この世を遊び倒す

結局何かを感じて生きている。不感症はオシマイ。自然と音楽とデジタルの話

出来る事から始める

2012年03月19日 | 写真
意外に簡単にできる太陽光発電。

チャイナパワーで。

日本のメーカーには到底及ばない金額で。

日本で何か物を買う時に、made in chinaはもう避けられない。
また、品質にとらわれず、低価格で買う目的を達成することができるのが
いわゆる中華産である。
日本製に比べ、細部による品質の違いであったり、すぐ不具合を起こすのは中華産ならでは。
でも、その不具合を認めた上で購入し、自ら直せるのであれば「買い」だ。
時に、自分でも直せない!というオチもあるけど。。。

話が中華産にいってしまった。。

原発の問題が社会で取り沙汰されている中で、何か自分で出来ないか考えていた。
また、災害時にどう電力確保するかが課題となっていた。
大震災がまた来る!とメディアは叫んでいるけど、来るにしろ来ないにしろ
現代の依存社会を少しでも脱却しなきゃと思う。
すべてを脱却すると、途端に自給自足の生活になってしまうのでそれは難しい。

出来るところからできないか?

で、

太陽光発電。




中華産の恵みを受け、1万ちょっとで太陽光発電が組める時代になった。
たった15Wの世界だけど。
一昔のトイレなどに使われていた裸電球が大体40W。。
裸電球さえ点ける事が出来ないシステムだが、今はLEDがある。

原発がどうこういうなら、少しだけ自家発電してみませんか。
改めて電気の大切さが理解できると思う。

人間は忘れ行くもの 3.11東日本大震災

2012年03月12日 | 写真
2012.3.11-14.46黙とうを捧げた。
車の中で被災し、難なく免れたあの日から1年。
車の中でつけていたNHKを見れば見るほど、事態の深刻さに気付いていったあの時。
津波に逃げまどう人々が生中継され、涙したあの日。

あの日から1年が経った。

改めて特番が組まれ、ドキュメンタリーが放送され、未だ復興していない現実を伝えるマスコミ。
東京にいると日常の中で埋もれていく記憶に苛立ちを覚えた。
そう思いながらも、仕事をしていると、日常は容赦なく襲いかかり、震災の記憶を薄める。
現実、今日はほとんどのTV番組はもう「日常」である。

東京でも「光」を失った現実をもう、過去のものとしてとらえる傾向にある。
実際に電力が足りていたどうこうは関係なく。。

こうして、光と電力が当たり前にあるのはー?

人は都合よく解釈して、忘れいく動物なんだろう。
一時の痛みがあっても、忘れていく。
だから、生きていける。

でも、忘れちゃいけないだろ!

今回の震災で多くの人々が死に、田舎の人々が危険を冒して原発を支えている現実。
首都圏に住んでいる人間は特にアンテナを張り巡らして感じなければいけないだろ!
自分には関係ない。
これで済まされることが多すぎる社会になりつつあるのだと思う。
これは自分にも言える事。

人ごとではない。
自分の事としてとらえることが大切じゃないか。

大切なものは失って初めて気づくことが多い。
この事も人は忘れてしまうのかな。。。