創価学会の信仰に功徳はあるか?

コメントする人は「01.創価学会の信仰に功徳はあるか?を書く前に」を読んでね。

211.日蓮の過激な言動と創価学会教義とその批判

2007年08月26日 01時39分19秒 | 創価学会
創価学会の信仰に功徳はあるか? 地獄論、罰論、メモ(その1)
『立正安国論』は正しく読みましょう  Libraさんのコメント より。

『立正安国論』は正しく読みましょう (Libra@かじってナンボの商売だ)
2007-08-14 23:10:15
 本題からはズレますが、『立正安国論』を誤読している人がまだおられるようなので、以下を引用しておきます。

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 注目されるのは、これらの法難において、決して日蓮側から暴力をもって攻撃しなかったということである。攻撃を受けたとき、確かに日蓮側も武力をもって防戦したが、日蓮側から仕掛けることはなかった。日蓮の過激な言動を見るとき、これは意外にも見えるが、日蓮は決して暴力主義者ではなかった。確かに本書の第七問答では、殺生をも辞さないという文面が見られるが、その点を問題にした第八問答では、「釈迦以前の仏教では、罪人を斬るけれども、能忍(釈迦)以後の経説では、その人への布施を止める」(二二四)と、釈尊以後の仏教では、悪法に対して布施しない、すなわち、経済面での非協力こそ、悪法廃絶への道であるという信念を明らかにしている。日蓮の過激な言動は、『立正安 国論』の上奏をも含めて、いわば敵側を刺激し、その行動を炙り出すアジテーションという戦略的な役割を果しているのである。

(末木文美士『日蓮入門──現世を撃つ思想』、ちくま新書、2000年、p. 95)
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1.日蓮は鎌倉時代に生きていた。

日蓮は武士が台頭しつつある鎌倉時代に生きていたので殺生が当然の時代だったと考えています。


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当時の常識の一つとして「首をはねよ」といったと考えています。日蓮は公の場で対決を望みましたから、

「私、日蓮が説得(折伏など)しましょう。」

という一面やそのつもりもあったのでしょう。しかし立正安国論においては残念ながら、仏教思想の一面である縁起、無常、無我、その延長としての対話や説得や慈悲(?)という姿勢ではないと思います。

「私のいうことを聞いて他宗の人間を殺せ」

対話、説得、慈悲ではない攻撃的な面です。武士の役割の一つとして考えたのではないでしょうか?

★日蓮に他者批判、他宗排除、「害す、殺す」などの攻撃的な面があったのは間違いないと思います。

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殺生が当然の鎌倉時代の常識があったためかはわかりませんが、涅槃経を引用したのは事実です。当時の常識の一つとして(場合によっては)殺生をも辞さない、という姿勢や考えがあったのでは?と想像します。日蓮は公の場で対決を望みましたから、

「私、日蓮が説得(折伏など)しましょう。」

という一面やそのつもりもあったのでしょう。立正安国論においても仏教思想の一面である縁起、無常、無我、その延長としての対話や説得といえるでしょう。但し、説得の姿勢はかなり強く主張したと思います。 ”殺生が当然でない現代” の創価学会が「のたれ死ぬまで攻め抜け!」と解釈するくらいですから、 ”殺生が当然の鎌倉時代”当時、日蓮の手紙を受け取った人がどの様に解釈したか???、、、残念ながら今の私には不明です。


少なくとも涅槃経の「問答無用で?いきなり殺しても罪になるどころか功徳がある。」という立場、解釈ではなく、日蓮は「いきなり殺すのではなく、まずは布施をしないぐらいなら当然だ」という解釈で良いと思います。


法華経を根拠、理由に政治家兼、武士の役割の一つとして責任ある態度や政治的執行を求めたのではないでしょうか?

地獄論、罰論とあまり関係がありませんが。。。。。

☆日蓮には他経を学びつつ、法華経を最終目的及び、結論として自他共に信仰する必要があると考えたと思います。

☆日蓮は法華経をノンフィクションとした、という意見があるが、涅槃経はノンフィクションとして捉えたのか?

 経文の捉え方には厳しかったが、「その人への布施を止める」ということは「のたれ死ぬ」可能性があるがそのことをどこまで許容したのか?
その人次第だが改心すれば良いが改心しなかった場合、日蓮はどの様に考えたのか?
もしかすると経文には厳しかったが人には優しく、他宗の人であっても慈悲はあったかもしれない。

☆日蓮一生トータルの考え方として「害す、殺す」など、どこまで許容したのか?
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歴史的な順序がよく分かりませんが、日蓮の弟子が殺されたこともあったようですし、日蓮が立正安国論において「首をはねよ」と考え書き顕したの””涅槃経を引用して書き残した事こと””は鎌倉時代の人間としては普通かもしれないが現代では通用しないと思います。

富士門流信徒の掲示板 素朴な疑問 http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1014180269/3318-3332

日蓮の遺文に多数、「害す、殺す」という記述が見られるようですし、私にはとても「真蹟遺文を精査して読めませんが」ここに関しては犀角独歩さんの3321の意見に賛成です。富士門流信徒の掲示板 素朴な疑問http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1014180269/3321



2.創価学会の教義と思想

 明らかに創価学会には仏教教団とは思えない、宗教教団とは思えない、ポア思想があると思います。

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聖教新聞では反逆者、退転者、あるいは悪人として扱われ、
「青年よ、仏敵を打ち砕け。学会迫害の悪人は厳罰でのたれ死ぬまで攻め抜け」
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私のブログ上で「のたれ死ぬまで」で検索してみてざっと読んでみて下さい。
厳罰、仏罰、こうした言葉が聖教新聞紙上に掲載されていることからしても創価学会員(日蓮系宗教全般??)は
まじない信仰のような何らかの力かあるいは本尊、あるいは祈り、あるいは行動のどれかによって、厳罰、仏罰、がある。「攻め抜け」という「学会員が敵対者に対して罰を加えるか与える」という立場だと思います。

日蓮の”良き”思想が悪用か誤解されていると思います。
(良き思想というのは日蓮にも良い面も悪い面もあり、正しい思想もあり間違っている思想もあるということです。)

★創価学会にも他者批判、他宗排除(敵対者が死ぬように祈る)などの攻撃的な面があるのは間違いないと思います。

「私、池田大作のいうことを聞いて敵対する人間を○○○○」対話、説得、慈悲ではない攻撃的な面です。池田氏の死後、こうした姿勢が変わって良くなれば池田教、池田独裁だった証拠ですし、変わらなければ学会本部自体がカルト集団ということでしょう。

3.いわゆるアンチ創価と呼ばれる人々の注意、警鐘、警告、アドバイス

 チョンガーさん、freeさんの記事は 「北条時頼が日蓮の立正安国論をどの様に考えたか?」 というのを時頼や現代人の立場から”考察”していると思います。
また、現代人の意見、考察として下記のような「世界大戦と日蓮主義」という考察もあります。
創価学会の彼女との関係:世界大戦と日蓮主義 - livedoor Blog(ブログ)
日蓮の思想がどのように悪用、誤解されているかは具体的には論じませんが、結論としてだけでも上記2の創価の教義と思想、そして過去の歴史的経緯もあります。

★いわゆるアンチ創価と呼ばれる人々としては「”現代の”創価学会が持つ日蓮的カルト思想の危険性」(日蓮仏法の危険性ではない)を一般人、及び学会員の関係者に訴えることは当然のことでしょう。

(学会員や正宗の人間に何処まで通用するかは全く不透明です。1人もいないわけではないでしょう。)

4.補足:2の原因

創価学会の彼女との関係:世界大戦と日蓮主義 - livedoor Blog(ブログ)
ちょうどここにもcanary_windさんの見解が書かれていますが、【日蓮正宗、及び創価学会に特有】の【日蓮本仏論】の危険性が書かれています。
私も同意見であり、さらに私としては、【日蓮正宗、及び創価学会に特有】ともいえる【日寛教学や大御本尊、日蓮の真筆とは認められない遺文】を持ち出していることにも疑問を感じています。その結果としてポア思想、や「日蓮大聖人に帰依しなければ日本は滅びる」という本を出版しています。

canary_windさんとも過去話し合い意見の一致を見たのですが、★何らかを「絶対である」という思想は危険であると思います。

日蓮にしろ法華経にしろ、御本尊にしろ、創価学会にしろ、池田氏を永遠の指導者とすることにしろ、何らかを「絶対である」という思想は危険であり、また、無常、無我、縁起、空の思想からはむしろ「遠い思想」ではないでしょうか?

無常、無我、縁起、空の思想から”絶対ではない”自分の師匠や自分、組織や本尊だと思えます。
日々に様々な事が”起”こりますが、Libraさんから様々に沢山教えて頂いたおかげか、日常に”絶対ではない”事や無常や縁起らしきモノ?を感じるようになってきました。無我なんて全く実感できませんが。。。。

5.Libraさんのご意見

 学者さんの意見として理想的だと思いますが、日蓮の遺文に多数、「害す、殺す」という記述が見られますし、末木文美士さんの書籍を読んでいないので他の日蓮の遺文への見解がわかりません。少なくともLibraさんの引用した末木文美士さんの意見箇所にだけは賛成できそうにありません。申し訳ありません。

 これからの日蓮仏法、法華経教団としては人間日蓮として、また法華経の行者(の先輩)として尊敬し、捉えていくことが大事だと思います。
末木文美士さんの意見はこれからの日蓮仏法の現代的思想、及びこれからの ””日蓮や法華経に限らない”” 仏教全体の思想の再構築としても賛成できる所です。

'07.09.08 20:03 緑文字追記
'07.09.08 修正
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事実のねじまげは許されない (Libra)
2007-08-26 14:03:29
1.立正安国論は「首をはねよ」などとは主張していません
 「日蓮が立正安国論において『首をはねよ』と”考え書き顕した」というそううそさんの解釈は誤読だとおもいます。
 「末木文美士さんのの〔ママ〕意見箇所にだけは賛成できそうにありません」とのことですが、べつに「末木文美士さんの書籍を読」むまでもなく、立正安国論の第八問答の当該部分を素直に読みさえすれば、上のような解釈がたんなる誤読にすぎないことは明らかでしょう。これは、【思想解釈の問題ではなく、文章の読解(国語)の問題】です。以下に当該部分を引用しておきます。

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夫れ釈迦の以前仏教は其の罪を斬ると雖も能忍の以後経説は則ち其の施を止む、然れば則ち四海万邦一切の四衆其の悪に施さず皆此の善に帰せば何なる難か並び起り何なる災か競い来らん。

(「立正安国論」、全集、p. 30)
───────────────

 この部分は、末木先生のように「釈迦以前の仏教では、罪人を斬るけれども、能忍(釈迦)以後の経説では、その人への布施を止める」と読むほかはないでしょう。もしその読みに賛成されないのだとすると、いったいどのように読まれるというのでしょうか。


2.日蓮の遺文に多数、「害す、殺す」という記述が見られる???
 具体的に遺文を指摘して頂かないと全く議論になりません。【釈迦以後でも、仏教では、謗法を禁断するための殺害を説いている】というような主張が、日蓮の遺文に多数あるというのでしょうか。そのような説を主張されるなら、具体的に遺文を引用して説明されるべきでしょう。

 さて、この「害す、殺す」という問題でよく話題にあがるのは、以下の「撰時抄」の文章です。

───────────────
去し文永八年九月十二日申の時に平左衛門尉に向つて云く日蓮は日本国の棟梁なり予を失なうは日本国の柱橦を倒すなり、只今に自界反逆難とてどしうちして他国侵逼難とて此の国の人人・他国に打ち殺さるのみならず多くいけどりにせらるべし、建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等が寺塔をばやきはらいて彼等が頸をゆひのはまにて切らずば日本国必ずほろぶべしと申し候了ぬ

(「撰時抄」、全集、p. 287)
───────────────

 たしかに、「彼等が頸をゆひのはまにて切らずば日本国必ずほろぶべし」という発言だけを見れば過激です。しかしながら、この発言は、【頸をきられようとしている者の発言】であることをふまえて読まれるべきでしょう。以下に引用する山中さんの解釈がすぐれているとわたしはおもいます。

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 たしかにこの文だけ読むならば過激な文である。しかし、これがどういう時に誰に向かって言った言葉なのかを考えるべきであろう。「文永八年九月十二日申の時に、平左衛門尉に向つて」とあるように、日蓮を処刑するために来た平頼綱の軍勢の刃の下から、平頼綱に向かって叫んだ言葉である。
 逆なのである。常に刃とテロにさらされていたのは日蓮たちであった。刃を突きつけた人ではなく、またそれを画策した良観たちではなく、テロに遭っている人が、刃の下から叫んだ言葉でもって、その人をテロリスト呼ばわりするのは、どのように考えても理不尽であろう。
 日蓮学者たちは、自己の客観的立場にこだわるあまり、先の「行敏訴状御会通」の言葉を無視している。そこで日蓮は次のように述べている。
「但し良観上人等弘通する所の法、日蓮が難脱れ難きの間、既に露顕せしむべきか。故に彼の邪義を隠さんが為に、諸国の守護・地頭・雑人等を相い語らいて言く『日蓮並に弟子等は、阿弥陀仏を火に入れ水に流す、汝等が大怨敵なり』と云云。『頸を切れ、所領を追い出せ』等と勧進するが故に、日蓮の身に疵を被り、弟子等を殺害に及ぶこと数百人なり。此れ偏えに良観・念阿・道阿等の上人の大妄語より出たり。心有らん人人は驚くべし、怖るべし云云」(御書一八二頁)。「頸を切れ」とテロを主張し、実行していたのは良観たちではなかったのであろうか。

(山中講一郎『日蓮自伝考──人、そしてこころざし』、水声社、2006年、p. 100)
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 前述のとおり、立正安国論では「首をはねよ」などとは主張されていません。そして、日蓮の最後の説法は、立正安国論の講義でした。この問題についての日蓮の公式見解は、立正安国論で示された「悪法に対して布施しない、すなわち、経済面での非協力こそ、悪法廃絶への道である」(末木先生)ということに尽きるとおもいます。ここに関しては、「真蹟遺文を精査して読」まれている山中さんの意見にわたしは賛成します。

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 日蓮の説は「其の施を止む」に尽きるのである。ところが、「初期には立正安国論のような立場であったが、後には変化して殺すべきと主張するようになった」などと言う学者もいる。しかし、日蓮は、平頼綱に向かって「念仏者等の頸を由比ヶ浜にて切れ」と言い放った同じ日に、平左衛門尉に対して「立正安国論」を進呈[12]している。佐渡よりの帰還後、幕府で三度目の諫暁をした時も非常に厳しいことを言っているが、その後の建治の広本と言われる「立正安国論広本」では、若干の書き換えが見られるが、「其の施を止む」(昭和定本一四七四頁)という文言、立場は一貫して変わっていない。また日蓮の最後の説法は池上での「立正安国論」講義であった。日蓮の姿勢は「立正安国論」で終始している。

(山中講一郎『日蓮自伝考──人、そしてこころざし』、水声社、2006年、p. 109)
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───────────────
(12) 「立正安国論」を進呈……平頼綱宛の「一昨日御書」に「御存知の為に立正安国論一巻之を進覧す」(御書一八三頁)とある。

(同上、p. 113)
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3.日蓮の他者批判は仏教徒として当然の姿勢
 「日蓮に他者批判」の「攻撃的な面」があったというのは間違いないとわたしも思いますし、その部分については、むしろ、弟子として見習いたいとわたしはおもっています(以下の資料を参照)。

  真の知性人とは(伊藤瑞叡)
  http://fallibilism.web.fc2.com/005.html

 もっとも、前述したとおり、日蓮の思想は「害す、殺す」などというものでは全くありませんから、「攻撃的な面」といっても、あくまでも討論のレベルです。【討論のレベルでの攻撃性】というのは、【初期仏教から一貫する、仏教徒として当然の姿勢】だとおもいます。たとえば、『ダンマパダ』では以下のように説かれています。

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七七 (他人を)訓戒せよ、教えさとせ。宜しくないことから(他人を)遠ざけよ。そうすれば、その人は善人に愛され、悪人からは疎まれる。

(中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』〔岩波文庫〕、岩波書店、1978年、p. 21)
───────────────

 しかし、このようなことは、すでに他のところでもさんざん議論したことがありますので、これ以上はくりかえしません。前々回のコメントでも引用しておいた以下の拙文を参照されてください。

  日蓮考察
  http://fallibilism.web.fc2.com/bbslog3_004.html


4.創価学会の教義と思想
 「日蓮の”良き”思想が悪用か誤解されている」という点については、おっしゃるとおりでしょう。しかし、わたしが今問題にしているのはそんなことでは全くありません。わたしが申し上げているのは、【誤解している人(創価学会)の解釈にもとづいて、オリジナル(日蓮)を評価するのは誤っている】ということです。このことも他のところですでに述べていますので、これ以上はくりかえしません。前々回のコメントでも引用しておいた以下の拙文を参照されてください。

  法華経について、No. 74~
  http://fallibilism.web.fc2.com/bbslog3_002.html


5.いわゆるアンチ創価と呼ばれる人々の件
 わたしも、「いわゆるアンチ創価と呼ばれる人々としては『”現代の”創価学会が持つ日蓮〔誤解〕的カルト思想の危険性』(日蓮仏法の危険性ではない)を一般人、及び学会員の関係者に訴えることは当然のこと」だろうと思います。しかし、わたしが今問題にしているのはそんなことでは全くありません。わたしが申し上げているのは、【事実のねじまげは許されない】ということです。

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 【創価学会を批判するためであれば、たとえ事実をねじまげても許される】というような考えは、明らかに誤っているでしょう。

 「創価学会に疑問を感じる私としては、”日蓮の過激な言動を見るとき”どうしても、悪い方の解釈をブログに書かざるを得ません」とのことですが、日蓮遺文の解釈として許容されうる範囲の中で、最も悪意に解釈するというのであれば、「創価学会に疑問を感じる」者の解釈の態度としてはごく自然な態度だろうとおもいます。しかし、文章の読解として許容される限度をこえてまで、悪意に解釈することは許されないでしょう。そんなのは【事実のねじまげ】です。

(「 地獄論、罰論、メモ(その1)」のコメント欄、2007-08-18 12:48:47、http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/1bcb282c40eb61349ba73d71e27046c0
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6.わたしは可謬主義者です
 わたしは可謬主義者ですから、「何らかを『絶対である』という思想は危険」というお考えにはもちろん賛成です。わたしも日蓮を「絶対である」とは考えていません。このことは、以下の拙文からも明らかでしょう。

  日蓮の罰論の問題点
  http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-13.html
Unknown (みれい)
2007-08-27 01:03:20
こんにちは。

能忍の名前が出ていますが、

>能忍(釈迦)

というのが私にはその文章だけでは違和感があるので、日蓮との時代関係を少し加えてみたいと思います。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%88%BF%E8%83%BD%E5%BF%8D
http://mirei2007.blog88.fc2.com/blog-entry-45.html

・【日蓮】(当時19歳) 仁治元年(1240年)に比叡山へ遊学。また高野山でも勉学に勤しむ。その際妙法蓮華経(法華経)こそが釈迦の本懐であるとの結論に至った。(中略)南無妙法蓮華経」と唱えることを第一として弘教をはじめる。

の頃に

・【懐奘】(当時45歳) 仁治2年(1241年)、
道元との法戦により、懐奘と共に日本達磨宗の僧数十人が道元門下に改宗する。

とあるので、この時代に日本達磨宗が終了したと思われます。
その20年後に日蓮は立正安国論執筆のようですが、日蓮は能忍(あるいは栄西も?)は知っていても、道元、懐奘は当時知らなかったと思われます。まだ僧堂生活のみで宗派として成り立っていません。

また、確かに能忍、栄西以前の釈迦仏教には殺し合いがあったようですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%83%A7%E5%85%B5
あの弁慶もそういえばナギナタ持ってますね。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

さて図書館でやっとこ法華3部経訓読を見つけたので、「日蓮考察」でご紹介のLibraさんのアドバイスで「勧持品を掘り下げる」ためにちょっとずつ読んでいます。
(他も調べながらなので時間はかかっています)
現在気になっているのはこの勧持品に加えて安楽行品、常不軽菩薩品。
加えて別の用事で観世音菩薩普門品(日蓮の言う自力とこの品について)

>『開目鈔』に言う、
無智悪人の、国土に充満の時は摂受を前とす、安楽行品のごとし。
邪知妨法の者、多時は折伏を前とす。常不軽品のごとし。

とあるので、
私はもっと常不軽菩薩品も掘り下げていってもいいと思います。
常不軽菩薩となると、理性的というばかりではなく、相手に対する礼拝と敬いの念あるいは慈しみと寛容など、どちらかといえば頭脳でなくハートに関わってくると思います。そこがもしかしたら手薄なのではと思いました。

特に「理性的」(理性的批判)ではなく「感情的」(感情的非難)になっているとき、そこに相手に対する礼拝の精神はあるか、それはどういったものなのか、問うて見る必要があるのではと思いました。
理性的批判に関してはLibraさんのご意見に賛同しています。そして必ずしも理性的であるばかりではなく(相手は学者ばかりではないので)、感情をもってしても心がけにおいて日蓮の折伏が可能なのではないでしょうか。

個人的には曹洞宗のご僧侶の調べたところの日蓮折伏の解釈、
加えて先日お話させていただいた日蓮宗のご僧侶の折伏の話で共通性を感じまして(いずれも法華経を取り扱う宗派ではあります)、どちらも常不軽菩薩品と折伏の心についてお話いただいてこれまた賛同するところが多々ありました。さらに自分でもまだ読み進めなければなりません。

>七七 (他人を)訓戒せよ、教えさとせ。宜しくないことから(他人を)遠ざけよ。そうすれば、その人は善人に愛され、悪人からは疎まれる。

疎まれるとしたら、理由は当然ながらいくつかあると思います。
これが「自分が疎まれる」→「(自分が正しいのであって)相手が悪人だから私を疎んでいる」という直結が先に成り立ち、
「その理由はなにか」をいくつも洞察するということがなかなかなされていないことがあるように思います。
正直これは普通でもとても難しいことだと思いますし、さらに思考停止も考えられる部分です。

また、ひょっとしたら「相手が悪人だからその相手を疎んでいいのだ」ということにもなっていないかちょっと心配になってきました。

「いがみあいより、おがみあい」の相互批判の折伏は、法華経(日蓮)信者とその周囲の間に溝を作らないと思いました。
「能忍」とは釈迦のことです (Libra)
2007-08-27 19:07:07
 みれいさん、こんばんは。コメントありがとうございました。


1.「能忍」とは釈迦のことです

 「善無畏三蔵抄」に「釈迦如来の御名をば能忍と名けて」(全集、p. 885)とありますように、日蓮がいうところの「能忍」というのは、インドに生まれた釈迦のことです。


2.クールロジックとアイアンウィル
 クールロジックはアイアンウィルにささえられるものでしょう。クールロジックはアイアンウィルと全く矛盾しません。日蓮の折伏(クールロジック)はアイアンウィル(慈悲)にもとづいているとおもいます(以下の拙文を参照)。

  折伏は慈悲が根本(Libra)
  http://fallibilism.web.fc2.com/z004.html


3.日蓮は常不軽菩薩品を重視しています
 日蓮は「法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり」といっています。

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日蓮は『崇峻天皇御書』で、「一代の肝心は法華経、法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり。不軽菩薩の人を敬ひしはいかなる事ぞ。教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」と述べ、『教行証御書』で、「彼(不軽菩薩)は像法、此(日蓮)は濁悪の末法。彼は初随喜の行者、此は名字の凡夫。彼は二十四字の下種、此は唯五字也。得道の時節異りと雖も、成仏の所詮は全体是れ同じかるべし」と述べ、常不軽菩薩の語りかけた二十四文字(「我深敬汝等。不敢軽慢。所以者何。汝等皆行菩薩道、当得作仏」)と「妙法蓮華経」の五字とを類比対照させたが、これは常不軽菩薩の授記の実践こそが『法華経』の核心であることを洞察したからではないか。

(菅野博史『法華経入門』〔岩波新書(新赤版)748〕、岩波書店、2001年、p. 130)
───────────────


4.『ダンマパダ』第76詩
 『ダンマパダ』第77詩についてのみれいさんのご心配は無用ではないでしょうか。第77詩の直前には以下のような詩があります。

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七六 (おのが)罪過を指摘し過ちを告げてくれる聡明な人に会ったならば、その賢い人につき従え。──隠してある財宝のありかを告げてくれる人につき従うように。そのような人につき従うならば、善いことがあり、悪いことは無い。

(中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』〔岩波文庫〕、岩波書店、1978年、p. 21)
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 他人を批判するということは、自分も批判されるということです。そうやって、お互いを高めあっていくことができるわけです。

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誰かを批判するということは、その批判対象から反批判をうけるということでもあります。
ですから、批判〔の目的は、批判対象をよりよきものにすることにある〕のと同時に、反批判により自分自身をよりよきものにすることにもあるのです。
われわれは相互批判によってお互いを高めあっていくことができるのです。

(みれいさんの記事「日蓮と批判精神2」の中で引用して頂いた拙文、http://blog.goo.ne.jp/mirei-2005/e/01199c7a03c95081f92aaf8198f36e25
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 釈尊は「善き友をもち、善き仲間のなかにあるということが、この道のすべてである」といっていますが(以下の資料を参照)、そうやって、お互いを高めあっていくことが「この道のすべて」なのではないでしょうか。

  「われを善き友として」(増谷文雄)
  http://fallibilism.web.fc2.com/012.html
持つべきはサンガ (みれい)
2007-08-27 20:04:13
>Libraさん

>1.「能忍」とは釈迦のことです

これは面白いと思いましたが、同時に紛らわしいですね。
なぜ能忍と呼ぶに至ったのか、謎です。
しかも戦国時代ともわりとあてはまったりします。

>2.クールロジックとアイアンウィル
> 折伏は慈悲が根本(Libra)

Libraさんの慈悲についての見解はとても賛同する所におりますが、
もう少し批判精神と絡めて取り扱ってみたい部分です。
これはまたのちほど。

>3.日蓮は常不軽菩薩品を重視しています
 日蓮は「法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり」といっています。

この言葉で個人的にはすべて解決です。安心しました。
あとは各々の実践となりますね。
だとしても不軽品も目を通しておこうと思っています。

開目抄をとりあげてみて、「常不軽菩薩のごとし」が真蹟ではないとのツッコミが先に入るかと思いましたが、その前にこちらの意図を汲み取ってくださったことに感謝します。

>4.『ダンマパダ』第76詩
 『ダンマパダ』第77詩についてのみれいさんのご心配は無用ではないでしょうか。

ありがとうございます。
もともと八正道の中にいる人にとっては問題のないものと思います。

>釈尊は「善き友をもち、善き仲間のなかにあるということが、この道のすべてである」といっていますが(以下の資料を参照)、そうやって、お互いを高めあっていくことが「この道のすべて」なのではないでしょうか。

おっしゃるとおり。

またいずれこの話でもう少し煮詰めていくと、ひとつ記事が出来そうです。
そのときはまたLibraさん、よろしくです。

合掌。
「能忍」まめ知識など (Libra)
2007-08-28 00:36:33
 みれいさん、こんばんは。ご丁寧なレス、感謝いたします。

1.「能忍」まめ知識
 「能忍」という語については、goo辞書にも、「釈迦のこと」と出ています。日蓮の「四恩抄」には、「此の世界をば娑婆と名く娑婆と申すは忍と申す事なり・故に仏をば能忍と名けたてまつる」(全集、p. 935)とありますが、「裟婆」という語は、「忍耐」を意味するサンスクリット語「サハー(sahA)」の音写です。


2.「常不軽菩薩品」まめ知識
 わが創価学会が世界に誇る研究者・菅野博史先生は、以下のようにいわれています。

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私はこれまで『法華経』を読み、研究してきたが、『法華経』の思想を一言で表わせと求められたならば、どのように答えたらよいであろうか。この問いを前にして、私は『法華経』に登場するある不思議な人物を思い出さざるをえない。彼は、自分の出会う人すべてに「私は深くあなたたちを尊敬する。軽んじあなどろうとはしません。なぜならば、あなたたちはみな菩薩の修行を実践して、成仏することができるであろうからです」と語りかける。つまり、彼はすべての人を未来の仏として尊敬するという実践をしたのであった。ところが、周囲の人々は彼にきわめて冷淡であり、そればかりか石をぶつけたり、杖で打ち据えたりする。それにもかかわらず、彼はこの実践行を一生貫いたのである。この人物は常不軽菩薩という名の菩薩である。宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の詩に出る「デクノボー」は、この常不軽菩薩をモデルにしたとされ、宮沢賢治自身が彼のように生きたいと痛切に祈った人物である。
 この、あらゆる人々を未来の仏として尊敬するという、きわめてシンプルではあるけれども混迷する現代の諸問題を解決に導くための基本的な視点、人としての振舞いの原点を指し示した思想と実践が『法華経』の真実の核心であると思う。

(菅野博史『法華経入門』〔岩波新書(新赤版)748〕、2001年、iii~iv)
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3.日蓮のクールロジックとアイアンウィル
 【日蓮のクールロジック(折伏)はアイアンウィル(慈悲)にもとづく】ということは、「報恩抄」をお読みになるとよくわかるとおもいます。以下に、「報恩抄」(および藤井学先生の現代語訳)を引用しておきますので、参考にしてみてください。
「報恩抄」の引用 (Libra)
2007-08-28 00:38:20
【1】
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いかにいわうや仏教をならはん者父母・師匠・国恩をわするべしや、此の大恩をほうぜんには必ず仏法をならひきはめ智者とならで叶うべきか、〔中略〕仏法を習い極めんとをもはばいとまあらずば叶うべからずいとまあらんとをもはば父母・師匠・国主等に随いては叶うべからず是非につけて出離の道をわきまへざらんほどは父母・師匠・等の心に随うべからず

(「報恩抄」、全集、p. 293)
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【2】
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 かくのごとく存して父母師匠等に随わずして仏法をうかがひし程に

(同上、p. 293)
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【3】
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我等凡夫はいづれの師師なりとも信ずるならば不足あるべからず仰いでこそ信ずべけれども日蓮が愚案はれがたし

(同上、p. 294)
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【4】
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十宗七宗まで各各・諍論して随はず国に七人・十人の大王ありて万民をだやかならじいかんがせんと疑うところに一の願を立つ我れ八宗十宗に随はじ天台大師の専ら経文を師として一代の勝劣をかんがへしがごとく一切経を開きみるに涅槃経と申す経に云く「法に依つて人に依らざれ」等云云依法と申すは一切経・不依人と申すは仏を除き奉りて外の普賢菩薩・文殊師利菩薩乃至上にあぐるところの諸の人師なり

(同上、p. 294)
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【5】
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 されば専ら論師人師をすてて経文に依るならば大日経・華厳経等に法華経の勝れ給えることは日輪の青天に出現せる時眼あきらかなる者の天地を見るがごとく高下宛然なり

(同上、p. 295)
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【6】
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日蓮此れを知りながら人人を恐れて申さずは寧喪身命・不匿教者の仏陀の諌暁を用いぬ者となりぬ、いかんがせん・いはんとすれば世間をそろし止とすれば仏の諌暁のがれがたし進退此に谷り

(同上、p. 297)
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【7】
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古の人人も不可思議の徳ありしかども仏法の邪正は其にはよらず、外道が或は恒河を耳に十二年留め或は大海をすひほし或は日月を手ににぎり或は釈子を牛羊となしなんど・せしかども・いよいよ大慢を・をこして生死の業とこそなりしか、此れをば天台云く「名利を邀め見愛を増す」とこそ釈せられて候へ、光宅が忽に雨を下し須臾に花をさかせしをも妙楽は「感応此の如くなれども猶理に称わず」とこそかかれて候へ、されば天台大師の法華経をよみて「須臾に甘雨を下せ」伝教大師の三日が内に甘露の雨をふらしておはせしも其をもつて仏意に叶うとは・をほせられず、弘法大師いかなる徳ましますとも法華経を戯論の法と定め釈迦仏を無明の辺域とかかせ給へる御ふでは智慧かしこからん人は用ゆべからず

(同上、p. 319)
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【8】
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法華経には「我身命を愛せず、但無上道を惜しむ」ととかれ涅槃経には「寧身命を喪うとも教を匿さざれ」といさめ給えり、今度命をおしむならば・いつの世にか仏になるべき、又何なる世にか父母・師匠をも・すくひ奉るべきと・ひとへに・をもひ切りて申し始めしかば案にたがはず或は所をおひ或はのり或はうたれ或は疵を・かうふるほどに去ぬる弘長元年辛酉五月十二日に御勘気を・かうふりて伊豆の国伊東にながされぬ、又同じき弘長三年癸亥二月二十二日にゆりぬ。
 其の後弥菩提心強盛にして申せば・いよいよ大難かさなる事・大風に大波の起るがごとし、〔中略〕日本六十六箇国・嶋二の中に一日・片時も何れの所に・すむべきやうもなし、古は二百五十戒を持ちて忍辱なる事・羅云のごとくなる持戒の聖人も富楼那のごとくなる智者も日蓮に値いぬれば悪口をはく・正直にして魏徴・忠仁公のごとくなる賢者等も日蓮を見ては理をまげて非とをこなう、いわうや世間の常の人人は犬のさるをみたるがごとく猟師が鹿を・こめたるににたり

(同上、pp. 321-322)
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【9】
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日本国の中に一人として故こそ・あるらめと・いう人なし道理なり、人ごとに念仏を申す人に向うごとに念仏は無間に堕つるというゆへに、人ごとに真言を尊む真言は国をほろぼす悪法という、国主は禅宗を尊む日蓮は天魔の所為というゆへに我と招ける・わざわひなれば人の・のるをも・とがめず・とがむとても一人ならず、打つをも・いたまず本より存ぜしがゆへに

(同上、p. 322)
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「報恩抄」(現代語訳)の引用 (Libra)
2007-08-28 00:39:27
【1】
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ましていわんや、仏教を学ぶ者が父母の恩、師匠の恩、国の恩を決して忘れてはいけないのである。
 これら三つの大恩に報いるためには、仏法を学び究めて智者となるほかには方法はない。〔中略〕
 仏法を学び究めようとするならば、〔修行の〕時間がなければできない。〔修行の〕時間を得ようとするならば、父母・師匠・国主らの心にいつも随っていてはいけない。出離の道をどうしても理解しようとするならば、ときには父母や師匠らの心に背を向けねばならないこともあるのである。

(藤井学訳『大乗仏典 中国・日本篇 第24巻 日蓮』、中央公論社、1993年、p. 171)
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【2】
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 私はこのように固い決心をして、父母や師匠等の心にもときには背く覚悟で仏法を究める道に入った。

(同上、p. 172)
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【3】
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 我ら凡人は、〔先に挙げた諸師であれば〕、どの師であろうと信じさえすれば不満はなく、仰ぎ尊べば信ずることができようが、日蓮だけは、それではかねがねいだいている疑問は容易にはとけない。

(同上、p. 173)
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【4】
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〔現実には仏教は〕十宗も七宗もあって、互いに自宗が第一だと言い争っていては、国に七人も十人もの大王がいて争っているようなもので、万民は穏やかな生活ができない。そこで、私はどうしたらよいものかと考え、一つの願を立てたのである。
 私は、既存の八宗十宗の宗派が説くところには随わない。天台大師智■〔豈+頁〕がひたぶるに経文を師として、一代聖教の勝劣を考えられたように、釈尊の本意が奈辺にあるのか、一切経を開きみることにしたのである。
 すると、『涅槃経』というお経に、「法に依って、人に依らざれ」という文言がある。依法というのは一切経のこと、不依人とは、仏を除いた普賢・文殊などの菩薩や先に挙げたいろいろの人師たちのことである。

(同上、pp. 173-174)
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【5】
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 よって、インドの論師や漢土の人師の説くところを捨てて、直接経文に立ち返って一切経の心をたずねると、『法華経』が『大日経』や『華厳経』等に勝れていることは、ちょうど太陽が青天に輝きわたったとき、天地の上下がはっきりと見えるように明白なことである。

(同上、p. 175)
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【6】
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 日蓮がこのことを知りながら、〔華厳や真言の〕大師を恐れてなにもいわないならば、「むしろ身命を失っても真実の仏教を匿すことをするな」という仏陀が説かれた諌暁の教えに背く者となる。どうすればよいのだろう。真実の教えをいおうとすると、世間の迫害が恐ろしく、口をとざせば仏の諌暁の教えに背くこととなる。どうすればよいか、私は途方にくれる。

(同上、p. 180)
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【7】
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昔の人びとにも不可思議な徳があったが、仏法の邪正をその徳によって決めることはなかった。〔『涅槃経』によると〕、外道の〔阿竭蛇仙は〕ガンジス川の水を耳に十二年留め、〔耆兔仙人は〕大海の水を飲みほし〔て大地を乾かし〕、〔世智外道は〕日月を手に握り、〔瞿曇仙人は〕釈迦一族を牛や羊にしたという。〔だが、かれらはこの不可思議な徳によって〕かえって慢心を起こして生死の業にとらわれることになったという。このことを、天台大師は、〔その著『法華玄義』で〕「世俗の名声と利益を求めると、見愛の煩悩を増す」と解釈された。また、光宅法師はたちまちに雨を降らしたり、瞬時にして花を咲かせることができたが、妙楽大師は、〔その著『法華玄義釈籖』で〕「このような神仏の感応〔による不思議〕は〔『法華経』の〕説く道理にはかなってはいない」と書いておられる。
 したがって、天台大師も『法華経』を読んで瞬時のうちに雨を降らせ、また伝教大師も〔祈雨の祈■[示+壽]で〕三日のうちに雨を降らせたが、この奇瑞をもって仏意にかなったと仰せられたことはない。
 弘法大師にいかなる徳があろうとも、『法華経』を無益な戯論の法と定め、釈迦仏を煩悩にしばられた無明の辺域におられる仏だと書かれているのだから、智慧のある人は用いるべきではない。

(同上、pp. 224-225)
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【8】
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『法華経』〔の観持品〕では、「自分の身と命を愛さないで、ただ無上道を惜しむ」と説かれ、また『涅槃経』〔の如来性品〕では、「むしろ身や命を失っても教えを匿すな」と諌められている。
 今まさに命を惜しんで〔真実をいわねば〕、いつの世に仏に成ることができるだろうか。また、いつの世に父母や師匠を〔悪業の世界から〕救うことができるだろうかと思い定めて、真実のことをいい始めたところ、案の定、この日蓮はあるいは住庵を追われ、あるいは罵られ、あるいは杖で打たれ、あるいは刀で疵つけられ、そして弘長元年(一二六一)辛酉五月十二日、〔鎌倉幕府の〕咎を受けて伊豆国の伊東に流されたのである。
 そして同弘長三年(一二六三)癸亥二月二十二日に赦免された。だが、日蓮はその後も仏道を求める菩提心はいっそう強く、〔謗法を責め、真実の仏法を〕申したので、大きな法難がつぎつぎと起こること、さながら大風によって大波が起こるようなものだった。〔中略〕
 こうして、日蓮は日本全国、六十六箇国と島二つの中では、一日片時も住むことができないような有様である。二百五十戒を守って迫害を耐えしのんだ羅云のような昔の聖人も、富楼那のような智者も、日蓮にあえば悪口を吐く。魏徴のような正直な人、忠仁公のような賢者等も、日蓮をみると道理をまげて非を行う。まして、世間の普通の人びとは、犬が猿をみたときのように、また猟師が鹿を追いつめたときのように、〔日蓮を〕責めたてるのである。

(同上、pp. 230-231)
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【9】
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 日本の国の中で、一人として「〔日蓮のいうことにも〕何か理由があるのかもしれない」という人はいない。だが、これも道理である。なぜなら、人はみな、念仏を唱えている。〔それなのに、日蓮は〕人にあうたびに「念仏を唱えると無間地獄に堕ちる」という。人はみな、真言を尊んでいる。〔それなのに、日蓮は〕「真言は亡国の悪法である」という。国主〔の北条得宗〕は禅宗を尊んでいる。〔それなのに、〕日蓮は「禅は天魔の所為だ」という。だから、〔日蓮にふりかかった法難は〕自分で招いた禍である。人が罵っても咎めることはしない。また咎めようにも〔罵る人は〕一人や二人ではない。棒杖で打たれても悲しいとは思わない。もとよりそれを承知で真実の仏法を説いているのだから。

(同上、p. 232)
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事実の捻じ曲げではなくて勘違いでは (みれい)
2007-08-28 01:47:20
そううそさん

>日蓮が立正安国論において「首をはねよ」と"考え書き顕したこと

それは撰時抄ではないでしょうか?

「彼等が頚をゆひのはまにて切らずば日本国必ずほろぶべしと申し候了ぬ」

それにしても、撰時抄にざっと目を通してみましたが、脱会者はフラッシュバックを起こしそうな文章オンパレードですね。
また、このまま信じたらトンデモな信者が量産出来そうです。
他宗批判ももはやほとんど的はずれですし(でも当時はよく調べたものだと思います)、日蓮が平成に生きていたら、改定したい文章はたくさんあるのでしょうね。


Libraさん

>「能忍」まめ知識など

諸々なるほどでした。ありがとうございます。

>「報恩抄」

これはタイトルからいいですね。
師匠父母の話、とてもいいと思いました。

【9】に関して、やはり撰時抄の話でも出ましたが(他の御遺文でもすべての宗教教典に言える事だと思いますが)、現代の考証を忘れたら意図を汲み取る事ができなくなるでしょうね。
(今更なにをな話ですが、信仰ってやつは他宗教批判においてしばしば気をつけなければならない面があると思います。)

ついでに質問したいのですが、Libraさんにとって法華経観音菩薩品はどのような扱いで見ていますか?
Unknown (みれい)
2007-08-28 02:36:07
>それは撰時抄ではないでしょうか?

とっくに書かれてました。
失礼しました。
日蓮遺文は丁寧に読むべき (Libra)
2007-08-28 22:43:19
 みれいさん、こんばんは。

1.「事実のねじまげは許されない」と書いた経緯
 わたしが「事実のねじまげは許されない」と書いた経緯につきましては、以下の拙文の冒頭部分で説明してあります。

  『立正安国論』は正しく読みましょう
  http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-15.html


2.日蓮の遺文は「ざっと」ではなく丁寧に読むべき
 日蓮の遺文は、【日蓮自身の主張の部分】と【仏典の主張の部分(文証)】から構成されています。日蓮は、【仏典の主張は正しい】という当時の常識の上に、自らの主張を組み立てています。

 日蓮の遺文を読むさいには、【日蓮自身の主張の部分】と【仏典の主張の部分】をきちんと頭の中で区別しながら読んでいく必要があるとおもいます。とくに、【仏典の主張は正しい】ということが、すでに常識ではなくなっている今日においては、この区別はとても重要だとおもいます。日蓮の遺文を読むさいに問題にすべきなのは、あくまでも【日蓮自身の主張】の妥当性だとおもいます。

 現代のわれわれから見ますと、【仏典の主張が常に正しいとは限らない】わけですが、鎌倉時代に生きた日蓮が【仏典の主張は正しい】という当時の常識の上に、自らの主張を組み立てようとしたことじたいを責めるのはナンセンスでしょう。
 
 さて、「害す、殺す」という問題でよく話題にあがる日蓮の遺文としましては、先に挙げた「撰時抄」の文章のほかにも、「佐渡御書」の中にみられる以下の文章があります。

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 不殺生戒と申すは一切の諸戒の中の第一なり、五戒の初めにも不殺生戒・八戒・十戒・二百五十戒・五百戒・梵網の十重禁戒・華厳の十無尽戒・瓔珞経の十戒等の初めには皆不殺生戒なり、儒家の三千の禁の中にも大辟こそ第一にて候へ、其の故は「■〔彳+扁〕満三千界・無有直身命」と申して三千世界に満つる珍宝なれども命に替る事はなし、蟻子を殺す者・尚地獄に堕つ況や魚鳥等をや青草を切る者・猶地獄に堕つ況や死骸を切る者をや、是くの如き重戒なれども法華経の敵に成れば此れを害するは第一の功徳と説き給うなり、況や供養を展ぶ可けんや、故に仙予国王は五百人の法師を殺し・覚徳比丘は無量の謗法の者を殺し・阿育大王は十万八千の外道を殺し給いき、此等の国王・比丘等は閻浮第一の賢王・持戒第一の智者なり、仙予国王は釈迦仏・覚徳比丘は迦葉仏・阿育大王は得道の仁なり

(「秋元御書」、全集、p. 1075)
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 この文章も、【日蓮自身の主張の部分】と【仏典の主張の部分】をきちんと頭の中で区別しながら丁寧に読んでいかないといけません。さもないと、【仏典の主張の部分】にひっぱられて、肝心の【日蓮自身の主張の部分】を読み誤ってしまうことになります。以下に引用する山中さんの解釈がとてもすぐれているとおもいます。

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「秋元御書」に「法華経の敵に成れば此れを害するは第一の功徳と説き給うなり」とあるのは、語尾が「説き給うなり」とある通り、これは日蓮の主張ではなく『涅槃経』の見解である。日蓮の『涅槃経』読解においては、その経典で「正法」とされることを『法華経』と読み替えてしまうのでこのような表現になっている。しかし、すぐ後に「況や供養を展ぶ可けんや」とあって、供養しないのが日蓮の立場であることは明瞭である。ようするに正釈は、『涅槃経』の立場では謗法の悪人は殺してもよいとされているくらいであるから、日蓮の立場である「供養をしない」のはごく当然のことであるという意味になる。
 〔中略〕じっさい「秋元御書」の文脈では、その後に「故に仙予国王は五百人の法師を殺し・覚徳比丘は無量の謗法の者を殺し・阿育大王は十万八千の外道を殺し給いき、此等の国王・比丘等は閻浮第一の賢王・持戒第一の智者なり、仙予国王は釈迦仏・覚徳比丘は迦葉仏・阿育大王は得道の仁なり」と『涅槃経』の説[11]が紹介されるのである。

(山中講一郎『日蓮自伝考──人、そしてこころざし』、水声社、2006年、p. 108)
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(11) 『涅槃経』の説……「仙予国王」の出典は〔中略〕『涅槃経巻十二』(大正一二巻、四三四頁)、『涅槃〔経巻〕十六』(大正一二巻、四五九頁)、「覚徳比丘」の出典は『涅槃経巻三』(大正一二巻、三八三頁)。

(同上、p. 113)
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 ただ、山中さんのご説明で1つだけ残念なのは、「阿育大王は十万八千の外道を殺し給いき」の部分の出典が記されていないことです。この部分の出典は、『阿育王経』の「復有一国名分那婆陀那。…彼国一切信受外道。…時阿育王見已生大瞋心。於分那婆陀那国一切外道悉皆殺之。於一日中殺十万八千外道。」(大正蔵第50巻、p. 143b)だと思います。

 ようするに、日蓮は、【仏典の中のヒーローもの】を文証としてあげて、仏典の中には「謗法の悪人は殺してもよい」という話まであるくらいなのだから、「『供養をしない』のはごく当然のことである」と主張しているのです。そのように読まなければ、「況や供養を展ぶ可けんや」という表現がわざわざそこにおかれていることの説明がつきません。

 日蓮の遺文は、「ざっと」ではなく、丁寧に読まれるべきだとおもいます。粗雑な読解(誤読)にもとづいて、日蓮についておかしなことをおっしゃる方があまりにも多いのは残念なことです。


3.観世音菩薩普門品には注目してきませんでした
 観世音菩薩普門品にかぎらず、羅什訳でいうところの最後の六品については、これまでほとんど注目してきませんでした。『法華経』の中心思想は、最後の六品よりも前の部分にすでに説かれていると思ってきたからです。しかし、観世音菩薩普門品にも、もしかしたら注目すべき思想があるのかもしれませんね。

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 【最後の六品の意義】
 ここ〔引用者註:嘱累品のこと〕までの範囲において、すべての衆生を平等に成仏させる一仏乗を説き、釈尊滅後の『法華経』の受持・弘通の主体者が地涌の菩薩であることを説き、さらに釈尊の永遠の生命を説き、それを信受する者の功徳を説き、地涌の菩薩とその他すべての菩薩に『法華経』を付嘱するのであるから、『法華経』はここで終わっても何ら差し支えないと考えられる。そこで、多くの学者もこの後の六品は後代の付加であると推定した(ただし、近年、提婆達多品を除く二十七品の同時成立説が出された)。
 嘱累品までで『法華経』は一応完結したといってもよいのであるが、実際には薬王菩薩本事品第二十三から普賢菩薩勧発品第二十八までの六品が続き、陀羅尼品第二十六を除いて、偉大な菩薩や王の故事を取りあげ、彼らと『法華経』との密接な関係を説き示して、『法華経』の偉大さをたたえている。分量的にもかなり長く、興味深い物語も説かれるのであるが、『法華経』の中心思想はすでにこれ以前に説かれたと考えてよいだろう。

(菅野博史『法華経入門』〔岩波新書(新赤版)748〕、岩波書店、 2001年、pp. 74-75。ただし、【】印は原文のゴシック体を表現するために Libra が補った。)
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Unknown (そううそ)
2007-08-28 23:28:23
Libraさん、みれいさん
こんばんは。

今ちょっと仕事が忙しく、今週末も私用でお返事できそうにありません。来週半ばまでお待ち頂けると幸いです。
と、いっても先程、日蓮の遺文を学会版御書で検索したのですが、「殺」も「害」も数多くあるのでちょっと困ってます。(^_^;A
今回の件に関係ありそうなのは半分以下になりそうですが、数は多いです。
日本語でおk? (Leo@隠居)
2007-08-29 00:29:37
勘違いとは事実の捻じ曲げを素直に信じることかもしれない。
そこにおいて元々の事実の捻じ曲げを流布した輩にはそれなりに責任があるかもしれない。

(思いつきの感想につきレス不要)
とっとこ~読めるよはむたろ~ (みれい)
2007-08-29 13:13:07
Libraさん

いつもお付き合いくださいましてありがとうございます。

昔、網戸の張替えを自分でしたことがあるのですが、使用する道具はなんとフォークでした。
これが実に使い勝手がいい。
従来の発想に囚われない、という観点が私はとても好きです。
木の枝とアルミホイルでフライパンを作ってしまうボーイスカウトみたいな感覚がとてもすきなのですね。
私にとっては「網戸張替えにはフォークが使える」となります。
ところがこれにはさまざまな意見がありまして、
1、「食事の道具を工具に使うべきではない」という人や、
2、「貧乏くさっ工具買えばいいいじゃん¥」と言う人や、
3、「張替えなんて自分でやらない」と言う人や、
4、「『フォークは工具』なのかぁ。なるほど」
5、「だからなんなの?」となる人などがいるんですよね。

私が伝えたかったのはなんだったのかをそのまま汲み取ろうとする人は、実はあまりいないわけです。
そして、3まではもっともだなと思いますが、4は、「ちょっと待て」となりますね。

さて本題に入ります。

1.「事実のねじまげは許されない」と書いた経緯

そううそさんの文章を読んで、わたしはLibraさんの受け取りとはほんの少し違います。
でもLibraさんのご意見も一理あると思います。

私がいつも読んで思うのは、そううそさんがブログに書いているのは、誰かに(日蓮などの)おかしさを伝えたいのではなくて、それがあったとしても、主だった動機は自分の気持ちを整理したいからだと思うのです。
時系列とか、引用とか、まったく的外れなときがある(失礼!)のは、そううそさんにとって今それが必要なのだろうなと思います。
(本当のところはわかりませんが。ゆえに議論にはなりませぬ)
とはいえ公開性にしている以上、そううそさんにも「公共に載せている」という責任は生じるのでしょう。

2.日蓮の遺文は「ざっと」ではなく丁寧に読むべき

>日蓮の遺文を読むさいには、【日蓮自身の主張の部分】と【仏典の主張の部分】をきちんと頭の中で区別しながら読んでいく必要があるとおもいます。
>鎌倉時代に生きた日蓮が【仏典の主張は正しい】という当時の常識の上に、自らの主張を組み立てようとしたことじたいを責めるのはナンセンス

おっしゃるとおりと思います。
まぁしっかり丁寧に読むことはできるだけ、日蓮信者の皆さんが中心に頑張っていただきたいと思います。
そもそも御書指導している人がおかしな事を言ってることがあるわけで、この解釈(御書指導)を誰に依るかというところが大きな問題で、例えば日蓮が学んできた諸々の経典にもあたって概要をしっかり掴んだ事がある人と無い人ではまた意見も違いますし、歴史背景もどれに依るかで変わりますし、
自分ひとりで丁寧に読んだ所で解釈もまた我見に走る可能性も見逃せません。

そして、「ざっと読む」ところから来る「心象」「イメージ」「観念」から日蓮像を見ている人がいれば(実際実に多いわけですが)、そういう目線の高さに合わせてみると、日蓮の真意を掴む事にはちっともなりませんが、そのひとの心意は掴めるかもしれません。
私も以前はしっかりと読んだことがありませんでしたが、読まないのではなくて、読めなかったです。そこにはさまざまな壁がありました。

私は現在日蓮御遺文の解釈に関しては、日蓮宗の僧侶か、各経典もふまえて精査されて研究している方に確認するか、本を読むようにしています。
Libraさんから提示していただいた場合もまま鵜呑みにはせず、その紹介してくださった方の立ち位置をわかる範囲でも調べるところから始めます。本当はご紹介の著書から読み始めたほうがいいのでしょうけども。

また自分に納得の出来る引用文が、他人にそのまま通用する場合ばかりでもないと思っています。それを読んで理解した人が人に教えるとしたら、今度は説くそれぞれの相手の咀嚼能力に合わせる必要もあるのでしょう。

>「害す、殺す」

この程度の言葉であれば、禅宗の語録にもさんざん出てまいります。
なので私にとって、遺文・経典にそれがあったところで問題なしです。
2、でおっしゃっているとおり、「【日蓮自身の主張の部分】と【仏典の主張の部分】をきちんと頭の中で区別しながら読んで」いけば問題はないでしょう。
オウムのように本当にポアに走るようであればそれは大問題ですし、そういった「観念的にインプットして行動に出るということを人間はする」ことはとても気になる所です。

>「佐渡御書」
>「秋元御書」

ふたつとも真蹟なしではありますね。
山中講一郎さんはあの人ですよね?「あ」ではないけど。
現在、私はまず日蓮正宗で扱う御書の中で真蹟の区別と割合はどれだけなのか調べています。

>『涅槃経』
これは山中さんがおっしゃるとおりではないのかと思っています。
(まだ詳しくはわかりません)

>観世音菩薩普門品

○日蓮との事
法華経の中でもある意味他力的な経典で、これだけで独立して信仰が成り立っている品ですね。過去にもながらく念仏信仰とならんで民間に観音信仰があったと思います。

現代において縁起・無我を生きていながら「自力も他力もないんじゃないか」
とふと思いまして、では自力を説く日蓮信仰者にとってこの経典はどう読むのか、ちょっと気になっております。アンケートでもとってみたいです。
逆に他力を説く浄土宗にも聞いてみたかったりしますが。

○観音菩薩を自分の内に捉えてみて
相手の視点に立ってみるということは難しいけどひとつの実践なのだと思います。

何故、観音は菩薩以上の存在なのか?
http://blog.goo.ne.jp/tenjin95/e/d75ac17d46f426ed5e00874c4ab55c9a

知識と仏教に関して気をつける点。
仏教マニアは仏教徒にあらず
http://blog.goo.ne.jp/tenjin95/e/bb437e5d39f3f18b0e81b57b9f368d35

菩薩の実践の中で「相手にとってふさわしい姿で法を説く」ということを観音品の三十三現身によって、その立ち居地の縦横無尽さで説かれます。
私は自分もそうなれたらいいなと思っていると同時に、なれていない自分の至らなさを感じます。

「世尊、観世音菩薩はいかにしてこの娑婆世界に遊び、いかにしてか衆生のために法を説く、方便の力その事いかん」

・「そううそさんの身をもって得度すべき者には、すなわちそううそさんの身を現じてために法を説き」
・「Libraさんの身をもって得度すべき者には、すなわちLibraさんの身を現じてために法を説き」
・「みれいの身をもって得度すべきものには、すなわちみれいの身を現じてために法を説き」
・「わんこの身をもって得度すべきものには、すなわちわんこの身を現じてために法を説き」

余談ですが「いぬのきもち」っていう雑誌があるのですが、実は「飼い主の気持ち」だと思っています。
動機は意見を正当化しません (Libra)
2007-08-29 19:47:24
 みれいさん、こんばんは。

 こちらこそ、いつもご意見ありがとうございます。


1.動機は意見を正当化しない
 たとえば、ある人がある動機にもとづいて、ある意見をいったとしましょう。この場合、その意見の真偽は、その動機には左右されません。その動機がいかに人道的で、すばらしいものであったとしても、そのことによってその意見が正しいということには必ずしもなりません。

 わたしが今問題にしているのは、そううそさんの動機ではなく、そううそさんが公にされた【立正安国論についてのご意見】です。


2.日蓮を否定したい人こそ、日蓮遺文を丁寧に読むべき
 「しっかり丁寧に読むことはできるだけ、日蓮信者の皆さんが中心に頑張っていただきたいと思います」とのことですが、少なくとも、【日蓮について否定的な意見を述べようとする人】には、丁寧に読んでいただきたいとおもいます。粗雑な読解(誤読)にもとづいて、否定的な意見を述べていただきたくありません。そんなのは、あまりにも無責任だとおもいます。


3.文章の解釈には限界がある
 文章というものは、【どのように解釈しても許される】というようなものではありません。その文章の解釈として許される範囲(限界)というものがあります。その範囲(限界)を明らかにこえるような読みを【誤読】といいます。

 他人の解釈を参考にするにしても、それらは【言語的な解釈として許容されうる範囲内】のものでなければならないでしょう。もちろん、その【許容されうる範囲】の中で、各人がいろんな解釈をとりうるというのは当然のことです(以下の拙文を参照)。

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 「創価学会に疑問を感じる私としては、”日蓮の過激な言動を見るとき”どうしても、悪い方の解釈をブログに書かざるを得ません」とのことですが、日蓮遺文の解釈として許容されうる範囲の中で、最も悪意に解釈するというのであれば、「創価学会に疑問を感じる」者の解釈の態度としてはごく自然な態度だろうとおもいます。しかし、文章の読解として許容される限度をこえてまで、悪意に解釈することは許されないでしょう。そんなのは【事実のねじまげ】です。

(「地獄論、罰論、メモ(その1)」のコメント欄〔2007-08-18 12:48:47〕、http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/cmt/1bcb282c40eb61349ba73d71e27046c0
───────────────


4.自力を説く日蓮信仰者???
 そもそも、仏教というのは、【自力か他力かの二者択一ではない】とおもいます。

 人はみずからの行為によって、みずから汚れたり、浄まったりするのであって、誰も他人に自分を浄めてもらうことなどはできませんから、その点はたしかに【自力】ともいえます(以下の仏説を参照)。

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一六五 みずから悪をなすならば、みずから汚れ、みずから悪をなさないならば、みずから浄まる。浄いのも浄くないのも、各自のことがらである。人は他人を浄めることができない。

(中村元訳『ブッダの 真理のことば 感興のことば』〔岩波文庫〕、岩波書店、1978年、p.33)
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一〇六四 「ドータカよ。わたくしは世間におけるいかなる疑惑者をも解脱させ得ないであろう。ただそなたが最上の真理を知るならば、それによって、そなたはこの煩悩の激流を渡るであろう。」

(中村元訳『ブッダのことば スッタニパータ』〔岩波文庫〕、岩波書店、1984年、p. 224)
───────────────

 しかしながら、【釈尊の口から出る声(教法)】をよく聞いて、最上の真理を知ることにより、「自己の安らぎ(ニルヴァーナ)」を学んで、煩悩の激流を渡ることを志すのが仏教ですから、その点では【他力】ともいえます。

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一〇六二 師(ブッダ)が答えた、「ドータカよ。では、この世において賢明であり、よく気をつけて、熱心につとめよ。この(わたくしの口)から出る声を聞いて、自己の安らぎを学べ。」

(中村元訳『ブッダのことば スッタニパータ』〔岩波文庫〕、岩波書店、1984年、p. 223)
───────────────

 また、「善き友をもち、善き仲間のなかにあるということが、この道のすべてである」というのも【他力】といえるかもしれません。

 このように、仏教というのは、【釈尊におまかせで救ってもらえる】というような「他力主義」でもなく、また、【自分の力だけがたよりだ】というような「自力主義」でもないとおもいます(「釈尊は『まじない信仰』を否定」、http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-8.html)。


5.「人の信不信はしらず・ありのままに申すべし」
 わたしは観世音菩薩ではありませんので、「相手にとってふさわしい姿で法を説く」というような器用なことはとてもできそうにありません。ならば、せめて、「ありのままに申す」ということだけは、生涯貫いていきたいと考えています。

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本よりの願に諸宗何れの宗なりとも偏党執心あるべからず・いづれも仏説に証拠分明に道理現前ならんを用ゆべし・論師・訳者・人師等にはよるべからず専ら経文を詮とせん、又法門によりては設い王のせめなりとも・はばかるべからず・何に況や其の已下の人をや、父母・師兄等の教訓なりとも用ゆべからず、人の信不信はしらず・ありのままに申すべしと誓状を立てしゆへに

(「破良観等御書」、全集、p. 1293)
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推測と反駁 (Libra)
2007-08-30 00:58:24
 そううそさん、こんばんは。お仕事、おつかれさまです。

 「殺」や「害」を「学会版御書で検索」されるのも結構ですが、そのようなお時間があるのでしたら、今問題になっている『立正安国論』の第八問答をお読みになられてはいかがでしょうか。

 ちなみに、カール・ポパーは以下のように言っています。

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読んだことを解釈するのにはおそらく二つの仕方があるだろう。つまり読者は、自分の解釈について無批判であるか、批判的であるかだろう。しかし、読者が、読んだ内容についてのみずからの解釈や期待を不断に反駁しようとする時間と場所は、書き手の夢想のなかにしかないのだろうか。

(カール・R・ポパー『実在論と科学の目的(下)』〔小河原誠・蔭山泰之・篠崎研二訳〕、岩波書店、2002年、p. 63)
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 文章の読解という作業は、「推測と反駁」の実践であり、批判的合理主義の実践であるべきだとわたしはおもいます。
動機ではございませぬ (みれい)
2007-08-30 12:05:06
Libraさん

>1.動機は意見を正当化しない

この認識の違いがとても興味深いです。
私は「意見の真偽」や「正当化」「正しい正しくない」や動機の話でもありません。
Libraさん、唯識はご存知ですか?

>わたしが今問題にしているのは、そううそさんの動機ではなく、そううそさんが公にされた【立正安国論についてのご意見】です。

それはわかっておりますよ。

>3「創価学会に疑問を感じる私としては、”日蓮の過激な言動を見るとき”どうしても、悪い方の解釈をブログに書かざるを得ません」とのことですが、

「創価学会員の中で(あるいは組織で)、悪い方の(つまり誤った過激な言動などの)解釈で数々指導されてきたり布教してきた(している)ゆえに疑問を持っているので、その悪いほう(誤った)解釈のほうをブログに書いて批判していきたい」という意味の文章だと私は見ましたが。
これまでそうしてきたのに、なぜこれからわざわざ個人的に悪く捏造しなければならない理由があるでしょうか。

>2.日蓮を否定したい人こそ、日蓮遺文を丁寧に読むべき

日蓮信者、法華行者がしっかりと法華経の教えを学び、きちんと実践して示していけば、その仏心に触れ、おのずと否定者はいなくなりますよ。
その姿を示していれば、押し付けなくたって自然に御遺文にも目が行きますよ。

>3.文章の解釈には限界がある
 文章というものは、【どのように解釈しても許される】というようなものではありません。

それについてもすでに書いております。
ついでに、【どのように解釈しても許される】とは、私は書いていません。

4.自力を説く日蓮信仰者???
 そもそも、仏教というのは、【自力か他力かの二者択一ではない】とおもいます。

Libraさんの自力、他力とスッタニパータ、とても興味深く読ませていただきました。
今回「他力」「自力」という言葉の捉え方もいろいろあるのだなぁと思いました。
善き友も、悪い友も、良縁も逆縁も、いきとしいけるものとこの世のものすべてのご縁を授かっているということが、他力(どちらかというと法然テイストではなく親鸞テイスト)といえると思います。それを自力で生かしていくという。
そういう意味では二者択一ではないというのも同感です。

先日、日蓮宗ご僧侶に電話して確認したところ、「自力です」と見解をいただきました。具体的に掘り下げたお話を一時間ほどご教示いただきましてとても賛同しておりますが、ここでは端折ります。
ほかのとある日蓮信者も同じ見解でして、確か経文に依るところがあるようですが。

また、観音品についても見解をいただきましたが、他力的な経典という考え方ではなかったです。そして28品すべて大事に取り扱っておりました。
いずれにしても、私の発想がむしろ甘かったことを思い知らされました。

5.
 わたしは観世音菩薩ではありませんので、「相手にとってふさわしい姿で法を説く」というような器用なことはとてもできそうにありません。

法華経行者はみんな菩薩さんでしょう。
法華経に出来ない菩薩行は書いていないと思います。
Libra菩薩も観音菩薩行はすでに行っていると思います。

>「破良観等御書」

私の資料では真蹟がみあたりません。
昭和定本Noをお願いします。
今日は短めに (Libra)
2007-08-30 19:30:27
 みれいさん、こんばんは。


1.動機は意見を正当化しない
 わたしの「動機は意見を正当化しない」という意見に対して、みれいさんは「この認識の違いがとても興味深いです」とおっしゃるわけですね。ということは、みれいさんは、「動機は意見を正当化する」とでもおっしゃるのでしょうか。


2.唯識には興味がありません
 「唯識はご存知ですか?」というご質問については、脈絡がまったくつかめません。唯識については、ほとんど何も知りませんが、唯識研究者の袴谷憲昭先生によりますと、【唯識は仏教ではない】んだとか。とはいえ、今のところ、個人的には、唯識には興味がありません。また、現在論じている問題に唯識が関係あるともおもえません。


3.自力を説く日蓮信仰者???
 「先日、日蓮宗ご僧侶に電話して確認したところ、『自力です』と見解をいただきました」とのことですが、そのご僧侶が間違っているのではないでしょうか。あるいは、「自力です」の意味にもよるのかもしれませんが。

 釈尊を父といい、娑婆世界をその所領であるとする日蓮の思想を「自力」といってしまうのはおかしいとおもいます。

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此の土の我等衆生は五百塵点劫より已来教主釈尊の愛子なり

(「法華取要抄」、全集、p. 333)
───────────────

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娑婆世界は五百塵点劫より已来教主釈尊の御所領なり、大地虚空山海草木一分も他仏の有ならず、又一切衆生は釈尊の御子なり、〔中略〕又此の国の一切衆生のためには教主釈尊は明師にておはするぞかし〔中略〕此の国の人人は一人もなく教主釈尊の御弟子御民ぞかし、〔中略〕国主父母明師たる釈迦仏を捨て乳母の如くなる法華経をば口にも誦し奉らず是れ豈不孝の者にあらずや

(「一谷入道御書」、全集、pp. 1327-1328)
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 とはいえ、これも、今回の話題とは全く関係がありませんから、この件についてはこれくらいでよろしいのではないでしょうか。


4.「破良観等御書」の件
 ご自分でお調べになっていただければありがたいです。
zキーの下に何かはさまっていて押しにくい(困) (みれい)
2007-08-31 00:53:41
Libraさん、こんばんは。
風もすずしくなってまいりました。


1.動機は意見を正当化しない
ということは、みれいさんは、「動機は意見を正当化する」とでもおっしゃるのでしょうか。

いえ、まったく申しません。
する⇔しないの話ではなくて、パラダイムシフトの話です。

2.唯識には興味がありません
 
そうですか。ならば構いません。

3.自力を説く日蓮信仰者???
 あるいは、「自力です」の意味にもよるのかもしれませんが。

意味によると思います。
直接Libraさんが聞かれてご確認されても、おそらく違和感ないと思いますよ。
まったく釈迦の教えと反しないと思います。
私が書くと薄っぺらくなってかえって誤解を生みそうなので、あえて申しませぬ。

>とはいえ、これも、今回の話題とは全く関係がありませんから、この件についてはこれくらいでよろしいのではないでしょうか。

承知しました。
おつきあいありがとうございました。

聞いた所によると、今週、そううそさんは立正安国論の講演を某寺へ聴講にいかれるそうです。感想楽しみ。

>4.「破良観等御書」の件

昭和定本No236 真蹟はなさそうです。
『平成新修遺文集』には収録すらしていないようです。


>そううそさんへ

日蓮さんが「自分はこんな批判をされましたよ」と、「寺泊御書」で、富木さんにお話されています。
当時の日蓮さんも誤解はあったようです。
としましても、寺泊へいらしたのはかなり生涯でも後のほうだと思うので、お年を召されても自己に目を向けられ洞察される日蓮さんの姿はご立派だと思います。
要チェック。

批判内容

・或人日蓮を難じて云く「機を知らずして麁義を立て難に値ふ」と。
(日蓮は、教えを受ける相手の能力(機根)を知らないで、強引な教義を立てているから法難に遭うのである。)

・或人云く「勧持品の如きは深位の菩薩の義也、安楽行品に違す」と。
(法華経の勧持品に基づく法華経の実践は、位の高い菩薩にあてはまる行為であるから、日蓮のように位の低い修行者は安楽行品の実践によるべきで、これに背いている。)

・或人云く「我も此の義を存ずれども言はず」と云云。
(私も日蓮の言っているようなことはすでに承知しているが、人目をはばかって述べないだけである。)

・或人云く「唯教門許り也」と。
(日蓮の主張は、ただ経典の優劣を論じたり、教義の表面にかかわるだけの問題(教相)を論じて、自己の内面で捉える、宗教的な喜び(観心)については、少しも触れていないのである。)

私達が考えるヒントはここだと思います。

「法華経は三世説法の儀式也。
過去の不軽品は今の勧持品、今の勧持品は過去の不軽品也。
今の勧持品は未来の不軽品たるべし。
其時は日蓮は即ち不軽菩薩たるべし。」

(参考「書簡からみた日蓮」北川前肇 著)

ではでは。
わけわかめ (Libra)
2007-08-31 01:33:18
 みれいさん、こんばんは。

1.「する⇔しないの話ではなくて、パラダイムシフトの話」???
 正直いいまして、わたしには全く意味がわかりません。


2.「あえて申しませぬ」???
 だったら、そんな話、最初からなさらなければよかったのでは?


3.真蹟がなくても真撰ということはあるでしょう
 真蹟がないからといって、偽書であるということには必ずしもなりません。念のため。
わめさんかとおもいました。 (みれい)
2007-08-31 16:29:52

Libraさん、こんにちは

1.2

>今回の話題とは全く関係がありませんから、この件についてはこれくらいでよろしいのではないでしょうか。

と書いてあったのですが、続けますか?


3.もちろん。
「常に軽んぜられた」という名前の菩薩 (Libra)
2007-08-31 19:42:45
 みれいさん、こんばんは。

1.「続けますか?」の件
 「パラダイムシフトの話」はもうよろしいのではないでしょうか。

 「自力です」の意味については、ぜひ、解説されてみてはいかがでしょうか。それで、その話は完結するでしょう。


2.〝常に軽んぜられた〟という名の菩薩
 みれいさんが「日蓮は即ち不軽菩薩たるべし」という文章を引用されましたので、不軽菩薩について少し解説しておきたいとおもいます(解説の後に、法華経の該当部分を引用しておきます)。

 不軽菩薩というのは、正確には、【「常に軽んぜられた」という名前の菩薩】です。この菩薩は、その名前が示すとおり、常に、人びとから「非難され、侮辱され」た菩薩です。時には、「土くれや棒きれを投げつけ」られたりもしました。なぜ、そのようなことになったのかといいますと、それは、この菩薩が【人びとにとってはとても信じがたく、また望んでさえもいないこと】を言い続けたからなのです(人びとは、不軽菩薩の主張を「ほんとうでもなく、望んでもいない予言」といっています)。

 ようするに、この菩薩は、日蓮の言葉を使って表現してみるならば、【「人の信不信はしらず・ありのままに申」し続け、そのことによって人びとから非難されつづけた菩薩】ということになります。

 さて、その不軽菩薩の主張の中身は何かといいますと、それは、【どんな人でも菩薩行によって仏になれます】ということです(これは法華経の最も重要なテーマの1つです)。【仏になるはずの人をわたしは軽蔑しません】ともいっています。

 この不軽菩薩の物語は、おそらく、法華経成立当時に優勢であった部派仏教の考えを批判したものであるとおもわれます。そのことは、「その世尊〔引用者注:威音王如来のこと〕が完全な涅槃にはいられたあとで、正しい教えが消滅し、正しい教えに似た教えも消滅しつつあり、かの(世尊の)教誡が思いあがった比丘たちによって攻撃されたとき、〝常に軽んぜられた(常不軽)〟という名の比丘である菩薩がいた」という文章から明らかだとおもいます。威音王如来の時代の話にしてありますが、そこでいわれている「思いあがった比丘たち」というのは、実質的には、法華経成立当時の部派仏教の比丘のことを指しているのだとおもいます。

 以下、法華経の該当部分を引用しておきます。

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その世尊〔引用者注:威音王如来のこと〕が完全な涅槃にはいられたあとで、正しい教えが消滅し、正しい教えに似た教えも消滅しつつあり、かの(世尊の)教誡が思いあがった比丘たちによって攻撃されたとき、〝常に軽んぜられた[3](常不軽)〟という名の比丘である菩薩がいた。得大勢よ、どうして、その菩薩大士は常不軽と呼ばれるのであろうか。得大勢よ、実は、その菩薩大士は、比丘にせよ比丘尼にせよ、信男にせよ信女にせよ、だれを見ても近づいて、こう言うのである。
 『尊者がたよ、私はあなたがたを軽蔑いたしません。あなたがたは軽蔑されません。それはどうしてでしょうか。あなたがたはすべて、菩薩としての修行(菩薩道)を行ないなさい。そうすれば、将来、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来となるからであります』
 このようにして、得大勢よ、その菩薩大士は、比丘でありながら、講説もせず、読詠もしない。ただ、だれを見ても、たとえ遠くにいる人でも、すべて近づいて右のように告げるだけである。比丘にせよ比丘尼にせよ、信男にせよ信女にせよ、だれにでも近づいてこう言う。
 『ご婦人がたよ、私はあなたがたを軽蔑いたしません。あなたがたは軽蔑されません。それはどうしてでしょうか。あなたがたはすべて、菩薩としての修行を行ないなさい。そうすれば、将来、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来となるからであります』
 得大勢よ、その菩薩大士は、そのとき、比丘にせよ比丘尼にせよ、信男にせよ信女にせよ、だれにでも右のように告げるのである。(告げられたものは)ほとんどすべて、彼に対して腹を立て、悪意をいだき、不信感をいだき、非難し、侮辱する。
 『どうしてこの比丘は聞かれもしないのに、軽蔑の心をもたないなどとわれわれに吹聴するのであろう。この上ない正しい菩提を得るであろうと、ほんとうでもなく、望んでもいない予言をわれわれに与えるなどとは、(われわれに)自身を軽蔑させるものである』と。
 さて、得大勢よ、その菩薩大士がこのように非難され、侮辱されるうちに、多くの年月がたつが、彼はだれに対しても腹を立てず、悪意を起こさない。そして彼が例のごとく告げるとき、土くれや棒きれを投げつける人々に対して、彼は遠くから大声を出して、『私はあなたがたを軽蔑いたしません』と告げた。(彼からこのように)いつも告げられていた、かの思いあがった比丘・比丘尼、信男・信女たちが、彼に常不軽という名を与えたのである。

(松濤誠廉・丹治昭義・桂紹隆『法華経Ⅱ』〔中公文庫〕、中央公論新社、2002年、pp. 166-168)
───────────────

───────────────
3 「常に軽んぜられた」とは、原語の sadAparibhUta を、「常に」sadA と「軽んぜられた」paribhUta の複合語と理解した結果である。この理解は、チベット語の訳名 rtag-tu brn~as-pa、『正法華』の「常被軽慢」と一致する。ところが、羅什は「常不軽」(けっして軽んぜぬもの)と訳している。原語を「常に」sadA と「軽んぜられなかった」aparibhUta の複合語と理解するのは可能であるが、このばあいは「けっして軽んぜられなかった」と受動の意味になり、羅什の訳名とも、以下の話の内容とも一致しない。萩原本三一八ページの脚注に aparibhUta を羅什のように能動にとる可能性が種々検討されているが、古典サンスクリットにかぎれば能動にとることは不可能である。しかしながら、以下においてこの菩薩はけっして他人を軽蔑しないことから、かえって、他人から軽蔑されたものとして描かれている。それゆえ、チベット訳、『正法華』の訳名とともに、羅什訳のそれも、いまのばあい十分意味をもつといえよう。したがって、以下菩薩の名としては、これまでの慣例に従い、羅什訳を用いることにする。

(同上、訳注、p. 283)
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3.「不生瞋恚」
 ついでなので、常不軽菩薩品の「不生瞋恚」についても少し触れておきましょう。

 すでに述べたことから明らかなように、不軽菩薩の物語は【折伏の物語】なわけですが、折伏をするにあたってこの菩薩は「だれに対しても腹を立てず、悪意を起こさない」のです。羅什訳では、この部分は、「不生瞋恚」と訳されています。

 【折伏をするにあたっては、「腹を立てず、悪意を起こさない(不生瞋恚)」という態度を貫かなければいけない】ということが、ちゃんと法華経の経文にあるということなのです。

 「日蓮は即ち不軽菩薩為る可し」(「寺泊御書」、全集、p. 954)という日蓮は、「日蓮が弟子と云つて法華経を修行せん人人は日蓮が如くにし候へ」(「四菩薩造立抄」、全集、p. 989)といっているのですから、日蓮の弟子としては、当然、「腹を立てず、悪意を起こさない(不生瞋恚)」という態度で折伏をしなければなりません。

 ちなみに、法華経の行者を守らない諸天善神に対しては、「瞋恚は善悪に通ずる者なり」(「諌暁八幡抄」、全集、p. 584)といって、日蓮は怒ったりしていますが、それは、人びとを成仏へと導く【折伏の問題とは全く関係がありません】。

 折伏をするにあたっては、「腹を立てず、悪意を起こさない(不生瞋恚)」という態度を貫かなければならないということが法華経の経文にちゃんとありますので、「“怒りをあらわにして”仏敵をやっつけろ!やりこめろ!」というようなことをずっと言い続けている創価学会の人たちは、明らかに間違っているのです。また、日蓮の遺文を引用して、そのような誤った主張を正当化することもできません。「経文に分明ならば釈を尋ぬべからず」と日蓮じしんがいっています。

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経文に分明ならば釈を尋ぬべからず、さて釈の文が経に相違せば経をすてて釈につくべきか如何

(「撰時抄」、全集、p. 259)
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ひぐらしももうお仕舞い (みれい)
2007-09-02 11:34:40
Libraさん こんにちは

>「自力です」の意味については、ぜひ、解説されてみてはいかが
でしょう
か。それで、その話は完結するでしょう。

一時間電話でいただいた話を書くのは無理がありますね。
なので私の解する要約のみで。
縁起の世界で、特に自らを律する点に重点を置くということです。
自らを律し菩薩行を励む事により、自らに身に付けた菩薩行が、他者救済の慈悲の力へと展開されていくということ。
そのなかでも常不軽菩薩行はまず基本ということで。

>常不軽菩薩品

ご説明ありがとうございます。

急ぎませんが、いつか観音菩薩品も取り扱うことがあればと思います。
観音品は、各宗派が集まって読むとき唯一共通の経典だそうです。
そしてパラダイムの話につながります。

>「四菩薩造立抄」
私の持っている表では真蹟無く真筆度9段階(1が真蹟現存9ほど偽書の疑いが高い)で7表示です。
日蓮正宗の方はしばしば使われるようですね。

さきほども少し話が出ましたが、Libraさんは日蓮正宗系で取り扱っている(もしくはLibraさんが取り扱われる)御書の真偽や真筆度はどのようにみていらっしゃるのですか?
真偽未決御書の取り扱いなど (Libra)
2007-09-02 14:34:50
 みれいさん、こんにちは。

1.日蓮思想を「自力です」というのはやはり誤りでは?
 日蓮は、末法の衆生が救済される根拠を『法華経』においています。そして、日蓮にとっては、【『法華経』=釈尊】です(以下の資料を参照)。

  日蓮は『法華経』=釈迦仏と主張(末木文美士)
  http://fallibilism.web.fc2.com/120.html

 日蓮が末法の衆生に期待したのは、『法華経』を如説修行することだけだったといっても過言ではないでしょう。

 日蓮は「自らを律する点に重点を置く」とのことですが、これは、(日蓮にとっては釈尊そのものであったところの)『法華経』の身読ということにほかならないでしょう。そういうのは、【(他力の対立概念としていうところの)自力】とはいわないとおもいます。

 たとえば、『法華経』には、【三車火宅の譬喩】や【良医病子の譬喩】というものが説かれているわけですが、これらを【子供の自力を説くもの】と理解する人はまずおられないでしょう。

 もっとも、良薬を飲まなければ子供は救われません。そして、良薬を飲むのは子供じしんです。ですから、『法華経』は、【父親(仏)の力だけで子供(衆生)は救われる】というような意味での【他力】を説くものでもありません。

 『法華経』に基づく日蓮の思想は、【自力か他力かの二者択一ではない】とおもいます。したがって、【日蓮思想は自力である】というのは誤りだとおもいます。


2.御書の真偽や真筆度
 御書の真偽についてのわたしの考えは以下のとおりです。

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 文献学的・書誌学的に明らかに偽書であると判断してよいものは問題ないとしても、内容から真偽を判断せざるをえないような場合には、〔中略〕グレーの領域が出て来ると思います。結局、真蹟(や信頼できる写本)が残っているものや五大部等の中心遺文を基本に置きながら、そして、どこまでグレーの領域をカバーできるかという点にも目を配りながら、日蓮思想について考えていくしかないだろうと私は思います(もちろん、日蓮思想そのものに対しても批判的視点を持ちながら)。

(スレッド「仏教の源流から」より、http://fallibilism.web.fc2.com/kangaeyou_02.html
───────────────

 御書の「真筆度」というのが、【真蹟(や信頼できる写本)が残っている度合い】という意味だとしますと、それは、わたしがどのようにみるかには依存しない【客観的な事実問題】ですから、それらに関する最新の研究成果を参照するほかはありません。個人的には、興風談所の「御書システム」の情報を参考にしています。ちなみに、興風談所は「日蓮正宗系」です。

───────────────
それからやはり正信会系の流れをくむ興風談所。興風談所は非常に純粋でまじめに学問研究をしている団体でございます。正信会ルートと申しまして、常勤で六、七人で取り組んでいますが、その中で研究者は百余名ほどでございます。細井日達師のときに川澄勲氏という神官の古文書学者をスカウトして、弟子たちに古文書学を教育させています。有名な古文書学者を通じ、大石寺と学会に対する批判的立場に立ちます。下手をするとわが宗がおびやかされるのではないかと思うくらい古文書の読める学者・研究者を集めているのが興風談所です。

(早坂鳳城「顕正会とは何か」、『現代宗教研究』第34号、2000年、日蓮宗宗務院、http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho34/s34_140.htm
───────────────


3.「四菩薩造立抄」は真偽未決
 「四菩薩造立抄」には偽書説もありますが、現在の学問的状況としては、【偽書であることがすでに確定している】とまではいえない状態だと認識しています。


4.真偽未決御書をどう取り扱うか
 【真偽未決御書をどう取り扱うか】という問題は、日蓮正宗系のみに固有の問題ではありません。

 日蓮宗系では、勝呂信靜先生が、1965年の時点ですでにこの問題について鋭いご意見を述べておられます(『日蓮思想の根本問題』、教育新潮社)。最近も、『現代宗教研究』第32号(1998年)の中で、以下のように論じておられます。

  勝呂信靜「御遺文の真偽問題-その問題点への私見-」
  http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho32/s32_086.htm

 また、『現代宗教研究』第39号(2005年)には、松森孝雄という方の「真偽未決御書の取り扱いについて」(pp. 168-176)というご論考が掲載されています。


5.口伝書の問題
 【真偽未決御書をどう取り扱うか】という問題に関連して、特に、【日蓮正宗系のみに固有の問題】といえそうなのは、【口伝書の取り扱い】だとおもいます。

 【口伝書を引用して正文に対抗しようとされる方】が日蓮正宗系にはたしかに存在するようです。わたしもじっさいに遭遇したことがあります(以下の記録を参照)。

  これから元気でBLOGの記録
  http://fallibilism.web.fc2.com/nblog.html

 残念ながら、こういった方は、ほとんど救いようがないように思います。【口伝書を引用して正文に対抗してもよい】とすでに考えている人は、たとえ、【正文】に以下のように書いてあったとしても、平気で「正文に相違」する口伝書を引用して正文に対抗されることでしょう。そうなってしまいますと、もうほとんど救いようがないように思います。

───────────────
慈覚・智証と日蓮とが伝教大師の御事を不審申すは親に値うての年あらそひ日天に値い奉りての目くらべにては候へども慈覚・智証の御かたふどを・せさせ給はん人人は分明なる証文をかまへさせ給うべし、詮ずるところは信をとらんがためなり

(「報恩抄」、全集、p. 307)
───────────────

───────────────
設い慈覚・伝教大師に値い奉りて習い伝えたりとも智証・義真和尚に口決せりといふとも伝教・義真の正文に相違せばあに不審を加えざらん

(同上)
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テレビが1ヶ月ぶりに見れました。 (みれい)
2007-09-03 22:55:03
Libraさん おばんです。

>日蓮思想を「自力です」というのはやはり誤りでは?

Libraさんがとらえるところの自力、他力は違うと思います。
そのような自力、他力なら私も否定します。

Libraさんは、浄土宗や真宗が「他力です」と言うと、やはり誤りだと思いますか?
言ってしまえば、仏教各宗派、自力であろうと他力であろうと、いまどきの各宗派の教えはいずれもかなり教学研究がなされているので、まずほとんどが釈迦の教えから離れるものではないと思います。(新宗教はとりあえず今回置いておいて)
ですから、自力も他力も超えているといえば、まぁすべてそうでしょうし、特色としてどこにポイントを置いているかは各宗派のカラーだと思います。
釈迦の教えの範囲内であれば、前回話したように『意味による』と思います。
私の意見も、すべて独自に二分化しては、その時点でちがうと思います。

私は法華経を取り扱うので日蓮宗の方ともお話しますが、日蓮宗信徒ではないですし、私が伺った教師の立場の方と同じ見解を示せるとは限りません。
日蓮宗の教えを厳密に検討されたいのであれば、直接日蓮宗に問い合わせてみてはいかがでしょうか。そのほうがいいと思います。
同時に他力も気になれば、浄土宗、浄土真宗各宗派に尋ねられると確実です。
法華経28品の分類法、扱い方なども日蓮正宗系とはどうやら違います。
日蓮の御遺文の扱いもかなり違うと思います。

Libraさんの法華経認識、日蓮教学認識も、創価学会、日蓮宗、日蓮正宗その他各部分から取り寄せた集合体で出来ているので、総合的には、日蓮正宗でもなく、日蓮宗でもなく、創価学会でもないものになって、もはやLibra流日蓮正宗になっていると思われます。
Libraさんにとって正しいと思えるものを集めたとしても、かといって、それが仏教として唯一限りなく正しいものだとも思いません。かといって間違いと言うわけでもないでしょう。ここでも二分化は無意味だと思います。

>日蓮が末法の衆生に期待したのは、『法華経』を如説修行することだけだったといっても過言ではないでしょう

ええ、そう思います。

>子供の自力を説くもの

?子供の自力を説くということは?
子供と自分は別の生きものです。
子供の成長と自立を促すのは親自身の菩薩行になるでしょう。
子供は親が育てて、やがて子供は自立していきます。
そして親は子を通して自分も親として育ちます。「育児は育自」とはよくいったもので。

>『法華経』=釈迦

末木さんは普賢菩薩品からの引用ですね。違和感ないです。
釈迦の教えを通じて法華経を見、日蓮の教えを見ればいいわけで。
http://www.chuogakken.org/seitenHP/index.htm
(音でます)
こちらでも、精進の欄を見れば「自ら精進する」ことを説いているかとおもいますが。
それに「精進」に着目するとしても、他の項目を否定しているわけではありません。


2.御書の真偽や真筆度
>興風談所

私は桐がないのでそれは扱えないので別のサイトから日蓮正宗御書は調べていますが、逆に興風談所だけですと、日蓮のすべての遺文の把握はできないでしょうし、真蹟なのに日蓮正宗系では扱っていない遺文まではわからないのではないでしょうか?

ちなみに昭和定本には【偽書であることがすでに確定している】とするものはひとつもないようです。真筆度の低いものをすぐさま偽書とはせず「疑書」「疑いが高い」としてみています。
学術的に検討したいのであれば、昭和定本一覧などに一度目を通してみてはいかがでしょうか。
私は現在資料3つ照らし合わせて、整理しています。

>これから

インターネットで思うことなのですが、批判例、悪い例、間違った例で「個人」を記事に取り上げて批判・否定するのは、私は賛同しません。
必要なのは批判の中身であって、個人ではないはずです。
人はさまざまなご縁によっていろいろ変わりますし、時間とともに成長もします。
やがて変わればその人はすでに悪い例の人、間違った例の人ではありません。
批判、批正にしても、相手という生身の人間に対する配慮は必要ではないかとおもわれますがいかがでしょうか。
これはそううそさんにもお伝えしたいのですが。
蝿にすぎなくとも (Libra)
2007-09-04 01:32:01
 みれいさん、こんばんは。


1.浄土宗は他力では?
 真宗はよくわかりませんが、浄土宗は他力と理解しています。


2.日蓮宗に問い合わせる???
 わたしはべつに【日蓮宗の教え】を検討したいわけではありません。【日蓮宗の教え】を持ち出されたのはみれいさんです。

 わたしは、【日蓮は自力を説く】という説に疑問を持ち、そして、きちんと理由を示して、【日蓮は自力を説く】という説は誤りなのではないかと論じただけです。


3.蝿にすぎなくとも
 たしかに、わたしの「法華経認識、日蓮教学認識」は、いろんな人の成果の「集合体で出来ている」のかもしれません。しかし、だからといって、わたしの意見が誤りであるということにはならないでしょう。

 少なくとも、わたしは、きちんと理由を示して意見を述べているわけですから、もし、わたしの意見が誤っているとおっしゃりたいのであれば、きちんと具体的に理由を示していただきたいとおもいます。

 わたしは蝿にすぎないかもしれませんが、牛を見る目は少しはあるつもりです。ヘタな牛よりも、蝿のほうが遠くにいけるということもあるでしょう。

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蒼蠅驥尾に附して万里を渡り碧羅松頭に懸りて千尋を延ぶ

(「立正安国論」、全集、p. 26)
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4.桐と「御書システム」
 桐には体験版があります。「御書システム」にも「一度目を通してみてはいかがでしょうか」。ちなみに、わたしは、過去に定本のデータを使っていたことがあります。


5.「真筆度の低いもの」と「偽書」の関係
 みれいさんは、「真筆度の低いもの」と「偽書」の論理的関係を理解しておられないように見えます。

 【真蹟が現存する】というのは、【真撰である】ことの十分条件です。すなわち、【真蹟が現存する】ならば【真撰である】といえます。
 
 しかし、【真蹟が現存しない】ということは、【偽撰(偽書)である】ことの必要条件にすぎません。【偽撰(偽書)である】ならば【真蹟が現存しない】ことになります。しかしながら、【真蹟が現存しない】からといって、かならずしも【偽撰(偽書)である】ということにはなりません。

 【真蹟が現存しない】ということは、【偽撰(偽書)であると疑う余地が存在する】ということにすぎません。【偽撰(偽書)である】か否かは、内容等にもとづいて判断するほかはないでしょう。

 「真筆度の低いもの」というのは、【真蹟が存在した証拠の度合いが低いもの】という意味でしょう。この度合いが低いからといって、そのことによって【偽撰(偽書)である】という確からしさが増すわけではありません。じっさい、「諸人御返事」などは、もともとは「録外に属し、真蹟が存在しなかった」ので、かつては「真筆度の低いもの」だったわけですが、「大正時代に至って真蹟が発見された」のです。

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 しかし真蹟(断簡)が存在しないということは偽書説の消極的な理由にすぎない。実在したが失われたという可能性を否定することができないからである。さきに引用した『諸人御返事』は録外に属し、真蹟が存在しなかったのでやゝ信頼度が少ないもののように見られて来たが、大正時代に至って真蹟が発見されたものであるという。こういう例もあることであるから、真蹟の存在しないことは偽書説の積極的根拠とはならない。

(勝呂信靜「御遺文の真偽問題-その問題点への私見-」、『現代宗教研究』第32号、日蓮宗宗務院、1998年、http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho32/s32_086.htm
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6.「真蹟なのに日蓮正宗系では扱っていない遺文」とは?
 「真蹟なのに日蓮正宗系では扱っていない遺文」というのは具体的にはどの遺文のことをおっしゃっているのでしょうか。そのうち、「御書システム」に収録されていないものはいくつありますでしょうか。「興風談所だけですと、日蓮のすべての遺文の把握はできないでしょう」とおっしゃったからには、それくらいは確認されてみてはいかがでしょうか。


7.「からぐらデータ」
 全集未記載の遺文のデータとしては、以下もすぐれています。このデータも、みれいさんの分類では「日蓮正宗系」ということになるでしょう。

  からぐらデータ
  http://www.ginpa.com/karagura/system/kdata.html


8.誤りを改めることは恥ずかしいことではありません
 批判というのは、誤りを指摘することです。そして、誤りは誰でも犯すものです。批判されて、運良く誤りに気づくことができ、誤りを改めることができるということはとてもラッキーなことです。決して恥ずかしいことではありません。

 むしろ、恥ずべきなのは、【自分の誤りをごまかそうとしたり、隠そうとすること】でしょう。
 
 わたしは、自分の意見に誤りがあれば、どんどん指摘してもらいたいと考えています。
訂正です(「牛」→「馬」) (Libra)
2007-09-04 02:38:45
誤:「牛を見る目は少しはあるつもりです。ヘタな牛よりも」

正:「馬を見る目は少しはあるつもりです。ヘタな馬よりも」
みれいさんへの意見の続き (Libra)
2007-09-04 19:50:26
9.日蓮は自力にポイントを置いている?
 みれいさんがおっしゃるところの「自力です」の意味は、文脈からいって、【他力よりも自力にポイントを置いている】ということなのでしょう?
 だったら、【他力よりも自力にポイントを置いている】ことを示す日蓮遺文を引用するなどされればよいだけの話ではないのでしょうか。


10.「すべて独自に二分化」???
 この件について【二分化】しておられるのはみれいさんの方ではないでしょうか。わたしは、最初から【自力か他力かの二者択一ではない】といっていますので(このコメント欄、2007-08-29 19:47:24)、いってみれば、以下のように【三分化】しているわけです。

  A.【他力よりも自力にポイントを置いているタイプ(自力型)】
  B.【自力と他力のどちらにもかたよらないタイプ(バランス型)】
  C.【自力よりも他力にポイントを置いているタイプ(他力型)】

 【仏教というのは、もともと、タイプCであり、日蓮もタイプCである】というのが、わたしの一貫した主張です。


11.良医病子の譬喩は自力にポイントを置いている?
 前回の「育児は育自」なるコメントを読むかぎりでは、みれいさんが【三車火宅の譬喩】や【良医病子の譬喩】の内容をご存知であるようにはとても見えないのですが、みれいさんはこれらの譬喩の内容をご存知なのでしょうか。これらの譬喩の内容をふまえた上で、「育児は育自」なるコメントをお書きになったのであれば、譬喩の内容と「育児は育自」がどのように関係するのか説明していただけないでしょうか。

 わたしには、これらの譬喩が【他力よりも自力にポイントを置いている】とはとても思えません。


12.みれいさんは偽書説を1つでもご存知なのでしょうか?
 そもそも、みれいさんは、具体的な「疑書」について、1つでも「学術的に検討」されたことがおありなのでしょうか。

 偽書説というのは、研究者が論文や著作などの中で、具体的な【論証】という形で発表するものです。昭和定本をいくらながめてみても、【現在、どのような内容の偽書説があって、それに対して真撰説を支持する側がどのように反論しているのか】といった「学問的状況」はわかりません。わたしがいった「学問的状況」(このコメント欄、2007-09-02 14:34:50)というのはそういう意味です。「学術的に検討」するということは、このような「学問的状況」を検討するということでしょう。


13.正しくもなく間違いでもない???
 「Libraさんにとって正しいと思えるものを集めたとしても、かといって、それが仏教として唯一限りなく正しいものだとも思いません。かといって間違いと言うわけでもないでしょう。」とのことですが、わたしは、意見を述べるさいには、その意見を正しいと思う理由を具体的に示しています。それらの理由は、特定の立場の人にのみ通じるようなものとして示しているわけではありません。それらは、どのような立場の人からの批判にも開かれています。わたしの意見を正しくないと思われる人は、それらの理由に対して自由に異論を述べることができます。それが、【議論】であり、【討論】というものでしょう。

 【人類の知識】というのは、このような議論によって【進歩】していきます。ある人(Aさん)がきちんと理由を示した上で意見を述べているのに対して、「Aさんにとって正しいと思える意見を集めたとしても、かといって、それが唯一限りなく正しいものだとも思いません。かといって間違いと言うわけでもないでしょう」などといってしまっては、そこで議論はストップします。知識の進歩はストップします。したがって、そのような考え方(「姑息な相対主義」とでもいうべきか)は、【人類の知識の進歩】にとって大きな障害になるとわたしはおもいます。

 さて、日蓮の思想に関するわたしの意見は、【正しい】か【間違い】かのどちらかでしょう。日蓮という人は鎌倉時代に実在した一人の人間なのですから、その人の【実像は1つ】でしょう。日蓮という人は過去に一人いただけです。日蓮遺文の読者の数だけ日蓮が存在したわけではありません。

 もっとも、日蓮遺文の読者が思い描くさまざまな日蓮像のうち、どれが最も正しいかという【解答】は、【無限の議論のかなたにある】というほかはないでしょう。無限に続くであろう討論の過程においては、【厳しい批判に今のところ耐えている日蓮像】が【実像の候補】として生き残っていくわけですが、それは1つに絞られるとは限りません。よって、暫定的な解は常に多元的となりえます(多元主義)。

 論理的にいえば、【日蓮の思想に関するわたしの意見】は、【正しい】か【間違い】かのどちらかです。したがって、【正しい】か【間違い】かの「二分化は無意味」ということはないとおもいます。

 わたしの意見が【正しい】かどうかは、すでに討論の中に投げ込まれています。厳しい批判に耐えることができなければ【間違い】ということになるでしょう。その時、わたしの知識は、一歩前進できることになります。


14.「四菩薩造立抄」等は日蓮宗でも使っています
 「四菩薩造立抄」について、みれいさんは、「日蓮正宗の方はしばしば使われるようですね」(このコメント欄、2007-09-02 11:34:40)とおっしゃっていますが、日蓮宗「において日蓮聖人の宗教思想に関する最高の権威ある指南書」である「勧学院監修の『宗義大綱読本』」にも「四菩薩造立抄」は引用されています(前掲の勝呂先生の「御遺文の真偽問題」を参照)。

 また、みれいさんが「『平成新修遺文集』には収録すらしていない」(このコメント欄、2007-08-31 00:53:41)とおっしゃっておられる「破良観等御書」も『宗義大綱読本』に引用されています。
Unknown (そううそ)
2007-09-04 20:44:18
こんばんは。Libraさん、みれいさん。
いつもお世話になっています。
遅くなって大変に申し訳ありません。

コメントをざっと読みましたが、偽書説や日蓮観にしろ話が広がりすぎてしまいましたね。
それと、みれいさんの

>批判例、悪い例、間違った例で「個人」を記事に取り上げて批判・否定するのは、私は賛同しません。
(中略)
>これはそううそさんにもお伝えしたいのですが。

当然の事かと思います。一応、私としては議論を絞り込むために記事を分けています。
Libraさんが不愉快や疑問に思うのであれば、分けた記事を先の記事のコメントに戻す事は可能です。
Libraさんであれば個人の持つ意見の批判をなさる方ですから大丈夫なのではないでしょうか?

また、過去においてバリ活学会員との議論で言い争いを記事に分けました。
私としては議論を絞り込むために記事を分けています。
問題を起こした学会員はほとんど全員マナーがなっていないので

”「個人」を記事に取り上げて批判・否定したかのようにみえるのでしょう。”

1-21の記事の頃にもマナーの問題でしたし、ゆっちさん蛙さん問題も私にとってはマナーの問題が非常に大きなウェイトを占めました。

しかし、お二人とも凄い知識量ですね。最近は「みれいさん」「Libraさん」と「さん付け」呼んでいますが、過去記事の通りやはり色々教わる事の出来る「師匠」だなぁ~と思います。立正安国論解釈と様々な議論については私からコメントできる所は出来るだけしたいと思います。又改めて書かせて下さい。とりあえずは私の記事の内容について話を進めたいと思います。

「みれいさん」「Libraさん」本当にこんなにも沢山コメントを頂き有り難うございます。

立正安国論について学んだ事。>各位 (そううそ)
2007-09-04 21:27:17
 立正安国論についてあるお坊さんをはじめ、何人かの人と一緒に勉強する機会を得てそこで「害す、殺す」ということについて私から質問しました。私個が納得がいく回答そのものには至らなかったのですが、立正安国論のトータル精神としては、(私個人の未だ曖昧な結論なのですが、)

1.厳しく生きた日蓮が政治家側に法華経を法律(あるいは根拠、理由)の一つとして立正安国論を提出している。

 自分より立場の強い相手(政治、武士集団)や人間(僧侶を含む政治家関係者)に異論を唱えたわけですから、日蓮自身に殺されても仕方ないという覚悟はあったのかもしれません。

オウム真理教はポア思想があって犯罪である人殺しを肯定して実際に行動したわけですが、
鎌倉時代の武士は無用な人殺しはしなかったかもしれませんが、人を殺す事は当時としては当たり前だったでしょう。

2.鎌倉時代の庶民が苦しい時代背景があり、法然の選択集が理由となって現実逃避する思想(人間の生き方)となっていた。

3.「立正」と書かれているが、何が正しい行いなのか?

 とある僧侶の方からは、主旨ですが下記のように教えて頂きました。

 2をふまえた上で、現実逃避するのではなく、
現実世界で起こる問題は全部人間が起こしたモノだから人間が解決しないといけない。
現実の中でお互いに世の中を良くするために出来る事、助け合う事、関わる事が立正の「正しい」。

つまりは現実の行動や実践が大事なのかもしれません。ただお題目をあげているだけでは駄目な気がします。
近日中に立正安国論もきちんと納得のいく形で僧侶の方に聞いてくるつもりです。

また改めて合宿参加の記事は書くと思います。


 創価学会でも現実の生活を大事にしなさい、日蓮の遺文の通り仕事を法華経と思って実証を示しなさい、という指導はあります。但し、婦人部男子部に至っては、学会活動を最優先した上で生活を大事にしなさい、と言う指導です。会合参加、折伏、新聞啓蒙、創価班任務、ご供養など学会活動をする事によって宿命転換が出来る、功徳がある、というものです。

しかし実態はバリ活婦人部宅に伺えば家の家事や育児はほったらかして家の中は滅茶苦茶というケースは幾度も見ましたし、過去記事の通り、「親が子供にご飯を食べさせない」という複数の証言があります。実際はもっと無数にあるのでしょう。
Unknown (そううそ)
2007-09-04 22:36:21
今の私の考えを整理整頓したいと思います。

1.日蓮は他経も必要と考えていたのか?
(よく分からないのですが、)立正安国論の執筆当時、日蓮は法華経最第一と考えていたが、他経も必要と考えていたと思う(?)
(よく分からないのですが、)晩年の日蓮は法華経最第一と考えていたが、他経も必要と考えていたのか?

2.末木さんのアジテーションという事には賛成できそうです。

念仏無限地獄←→念仏は極楽浄土を求めているがその正反対。
律国賊←→?何の正反対だろう?
禅天魔←→禅は座禅によって仏の境涯を求めているがその正反対(?)
真言亡国←→真言は護国を祈っているがその正反対。

少なくとも法然「諸経を捨てて念仏だけを唱えて西方浄土を求める現実逃避」に批判を加えたのであって、上記の4に書いた、他経も必要と考えたのか?
念仏だけを唱えることを自体を否定したのかは分かりません。

3.記事の内容について

>「私のいうことを聞いて他宗の人間を殺せ」
>対話、説得、慈悲ではない攻撃的な面です。
>歴史的な順序がよく分かりませんが、日蓮の弟子が殺されたこともあったようですし、

上記は未だに勉強中、及び考え中です。

>★日蓮に他者批判、他宗排除、「害す、殺す」などの攻撃的な面があったのは間違いないと思います。

ここは一部訂正します。
3-1.日蓮に他者批判や他者批判はあっても良かったと思います。
3-2.他宗排除については、私の日蓮思想トータルの読み違いがある気がしてきました。
立正安国論の執筆当時、日蓮は法華経最第一と考えていたが、他経も必要と考えていたと思います。

3-3.晩年も他経も必要と考えていたのか?

1と重なりますが、
(A)晩年や日蓮の一生トータルとしてはどうだったのかは今の私には不明です。
むしろ、「法華経だけでよい」「題目だけでよい」「本尊だけでよい」(信心の血脈は創価だけしかない)というのは残念ながら法然と同じく「念仏だけでよい」というカルト思想に近くなってしまうと思います。

現代社会で念仏(禅や真言など)を唱えて現実世界を良くしよう、という思想があるかもしれません。
少なくともキリスト教は「現実世界を良くしようと行動した」マザーテレサがいましたしこのあたりは慎重に判断したいです。

(B)「害す、殺す」などの攻撃的な面については創価の「のたれ死ぬまで攻め抜け」と一致してしまいますし、私の心の中の罰論、地獄論にも関わるので慎重にしたいと思います。日蓮の遺文に多数、「害す、殺す」という記述が見られるのもどう解釈して良いのか困っています。

(A)と(B)は鎌倉時代の日蓮の問題点と、現代の日蓮門下の抱えている乗り越えるべき問題点ですね。その点、Libraさんは私の知る中で限りなく安心、安全というか、マイルドな考え方を持っていらっしゃいますね。

とりあえず、ここまでは整理整頓できました。他の記事項目については訂正は不要と考えています。
意見としては変わりません。

1の

日蓮の真意は別にしても日蓮が立正安国論において「首をはねよ」と””考え書き顕してしまった事自体””は鎌倉時代の人間としては普通かもしれないが現代では通用しない (一部修正)

この様に考えます。国柱会や創価学会、顕彰会は明らかに日蓮を誤解しているか悪用していますから ”結果的に” 問題だったと考えます。
日蓮系の信仰をする人は慎重に議論する必要があるのかもしれません。

>2.創価学会の教義と思想
>3.いわゆるアンチ創価と呼ばれる人々の注意、警鐘、警告、アドバイス

>★いわゆるアンチ創価と呼ばれる人々としては「”現代の”創価学会が持つ日蓮的カルト思想の危険性」(日蓮仏法の危険性ではない)を一般人、及び学会員の関係者に訴えることは当然のことでしょう。

ここの記事でなく先の記事では特に誤解ないようにして頂きたいのですが、

【「”現代の”創価学会が持つ日蓮的カルト思想の危険性」を一般人、及び学会員の関係者に訴え】ています。

ですから ”鎌倉時代の”【日蓮仏法の危険性】とは別です。
あくまで、創価学会が持っている、【日蓮的カルト思想】が問題でしょう。

 私のブログだけでもこれだけ創価はおかしいのですから、地獄論や罰論も嘘があるはずなのですが、MCされていて思考停止して頭の中や心の中で整理が着かないのでしょう。但し、Libraさんとのやりとりの途中から、私、そううそが「やっぱり鎌倉時代の日蓮も危険思想の持ち主だったのでは?」考えたのも事実です。上記の様な感じで考えを変える事が出来るかもしれません。

4.私が考える日蓮の大きな問題点

 上記にも書きましたが、やはり、日蓮の遺文に多数、「害す、殺す」という記述が見られるのもどう解釈して良いのか困っています。近日中に重要な真筆遺文だけでも抜き書きを記事にしようか悩んでいます。膨大な作業になるので困りました。
訂正です(「C」→「B」) (Libra)
2007-09-04 23:30:06
誤:【仏教というのは、もともと、タイプCであり、日蓮もタイプCである】というのが、わたしの一貫した主張です。

正:【仏教というのは、もともと、タイプBであり、日蓮もタイプBである】というのが、わたしの一貫した主張です。
ラスト (Libra)
2007-09-04 23:39:10
 そううそさん、こんばんは。

 もう十分に指摘しましたので、これを最後にいたしますが、日蓮は立正安国論においては「首をはねよ」などとは主張していません。それは、第八問答を読めば明らかです。
Unknown (みれい)
2007-09-05 02:18:40
Libraさん こんばんは

Libraさんの主張が飲み込めました。
私は結論として「意味による」と書いていますが、それはLibraさんにとっては二元的ではないので採用できないということですね。
ここが話がずれているポイントでしょう。

逆に二元的な思考法は私は採用しないので、私にとっては、日蓮宗が「自力」で、Libraワールドの中で「自力でない」でも、特に構わないわけです。
見解や立ち位置や定義が違えば、出る答えも違います。
たぶんこの考え方の違いで結論を出そうとしても、どれだけ引用文が出ても、ひょっとしたらかみ合う事はないかもしれません。

>良医病子の譬喩は自力にポイントを置いている?

誰がそのような話を?
私が出したのはLibraさんの「子供の自立・・・」という話に対してです。
三車火宅であろうが良医病子であろうが、衣裏繋珠であろうが、七喩を菩薩行に応用されるシーンはその家庭の必要な場において違います。
育児において喩の応用は「子供が」ではなくて「親自身が」育児を通して行われます。

>しかし、だからといって、わたしの意見が誤りであるということにはならないでしょう。

だからもなにも、誤りだとはこちらはひと言も発していないです。

>「真筆度の低いもの」と「偽書」の関係
>みれいさんは偽書説を1つでもご存知なのでしょうか?

そちらが書いてあることは把握しておりますよ。
近年真蹟が見つかった件も存じています。
紹介のサイトも以前に読んでおりますよ。

>「四菩薩造立抄」等は日蓮宗でも使っています。

日蓮宗での御遺文の扱いはすでに前もって聞いておりますよ。
というか、御遺文で捨て去るものは一つもないことも以前伺っております。
ただし扱うにしても、日蓮宗と日蓮正宗ではその扱いが違うことも伺っていますし、Libraさんはすでにオリジナル宗になってるので、そこをLibraさんはどう扱っているか尋ねたわけです。
引用文を出されるだけではどこの見解に寄っているのかわかりかねるので質問したわけです。
『宗義大綱読本』に関しても同じサイトを以前読んで知っておりますよ。

現在私が調べている資料では、真筆度と昭和定本のほかに、平成新修 行道文庫 御書全集 昭和新修 平成類纂 縮刷遺文 昭和新定 真蹟集成 遺文講義 遺文全集 遺文講座 岩波思想 岩波古典 岩波文庫 中央公論 筑摩仏教 筑摩仏典 大正新脩 国訳一切の掲載に関して載っています。(正直、個人的にはこんなに必要ない)

逆に学会員さんのLibraさんにお聞きしたいのですが、御所システムは日蓮正宗系と仰っていましたが、ごく一般に学会員(日蓮正宗)の持っている御書と、御書システムであつかっている御遺文とは扱う数や御遺文が違うのでしょうか?同じであれば特に必要ないのですが。

魯の人さんはいろいろ頑張っていらっしゃいますね。
もちろんLibraさんの知識の膨大さも凄いと思います。

>わたしは、自分の意見に誤りがあれば、どんどん指摘してもらいたいと考えています。

これまで私のほうからいくつか御指摘させていただいてますが、Libraさんが数々スルーしてきたものはどうなるのでしょうか。
まぁ人はスルーしたいこともあるのだろうと思っておりますけども。

>【人類の知識】というのは

(Libraさんが悪しきと呼ぶ)「相対主義」になる必要はありませんが、
時に「相対的」に考えてみたり、「多角的」に考えてみたり、俯瞰してみたりする必要はあると思います。
相対的に考えることがすぐに相対主義ではありません。
論じ方に幅はあったほうがいいと思います。
TPOに応じて変化する柔軟性はむしろ必要だと思います。
それが観音菩薩行であり、般若の「知恵」だと思います。

実際のところLibraさんの知識量は人並みはずれて優れているのはとてもよくわかりますが、理論的だとしても、すべての意見を二元論で解決しようとするのは、やはり不十分になることもあると私は思います。

以前曽我さんからも少しお話が出たと思いますが、分別知に加えて、無分別知はおきざりにされないほうがいいと思います。

>したがって、【正しい】か【間違い】かの「二分化は無意味」ということはないとおもいます。

私は「二分化は無意味」とも書いていないのですが。
それにしても、二分化して一つの意見を出すとしたら、共通の定義が定まったうえでの議論で成り立つ話です。
提出される定義が共通していないのであれば、最初から議論にはなっていないと思われます。

あと、全般的にしばしば気になっているのですが、
私の言葉の引用の時に、こちらの話をねじまげられています。
Libraさん流に二分化されている時もあります。
それから憶測で書かれていたりします。
目的はなんであれ、こちらの話はそのまま汲み取っていただかないと困ります。

あと、素朴に思うのですが、厳しい批判を求めるのならば、浅学の私よりも直接日蓮宗に問い合わせたほうが、宗務研究所も持っていますし、Libraさんにとってより厳しい御批正をいただけると思いますが、それをオススメしてもされないのはまた理由があるのでしょうか。
Unknown (そううそ)
2007-09-05 02:59:09
ちょっとすれ違いが多く見受けられるので記事、コメントを纏めます。

1.
////////////////////
創価学会の信仰に功徳はあるか? 地獄論、罰論、メモ(その1)
http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/1bcb282c40eb61349ba73d71e27046c0

>涅槃経自身が現代にそぐわないオウム真理教のようなポア思想が書かれているんですね。
////////////////////

上記の記事で私、そううそが立正安国論に「首をはねよ」書いてあるとは言っていません。
涅槃経は客の立場でも主人の立場でも両方において書かれています。
また、私はチョンガーさんの『立正安国論』解説記事に概ね賛成しています。



2.
富士門BBSにおいての日蓮一生トータルとしての皆さんの見解にも賛成しています。
素朴な疑問
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1014180269/3318-3332
(自分で調べたわけでないのでまことに申し訳ない限りです。m(_ _)m)



3.
>『立正安国論』は正しく読みましょう (Libra@かじってナンボの商売だ)
2007-08-14 23:10:15
(中略)
>日蓮の過激な言動を見るとき、これは意外にも見えるが、日蓮は決して暴力主義者ではなかった。確かに本書の第七問答では、殺生をも辞さないという文面が見られるが、その点を問題にした第八問答では、「釈迦以前の仏教では、罪人を斬るけれども、能忍(釈迦)以後の経説では、その人への布施を止める」(二二四)と、釈尊以後の仏教では、悪法に対して布施しない、すなわち、経済面での非協力こそ、悪法廃絶への道であるという信念を明らかにしている。
(中略)

ここにおいてLibraさんのご意見は下記の通りでしょうか?

「釈迦以前の仏教では、罪人を斬るけれども、能忍(釈迦)以後の経説では、その人への布施を止める」

 現代人のLibraさんが重視されているのは「その人への布施を止める」の部分ですね。
私も現代人として賛成します。
(私個人は創価の「青年よ、仏敵を打ち砕け。学会迫害の悪人は厳罰でのたれ死ぬまで攻め抜け」は当然反対の立場です。)
Libraさんと末木さんのご意見は、鎌倉時代の日蓮自身も「その人への布施を止める」事を重要視したということですね。

しかし、私は鎌倉時代の日蓮自身が「その人への布施を止める」事を重要視したのかは未だ半信半疑です。

以下に理由を書きます。


4.
 日蓮が 「法華経をフィクションではなく、実話であると認識している」 というのはLibraさんのご意見ですから、涅槃経をもある程度は信じきっていたのではないでしょうか?
 つまりは他の日蓮遺文に「首をはねよ」という主旨の遺文がある事からしても、立正安国論執筆当時も涅槃経の殺害精神を100%肯定でなくてもある程度、状況次第、相手(の謗法)次第で肯定も否定もしたのではないでしょうか?

 ここで重要なのは(我々現代人が陥りやすい)神格化された日蓮や本仏論化された日蓮ではなくて、様々に悩み考え様々に意見を言った人間としての日蓮が、ケースバイケースでその人の罪を否定も肯定もしたのでは?MC論にある白黒、2極論ではなく、100%許されないとか、100%絶対に問題ないという極端な思考ではなかったのではないでしょうか?
(今はこの根拠がパッと書けません。申し訳ありません。)



5.記事の再訂正。

×
>当時の常識の一つとして「首をはねよ」といったと考えています。


当時の常識の一つとして(場合によっては)殺生をも辞さない、という姿勢や考えがあったのでは?と考えます。

に訂正します。

>「私のいうことを聞いて他宗の人間を殺せ」

これも取り下げます。


////////////////////
立正安国論について学んだ事。>各位 (そううそ)
2007-09-04 21:27:17
 立正安国論についてあるお坊さんをはじめ、何人かの人と一緒に勉強する機会を得てそこで「害す、殺す」ということについて私から質問しました。私個が納得がいく回答そのものには至らなかったのですが、立正安国論のトータル精神としては、(私個人の未だ曖昧な結論なのですが、)

1.厳しく生きた日蓮が政治家側に法華経を法律(あるいは根拠、理由)の一つとして立正安国論を提出している。
////////////////////

日蓮は自分に厳しく生きたようですから他の僧侶にも経文を基準、根拠、理由として話し合いを望み、僧侶同士の意見の違いを政治でもあり警察でもある当時の武士階級に求め、判断を仰いだのではないでしょうか?

そしてもう一度立正安国論を読み返してみると、主人と客のそれぞれ立場ですが、客は僧侶、政治家どちらにも当てはまります。
対話主義であると思います。


>立正安国論においては残念ながら、仏教思想の一面である縁起、無常、無我、その延長としての対話や説得や慈悲(?)という姿勢ではないと思います。
>対話、説得、慈悲ではない攻撃的な面です。

一部分だけを取り出して、「対話や説得や慈悲(?)という姿勢ではない」は誤りですね。

もう一度立正安国論を読み返してみると、主人と客のそれぞれ立場ですが、客は僧侶、政治家どちらにも当てはまります。
対話主義であると思います。
くりごはん (みれい)
2007-09-07 08:14:51
>律国賊

真言律宗は忍性さんじゃないですかね?
良観房忍性さん
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%8D%E6%80%A7
http://www.town.miyake.nara.jp/html/machi_info/kanko/ninsho.html

良寛さんとよく間違えられる。

すごい悪人扱いされていますが、見習う点もありますね。
私も入信し辞めました (ユアン)
2007-09-07 14:47:11
4年位入信し辞めました。
「良く辞めれたね」と言われたけれど
堪忍袋の緒が切れるとはこのことです。

辞めるためにたくさん図書館で文献を読み漁り
日蓮の行った行為は「他宗を認めない」
認めないどころか殺していました。

近くになる法華経の寺では
「法華経こそ最強」と書かれていました。

他宗を認めない=殺してもいい 
エシカルエゴイズムの原点のような方です。

「日本の柱になりたかった」という彼の意向を汲んで
必死で公明党で政治活動していますが
公明党も学会員のいうことも支離滅裂だと感じます。

「平和」と説いていながら間違った戦争に自衛隊を派遣する。
また「~に仏罰を!」と祈らされました。
本末転倒ですよね?
人の幸せを願う仏教が「他人の不幸」を願ってしまうのですから・・・。

またお金がない私にあれこれ「何か書物をとってくれ」とうるさい限りでした。
一緒に住んでいる彼は学会に反対してました。
それなのに「彼の分も新聞を取って」と訳のわからないことを・・・。

貧乏でもできるのが学会ではないのでしょうか?
仏教ってそんなにお金がかかるのでしょうか?
お布施ランキング、新聞啓蒙ランキングっておかしいですよね。
結局はお金がある人の地位が上がっていく仕組みです。

彼も両親も反対していた意味がわかり退会しました。
私が感じたのは、都合がいい時だけ頼みごとをしにきてあとはほったらかしです。
また、大作さんのスピーチはレベルが低いです。
「かのニーチェが・・・」とか引用しまくりです。
自分の言葉ではほとんど話していません。
誰でも本の引用を使えば話せる内容です。
それを疲れた体を引きずってまで聞きに行く必要がないと感じています。

とにかく倫理的自己主義だけは変えて欲しいですね。
本当に学会員が近くに住んでいるだけで吐き気がします。

Unknown (そううそ)
2007-09-08 08:49:56
ユアンさん
はじめまして。

ブログの紹介有り難うございます。

>日蓮の行った行為は「他宗を認めない」認めないどころか殺していました。
>他宗を認めない=殺してもいいエシカルエゴイズムの原点のような方です。

日蓮観については私もLibraさん達から学んでいます。
教団都合や、信者都合でない日蓮観を見つけるのは難しく、大変な事ですね。


>公明党も学会員のいうことも支離滅裂
>本末転倒ですよね?
>「他人の不幸」を願ってしまう

全く同感です。

>一緒に住んでいる彼は学会に反対してました。

良かったですね。

>「彼の分も新聞を取って」と訳のわからないことを・・・。

必殺(笑)マイ聖教ですか。(-_-)。。。。。

貧乏でもできるのが学会ではないのでしょうか?
仏教ってそんなにお金がかかるのでしょうか?

学会はお金持ちですよ?書籍にもネット上にもありますね。

>彼も両親も反対していた意味がわかり退会しました。

良かったですね。

>都合がいい時だけ頼みごとをしにきてあとはほったらかしです。

私もそうでした。
退転してからも選挙頼まれました。

>大作さんのスピーチはレベルが低いです。
>自分の言葉ではほとんど話していません。
>誰でも本の引用を使えば話せる内容です。

(大笑)
もっといってやって下さい。ヽ(^o^;)ノ

今後ともよろしくです。
コメントありがとうございます (ユアン)
2007-09-08 10:08:33
なんだかほっとしました。
大きな勢力と闘うのは大変ですよね。
これからもよろしくお願いします♪
Unknown (そううそ)
2007-09-08 11:20:48
×
学会はお金持ちですよ?書籍にもネット上にもありますね。


学会はお金持ちですよ?書籍にもネット上にもそのように書かれていますね。
Unknown (散歩虫)
2007-09-08 22:48:30
そううそさん

こんばんは(^ー^)

日蓮像に関する一連の記事、興味深く読ませていただきました。

わたしが改めて思うのは、日蓮ほど、こんなに色んな風に受け取られる人も、他にいないのではないかということでした。

1200年代に生きた人が、本当はどんな人だったかなんて、
現場を見ていないのだから現代の人には誰にもわからない、というのが、わたしが思うことです(笑)

現代人でも、かなり過激な言葉で世間を賑わすようなキャラクターはたくさんいると思いますが、
そういう人たちの実際のメンタリティーがどんな風かは、実際に会ってよく話してみないと解らなかったりします。

なのですが…
そういうことよりも、わたしが今、一番興味があるのは、
現代の、日蓮をめぐる様々な立場の方々が、
「日蓮とその御書を使って、実際に何をしているのか?」です。
そううそさんもよく仰る、「目的」。
日蓮を語る人はたくさんいますが、その「語る人」がどんな人なのか。


それと、前々からお伝えしようと思っていたのですが、
特定の宗教団体を辞めたら地獄に落ちる、という罰論について。

もしも、そううそさんが、学会を辞めたことにより地獄に落ちるとしたら、
そこには散歩虫もいるはずです(笑)
たぶん、何百万人とか何千万人の、学会批判者や脱会者が、
地獄に大集合です。

変な言い方ですが、なんだか楽しそうではないですか☆

(いや、実際に地獄なんてあるとは思っていませんが)
地獄の効用 (Leo@隠居)
2007-09-13 23:26:00
みなさん、こんばんは。(ちょっと一言)

私にとって地獄とは平和や幸福をうたって勧誘や寄付や票依頼を無間に続ける世界であったりしました。

それに...「地獄への道は人びとの善意によって舗装されている」だそうです。

Re: 地獄への道は人びとの善意によって舗装されている (Enjoylife)
http://wame.seesaa.net/article/16676845.html

あと「入会しなければならない」とか逆に「脱会しなければならない」の「ねばならない」の世界も結構地獄かもしれないです。(結局は心の中の世界なんですけど)

私は地獄を体験したおかげで(そんな大げさなものではないですが)普段のなにげない瞬間というのが結構幸福だったりしますです。
(続き)ちょい地獄とプチ幸福 (Leo@隠居)
2007-09-13 23:55:13
>私にとって地獄とは平和や幸福をうたって勧誘や寄付や票依頼を無間に続ける世界であったりしました。

尊敬できそうもない疑問な人を尊敬したり、考えを停止したり、命令されるや服従というのも地獄だったかもしれないです。

>私は地獄を体験したおかげで(そんな大げさなものではないですが)普段のなにげない瞬間というのが結構幸福だったりしますです。

私は元々幸福というものはほとんど興味がありませんでした。ですがそれを得るのは意外と簡単でして、不幸を予測してできる限りそれ回避すればよいのですね。あるいは幸福などないと思って頑張るのも幸福なのかもしれないです。
Unknown (そううそ)
2007-09-15 07:28:34
散歩虫さん
おは!です。
お返事が遅くなってすいません。

>日蓮ほど色んな風に受け取られる人も他にいない

そうですね。日蓮に様々な伝説(祈雨や彗星)があったり、流罪された事、一般庶民には優しく、目上の人には厳しかったので人気があるのかもしれませんね。

源義経同様、人気のある人だと思います。

>本当はどんな人だったかなんて現代の人には誰にもわからない、というのが、わたしが思うことです(笑)

(笑)(^o^)/確かに。

>「日蓮とその御書を使って、実際に何をしているのか?」です。
>そううそさんもよく仰る、「目的」。

このあたりはものすごく同感です。
私のブログに文句を言いに来る学会員は目的感や話す手順についてまったくバラバラで何がしたいのか言いたいのか不明な人がいますね。日蓮正宗の人にも多かれ少なかれ感じています。

>もしも、そううそさんが、学会を辞めたことにより地獄に落ちるとしたら、
>そこには散歩虫もいるはずです(笑)
>変な言い方ですが、なんだか楽しそうではないですか☆

え”ーー!!!???
ヽ(^o^;)ノヽ(^o^;)ノヽ(^o^;)ノヽ(^o^;)ノ(大笑)

確かに楽しそうだぁ。
なんだかとってもホッとするコメント有り難うございました。
Unknown (そううそ)
2007-09-15 07:45:58
ご隠居!。(水戸黄門みたいだw)
おはようございます。です。

>勧誘や寄付や票依頼を無間に続ける世界であったりしました。

そうですね。常に折伏、ご供養をしつづける無限地獄ですね。

それに...「地獄への道は人びとの善意によって舗装されている」だそうです。

Re: 地獄への道は人びとの善意によって舗装されている (Enjoylife)
http://wame.seesaa.net/article/16676845.html

>善を為そうとして悪を為してしまう現実

仰るとおりかと、、、。

私は創価学会員でした
http://blog.livedoor.jp/how_to_go/

ここを思い出します。。。。。。

>「入会しなければならない」とか逆に「脱会しなければならない」の「ねばならない」の世界も結構地獄かも

MC論や心理学上、明らかに問題と思える言い争いや戦いを好む人がいるようですね。
「戦わねばならない」
「粉砕しなければならない」

( 日本人全員日蓮正宗に入会しなければ日本は滅ぶ(K会) )

同感、、、、とは言えません。まだ勉強中です。
ある僧侶の人から、四箇の格言では「念仏無限地獄とは一体なにをさして日蓮が地獄といったのか?」ということでした。

どうも日蓮が言っているのは「心の問題」のらしいです。

>普段のなにげない瞬間というのが結構幸福だったりしますです。

そうですね。最近、創価家族というものに吐き気というか嫌な言葉だなぁ、、って思うようになりました。

>尊敬できそうもない疑問な人を尊敬したり、考えを停止したり、命令されるや服従というのも地獄だったかもしれないです。

私も時間とお金を搾取されるばかりの池田氏の奴隷はゴメンですね。

>あるいは幸福などないと思って頑張るのも幸福なのかもしれないです。

うぉ!
なんだか、悟り、っぽいです。かっこいい~(笑)

>皆さんへ
来週あけからまた記事を書けるかも?草稿記事やネタはいっぱいあるんですけどね。(^_^;A

お世話になりました (Libra)
2007-09-16 13:05:52
 そううそさん、こんにちは。

 とうとう、わたしの主張を理解されなかったようですね。これだけ説明しても、おわかりにならなかったのですから、おそらく、わたしがこれ以上説明しても無駄でしょう(笑)。

 このブログには、たいへんお世話になりましたが、今回のコメントを最後にいたします(今回はホント)。今後、「Libra」というHNを名乗られる方がこのブログにいらしても、その方は、わたしとは別人ですのでご注意ください。

 『涅槃経』に書かれている「罪人を斬る」話は、【釈迦仏の時代の話ではなく】、過去仏の時代の話です。「釈迦以前の仏教」の話です。それで、日蓮は、「釈迦以前の仏教では、罪人を斬るけれども、能忍(釈迦)以後の経説では、その人への布施を止める」(『立正安国論』第八問答、末木文美士訳)といっているわけです。これが日蓮の理念です。

 もっとも、そのような理念を述べつつも、現実的な対応としては、【公場対決を求めても逃げ回り、それどころか、殺しにかかってくるような連中】に対しては、国家権力は「速かに重科に行」(『立正安国論広本』、定本、p. 1474)うべきであると日蓮はいっています。現代の視点から見ても、ごく常識的な主張といえるとおもいます。
真剣な話には襟を正します (Leo@隠居)
2007-09-16 16:05:56
そううそさん、こんにちは。

私は大衆宗教団体内で「その人への布施を止める」が宗門に対する現代の運動論でありかつての日蓮の運動論でもあるということを聞いた記憶がありますが、宗門へ(物理的、人体的)危害を加えろという指導は聞いたことがないです。
そううそさんの周辺ではいかがだったでしょうか。
意外と日蓮の正しい解釈というのは普及していたのではないでしょうか。が、一方で呪詛でもあるかのようなあるいは憎悪を増幅させるような疑問な指導もあったのではないでしょうか。
(としても敵を殲滅というのは物理的、人体的危害を意味していたでしょうか?)

話は飛びますが、イスラム教では多くの善良信者がおり、解釈を逸脱したテロリストもいるというわけです。
日蓮系において学問的な精査により危害を加えることが主張されていないことが明確になるのは喜ばしいことではないでしょうか。
Unknown (そううそ)
2007-09-17 21:36:12
こんばんは。
Libraさん。

○記事訂正

>わたしの主張を理解されなかったようですね。

記事を訂正しています。記事をご覧下さい。

>'07.09.08 20:03 緑文字追記

上記の日時で訂正したので、Libraさんのブログにも下記のように書いています。

/////////////////
http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-20.html
>ようやく????
>立正安国論においての解釈が理解できました。MCの影響の為か、自分の気にしている地獄論、罰論と関係しているためか、なかなか理解できないというか思考停止してしまうようです。
(中略)
>2007/09/08 (土) 20:18:27 | URL | そううそ #-[ 編集]
/////////////////

上記URLで頂いている私へのご質問へのお返事が遅くなり申し訳ありません。
きちんとお返事しますのでもうしばらくお待ち下さい。

お返事に時間がかかっている事は、どうかご容赦、ご理解下さい。
創価学会から受けたMCの影響の為か、自分の気にしている地獄論、罰論と関係しているためか、なかなか理解できないというか思考停止してしまうようです。

○なかなか理解できないのはMCのせいか?

本記事のLibraさんのコメント、

>『立正安国論』は正しく読みましょう (Libra@かじってナンボの商売だ)
2007-08-14 23:10:15

このコメントを頂いた時点で、なんとなくLibraさんが正しいと思っていました。
他の理由として、Libraさんの仰る事を認める事で創価学会への批判が出来るというか、裏付けになる事を8月半ばの時点で気がついていました。
このことを分かっていても賛成できないので、何か私に問題があると思います。
何かが引っかかってLibraさんの意見にすぐには賛成できなかったようです。

ですので、理論面の理解が出来ないと言うよりは、私が受けたMCか何らかのトラウマの為に感情面の問題かもしれません。
当然、私の学会員時代においてLibraさんが私をMCしてるはずありません。

何かが引っかかっていたようです。
原因など、未だに「どこがMCで何処に問題があるのか?」自分でも理解していません。

創価学会からのMCや創価学会都合の解釈とLibraさんの解釈は分けて考えるように努力するつもりです。
立正安国論においての解釈はLibraさんの言うとおりだと思います。
幾度もお手数をお掛けして申し訳ありません。
Unknown (そううそ)
2007-09-17 22:18:16
Leo@隠居さん
こんばんは。

>「その人への布施を止める」が宗門に対する現代の運動論
>かつての日蓮の運動論でもある

私もこれは聞いた事があります。

>宗門へ(物理的、人体的)危害を加えろという指導は聞いたことがない
>そううそさんの周辺ではいかがだったでしょうか。

過激なモノは書けませんが、残念ながらあります。
マイルドなモノは「私、私達が命を張って、体を張って先生をお守りするんだ!」というものです。こういう場合は攻撃と言うよりは盾になる、という事ですね。

これは地域や幹部、あるいは敵対組織との状況で指導内容は若干変わります。

”折伏をして広宣流布することや選挙で一票とってくる事が先生をお守りする事に繋がる”、というもの。
”物理的に先生をお守りする”、というモノ。
”呪詛や物理的行動で敵を粉砕、敵を撃滅する事が先生をお守りする”、というモノ。。。もあります。

先生という単語は時に、創価学会と池田先生、両方だったり、創価だけだったり、池田先生だけ、という場合があります。

>意外と日蓮の正しい解釈というのは普及
>一方で呪詛でもあるかのようなあるいは憎悪を増幅させるような疑問な指導もあった

一方で、というよりは、圏幹部などの比較的上の幹部から同一人物や同位置組織に対して両立の指導がなされたと感じています。

日蓮の事も創価の都合の良いように教わりますし、他にも末端の創価班という組織では「先生を守れ!」「敵と戦う創価班たれ!」「師匠の仇を討て!」という事を教えられます。「池田先生や創価の敵はあまりにも理不尽で酷い。」という風に教え込まれます。
こうした内容は私の創価班時代、ほとんど変わる事は無かったように記憶しています。

(「師匠の仇を討て!」と富士門流信徒BBSの合宿内容については記事にする予定です。)

牙城会、白蓮、白樺、栄光会、鉄人会、炎の会、教宣部、様々にグループがありますが、どんな指導をされているかは私は気にした事がありませんでした。
多少は違いがあるかもしれませんね。

>日蓮系において学問的な精査により危害を加えることが主張されていないことが明確になるのは喜ばしい

同感です。
ですが男子部、婦人部の中に過激な人たちがいますが、そうした人たちに上記の解釈は通じるんでしょうかね?
私は白樺ですが (ナウシカ)
2007-09-17 23:26:51
女子部の頃は白樺グループ、婦人部になると白樺会といいます。
私が参加している頃は、過激な指導というのはなかったですね。
どちらかというと、組織から少し独立している感じでしたね。
仕事が忙しいですから。

白樺の会合に出ると、看護体験といって患者さんとの関わりとか、仕事と家庭の両立といった問題など、そういったことがよく話題に上がっていました。
また御書を通して、生命論を学ぶとかそういう勉強会を行ったり、ドクターと合同の会合では現在の医療問題の中で、いかに信仰を生かした活動をしていくかとか。

基本的には、仕事中に患者さんやその家族を折伏するなんて考えられないし、そういったことを推奨されたこともありません。
あくまで自分たちが自宅で題目を上げて、患者さんたちに良い看護を提供するといった話です。

大きな会合では救護といって、怪我人・病人が出た時のために常に待機していたり。
そこで先輩から面白い話も聞きましたよ。
『こないだ○○副会長が入院してきてさぁ~
ものすごく横柄な態度で我侭放題で参ったよ~
これが学会の副会長なんだからね、呆れたよ~』

それと精神的に疲れて非活になってしまった人とかへの理解があるのは、やはりドクター部と白樺でしたね。
また会合などの結集で、会場内の人が多過ぎて体調を崩し倒れてしまう人(救急車を呼ぶ騒ぎもしょっちゅう)が続出した時があって、何度も警告を出していました(ドクター部の幹部とか)

そういった意味でも、ちょっと組織とは独立した感じの立場でしたね。
だから、白樺の会合だけは非活になってからも何度か参加していたのですけど、ここ数年は白樺も選挙体制に入れば、支援活動を精一杯やっていこうという指導ばかりになって、嫌気が刺して参加しなくなりました。

まぁまぁ正常に機能していた組織(グループ)も、だいぶ蝕まれてきましたね(-_-;)

そうそう阪神大震災があった時は、ドクター部と白樺で連携をとって、人材を集めて現地に送っていたのは良いことだったと思っています。
当時、私も何かできないかと関西本部まで聞きに行ったのですけど、対策本部は無線で忙しく連絡を取り合っていて、支援物資や救護関係などテキパキ手配していてビックリしたものでした。

私は結局、その時は進学コースの看護学校の受験が控えていたので、白樺の委員長に『無理しなくていいよ、他の人に行ってもらうから』と言われ帰されちゃいました。

祇園精舎の鐘の声、沙羅双樹の花の色 (Leo@隠居)
2007-09-17 23:55:45
そううそさん、こんばんは。

>過激なモノは書けませんが、残念ながらあります。

もちろん書けないものは結構です...

>マイルドなモノは「私、私達が命を張って、体を張って先生をお守りするんだ!」というものです。こういう場合は攻撃と言うよりは盾になる、という事ですね。

あ、それありましたね。「XX先生を守るものは自分も守られる」というものですね。
(それは釈迦や日蓮の教えにないものですね...)

>「先生を守れ!」「敵と戦う創価班たれ!」「師匠の仇を討て!」

それらはもっぱら気合(精神闘争)であって物理的危害はなかったですよね?
(もちろん書けないことは書かなくて結構ですので...)
と思ったら、前の部分が回答ですね...

>”折伏をして広宣流布することや選挙で一票とってくる事が先生をお守りする事に繋がる”、というもの。

勢力拡大による防御(間接防御)ということですね。

>”物理的に先生をお守りする”、というモノ。

それは警備(XX先生直接身辺警護でなくとも間接警備?)でしょうか。
たとえ本丸を守る役回りでなくとも二の丸や城の外の別の砦を守ることはお殿様を守ることなのですね。

>”呪詛や物理的行動で敵を粉砕、敵を撃滅する事が先生をお守りする”、というモノ。。。もあります。

呪詛(間接的心理圧力作戦?)があったのが知っていますが、物理的行動やっちゃたのですか?(武勇伝?は聞いたことありますが一部の逸脱した人だけでは?)

としてもやはり上の三つも釈迦や日蓮の教えにないものですね...
別に原理主義でないので釈迦や日蓮の教えにないことを行ってもよいわけですが恣意的行動で世界を自分の都合のよいように変化させようとするなど仏教団体(や宗教団体)を名のるのは止めないといけなさそうです。
(宗教風味の現代戦国軍団ではないでしょうか)

そういえば「革命は死なり」というのもありましたね。
この場合死は命をストップするのでなくいわば滅私奉公のようなものなのですね。
(旧大日本帝国風味も多分にあるのですね)

>同感です。
>ですが男子部、婦人部の中に過激な人たちがいますが、そうした人たちに上記の解釈は通じるんでしょうかね?

もちろん通じない可能性は極大ですが、果たして長い目で見て彼らに勝算があるでしょうか?
(歴史にも戦闘集団が永続する例はなく「力」は「力」によって滅びるのではないでしょうか。)
Unknown (そううそ)
2007-09-18 20:16:35
ナウシカさん
こんばんは。

>私が参加している頃は、過激な指導というのはなかったですね。どちらかというと、組織から少し独立している感じでしたね。
>白樺の会合に出ると、看護体験といって患者さんとの関わりとか、仕事と家庭の両立といった問題

なるほど。

 そういえば、一度だけ社会部の会合にも出た事があります。社会部というのは ”工場の交代勤務などで普段、男子部会合に参加できない社会人の集まり” と聞いていました。ところが連絡が急だった所為か連絡不行き届きの所為か、男子部長は普段の男子部メンバーを集める事しかできていませんでした。
本部幹部だったか、圏か県の幹部が来たのは忘れましたが、部長が幹部に「社会部のメンバーです」という言い訳っぽい事を言って非常に大変そうでした。

この社会部の会合は入信直後ぐらいだったと記憶しています。普通の男子部の会合と変わりありませんでした。
社会部では”工場の交代勤務などで普段、男子部会合に参加できない社会人の集まり”なので、白樺同様、仕事と学会活動の両立がテーマだった気がします。


>基本的には、仕事中に患者さんやその家族を折伏するなんて考えられないし、そういったことを推奨されたこともありません。

たしか「社会の中で実証を!」というおきまりのテーマだったと思います。

>大きな会合では救護といって、怪我人・病人が出た時のために常に待機していたり。
>また会合などの結集で、会場内の人が多過ぎて体調を崩し倒れてしまう人(救急車を呼ぶ騒ぎもしょっちゅう)が続出した時があって、何度も警告を出していました(ドクター部の幹部とか)

創価班や牙城会の白蓮などの任務と同じですね。
4者の大きな会合でぶっ倒れれば可愛い看護婦さんが登場してくれたんでしょうか?(笑)(^_^;A
一度倒れれば良かったなぁ。。。。。ヽ(^o^;)ノ

しかし倒れたり会合中に吐いたりする人がいるのは男子部会合か創価班の会合ばかりでした。
むさい男が登場するわけです。わはははははは。ヽ(^o^;)ノ

>『こないだ○○副会長が入院してきてさぁ~
>ものすごく横柄な態度で我侭放題で参ったよ~
>これが学会の副会長なんだからね、呆れたよ~』

これが今の創価学会の全てを物語っているでしょう。今、私は曹洞宗のお坊さんの本を読んでいますが、実に謙虚で明るいです。同じ仏教を扱い、同じ法華経を扱いますが、人格形成において全くアプローチや言動、態度が違います。何時の日か記事にすると思います。

>それと精神的に疲れて非活になってしまった人とかへの理解があるのは、やはりドクター部と白樺でしたね。

なるほどね。私も過去記事で書きましたが学会本部経由でドクターの人に指導を受けました。
指導を受けたらもっと納得がいかなくなってしまいました(笑)が、ドクター部の人が言いたかったのはLibraさんから教わったまじない信仰の否定を説明したかったのでしょう。。。。。ですが、仏教的な説明は何もなくいつもの「創価の信心に出会えてあなたは幸福」「日本に生まれておなたは幸福」「負けてはいけない」という精神論ばかり。。。。医学的な厳しい宣告というか現実ばかりで私にとっては医者からの”もう一度”冷たい現実を突きつけられたのと同じでした。

創価学会の信仰に功徳はあるか? 入信編その5 入信時の悩みは解決したのか?
http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/845a718c2a24c075f9abd5fa929bbf43

もちろん記事にも書いたとおり、わざわざ2度もあってくれた学会本部の人や来てくれたドクター部の人はそれぞれいい人でしたし、指導してくれた事には感謝はしています。

>ここ数年は白樺も選挙体制に入れば、支援活動を精一杯やっていこうという指導ばかり

それがカルトというかなんというか、末端の隅々まで思考停止を伴った投票の強制という命令が来るわけですね。

>白樺委員長に『無理しなくていいよ、他の人に行ってもらうから』と言われ帰されちゃいました。

良い体験(?)だったようですね。
今でもおもいやりのある人は学会の中にもいるのでしょうが、会員から見たら時間とお金、無報酬労働、などギブアンドテイクの内のgiveばっかりでしょうね。
Unknown (そううそ)
2007-09-18 20:18:03
Leo@隠居さん
こんばんは

>「XX先生を守るものは自分も守られる」というものですね。
>(それは釈迦や日蓮の教えにないものですね...)

そうですね。

>物理的行動やっちゃたのですか?(武勇伝?は聞いたことありますが

(-_-)。。。。。。。。。。。。。

>恣意的行動で世界を自分の都合のよいように変化させようとするなど仏教団体(や宗教団体)を名のる
>この場合死は命をストップするのでなくいわば滅私奉公のようなものなのですね。

教団都合の御書解釈や、指導という奴ですね。

>(宗教風味の現代戦国軍団ではないでしょうか)

同感です。今日も明日も戦え!戦え!なんでしょうね。理由は創価にあるのでなく、創価以外の周りにあるからという事でしょう。
先程の曹洞宗のお坊さんとは全く違うアプローチです。

>長い目で見て彼らに勝算があるでしょうか?
>(歴史にも戦闘集団が永続する例はなく
>「力」は「力」によって滅びる

勝算は人数の多さという数を頼んだ勝算でしょうか?
「力」という意味では戦いや争いを生めば生むほどカルトでしょうね。
学会を弁護するわけではないのですが (ナウシカ)
2007-09-18 22:18:34
>社会部では”工場の交代勤務などで普段、男子部会合に参加できない社会人の集まり”なので、白樺同様、仕事と学会活動の両立がテーマだった気がします。

白樺会は看護師といっても婦人部ばかりで、男性看護師はドクター部に入ります。
なので、家庭の話も多く、どちらかというと地元の活動との両立よりも、仕事と家庭の両立を言われました。

ただでさえ、三交代勤務とかで激務なんです。
自分の健康と家族の健康と、そして仕事と、それを優先事項として言われます。
白樺には、白樺担当の幹部が必ずついていて(副会長・婦人部本部長)、地元の活動を強制させられないように、白樺の立場に立って、地元の組織との間に立ってくれます。

本部としては無理をさせてはいけない、尊い仕事なのだから仕事の上で実証をという感じで、地元の会合にあまり参加できなくてもヤイヤイ言われないようになっています。
…がしかし、地元もいろいろ、幹部もいろいろ、『お仕事も大事だけどね、そこに流されて信心が疎かになってはダメよ、会合に参加していくことも挑戦よ』なんて、無理解で理不尽な要求をしてくるんです。
私はそういう苦情受付係みたいなもんで、支部の白樺の人たちの話を聞いていました。

白樺部員で非活になる人は、ただ単に仕事が忙しいという理由だけじゃなくて、仕事の大変さ、家庭との両立の大変さを理解されず、ただ活動に追い立てるだけの組織に嫌気がさして出ないという人が多かったです。
ただ仕事が忙しいだけなのに、疲れて少しでも横になりたいだけなのに、たまの休日は家族サービスしたいだけなのに、ちょっと会合に出ないというだけで、信心が惰性に流されていると言われる。

限られた時間の中で、患者さんのために題目を上げている人もいます。
子どもと接する時間が少ないので、工夫してやっている人もいます。
そういう大変さ、努力のあとを見てくれない、何でも会合参加の有無で決め付けられてしまう。

私も一度、女子部の時ですけどブチ切れて、看護婦寮に入っている時に居留守を使って、一切会合にも出ない、電話も出ない、たまたま出てしまっても学会幹部なら速攻電話を切ったり、そういう抵抗をしていたことがありました。
その時は、救急病院のICU(集中治療室)勤務だったので、ほんと大変だったんですよ。
でも『そんなのでどうするの!部員さんに何て言うの!』と部長からは怒られる。
もうやってられんわいってな感じです(ノ-_-)ノ ~┻━┻

そんな抵抗をしばらく続けてると、やっとわかってくれたのか、私に泣きながら部長は謝ってくれました。
まぁ~それで、その部長とは和解し、今でも年賀状はやり取りする仲です(;^_^A

>医学的な厳しい宣告というか現実ばかりで私にとっては医者からの”もう一度”冷たい現実を突きつけられたのと同じでした。

そうでしょうね。
医師や看護師であれば、学会員であっても安易に『絶対に治りますよ』とか『絶対に叶いますよ』という言い方はしないでしょうね。
そううそさんにとっては、嘘でもいいから『絶対良くなるよ』と言ってほしかったのでしょうが、それは言えないですね。
そんなのは気休めであり、まやかしだから。
人の生き死にを見ていることで、その現実の厳しさを知っているから。
例えば、病名告知していないガン患者に対してだって、そんな安易なことは言わないですもん。

そううそさんは指導を受けても、自分の望むとおりの答えが聞けなくて、最終的に夢も見させてもらえなくて失望してしまったのではないですか?
信仰をしていても絶対ではない、叶ったと思う時もあるし、叶わないことも実際には多い。
それを認めることができなかったのではないですか?
空を飛べると信じていた子どもが、大人になって飛べないと知った時の落胆に似てるのではないでしょうか?

厳しい現実を受け入れたくないと学会の教えを信じ込んでいたけど、それも無理になってきて、それを信仰そのもののせいにしたいのでは?
本当は、信仰ってそういうものじゃないんですけど。
ドクター部の人もそれを言いたかったのかも。

どの世界も、どんな宗教だって、現実を離れて夢のようなおとぎ話の世界があるわけじゃない。
信仰を信じる信じないの話も、何を信じるかにあるのではないでしょうか?
そううそさんは今やっと現実世界に戻ってきて、厳しい現実の壁にぶち当たって、おかえりなさいというところでしょうかヽ(^o^;)ノ
良かったんですよ、これで。
異次元空間で彷徨っているよりは…

Unknown (そううそ)
2007-09-18 23:23:25
ナウシカさん
こんばんは。

>医師や看護師であれば、学会員であっても安易に『絶対に治りますよ』とか『絶対に叶いますよ』という言い方はしないでしょうね。
>そううそさんにとっては、嘘でもいいから『絶対良くなるよ』と言ってほしかったのでしょうが、それは言えないですね。

過去記事にも書きましたが、私はまじない信仰の力で「絶対に病気が治る。」「御本尊は絶対!」と聞かされていたので、親の大反対を押し切って入信したのです。ずいぶんと親と喧嘩しましたし怒られもしました。

そうした事を私の紹介者である某君はよく知っていました。ところがすっかり忘れているのか、反対自体大したこと無いと思ったのか、私の入信時や内得信仰時代の苦労やや想いは彼には分からなかったのでしょう。大学生当時なら仕方ないかもしれませんが、本部長以上の圏幹部になっても人の心が分からないのでしょうね。

>自分の望むとおりの答えが聞けなくて
>最終的に夢も見させてもらえなくて失望してしまったのではないですか?
>それを認めることができなかったのではないですか?

認める事が出来ないのは確かにそうですね。
「自分の望むとおりの答えが聞けなくて」というのはちょっと違います。
夢を見る、というのは全く違います。
信心指導と医療の指導の両方を求めたつもりです。しかし医療の指導については記事の通りです。

>信仰をしていても絶対ではない、叶ったと思う時もあるし、叶わないことも実際には多い。

同感です。
非活動家ですが現役学会員さんの言葉なので良く覚えておきます。

有り難うございました。
なるほど (ナウシカ)
2007-09-19 00:47:31
>私はまじない信仰の力で「絶対に病気が治る。」「御本尊は絶対!」と聞かされていたので、親の大反対を押し切って入信したのです。ずいぶんと親と喧嘩しましたし怒られもしました。

そういう風に言うこと、よくありますね。
私も何度もそういう話は見聞きしてきたし、私自身も言われてきました。

>私の入信時や内得信仰時代の苦労やや想いは彼には分からなかったのでしょう。大学生当時なら仕方ないかもしれませんが、本部長以上の圏幹部になっても人の心が分からないのでしょうね。

人は変わってしまうから、そういうこともあるんじゃないでしょうか?
元々そういう人だったとも言えるけど、最初は必死だったのかもしれない。
本当の確信でないにしろ。

>信心指導と医療の指導の両方を求めたつもりです。

う~ん、人間のやることだから、参考程度に聞いていた方が良かったですね。
みのさんの人生相談のようなもの…こんなこと言ったら怒られるかな。

指導を受けて物事が解決するわけじゃないし、悩みがスパッと解消するわけじゃないし、指導で答えが出るとは私は思えません。

そううそさんがそうだったとは言わないけど、指導を受けて、そこで解決しようとか、スッキリしようとか、指導依存の学会員さんも結構多かったです。
カウンセリングなら、話を聞いてもらうだけでも効果が得られただろうけど、ほんと切羽詰ってる感じで具体的なアドバイスを聞きたくて指導を受けている割には、指導を受けてそれでスッキリして終わり、その後はさして努力するわけでもなく、漫然と過ごしているという人もいましたね。

そして、なんで叶わないんだろう?なんで叶わないんだろう?って嘆いて過ごしてる。
それで元気がなくなると、また指導を受けに行って元気を人から貰おうとする。
私は身近にそういう人をたくさん見てきて、この人、本当にそうしたくて悩んでいるのかな?と首を傾げることが多かったです。

そううそさんの場合は、本当にどうにかしたくて悩んで指導を求めたのでしょうね。
でも医療と同じで、指導も万能ではないから(あくまで学会の指導という点で)

何かにすがってみても、やはり最後は自分で何とかするか、割り切るか、しないといけないのでしょうね。
誰も自分からは逃げられないから。

Unknown (そううそ)
2007-09-20 01:23:04
参考にします。
有り難うございました。
別の視点から見ると舞台装置のギミックは案外キッチュだったり (Leo@隠居)
2007-09-20 02:19:20
そううそさん、こんばんは。

>教団都合の御書解釈や、指導という奴ですね。

教団都合が進化すればその先は個人都合が重要です(ひとりよがりというのでなく集団のために個人を犠牲にするのでなく個人個人がよくならならなければいけないしよい個人が集まって集団になるというのが現代のあり方(社会の進化というもの)ではないでしょうか)。
個人個人の民衆が賢くならなければ集団も良くならないです(歴史は語る)。

それに戦国時代だったら殿様を引き立てなければならなかったでしょうが今は殿様などおらずとも(個人崇拝などせずとも?)社会制度の方がよっぽど守ってくれるのではないでしょうか。
(不十分かもしれないですが脳内幸福に始終するよりはマシ、大衆宗教団体が医療保険や年金出したりしないので)

>同感です。今日も明日も戦え!戦え!なんでしょうね。理由は創価にあるのでなく、創価以外の周りにあるからという事でしょう。

なるほど原因が外にあると見るのは外道ということなのですね。

常々思うに...
バリバリ界では過去世から現世も来世も大衆宗教団体に尽くしていき輪廻から解脱しなく無間の歴劫修行で大変そうです。
(そんじょそこらの菩薩様でもできることでないっす)
(正しい仏教の理解がないと仏・菩薩界もなく(栄光と名誉の世界は天界?)二乗も否定だから六道輪廻だったりも...)

>勝算は人数の多さという数を頼んだ勝算でしょうか?

井の中の蛙という言葉がありますが特に超でかい井戸の中の蛙は井戸を世界と思うのだと思います。
(活動や大衆宗教団体から離れても人間何らかの井の中の蛙でないか反省は重要かもしれないっす)
話しは飛びますが(他の方の批判では全然ないのですが)自分から逃げるでもなく自分を負担に思うでもなく宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の人はいいなぁと思います。
書き忘れました (Leo@隠居)
2007-09-20 02:40:25
>勝算は人数の多さという数を頼んだ勝算でしょうか?

人数は多いように思えて実は国内で数%、世界で零点何%ですね。大衆団体風広宣流布を世界征服(あるいはお茶の間侵略、地域侵攻)と超意訳すれば現代における悲劇でもあり喜劇でもあります。

世界征服というのは漢(おとこ)のロマンだったりするかもしれないですが(三国志風には???)
Unknown (そううそ)
2007-09-20 19:56:11
こんばんは。
Leoさん

>教団都合が進化すればその先は個人都合が重要です(ひとりよがりというのでなく集団のために個人を犠牲にするのでなく個人個人がよくならならなければいけないしよい個人が集まって集団になるというのが現代のあり方(社会の進化というもの)ではないでしょうか)。

「個人都合が重要」最初から個人都合、つまりは個人の幸福という意味で大事だと思います。
賛成します。

しかし、個人都合に至る過程においては最初から 個人都合が目的 なのか 教団都合が目的 なのかはベクトルが違うのではないでしょうか?

問題あると思える罵詈雑言をする罵詈活は、怒りと恐怖をMCされて、常に攻撃しようとしますから最初から最後まで教団都合が目的になると思います。
反論になってしまい申し訳ありません。

>今は殿様などおらずとも(個人崇拝などせずとも?)社会制度の方がよっぽど守ってくれる
>大衆宗教団体が医療保険や年金出したりしない

確かに。

>脳内幸福に始終するよりはマシ、

(笑)ヽ(^o^;)ノ

>人間何らかの井の中の蛙でないか反省は重要かもしれない

重要だと思います。
今読んでいる本は日蓮が内省していたと書かれています。
また曹洞宗のお坊さんの本を読むと年寄りになっても僧侶の階級があがっても 実に謙虚、常に自分を見つめています。

MC論やカウンセリング論にも 自己チェック ということがありますね。

>人数は多いように思えて実は国内で数%、

おそらく日本では3%が実数でしょう。その中でバリ活は1%以下かと。。。

>世界征服というのは漢(おとこ)のロマンだったりするかもしれない

池田氏は宗教界の王者だと思っているでしょうね。自分自身も創価学会も。
日蓮以上の実績を作ったと思っているに違いありません。
ラオウもまた人間 (Leo@隠居)
2007-09-20 23:42:03
>しかし、個人都合に至る過程においては最初から 個人都合が目的 なのか 教団都合が目的 なのかはベクトルが違うのではないでしょうか?
>問題あると思える罵詈雑言をする罵詈活は、怒りと恐怖をMCされて、常に攻撃しようとしますから最初から最後まで教団都合が目的になると思います。
>反論になってしまい申し訳ありません。

いえいえ反論は歓迎しますです。
逆に罵詈活は自分都合を教団都合にすげかえたり(投影したり)もしますね。
(XX先生は会員には誠心誠意親切にしろと(表面上にせよ)言っているのを誠の時はころっと忘れてしまうのであって...)

(罵詈活はXデー前後「ヒトラー ~最期の12日間」状態にならないようよーく気をつけてもらいたいもんです)

>今読んでいる本は日蓮が内省していたと書かれています。
>また曹洞宗のお坊さんの本を読むと年寄りになっても僧侶の階級があがっても 実に謙虚、常に自分を見つめています。
>MC論やカウンセリング論にも 自己チェック ということがありますね。

そのようです。(たとえば別の修行面では)高僧が厠の掃除をしたりします。
((直接関係ない話しですが)松下幸之助は万博のパビリオンに自分から並んで紙の帽子を配るようにしたとか)
(自分ができているのでないのでお恥ずかしいですが)攻撃より自分を磨くが重要のようです。

>池田氏は宗教界の王者だと思っているでしょうね。自分自身も創価学会も。
>日蓮以上の実績を作ったと思っているに違いありません。

そうすると彼は世界で最も幸福なお方になりますね。

(XX先生の弟子達がもう少しマトモになってくれるとよいのですが、あ、それは師弟不二なんでしたっけ)
まあ一般に優れた弟子というものは「青は藍より出でて藍より青し」(師を越える、数でなく)なのかもしれないと思いました。
(独り言です) (Leo@隠居)
2007-09-21 23:20:55
私は近年はノイローゼになると嫌だから戦いなど御免だと思っておりました。が、何らかの戦いは必要な気はしており(生きること自体戦いですし)、それは自己との戦いであり正すのはまず自分からということでしょうか。(戦わないとプチ廃人になってしまう気もします)

(半分冗談でかつ話しがずれてしまいますが)憎悪する対象として大衆宗教団体とその指導者なんかがよいかもしれません。

「二分間憎悪」(小説・映画『1984』)
(Wikipedia, http://ja.wikipedia.org/wiki/1984%E5%B9%B4_(%E5%B0%8F%E8%AA%AC))

「憎しみは人間を生かし、力を与える。」(映画『ベン・ハー』より)
(ウエブ石碑, http://sekihi.net/stone/7368.htm)
気分転換に (なるかな?) (みの虫)
2007-09-22 03:32:37
そううそさん こんばんは

仏教の勉強の合間に読んで見ませんか?

エヴゲーニイ・ザミャーチン 著『われら』(1920年)
岩波文庫より出版されています。


もしかすると読後、Leo@隠居さんの「憎悪する対象として大衆宗教団体とその指導者なんかがよいかもしれません。」
が実感として迫ってくるかもです。
コメントです (Leo@隠居)
2007-09-22 21:34:21
>(半分冗談でかつ話しがずれてしまいますが)憎悪する対象として大衆宗教団体とその指導者なんかがよいかもしれません。

XX宗(小規模宗派)撲滅などと憎悪対象を持つ集団は逆に集団自身が憎悪対象となり得ること、
憎悪対象としてはより大きい集団の方が効果が期待(あくまでも効果があると仮定した場合)できることを風刺的に書いてみただけです。

みの虫さんのご紹介のエヴゲーニイ・ザミャーチンをインターネット検索しましたがソ連初期にも反体制のような作家はおられたのですね。今回名前をはじめて知りました。ソ連後期ではアレクサンドル・ソルジェニーツィンなど有名だったようです。(大衆宗教団体における反骨の方というのも期待したいです)
Unknown (そううそ)
2007-09-24 18:03:11
こんばんは。Leoさん

>そのようです。(たとえば別の修行面では)高僧が厠の掃除をしたりします。
>直接関係ない話しですが)松下幸之助は万博のパビリオンに自分から並んで紙の帽子を配るようにした
(自分ができているのでないのでお恥ずかしいですが)攻撃より自分を磨くが重要のようです。

なるほど。
トップ1人でも出来る事があるという事ですね。

また、下記のみの虫さんのコメントにもあるように1人でも主張する方法がある事と共通するような気がします。

>そうすると彼は世界で最も幸福なお方になりますね。

(笑)戦後のモノがない、食べる事が出来ない混乱期の人ですからお金持ちになった事で
幸福という事でしょう。

>(独り言です) (Leo@隠居)

どぞどぞ。(^^)/
独り言であっても私がお返事出来るかどうかはわかりませんが、思いついた事を書くのは大事な事だと思います。

>何らかの戦いは必要な気はしており(生きること自体戦いですし)、

>自己との戦いであり正すのはまず自分からということでしょうか。(戦わないとプチ廃人になってしまう気もします)

>(半分冗談でかつ話しがずれてしまいますが)憎悪する対象として大衆宗教団体とその指導者なんかがよいかもしれません。

さぁ、これはどうなんでしょうか?

私にとっては迷惑な人達という事で見切りをつけたいですが、別の思惑もあります。
だた、憎悪という事にはなかなかならないようです。

>「憎しみは人間を生かし、力を与える。」(映画『ベン・ハー』より)
(ウエブ石碑, http://sekihi.net/stone/7368.htm)

映画は見ていませんが、怒りや憎悪は人間のエネルギーの「たくさんあるうちの一つ」でしょうね。
そうすると釈迦や日蓮のエネルギーは何だったのか?という事になるかと思います。
どうでしょうかね?
みの虫さん (そううそ)
2007-09-24 18:03:56
>気分転換に (なるかな?) (みの虫)
>そううそさん こんばんは

どうも、ご無沙汰しています。
いつぞやは色々と有り難うございました。

>仏教の勉強の合間に読んで見ませんか?
>エヴゲーニイ・ザミャーチン 著『われら』(1920年)
>岩波文庫より出版されています。

こんど図書館で探してみます。

しかしなんというかこの人のwikiを見て思ったのは1人でも(戦い、という言葉を避けますが)主張する事は可能だし、Leoさんのコメントにあるようにトップが1人でも出来る事をする、というのは大事な視点かもしれません。

>もしかすると読後、実感として迫ってくるかもです。

もしかすると池田氏とあまりにも生き方が正反対なのかもしれません。

MC論や教学ではコメント着きにくいかもしれませんが、良く分かった」「わからないです」でも良いので気軽にコメントして下さいね。

ではでは。
Unknown (みの虫)
2007-09-25 03:21:06
そううそさん こんばんは 

>いつぞやは色々と有り難うございました。

いいえ、とんでもありません。こちらこそです。

>こんど図書館で探してみます。
暇なときにでもね。たまには別角度から考えてみるのもいいかも知れませんから。

>気軽にコメントして下さいね。

ありがとうございます。お言葉に甘えて書いてみますが、またまた的外れのような見当違いのようなものになりそう・・ ごめんなさい。


Leo@隠居さん

私の読解力の無さを表した的外れなレスにご丁寧なレスをありがとうございます。

えっと、なんと言うか、広宣流布のあかつきに成るという王仏冥合で出現するユートピアって,一党独裁の全体主義国家なんじゃないの?という○○会に対する私の思いと不安からあのようなレスになったようです。

ソ連の成り立ちから崩壊までの歴史をみると、当然でしょうけど時の指導者により、かなり違っているようですね。
レーニンが生きていた初期、スターリンの粛清の嵐が吹き荒れた恐怖政冶、フルシチョフの雪融け期、冬に逆戻りのブレジネフ時代と。逆戻りにうんざりが頂点に達したころブレジネフが死んで・・・

ヒトラーもレーニンも最初は小さな政党を率いる指導者でしたが、
日本のあの政党とそれを動かしている組織と指導者は・・・ う~ん。。。

なんか、やっと解かってきたかな?
XX宗撲滅などと憎悪をあらわにしている集団は逆にXX宗からだけじゃなく一般大衆からも憎悪されてしまう。


なにやら取り留めのない事ばかりですけど,眠たくなってきたので(わけ解からなくなってきました)とりあえず投稿。


中国四千年の智慧 (Leo@隠居)
2007-09-28 00:15:35
そううそさん、こんばんは。

>『立正安国論』は正しく読みましょう (Libra@かじってナンボの商売だ)

そういえば最近やっと「かじってナンボの商売だ」が「おしりかじり虫」という童謡の一節だということを知りました。

(ちょっと論語などを引用してみます...)

>>そうすると彼は世界で最も幸福なお方になりますね。

私の辞書(?!)では「幸福」は「愚か」の異名だったりしますです(?!)。
(幸福というのは局所的で限定的で一時的なものなので)

「君子はその賢を賢としてその親を親とし、小人はその楽しみを楽しみとしてその利を利とす。」(論語)
「君子は義に喩り、小人は利に喩る。」(論語)
「君子は周して比せず。 小人は比して周せず。」(論語)
「君子に三畏あり。天命を畏れ、大人を畏れ、聖人の言を畏る。」(論語)
「小人は天命を知らずして畏れざるなり。大人に狎れ、聖人の言を侮る。」(論語)

>私の読解力の無さを表した的外れなレスにご丁寧なレスをありがとうございます。

いえいえ、私もとりとめもないことを書いているもので...

>えっと、なんと言うか、広宣流布のあかつきに成るという王仏冥合で出現するユートピアって,一党独裁の全体主義国家なんじゃないの?という○○会に対する私の思いと不安からあのようなレスになったようです。

やはり「地獄への道は人びとの善意によって舗装されている」ですね。

「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず。」(論語)

>日本のあの政党とそれを動かしている組織と指導者は・・・ う~ん。。。

かつて藤原弘達氏が指摘したようにその危険性は皆無ではないのだと思います。

「君子は上達し、小人は下達す。 」(論語)

>XX宗撲滅などと憎悪をあらわにしている集団は逆にXX宗からだけじゃなく一般大衆からも憎悪されてしまう。

やはりそうではないでしょうか。

「君子は人の美をなし、人の悪をなさず。 小人はこれに反す。」(論語)

私はかつて擬似名誉偉人小人を擬似師として小人養成ギブスをつけていたようなもんでござんす(^^;
Unknown (そううそ)
2007-09-28 22:14:27
こんばんは。
Leoさん

>>(Libra@かじってナンボの商売だ)

>「おしりかじり虫」という童謡の一節

つまり、Libraさん”も”おしり大好き!?ヽ(^o^;)ノヽ(^o^;)ノ ..._〆(゜▽゜*) メモメモ


>「君子は義に喩り、小人は利に喩る。」(論語)

創価学会員は学会に 絶対正義 なるものあると思っているので始末が悪いですね。

いつも自分が正しい。という論理です。


>やはり「地獄への道は人びとの善意によって舗装されている」ですね。

改めて考えさせられますね。

>私はかつて擬似名誉偉人小人を擬似師として小人養成ギブスをつけていたようなもんでござんす(^^;

ですね。
Unknown (みの虫)
2007-10-01 23:15:19

>「小人は天命を知らずして畏れざるなり。大人に狎れ、聖人の言を侮る。」(論語)
>「君子は義に喩り、小人は利に喩る。」(論語)

やはり彼のお方は小人だったのですね。

>私はかつて擬似名誉偉人小人を擬似師として小人養成ギブスをつけていたようなもんでござんす(^^;

ついつい、笑ってしまいました。(いつもLeoさんのコメントにはクスリとさせられてます)
Unknown (そううそ)
2007-10-03 19:19:38
私がコメントしなくてもお二人で会話を続けて頂いていっこうに構いませんよ。(^^)/

雑談 -- 脳内の叫び? (Leo@隠居)
2007-10-03 23:16:10
皆さん、こんばんは。

そういえば大衆宗教は元旦から仏敵撲滅を願ったりしてませんでしたか?
一般には元旦はめでたくて楽しく過ごすんじゃないでしょうか。
元旦から仏敵撲滅を願うの方が仏敵ではないでしょうか。
(といっても仏敵[物的]証拠はないんですが...いきなり話しが元旦にシフトするのもなんなんですが)

勝利と叫ぶのもどうかとも思います。
「勝つと思うな、思えば負けよ♪」と歌にある通りな気がします。

小樽問答で正宗が逃げたといわれますが実は大衆宗教は小樽問答以後
日蓮宗と法論禁止で逃げております。国会承認喚問もそうですが、
「逃げるが勝ち」はわかっているようで。

俺達偉大なXX先生がいるもんね~数が多いもんね~というのは、
これはまさに「虎の威をかる狐」。

世界広宣流布というなら外国(アフリカやインドなど)行って来いゴルァ
と言いたいです。

大衆宗教とその指導者は偉大な(反面)教師として、究極的に法華経の
ダイバダッタのようでもありますし、
蛮族が文明を滅ぼし、やがて蛮族が文明人に進化する
歴史を見るようでもありますね(破壊が長い目で見ると発展を招く?)。
追伸 (Leo@隠居)
2007-10-03 23:18:12
毒は薬にもなり、薬は毒にもなる。

毒はクスリ(笑い=薬)にもなる。

なんちゃって。
あ゛ (Leo@隠居)
2007-10-04 00:01:33
国会承認喚問 → 国会証人喚問

>世界広宣流布というなら外国(アフリカやインドなど)行って来いゴルァ

アフリカやインドやイラクやミャンマー...
Unknown (そううそ)
2007-10-04 21:26:54
>(といっても仏敵[物的]証拠はないんですが

(笑)

>日蓮宗と法論禁止で逃げております。国会承認喚問もそうですが、「逃げるが勝ち」はわかっているようで。

>毒はクスリ(笑い=薬)にもなる。

(大笑)

じゃあ、ここでギャグ師匠を呼んでみようか?おーい、μ0さ~ん!

>俺達偉大なXX先生がいるもんね~数が多いもんね~というのは、これはまさに「虎の威をかる狐」。

虎ですか?アレ?虎がかわいそうです。ヽ(^o^;)ノ

Unknown (米山士郎@管理人)
2015-07-16 21:15:54
 ハンドル名を入れて下さい。
そうでなければ、後日消します。

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不軽菩薩の折伏 (仏教と批判的合理主義)
不軽菩薩の折伏    そううそさんの記事「日蓮の過激な言動と創価学会教義とその批判」のコメント欄の中で、不軽菩薩について意見を述べました(2007-08-31 19:42:45)。今回は、そ...