禅(Zen)とは何か。 その答え。 意味・効用・有用性・価値について。

 禅とは何か、答え、意味・効用を、容易に簡潔に説明。心のストレス苦しみ苦悩不安恐怖孤独感解消、集中力持続力をつける為に!

好奇心・探究心そして知へ

2009-07-06 08:37:45 | Weblog

好奇心・探究心、そして知へ

好奇心・興味・探究心と知・学(学問)>(単なる興味・好奇心・探究心から洗練された知・学の方向へ)  


 単なる個人的興味・好奇心・探求心から、知的認識・理解のその指針あるべき方向(単なる個人的・主観的・感情的・部分的・不正確t・素朴な、興味・好奇心・探究心から、より洗練された客観化・抽象化・全体化・統合化・体系化・整理された、アカデミックな知・学(学問)・科学の方向へ)

 自分のまだ知らないもの・興味を引かれるものに対する、人間の興味・好奇心・探究心は、人間の全ての「」の基礎・推進力である。
 しかし、単純素朴な単なる興味・好奇心・探究心より得られる主観的・個人的思い込み・独りよがり・感覚的・感情的・断片的・部分的・場当たり的(アドホックな)・不正確・不安定・不明確・曖昧な個人体験的な認識・理解から、より洗練された客観的・実験検証的・全体・統一・網羅・体系的(より本質から具体化への、ピラミッド構造的)、(個別具体的な条件を抜き取った)本質的・メタ・イディア的な最大公約数的共通項を求め、そして合理理性的・説得的・明確・妥当な知・学(学問)・科学的な認識理解の方向をめざし、そしてまた、その成果をその能力があり出来る機会に恵まれた人は、社会へ還元すべきである。(必ずしも、科学的実験実証できない分野もあるが。)(洗練・成熟化された好奇心・探究心=知

 その知的認識・理解の方向には、既に人類の共通共有財産・知恵・英知として存在する成果を学習・整理・理解する・知る事と、(既存の認識理解を前提にしその上で)未知のものへの探求・解明・研究(人類知・知恵への取り込み)をし、既存の認識理解に付け加え、あるいはまったく新たな価値や理解認識を作り出し創造し、そして発表・社会還元しようとする態度がある。


 この認識理解には、静態的認識理解動態的認識理解とが考えられる。動の要素を入れない静的整理的な概念・写真絵的静的認識理解と、アクティブ・動的な一次・二次・三次・四次元等での認識や各種の要素・時間の要素をダイナミックに組み合わせた変化での(困難ではあるが)認識理解、である。
 後者は、変化の関数(変化のルール・機能)・公式を見出し、多様に動的に変化するものを定型的・パターン的に理解しようとするものである。(コンピュータによって、動的・立体的・時間的要素を組み込んだシミュレーション認識・理解が容易に出来るようになった。)

 ここで考える「」とは、先人の洗練され凝縮された英知・知恵を、全体的・体系的・統一的・網羅的・本質的に効率よく認識理解する事、およびそれに付け加えて、個別・具体的・主観的な体験・発見・知識・知恵を、一般化・統一化・客観化・抽象化・本質化・全体化・網羅化・体系化し、社会・人類全体の共通共有情報財産とする事、である。実践・実行以前の認識・理解の問題である。(知は、個人の単純素朴な興味・好奇心・探究心から発し、その洗練された、成果である、とも言える。)


人間の興味・好奇心・探求心意識の拡大方向

 人間の興味・好奇心・探究心は、個人又は集団の、意識の拡大として表れる。

 その人間の意識拡大方向としては、2つの方向が考えられる。1つは、自己の外へ向かっての意識の拡大(過去・現在・未来への)である。これは、比較的理解しやすい。
 もう一つは、自己の内部への意識の拡大である。(これはなかなか、一般の人は、意識していないし、気づいていない。)

 自己の外への拡大は ①歴史認識 (過去の認識理解)②現状認識 (現在認識。但し、人は厳密には、脳の仕組み上現在認識できず、全て事後認識・歴史認識、といわれる。)③未来認識・予測の3つに、外部空間の時系列的な認識・理解は、大雑把に分けられる。

  自己の内部への拡大は、具体的に視覚的に見えないが(客観的定量化・数値化が今のところ難しく、科学的認識理解がなかなか困難であるが)、自己自身認識・自己自身の心を観つめる・意識を拡大する、ということである。


<自己の外へ向かっての意識の拡大>

① 歴史認識 
 時間的に過去の状況の認識・理解
(文献言語アプローチ、考古・実証・科学測定アプローチなど。)

② 現状(現在)認識 
 人文・社会系認識理解
(地理・社会・政治・経済・文化・思想哲学・倫理・宗教、人・人間に関係)
  自然・科学系認識理解(自然の認識・理解・解明 極大化の方向⇒宇宙の解明、極小化の方向⇒遺伝子・分子原子素粒子等の解明)

③ 未来認識・予測(確率統計・疫学・微分積分の精緻・論理・数学的手法を使った思考から、歴史・現在を踏まえた直感認識理解まで。)


<自己の内部へ向かっての意識の拡大>

 自己内部への意識の拡大 (あまり意図的に意識・認識・理解されていないが、自己の考え方・生きる上での行動の原理原則・原動力・エンジンとして役立つ範囲内で自己の内心を知れば、普段考えない自己の内心・精神を、客観的・合理的・理性的な人類の英知・知からアプローチ出来・知り理解出来れば、自己の生き方行動に役立てうる。
 心のストレス・不安・諦め・絶望から離れ<概念・言葉の弊害除去に禅も役立つ>、人間本来の自己・生きる意味・喜び・生き甲斐・幸福等を知る為に役立つ。心理・哲学・宗教の知見・アプローチも、これらの解明・理解に役立つ。)
 又自己の心のあり方を、合理的・理性的・客観的人類の英知からのアプローチで知ることは、何かを成す為に必要不可欠な、人間の集中力・持続力の知見を知る・得ることにも役立つ
 ただ日々忙しい生活をしていて、自己の外部刺激に目を奪われ意識を奪われ、外部刺激それへの反応・刺激反応刺激反応・その条件反射的繰り返しの中に生きている人は、外部刺激を意図的に遮断する環境に自らの身を意図的に置かないと、なかなか自己の内心(心)へ、意識が向かっていかないし、なんとなく気にはなるのであるが、自分の心を、客観的合理的に、認識理解し、人類の英知を活用・実行することが出来ない。


人間の意識認識手段・手法
 これにより過去の人類の英知を体系的・系統的に調べ認識・理解したり、現状を直接観(見)たり、未来予測する事ができる。

① 五感認識・ビジュアル視覚(写真・動画・現実観察・体験)認識(具体的・非抽象認識。そのままでは、敷衍化・抽象化しないと、その認識理解・経験を、他の別の新たな類似の事例に、適応・応用できないという問題がある。よく現場たたき上げの人で、個別具体的経験知識は、スチール写真・絵のように豊富に持っているのであるが、本質化・言語化・概念化・一般化・抽象化が出来ず、類似の事例・新たな事態に対応できない、という人がよくいる。ちなみに、このような人の話は、本質を捉えた要約した話が出来ず、自己の経験した個別具体的な話が延々と続く。)

② 言語・記号認識
 
自然言語(日本語・英語等)、人工言語(例。精緻な論理の積み重ねの数学など。)(抽象化・一般化を図る為、知では重要。)

 言葉・概念を使う事の有用性と弊害
 但し、言葉・概念を駆使・利用することは、有用ではあるが弊害もある。有用性は言うまでもないが、弊害をはっきり自覚・認識しておく必要がある。心への弊害と、事実を意味化・本質化・抽象化する過程での、事実誤認・誤訳・抽象化本質化への失敗の弊害である。(よく教科書重視・結論結果丸暗記型勉強方式の中で、事実と教科書の結論が矛盾する場合、自分が丸暗記した教科書の抽象化した結論が正しく、事実が間違ってると思う学生が生まれてくる。事実と教科書が、矛盾するときは、教科書が、本質化・抽象化・言語化・象徴化する過程で、誤ってしまったと考えるべきであろう。そう言えば、ある有名大学卒業者が、学校で習った事と社会の実際・実態があまりにも違いすぎるとして、教科書を唯一絶対全て真実を書いていると信じ込んでいた学生が、教師を殺傷したという事件があった。多くの諸要素・偶然が複雑に絡み合った現実社会を、人間に理解できるように、単純化・要約化・抽象化・本質化・最大公約数化する過程で、誤りが生じる余地があるので、そのことを明確に認識理解しておく必要がある。)

 心への弊害とは、言葉・概念は、目標理念設定・注意集中・切り口設定、多くの人の意思統一・エネルギー結集などでは有用であるが、個人でも集団でも、過度に囚われれば心の自由をなくし、ストレスとなり、幸福感をなくし、また言葉自体が本来の意味を離れ、独自に別の意味を作り出し暴走を始めること、である。(ものには二面性があり、言葉・概念を使う場合も、その有用性と弊害を明確に認識・理解しておく必要がある。)

 事実・事象の言葉・概念による、刈り取り・切り取り・抽象化・代表化・象徴化・本質化・シンボル化(異なる事象間のその本質・背後の共通事項で最大限言える事、最大公約数化・メタ認識・イデア認識)は、物理学のように全てを単純統一抽象原理で示せず、又数学のように理論的精緻さを持って理論的に美しく表現できず、多くの要素が複雑に絡み合い流動的・変動的で全てを一元的・統一的・体系的に表現できない場合も多い。
 複雑多様な変動する事象を抽象化・概念化・本質化・言語化・翻訳化する場合、ごく一面からのごく一部分の切り口からの取り上げとなり、全てを代表させることが難しい場合(特に社会科学といわれる分野において。)もある。

 この場合は、妥当範囲を明確にし、大筋認識・概要認識に対し、例外強調・揚げ足取り批判にならないように注意する必要がある。(小異を捨てでなく、小異を知り、大同をあえて採る、とでも言おうか。)
 ある対象を、一定の切り口・観点・視点・目的・立場からものを見ている・捉えている、それが異なれば、当然同じものでも異なって見えてくる。又焦点の当て方が狭いか広いかによっても異なってくるのである。(例えて言うと、メルカトール図法で表された地図のようなものである。三次元球体の地球を二次元平面の地図で表す場合、メルカトール図法は地球儀の中心に光源を置き、赤道に接して円筒形に巻いた紙に形を写し取ったものであるが、角度は正確であるが、長さ・面積は赤道を離れるにしたがって正確でなくなる。両極の点は、赤道の長さになってしまう。
 しかしこのメリット・デメリットを知って、色々な角度・視点・観点・焦点から眺めて利用すればいいのである。)

 このように一定の観点から見ているので、その見方を唯一絶対・金科玉条と固定的に考えてはならない。
 この為出来るだけ多くに切り口から見るようにしていかなければならない。ステレオタイプなワンパターンの見方は、避けなければならない。
 また自然言語の文法に見られるように、大まかな原則と例外があるのに、例外的な事象を捉えて、例外を証明すればその原則は成り立たないので結局何も言えないというような、揚げ足取り・重箱の隅つつき的な議論も良くあるが、大まかな傾向・大勢の本質理解・認識をえる場合、例外を強調すると、何も見えてこないし、理解・認識できなくなる。
 人文科学の場合特に、“There is no rule but exception.”であるので、注意する必要がある。)

③ 経験・勘・直感・ひらめき認識(言語化出来ない直接経験認識理解・非言語脳認識、出来るだけ言語化・抽象化し共有財産化への努力は必要である。)


 認識(判断・評価・実践も含む)の指針・方向性(素朴な認識理解から、客観・抽象・全体・体系的な知・学・科学的認識理解へ。)

 ビジュアル・個人経験・勘認識では、個別的で汎用的でなく一般に広く応用出来ないし、一般人に合理的説得的に説明し、(個別具体的条件がそれぞれ異なる為)実践的に類似なもの・新たなものに、活用してもらう事ことが出来ない。その為認識を、言語化・抽象化・概念化(事実の翻訳化)する必要がある。
 その際、客観化・(個別具体的な条件を捨象し)本質化・一般化・要約化・全体化・体系化して、広く一般の人が、納得・理解出来、応用出来る様にし、共有財産とする必要がある。(事象の客観・抽象化による知・学・科学へ。)

① 実験・検証・事実証拠、数値化による測定・数学・抽象記号による科学推論認識。(高精度確実性。理系思考。)

合理的推論手法
 
帰納法(概念ピラミッドにおいての下からの本質概念・共通項の拾い上げ法、ボトムアップ法)・演繹法(概念ピラミッドにおいての上位概念からの具体化法、トップダウン法)・ブレスト法(直線的論理・推論で拾えないものの概念化・抽象化・新たな発見をする為の外形・形式手法)・弁証法(対立構造の中から新たな視点・概念を見出し共通項を探り、対立矛盾を建設的・発展的に解消していく問題解決手法)・前提懐疑法(既概念・抽象化の結論自体の再検討・見直し。事実事象の概念抽象化過程での誤りチェック、概念化・抽象化・言語化した元の事実事象は既に存在しないか別のものになっていないかのチェック見直し。最近の暗記重視中心教育では特に前提を疑う力が弱くなるので問題が多い。)確率・統計法(全体の傾向把握だけで、個別具体的事例の因果は不明・解明出来ず、個別推論は出来ず。)などのツールがある。しかし精度は落ちる。(実験検証・エビデンスに依拠できない分野で、出来るだけ合理的・客観的・公正・妥当な結論を導き出そうとする、試みといえる。)

③ 論理・合理・理性・妥当性・説得性・整合性・全体調和(美観)・全体バランス・総合判断など。(その他の合理性・妥当性に迫る判断認識。)(単に思う・思わない、信ずる・信じない、の不安定・不確実・恣意的・感情的・場当たり的な認識で無く。)
 全ての自然社会現象を、厳格に証明可能なものだけで認識・理解できない。厳格に証明できるものは少数で、厳格証明不能でも、判断・決断する必要があるものが多い。
 しかしその場合でも、恣意的・感情的・主観的・場当たり的でなく、より統一性・精緻性・本質性・正確性・合理性・客観性・妥当性を上げようとする努力は必要である。(前述のように、よく現場たたき上げの人で、“このケースはこうで、このケースはこうで。”という個別具体的な話が延々と続き、場当たり的で一貫性・統一性なく、全体としてまとめられず、抽象化・概念化・記号化・体系化・統一化・本質化・論理化・理論化・広く応用化できない人がいる。また個人でも組織でも、統一的行動基準がないと、統一的行動基準提示がないと、個別具体的な判断をどのようにしたら良いか(特に組織では)判断に迷い混乱してしまう。)
 このように、事実・事象認識判断において、(判断基準・規範提示でも同様でるが)、出来るだけ、公正妥当で合理性・客観性を目指すべきで、場当たり的・恣意的・感情的・主観的でない、「知」的認識・理解を目指すべきである。

 以上の認識手法で、五感・ビジュアル認識、実験・計量化・エビデンス重視認識、言語・抽象化認識の、それぞれのメリット・デメリット、有用性の限界を知る必要がある。(これを知っていないと、むしろ弊害となってしまう。)

  理系思考は、客観厳格認識であるが、単なる好奇心の延長でしかなく、客観観察記述・自然事実の納得できる説明・後講釈解釈を目指すだけで、証明不能のものの対処法・現に今人間どう行動すべきか・何をすべきか・なすべきでないかの行動原理原則を示しえず、また価値の衝突の際の判断基準・行動基準も示しえない。(いわゆる理系人間は、自己の専門分野の客観・明確に証明できる分野以外では、価値の衝突に対する悩みも比較的なく、比較的単純素朴で、全体バランス・総合調整能力が、訓練されていないように、思えるが。)

 文系思考は、価値・行動原理も取り込むが、認識・測定が不正確・不明確で科学性に欠けるともいえる。(文学などは、単なる主観的・心理表明記述で、統一原理の解明・究明表明ではなく、果たして「学(学問)」といえるのか、と考える人もいる。)

 また認識する際、認識する自己自体も外部から影響を受け、限定され規制され変化し、対象と同様に確定的・固定的なものではないことにも注意する必要がある。

 自己の内心に関しては、まだまだ不明な点が多く、自己とは何か・普遍意識はあるか・自他二元論、自己が感じる時間空間は客観的絶対的に存在するか、などの根本的大問題があるがあることも、理解しておかねばならない。
 
 しかし、内心に関しては、ごく一部と思われるが、普遍的・合理的・理性的・妥当に先人の英知を理解できる部分もあり、これは十分実践的に採用・活用でき、我々の生き方・行動指針に十分役立てうると思う。(自己の内心への科学は、自己の根本的生き方・生き甲斐論・集中力持続力獲得の為に役立つ。)


 最近の若者が、自分の内・外の事・世界に、好奇心・興味・洗練された知への関心を示さず、自分のごく近くの周りのことにしか、関心を持たなく・示さなくなっているといわれるが、視野も狭くなり・面白さも見逃し、限られた生を、過去の人間の英知をも知らず生かし切れず、悶々と昔からのテーマで悩んでいるとすれば、なんとももったいないことである。

 又最近の社会風潮として、テレビのお笑い番組・おばか番組に見られるように、安易な享楽主義・大衆迎合主義に流れ、昔のような、”知・教養(単なる博識ではない。)のないことは人間として恥ずかしいことだ。”と言うような意識がなくなり、低きに安住し開き直り、向上心が見られず、向上しようとする人に敬意を示し、それをサポートしない傾向があるがあるが、嘆かわしいことである。

 更に、読書をせず、安易なイメージ・画像・動画に走り、言葉・概念の持つ、抽象化・本質化・要約化の訓練を怠るようになったのも、心配されることである。

以上。