高天原(たかあまはら)三丁目

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大田黒 伴雄(おおたぐろ ともお)

2016-09-24 23:02:32 | 歴史

肥後人で太田黒 伴雄と言う男がいた。

神風連(敬神党)、百七十余名の志士を指揮し、その首領の座にあって一党の乱の首謀者が太田黒伴雄である。


人事に優れ大勢ある一党の指揮を執る資質を有し常に中心に静坐していた。

その人となりは「状貌魁偉、性沈毅にして大志あり」

大柄な体格で、いかなる事にも動じず落ち着いており、立派な人格を備えていたので、宮部鼎蔵や
轟武兵衛ら勤王党先輩たちからも信頼され対等に扱われていた。

また彼は人と接する際、誰に対しても明るく接し、酒の席などでは俗謡を歌い座を盛り上げる等豪快でさばけた一面も持っていた。

太田黒伴雄、幼名を鉄兵衛と言い飯田家の二男として熊本水道町に生まれる。

父・熊次と母・岩尾氏の子として、また長男・勝兵衛、長女・瀧子に囲まれ幼少期を過ごす。

彼が四歳の年、父・熊次が病に罹り早世した。

一家は凋落し、母は三人の子供を連れ実家を頼ってその扶養を受けるようになる。

幼き日の鉄兵衛は腕白で近所の子供達を泣かして周る困った子供だったが生まれつき病弱で薬を絶やさず床にあって書を読みすごしていた。

しかし十四、五歳の頃になるとまるで別人のように穏やかで素直な性質になり、身体もすっかり健康になった。

12歳の時、大野家の養子となり大野鉄兵衛と名乗り藩へ仕えるようになる。

朱子学、そして陽明学を学び、後に林桜園の原道館に入門し、神道を学ぶ事で敬神に心を砕く様になっていった。

時同じく、桜園門人として学んでいた山田十郎、河上彦斎、加屋栄太と、度々道義を交わし親交を深めていくのである。

嘉永黒船来航の時、彼は江戸に在って諸藩有志らと天下の形勢を探り、不平等条約が結ばれたのを知ると、嘆き憤りいよいよ尊攘の志を強くしていく。

当時佐幕傾向にあった肥後藩では勤王を志す者を忌み嫌っておりその禍は身家に及ぶと言われていたので、鉄兵衛はそれが大野家に及ぶのを恐れて廃嫡を決意した。

彼が大野家を継いだ後、家では一子、宗三郎が誕生していたので、それに譲ろうと考える。

この宗三郎は後に太田黒伴雄と共に決起し、最後まで義兄の傍らにあり法華坂にてその介錯を任される大野昇雄である。

文久二年、朝廷から熊本藩へ京都警護の要請が来ると、藩主の弟・長岡護美の随従員として、肥後勤王党から住江甚兵衛、轟武兵衛、宮部鼎蔵、河上彦斎、加屋栄太らが上洛した。





鉄兵衛はこの時江戸に在り参加することが出来ず悶々とした日々を送る。

藩主に従って帰郷する途中、友人を訪ね主君に随行し遅れた罪として、大野家を十四才になった宗三郎に譲り自分は一室に篭り一層敬神に心血注ぐのである。

この後、朝廷はさらに天下に親兵を募り禁裏の守備に当たらせ、肥後藩も住江甚兵衛に命じ精鋭50名を選抜した。

その時、宮部と謀り鉄兵衛もこれに加えようとするが、鉄兵衛は

「私を簡抜いただいた事は誠に光栄であります。しかしながら、これに当たらせたい同志が他に多くおります。どうか一人でもそれらからお選びください。私はお留守を預かり、畏れながら皇室の御為、同志の為尽くします。」

と言い辞する。

宮部らは大いに感激し安心して彼に後事を託すのであった。

元治元年、鉄兵衛は親友の堤松左衛門らによる横井小楠暗殺未遂事件に連座し八ヶ月間の投獄生活を送った。

彼は実姉瀧子から大変可愛がられており、瀧子は投獄中の弟に食物や衣類を差し入れ、また鉄兵衛も瀧子を敬信し、その姉弟愛は他に見ないほどだったという。

廃嫡の身となった鉄兵衛は、この日より新開村にある伊勢大神宮に毎日足を運び断食や火の物を絶つといった修行を行っていた。

当時神官を務めていた太田黒伊勢は子もなく神に祈り跡目を請う。

そんな中、日々熱心に新開へ赴き神前にて祈祷をする鉄兵衛を見出し、これを養子として迎え入れようとする。

はじめは鉄兵衛も固辞していたが、林桜園、斎藤求三郎らの説得によって彼は遂に太田黒家へ入る事を決意する。

明治二年に養子に入り、養父伊勢に代わって新開伊勢神宮の神官となり名も伴雄と改めた。

新開には遠方からも彼の赤誠に敬慕を抱く人々が集い、厄災や病魔の祈祷を依頼する等訪問者は後を絶たなかった。

明治三年、林桜園に従って、江戸へ赴いた伴雄は三条実美、岩倉具視らと会見する。

桜園は後事を伴雄に託すよう岩倉に伝えるが、岩倉は伴雄がなおも尊攘に固執する人物であるとし断る。

要領を得ずままの帰県であった。

同年、ついに長旅の疲労が病を進行させ林桜園はこの世を去る。

桜園は病に倒れてからは新開の太田黒家で療養しており、伴雄は献身的に師の看病に当たっていたという。

やがて維新政府より断髪令、ついで廃刀令が出されると伴雄は怒り憂い、天皇家が永遠に続き、夷荻が国威にひれ伏すよう神に祈り数日にわたって断食を続け、火の物断ちなどを行った。

余りに長く続けた為に顔は青白くやつれ、病人のようだったと言うがその情熱と堅固な意志は変わる事無く、周囲の者たちは奮起し更に彼を敬慕するのであった。

伴雄は住江甚兵衛を訪ねて幾度か挙兵すべきかの同意を求めるが、住江はその勝算を見抜き、年長な人々は分別つくものの、青年らまで勝つ見込みの無い戦に出すのは可哀相ではないかと諌めた。

日々若手同志面々が死なせて欲しいと迫り流石の伴雄もこれらを抑えるのは難しくまた同時に健気なりと涙ながらに訴える事もあったという。

しかし三度目の会談でも同じく同意得られず遂に憤怒し、席を蹴り制止を聞かず去るのであった。

敬神党の志士達は世の中の不義を嘆き挙兵の志を切にし意気投合結託し敵対勢力の動向を探っていた。

しかし、伴雄達、幹部連が挙兵の号令を軽々しく発しないのをみて、飯田、野口、水野等はぐずぐずしていては時期を失ってしまうと、挙兵の期を早めるよう伴雄の下を訪れては迫るのだった。

国内が西欧文化に塗れ変わり行く様を嘆き一党はその憤慨止むところはなかった。

太田黒伴雄を首領として立ち、一党の面々もまた彼に絶対の信頼を持ってその指示命令のままに動き挙兵期日に至っても彼の伺う神慮のままに任せるのである。

その決起の日についても全て神慮をもって決し、幹部参謀は三、四日前にやっと知らせを受け、その他の者においては前日もしくは当日に事を知る事となったが、それでも彼等は首領を信じただ黙々と戦に備えるのであった。

ある晩、愛敬宅に同志が集まり、太田黒伴雄を首将として改めて命を受けようという案が出される。

伴雄はこれに対し

「我々は御神慮によって動く神兵である。神祇を将帥とするのみ」

と言い、同志達は皆感動して奮躍するのであった。

十月十七日、富永を伴って姉の居る橋田家を訪れ、そこで一泊し深夜まで密議を行う。

幹部等を集め、正に最後の参謀会議を開きそこで遂に

「事二十四日に起こせり」

と言った。

伴雄は帰り際、姉・瀧子に向かい

「二十四日に友人八十九人を伴い来るので酒肴の用意をお願いしたい」

と言った。

瀧子はそれを快く受け入れる。

瀧子はその依頼の理由を近隣に住む同志・工藤精吾より密かに聞いていたのだ。

弟の主義精神を十分に解し動じる事無く準備を整えその日の夕刻を待つのだった。

二十二日の晩、養父母や妻に熊本へ暫く出向く事を告げ、新開村の自宅を出る。

二十四日の晩には橋本家へ同志も集まり、伴雄もまた斎藤と共に着く。

瀧子は

「お客はこれだけですか」

と問うと、彼は

「師走も近く忙しい故」

と答え、自身は予め用意を頼んでおいた白木綿を腹に巻き、羽織を着け一刀を腰から下げ、他は袋に入れ手持ちにし、御軍神を背負って出陣の用意を整えた。

瀧子は前もって支度していた酒肴を出し、祝宴の準備を整え振舞った。

伴雄が静かに斎藤らと杯を交わしているところへ姉・瀧子が来て、この度の挙兵の事を問い、万一敗れたらどうなるのかと尋ねる。

伴雄は

「今日の法においては罪はその一人にのみ科せられるので家族にまで影響は無いから安心なさい」

と言った。

瀧子は安堵し、それならば見事働いて来いと激励するのだった。

その後一党は橋田家を出て、愛敬宅へと移動。

愛敬宅には既に同志面々既に居り、その出で立ちは様々だった。

羽織袴に草鞋を履くもの、簡単な具足のみを身に纏うもの。

そして烏帽子直垂を纏いたすき十字に打立てる者。

これら一様に大小帯刀し、または薙刀槍を携えて集まってきたが、その中に銃器を構えている者は一人としていなかった。

その古武士さながらの意気凛然な様は、洋式武器を備えた鎮台兵すらも踏みにじらんばかりの勇ましい姿であった。

愛敬宅で最後門出の祝杯を挙げた後、すぐ傍にある藤崎神宮へ移動。

一党は幾つかの隊に別れ県要人及び鎮台司令を襲う一隊と、鎮台本営を襲う一隊とに分け出撃する。

太田黒伴雄は加屋霽堅や斎藤求三郎等と共に本隊を率い、砲兵営を襲撃。

不意の襲撃に営内は騒然となり日本刀を振るう志士等の前に砲兵営は陥落。

一同神の加護であると初戦の勝利を喜び一度引き上げようとした時、もう一隊が向かった歩兵営から銃声喚声が轟く。

これを聞いた副首領・加屋霽堅は

「速やかに赴き助けよう」

と訴え一同もこれに応じ共に坂を下って営内へ進入する。

志士達は果敢に戦うが、近代兵器の前に次々と斃れ苦戦を強いられる。

やがて、歩兵営の一斉射撃により加屋霽堅が腹に銃弾受け即死すると伴雄は悲憤し自ら先陣へ向かい刀を奮って奮闘するが、そのとき弾丸が頬をかすり、続いて胸を撃ち抜いた。

崩れ落ちた首領を見て同志達は慌て駆け寄る。

吉岡軍四郎が彼を抱き起こして担ぎ、法華坂の民家へと逃れた。

この時、義弟・大野昇雄も義兄の負傷を聞きつけ、また長老上野堅五も傷を負いながら駆けつけた。

伴雄は死を悟ると傍に控えていた吉岡、大野へ向けて

「頬を撃たれた時はまだまだと思ったが、胸をやられては生きた心地がしない。どうか速やかにわが首を打ち御軍神と共に新開へ送ってくれ。」

と命ずる。

一同は

「誰に介錯をさせましょう」

と問うと、

「宗三郎、お前がせよ」

と大野に向かい静かに言い渡すのであった。


時期に営兵も追い迫り、首領が敵の虜となる事を恐れ大野は遂に刀を挙げて泣く泣く義兄の首を打ち落とした。


大田黒 伴雄

享年43歳。

1924年(大正13年)、正五位を贈られた。




大田黒 伴雄

和歌

「おきて祈りふしてぞ思う一筋は 神そ知るらむ我が国のため」

「天照神をいはひて国安く 民おさまれと世を祈るかな」

「かぎりなきめぐみにおのが百年の よはひを捨てて君に報いむ」



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