高天原(たかあまはら)三丁目

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実語教(じつごきょう)

2016-10-15 12:15:54 | 歴史



『実語教』


『実語教』は全部漢字で書かれていますが、国産です。

平安末期から約千年の間に、江戸時代には寺子屋を通じて広く庶民の間に浸透して、江戸中期にはほぼ日本の常識となっていました。

寺子屋は全国に五万校以上が存在したものと推計されています。現在の日本国人口約一億二千万人、小学校の数約22,500校に対し、江戸時代の最大人口が三千万人であるので、江戸時代の寺子屋数の多さが分かるかと思います。

どういうことかというと、誰もが暗誦できた、
暗誦していたということになります。


福沢諭吉翁は明治時代に
『学問のすゝめ』
を書いて、その中で

「実語教に、人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なりとあり。されば賢人と愚人との別は、学ぶと学ばざるとに由て出来るものなり」

と書いていますが、この文の元が実語教です。

実語教は日本人の価値観、道徳観の礎となった
教訓書であります。

実語教は難しい、とっつきにくい感覚が有りますが先に述べたように江戸時代には寺子屋へ通う子供達も理解、認識、暗誦していました。

そこで『実語教』を現代語訳を入れ、そのあとに原文と読み下し文を入れ、その内容を知って頂ければと思います。




【実語教】
 
山は高いから貴(たっと)いのではありません。
樹(き)があればこそ、それが貴い存在となります。

人は、太っているから貴いのではありません。
智があればこそ、それが貴い存在となります。

冨は一生の財産ですが、死んだらそれで終わりです。けれど智は、万代の財(たから)です。

なぜなら命が終わっても、魂に刻まれるからです。

玉(魂)は磨かなければ光りません。光りがなければ、石や瓦(かわら)と同じです。
その智は、学ばなければ得ることができません。
智の無い人を愚人といいます。


倉(くら)の財(たから)は朽ちてしまうことがありますが、心の財は朽ちることがありません。


たとえ千両の金(こがね)を積んでも、一日(いちにち)の学に及びません。


血を分けた兄弟でも、志が何時も同じとは限りませんが、智によって得られる慈悲の心は、天下の人々を兄弟とすることができます。


財物は、永遠のものではありません。
才智を財物とすれば、これは消えることはありません。


宇宙を成すのは地水火風の四大です。
それは日に日に衰えます。
ほっておけば魂(心神)も衰えるものです。
幼いうちから勤学しなければ(老いるほどに衰え)、歳をとってから悔いても遅いのです。


書に親しむことを倦(や)めてはいけません。

学文は、怠ってはなりません。
睡眠時間を削ってでも書を読み、食べる時間を削ってでも、終日(ひめもす)学び習いなさい。


たとえ良い師に出会ったとしても、自ら学ぶという姿勢がなければ徒(いたづら)にご近所さんと交わるのと同じで、無益です。


学問するとは言っても、繰り返し読むのでなければ、それは隣の家の財(たから)を数えるのと同じです。


君子(善人)は智者を愛します。

小人(悪人)は、カネを持つ者を愛します。


たとえ財があり、身分の高い人のに近づいて
カネを得ることがあったとしても、それは霜に花が咲くようなまぼろしにすぎません。


たとえ貧しくて賤(いや)しい家の出であったとしても、智の有る人は、宛(あたか)も泥中の蓮(はす)です。


父母は天地と同じです。

師君は日月(じつげつ)と同じです。

親族は、たとえていえば葦(あし)と同じです。

夫妻は雨露をしのぐ丈夫な瓦と同じです。


父母には朝夕に孝しなさい。

師君には昼夜に仕えなさい。

友と諍(あらそ)ってはなりません。

自分より目上の者には礼節と敬意をつくし、
自分より格下の者は、たいせつに思って常にかえりみなさい。


人として智がないということは、木や石に生まれたことと変わりません。

人として孝がない者は、畜生と同じです。


戒(いまし)めと定(さだ)めと恵(めぐみ)の三学の友と交わらなければ、どうして七学(正しい法・修行・真実・快さ・自由・集中・心)を持てましょう。

慈悲喜捨の四等(しとう)の船に乗らなくて、
誰か生老病死、愛別離苦、怨憎会苦、欲求不満、心身苦しみの八苦の海を渡れましょう。


仏の道は広いけれど、殺生・偸盗・邪淫・妄語・綺語・悪口・両舌・貪欲・瞋恚・愚痴の十悪の人は道にすら入れません。

極楽浄土の都に楽しむといっても、放縦の者は、そこに行くことはできません。


老人を敬うことは、父母を敬うことと同じです。
幼ない者を愛することは、子弟を愛することと同じです。


自分が他人を敬えば、他人もまた自分のことを敬ってくれます。

自分の親を敬えば、人もまたそれぞれの親を敬うようになります。


自分が立身したいなら、まず他人を立てなさい。


他人の愁(うれ)いを見たら、ともに憂いなさい。

他人の嘉(よろこ)びを聞いたなら、ともに悦びなさい。


善を見たら速やかに行き、悪を見たらすぐに避けなさい。

悪を好む者は禍(わざわい)を招きます。

それは、鐘を打てば響くのと同じです。


善を修行すれば、福がやってきます。

それは、自分の影が、自分の身に随うのと同じです。


冨んだとしても、貧しかったことを忘れてはいけません。始めは豊かでも、後には貧しくなることもあるのです。


地位を得ても、地位が低かったときのことを忘れてはなりません。
地位を得ても、それを失うこともあるのです。


芸事を極めることは難しく、しかも手を抜いたらすぐに技量が下がります。書道もまた同じです。


食べものは身を養いますが、その根源には法があります。身体があれば、そこには命があります。


常に百姓の辛苦を思いなさい。

そして必ず学問に努めなさい。


それゆえに初心の学者は、まずはこの実語教を暗誦しなさい。それが学問の始めであり、終身まで忘れてはならないことです。





【実語教】

(山高故不貴) 山高きが故に貴(たつと)からず

(以有樹為貴) 樹(き)有るを以て貴しとす


(人肥故不貴) 人肥へたるが故に貴からず

(以有智為貴) 智有るを以て貴しとす


(富是一生財) 冨は是(これ)一生の財(ざい)

(身滅即共滅) 身滅すれば即ち共に滅す


(智是万代財) 智は是万代の財(たから)

(命終即随行) 命終はれば即ち随つて行く


(玉不磨無光) 玉磨かざれば光無し

(無光為石瓦) 光無きを石瓦(いしかわら)とす


(人不学無智) 人学ばざれば智なし

(無智為愚人) 智無きを愚人とす


(倉内財有朽) 倉の内の財は朽つること有り

(身内才無朽) 身の内の才は朽つること無し


(雖積千両金) 千両の金(こがね)を積むと雖も

(不如一日学) 一日(いちにち)の学には如(し)かず


(兄弟常不合) 兄弟(けいてい)、常に合はず

(慈悲為兄弟) 慈悲を兄弟とす


(財物永不存) 財物、永く存せず

(才智為財物) 才智を財物とす


(四大日々衰) 四大、日々に衰へ、

(心神夜々暗) 心神(しんじん)、夜々(やや)に暗し


(幼時不勤学) 幼(いとけな)き時、勤学せざれば、

(老後雖恨悔) 老ひて後、恨み悔ゆと雖も、

(尚無有所益) 尚(なを)所益(しよゑき)有ること無し


(故読書勿倦) かるが故に書を読んで倦むことなかれ

(学文勿怠時) 学文に怠る時なかれ

(除眠通夜誦) 眠りを除いて通夜(よもすがら)誦(じゆ)せよ

(忍飢終日習) 飢へを忍んで終日(ひめもす)習へ


(雖会師不学) 師に会ふと雖も、学ばざれば、

(徒如向市人) 徒(いたづら)に市人(いちびと)に向ふが如し

(雖習読不復) 習ひ読むと雖も、復せざれば、

(只如計隣財) 只隣の財(たから)を計ふるが如し


(君子愛智者) 君子は智者を愛す

(小人愛福人) 小人は福人を愛す

(雖入冨貴家) 冨貴の家に入ると雖も、

(為無財人者) 財(ざい)無き人の為には、

(猶如霜下花) 猶(なを)霜の下の花の如し


(雖出貧賤門) 貧賤の門を出づると雖も、

(為有智人者) 智有る人の為には、

(宛如泥中蓮) 宛(あたか)も泥中の蓮(はちす)の如し


(父母如天地) 父母は天地の如し

(師君は日月) (じつげつ)の如し

(親族譬如葦) 親族譬(たと)へば葦の如し

(夫妻尚如瓦)夫妻は尚(なを)瓦の如し


(父母孝朝夕) 父母は朝夕に孝せよ

(師君仕昼夜) 師君は昼夜に仕へ、

(交友勿諍事) 友に交はつて諍(あらそ)ふ事なかれ


(己兄尽礼敬) 己(おのれ)より兄には礼敬(れいきやう)を尽くし、

(己弟致愛顧) 己(おのれより)弟(おとゝ)には愛顧を致し

(人而無智者) 人として智無きは、

(不異於木石) 木石に異ならず


(人而無孝者) 人として孝無きは、

(不異於畜生) 畜生に異ならず


(不交三学友) 三学の友に交はらずんば、

(何遊七学林) 何ぞ七学の林に遊ばん

(不乗四等船) 四等(しとう)の船に乗らずんば、

(誰渡八苦海) 誰か八苦の海を渡らん


(八正道雖広) 八正(はつしやう)の道は広しと雖も、

(十悪人不往) 十悪の人は往(ゆ)かず

(無為都雖楽) 無為(むゐ)の都に楽しむと雖も、

(放逸輩不遊) 放逸の輩(ともがら)は遊ばず


(敬老如父母) 老ひたるを敬ふは父母の如し

(愛幼如子弟) 幼(いとけな)きを愛するは子弟の如し


(我敬他人者) 我、他人を敬へば、

(他人亦敬我) 他人亦(また)我を敬ふ

(己敬人親者) 己(おのれ)人の親を敬へば、

(人亦敬己親) 人亦(また)己(おのれ)が親を敬ふ


(欲達己身者) 己(おのれ)が身を達せんと欲せば、

(先令達他人) 先づ他人を達せしめよ

(見他人之愁) 他人の愁ひを見ては、

(即自共可患) 即ち自ら共に患(うれ)ふべし

(聞他人之嘉) 他人の嘉(よろこ)びを聞いては、
(則自共可悦) 則ち自ら共に悦ぶべし


(見善者速行) 善を見ては速やかに行き、

(見悪者忽避) 悪を見ては忽ちに避(さ)け

(好悪者招禍) 悪を好む者は禍(わざはひ)を招く

(譬如響応音) 譬へば響きの音に応ずるが如し


(修善者蒙福) 善を修する者は福を蒙る

(宛如随身影) 宛(あたか)も身の影に随ふが如し

(雖冨勿忘貧) 冨むと雖も貧しきを忘るゝことなかれ


(或始冨終貧) 或ひは始め冨み終はり貧しく

(雖貴勿忘賤) 貴しと雖も賤しきを忘るることなかれ

(或先貴後賤) 或ひは先に貴く終(のち)に賤し


(夫難習易忘) それ習ひ難く忘れ易きは、

(音声之浮才) 音声(おんじょう)の浮才

(又易学難忘) 又学び易く忘れ難きは、

(書筆の博芸) 書筆の博芸(はくげい)


(但有食有法) 但し食有れば法有り

(亦有身有命) 亦(また)身有れば命有り

(猶不忘農業) 猶(なを)農業を忘れざれ


(必莫廃学文) 必ず学文を廃することなかれ

(故末代学者) 故に末代の学者、

(先可按此書) 先づ此書を案ずべし

(是学文之始) 是(これ)学文の始め、

(身終勿忘失)身終はるまで忘失することなかれ





日本人は平安時代から江戸時代において、これを世間の常識として、誰もが心の財(たから)として、暗誦し、また、長じてはその意味を悟っていました。

昔の寺子屋では3〜7歳で実語教を繰り返し読んで暗誦させられたそうです。
なぜならそれくらいの年齢ですと、意味がわからなくても覚えが早いし、記憶したことは一生忘れないからです。


その上で、年齢が上がるにつれて、言葉の意味を学び、まさに智を得、長じてはそれを人生に役立てて行ったわけです。

昔の日本人の民度が高かったわけです。

今現在の教育には日本人としての価値観、道徳観、倫理観に力を入れるべきではないでしょうか。






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