、こんな、その遅れなどは、いっしゅんに片付けられる都市問題に過ぎないのだ。また今や、世界中の商社や、工場、チェーン店、サービス産業が集まってきている北京やその他の大都市で、この中間層には、ぼくらと同じようなアメリカ的消費生活やライフスタイルが始まっていると思うのが妥当であろう。ゴキブリが這い回るような暗さはもはや意味をなさない。共産党一党独裁で、民主化が抑圧されている中国社会も、変わってこざるをえない。中国の暗い、鬱屈したイメージでは、89年以降の中国の本質をとらえることは出来ないのではなかろうか。われわれと同じような消費文明の巨大な危機こそ問題で、未来の危険こそ共有しているのではないかと考えられる。

 こう思うときに、ロウ・イエの手法は、このままでは、早晩行き詰ってくるはずである。映画もっと、楽しくし、異相であっても未来を孕む歓楽的なシーンで、問題の所在を明らかにして、告発、解決への希望を提示するのが本筋と、ぼくは思うのである。現在、いろいろと国家の対面だけを前面に押し出している中国政府もグロバーリズムを抱え込み、次第に民衆主体にならざるをえないだろうと思う。この映画を見て、中国の共産党一党支配の人民抑圧をイメージしていく、独裁政治に過度に反応することは、問題をとらえられないかもと思うのであった。


 
 


 








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宮崎映画祭(2011年度第17回)天安門,恋人たち」を語る前に

2011-07-23 | 映画
 中国のロウ・イエ監督作品『天安門、恋人たち』を語るのは、難しい。たしかにロウ・イエ監督はかれの祖国中国を意識しての映画であろうが、2回見たが、分ったようで、今また分らない。中国とは、なにかが分らないのだ。だんだんこの映画について語るのが、むつかしくなりつつある。今日は土曜日である。しばらく、蒸し暑い曇天の午後だ。ぶらぶらと出歩くしかない。

 午後2時過ぎから、真夏の暑さと蒸気のような湿度となってきた。すでに全国で2万人を越えるの熱中症患者が出たと報道されている。あまり熱中症と騒ぎたてると、精神的にストレスを受けて罹患してしまうのかもしれない。要は、精神をまず強靭に保持すべきなのだろうと思う。

 先日水曜の午後からは、休みなので、ママチャリで北郊外をぶらぶらしていると、競馬場の塀沿いとなり、そこにとつぜん、窯焼きのパン工場兼カフェにぶっつかった。スペイン風な大きな店構えが、いい。中には自家製のパン、ややドイツ風な黒っぽいパンは店を埋めていた。わりと手ごろな値段なので、2種類ほど購入コーヒーがいっぱいだけサービスというので、紙カップに注いで、庭のてーブルに運び、ここで本をよみながら4時半ごろまで過ごした。コーヒーが意外とおいしかった。それと、パンはそれほど美味いとは思えなかったが、滋養たっぷりというのがドイツパンらしかった。いい時間だった。

 店の正面は、昔の「花が島競馬場」で、今は「宮崎育成牧場」となっている。この前の道を進んでいくと、やがて日豊線の線路沿いとなって、線路とともに宮崎駅までえんえんとつづいている。この道路に入れば、北へすすむと、自然にパン店にたどりつける。みごとに分かりやすい場所だ、これを反対方向からくると、たとえば山崎街道から探すと、どういう道筋だったのか、今だに分からないのだ。

 肩が凝る。やっぱりインターネットに触れると、神経が苛立つのだろう。その点読書は楽だ。

 しかしブログをつづけねばらぬという意思、依怙地さだけはつついている。これはちょっと可笑しいのかとも思う。だが、こんなパンを食べコーヒーを飲んでいる午後は、なにより基調な時間である。『天安門の恋人』を書きはじめなければならない。今、このときに日傘の下の庭でのんびりしている生活と、ロウ・イエ映画の信じがたい、かれの映画の北京の学生寮とが、どう関係するのか、ここから考えていこうか。
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2011年度宮崎映画祭 個々の作品について 1

2011-07-21 | 映画
 面白い映画とは、なんだろうと、定義することは出来ないように思う。ことばで締めくくったとたんに、実体が抜け落ちてしまう。これは生きるとはなんだろうと、定義しても意味がないに似ている。まずは、個別の映画を語るほかに面白い映画を説明できない。映画祭とは何かを述べてみたが、いろいろ理論的には、述べられるが、この面白い、面白くないが、映画祭を支配していることも間違いない。料理が、美味いか、不味いかが、まずはなんといってもレストランの評価を決定づける。

 ということで、そこで2011年度の宮崎市映画祭上映16作品中、私の見た7作品について、個別に語っていこう。

 『SRサイタマノラッパー2 〜女子ラッパー☆傷だらけのライム〜』

 この日本映画はタイトルを読んだときに、あまり気乗りがしなかったのだ。ラッパーという音楽も好きでないし、あのラッパーのファッションも魅力もなかった。こんなものをわざわざ映画で見てもという感じであった。しかし、みおわって、この先入観はもののみごとに打ち砕かれた。それ以上に、日本のミュージカルも、ここまで進化したのかと、驚いたのだ。もともと和製ミュージカル映画で音楽が、生活の場で語られることもないし、ということは音楽が人々の生き方との関連が描かれなくて、音楽もダンスもステージで上演され、それが音楽であるということでしかない。崇高な芸術としての音楽はステージの上で上演されてすべてであるというという在り様にいつも欲求不満を覚えていたのだ。だがこの映画でついにステージがすべてでない音楽に接しえたのだ。

 詳しいことは知らないが、ラップは、しゃべる音楽だとは知っていた。知っていたとうより、これだけしかラップについて知らないのだ。この恐ろしいほとの無知、無関心の私でも映画は、十分の対応していた。物語の進むにつれて否応なくラップに惹かれていったのた。さらにこの映画のもう一面は、昔風に言えばラッパーというプロレタリアの物語。蟹工船というプロレタリア文学を連想される若者もあろうか。それじゃ古着が古すぎるので、三浦展(みうらあつし)の特設する「下流社会」の人たちであるラッパーの物語であるとも言える。女子ラッパーと下流を重ねてみると、この映画はぼくにとって刺激的でいっそう面白かったのだ。下流は「ファッションは自分流である」「面倒臭がりだらしない」「未婚である」三浦の定義に良く当てはまる女子ラッパー、男性も二人も加わって、下流の宴が、展開してと・・物語は進みだしていったが、意外の進行がぼくを興奮させ、誘惑と共感の渦に巻き込んでいった。

 200年の初頭に高校を卒業して10年くらい経っている時代、今はこんにゃく製造の家業で働くアユムはある日、埼玉からやってきた二人の男性ラッパーに出会ったことを契機に、ふたたび、5人のバンドの再結成を図る。元メンバーは倒産した旅館の娘ミッツー、ソープ嬢のマミー、男より男らしい無職のクドウ、ダンサー志望のフリターのビヨンセである。不景気のつづく地方都市で彼女らはこんな職でしかみつからなかったようだ。まともな定職につけないラッパー、ラッパーだから生活もまともにできないという、だらしない、ぐうたら希望もない、ただ生きているだけという下流ぶりを、全身で表現するアユムの登場は前半の圧巻のシーンである。寝床から這出る様に起きてくる半裸の肥ったアユミのだらしなさぐうたらさが、圧倒的だ。犬か豚、本能的な生のほかには、思想も感情もない即物的生活が全身からにじみ出ているのだった。その彼女がラッパーとして活動を始めだしてくるに連れて、次第に魅力が出てくるのだ。それは同時にラップの魅力も浸透していく。

 ラップの伝説のDJタケダ先輩の野外ライブの聖地河原を知っているアユムたちと聖地を探しに来た男性ラッパーとの争い、これを偶然目撃していた釣り人の屈強な男性二人が、男のラッパーを女を脅してどうすると出てきて、男性ラッパーは、逃げ出していく。ラップを暴走族かジャンキーか、不良の証としてとっちめるという段階で笑わせながら、ラップの深層に入っていくのが、巧妙な導入になっているではないか。破産したホテルにあった高校時代に登場したステージ、その前に詰まれた当時の楽器や音響装置、その倉庫になった前で仲間たちで、ラップでしゃべりあい高揚していく仲間たち。今やコンニャクの配達の途上で、あるいは歩いていく橋のうえでラップを口ずさむアユムと、ラップは次第に日常の暮らしの場に再現されだしていく。その最初のクライマックスが来る。

 再起を起こして、最初の演奏依頼が来る。出演料も思いのほか高額で、彼女らの最初の目標が達成されたのだ。10年ぶりにラップの衣装を引っ張り出して依頼主の会場で出演をまっていると、ステージは、プールサイドで、水着でやってもらうという注文であった。ラップが何なのかも理解できなかったが、若い女性たちの色気のある出し物としての依頼にすぎなかったのだ。ここで迷ったが、伝説の野外ライブ再演のための資金稼ぎとして、彼女らは出演を引き受けざるをえなかった。

 このシーンは傑作であった。水着を着て、ラップを歌いながら、ダンスを踊っていく。プールに観客は数人の男性たちが眺めているばかりだ。水着姿のラッパーとヘタウマのダンスと、ラップ音楽、このどれもこれもアンバランスの三つが、不思議に釣り合って可笑しい。その滑稽さのなかに哀愁がある。懸命なダンスに哀切があり、ラップの掛け合う言葉が重なる。仲間の一人、腹をたてたか、ダンスができないのか、ただつったっているだけというのもリアルで笑えた。ラップ音楽の特性が、逆にわかりやすく伝わってくるのだった。プールには数人の男たちしかいないが、スクリーンからは、ラップ音楽、びんびんと客席に伝わってくるのであった。

 しかし、これ以後、ステージは無く。野外ライブのため貯金しつつけた資金も堕胎料として持ち逃げされ、それぞれの暮らしはさらに圧迫され、ついに仲間は四散してしまい、アユムの計画は完全に頓挫してしまう。やがて平常心に戻ったとみられるアユムは、コンニャク製造の家業に精を出すようになり、やがて母の一年忌がやってくる。黒い式服を着た親類縁者や近隣者の間で、法事がすすんでいく会場に、仲間たちがやってくるのだ。若い男性ラッパー二人も顔を出す。この必然は、ぼくはよくわからなかったが、こうならなくては、この映画のメッセージは伝えられなかったろう。それが、問題だ。普通の音楽映画であれば、ここで本願のステージが適い、大成功のうちに終わると言う構図になるのだが、法事と言う葬儀場で終わるというのが凄いではないか。

 黒い喪服の間をラップで、もう一度ラップをやろうという仲間たちの喋りがアユムによみかけつづける。しかし、動かない。動けないのかもしれない。だがしだいに彼女もラップの衝動に芽生えだして、ついに仲間とラップの演奏に入っていく。そのラップのなんと法事の式場に似合っていくことか、これが爽快な感動となって私を包み込んでいったのだ。

 この映画は、ラップを拠り所にもう一度人生を生きるという暗示をするシーンで終わるのだ。プロレタリアといい、下流社会といったが、これは社会の底辺を主題にした左翼文学でも映画でもないのだ。下流を社会・経済問題として分析する文庫本でもない。じつは人間の問題なのだ。ラップという音楽の可能性の讃歌である。それを示すための卓抜したアイデア、創造性がある。また、登場した女性たちの特にアユムの魅力は、音楽のヒロインにありがちな美貌というのとはおおちがい、まさにラッパーという動物的ともいえる生きるエネルギーを発揮して魅力があった。観客を元気付け、楽しませ、解放させ、スクリーンでみた現実が、見終わった後でさらに新しい意味を拡大し持続していくいうのは、面白い映画の典型だと、私は思えた作品であった。
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