創価学会の信仰に功徳はあるか?

コメントする人は「01.創価学会の信仰に功徳はあるか?を書く前に」を読んでね。

311.「漫荼羅の御本尊」と「己心の妙法」は対境(対鏡)というテーマ

2010年11月25日 00時56分45秒 | 創価学会
●”「漫荼羅の御本尊」と「己心の妙法」は対境(対鏡)”というテーマ

 オフ会で”「漫荼羅の御本尊」と「己心の妙法」は対境(対鏡)”というテーマがあった。
会話だったので漢字の説明がなく私は後者の「対鏡」で捉えていた。

実際に「本尊 己心の妙法 対鏡」でgoogle検索すると約2830程見つかる。
「本尊 己心の妙法 対境」でgoogle検索すると約2840程見つかる。

以下犀角独歩さんから御指摘を頂いた。

1.「対鏡」という仏教語はない。創価学会の造語。
2.「対境」は境地冥合の派生語で、意味がある。
3.己の心を本尊とするため、本尊は不要になってしまう。*A
  己心本尊と本仏本尊が呼応して一体となるという発想は、梵我一如のバラモンの発想。

*Aの発想はネットにも多く見つかる。

●学会の思考パターン、つまりは創価学会のMCのパターン。

が、例によって例のごとく、創価学会では【明確に真筆遺文と言われていない】法華初心成仏抄を用いる。
日蓮宗電子聖典では法華初心成仏鈔(抄)は真筆扱いされていない。

「我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて、我が己心の仏性 南無妙法蓮華経と呼び呼ばれて顕れたもうところを仏とは云うなり。たとえば籠の中の鳥なけば空とぶ鳥の呼ばれて集まるが如し。空とぶ鳥の集まれば籠の中の鳥も出んとするが如し。口に妙法をよび奉れば、我が身の仏性も呼ばれて必ず顕れたもう。」

の真偽未決遺文の解釈と創価学会版宇宙生命論により、結果「生命力が湧いてくる。」とする。
これでMCされていく。

他にも自分を写す鏡としての誤解を与える遺文があったはず。なんだったかな。

●対境と対鏡

更に書いておく。
対鏡は満月城岡山では0件で全くヒットしない。真筆、偽書、真偽未決どの中にもない。
対境は満月城岡山では1件のみ。
「心性を観ずるを上定と名くれば、即ち三業過無し、歴縁対境するに威儀失無し、能く此くの如く観ず、」
しかも御講聞書だ。

御講聞書をきっちり読む気はないが、文章の流れは、対境であっても対鏡であっても漫荼羅も本尊も己心も無関係では?

「漫荼羅の御本尊」と「己心の妙法」なら少しは関係があるのだろうが、対境と対鏡は無関係。
学会教学では「漫荼羅の御本尊」と「己心の妙法」の脈絡は対境か対鏡のどちらかではないのか?
それぞれに50%ということ。

こうした創価学会教学の嘘を一体、どうやって責任取るのですか?>池田大作氏、及び、取り巻き。正宗。
仮に対境が正しいとしても残り50%の責任はどうすんだ?>池田大作氏、及び、取り巻き。
人様他人様に嘘を教えておきながら、金を取ってなにが「一人ひとりを大切に」なんだか。

---------------------------------------------------------
ヤレヤレといった感じ。
まぁ、なんというか、こうしていくらでも私の中にMCが残ってるけど、どうでもいいや。(笑)
自分から必死になって探す気にはならない。
注意したいのは私は人に仏教学を教える気がないので問題にならないだけ。
一般世間の常識ならともかく、仏教学や宗教では可能なかぎりああしろ、こうしろと行動コントロールもしたくない。

「対鏡」についてはもし創価班の会合で教わったとすると、
メモ書きがどこかに残っていれば日時と幹部名まで判明するかも。

以上。
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25 コメント

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創価学会員の曼荼羅理解 (Libra)
2010-12-30 04:29:05
 創価学会員が曼荼羅をどのようなものとして理解しているかを考える際には、まず、本家本元の密教の曼荼羅がもともとどのようなものなのかとゆーことをおさらいしておくのが便利だとおもいます。


○密教の六大・四曼・三密
 密教には本体論としての六大と、象徴論としての四曼と、実践論としての三密とゆーのがありまして、これは小川一乗先生が詳しく解説されています。

  密教の即身成仏は作り話(小川一乗)
  http://fallibilism.web.fc2.com/061.html


○日蓮の曼荼羅
 日蓮の曼荼羅は、『法華経』で描かれている「虚空会の付嘱の儀式」を表現したものであることはまちがいないでしょう。

 中尊の五字は、直接的には寿量品で明かされる久遠仏を表現しているのでしょうが、象徴的には、その久遠仏が大昔にはじめてさとり得た智慧の内容を表現しているのでしょう。詳しくは以下の拙文を参照。

  本尊論メモ
  http://fallibilism.web.fc2.com/z013.html

  仏身論メモ
  http://fallibilism.web.fc2.com/z014.html

 小川一乗先生の解説にあるとおり、「密教のお寺に、曼荼羅が掲げてあるということは、それと向かい合うことによって、自分が大日如来と一体であるということを体験するため」です。

 しかし、日蓮の曼荼羅の場合は、そういうためのものではありえません。日蓮の曼荼羅は、「付嘱の儀式」を描いたものであり、【付嘱】という行為が成立するためには、付嘱する者とされる者が【一体でない】ことがそもそも必要です。だから、日蓮の曼荼羅は、密教的には0点。

 衆生は久遠仏と一体などではありえませんが、久遠仏が大昔に最初にさとった智慧を授かることはできます。智慧を衆生たちにさとらせるというのが「如来の唯一の仕事」だと主張するのが『法華経』です。

  一大事因縁(『法華経』)
  http://fallibilism.web.fc2.com/130.html
 
 だから、日蓮の曼荼羅は、『法華経』的には100点。


○創価学会員の古典的曼荼羅理解
 以下の2つの資料を読めば明らかなとおり、創価学会員の古典的な曼荼羅理解とゆーのは、内容的には本家本元の密教の曼荼羅理解とほとんど同じです。

  勤行─大宇宙と自身の生命交流の儀式(「やさしい教学」『聖教新聞』)
  http://fallibilism.web.fc2.com/063.html

  大宇宙即御本尊(戸田城聖・池田大作)
  http://fallibilism.web.fc2.com/064.html

 密教的には100点満点の理解ですが、日蓮的にも『法華経』的にも0点の理解です。

 ちなみに、創価学会的説明では、密教の本体論でいうところの「六大」が「五大」になっていて、さらに、その「五」という数字が題目(曼荼羅の中尊)の「五字」と関係付けられるというオマケがついています。


○創価学会員の曼荼羅理解の革新?
 古典的でない曼荼羅理解が創価学会員の中にも見られるようになってきてはいます。

 中山英子氏の「御本尊に認められた広布誓願の儀式」(『大白蓮華』第624号、2002年5月、p. 85)がそれです。次の資料を参照。

  本尊観について(Leo)
  http://fallibilism.web.fc2.com/note006.html
  

 「〔曼荼羅に向かって〕勤行・唱題するとき、私たちは上行菩薩を先頭にして六万恒河沙という無数の地涌の菩薩の一員として合掌している」という理解じたいは、日蓮的にも『法華経』的にも100点の理解といっていいでしょう。

 もっとも、中山氏の文章には従来の古典的理解から脱却できていないと感じざるをえない部分が散見されます(上記資料を参照)。
返信する
Unknown (米山士郎)
2011-01-04 20:50:16
Libraさん

明けまして御目出度うございます。
今年も宜しくお願い致します。

コメント有難う御座います。

>「密教のお寺に、曼荼羅が掲げてあるということは、それと向かい合うことによって、自分が大日如来と一体である

>日蓮の曼荼羅は、「付嘱の儀式」を描いたもの
>【付嘱】という行為が成立するためには、付嘱する者とされる者が【一体でない】ことがそもそも必要

前者は架空の如来(仏)と人間の一体が目的、後者は法華経の正法、妙法(ブッダや法華経の中心思想)と呼ばれるものを受け継ぐのが目的で行うのは人間と人間ですね。

>衆生は久遠仏と一体などではありえませんが、久遠仏が大昔に最初にさとった智慧を授かる
>智慧を衆生たちにさとらせるというのが「如来の唯一の仕事」だと主張するのが『法華経』

そのとおりだと思います。

>だから、日蓮の曼荼羅は、密教的には0点。

面白い観点ですね。
日蓮曼荼羅における、中心思想や最終目的としての点数なのですね。

ちょっと気になったので曼荼羅という観点から、書き方や意味合いのルールとして「儀軌」というキーワードがあるのだそうです。

儀軌を満月場岡山や日蓮宗電子聖典でも検索すると、日蓮真筆にもいくつか見つかり、日蓮さんが儀軌の意味を理解していたことが分かります。

●んで、この「儀軌」なんですが、

「密教 儀軌」「曼荼羅 儀軌」(マンダラの漢字はいくつかありますので注意。)で検索すると、たくさん見つかります。

----------------------------------
法華儀軌
http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/mitsukyou/hokegiki.htm
----------------------------------

その他に
話を戻して、曼荼羅の書き方や意味合いとしての「儀軌」からみても、十分に落第点っぽいです。

但し、文字を仏として曼荼羅にする、というのはかなり古くから存在し、「法曼荼羅」「種子曼荼羅」という形式があるそうです。

----------------------------------
曼荼羅
http://sky.geocities.jp/obieokunotani/manndara.html
>諸仏の姿を直接描く代わりに、1つの仏を1つの文字(サンスクリット文字、梵字)で象徴的に表わしたもの
>仏を表わす文字を仏教では種子(しゅじ)と言う
----------------------------------

年代がはっきりしないのでURLは記載しませんが、「法曼荼羅」「種子曼荼羅」は800、900年代ごろからあるみたいなんです。

というわけで、思想や目的でなく、あくまでも書き方だけ限れば文字の曼荼羅が過去にあった点では日蓮曼荼羅は5,10点というところでしょうか?
実際は 密教トータルから見た曼荼羅としてはかなりの落第点のようですし。
法華経信仰する他の宗派が日蓮曼荼羅を取り入れてないことからしても、日蓮及び日蓮曼荼羅への評価は高くない(低い?)ようです。

●曼荼羅という画期的な発明?

ここでのポイントを少し書いておきたいと思います。
創価などの正宗系信徒会員だけでなく僧侶も含め、「日蓮の文字曼荼羅は画期的な発明だ」と思っている人が多いかも知れません。
が、「法曼荼羅、種子曼荼羅は800、900年代ごろから存在しそう」な為、そうではなさそうです。

過去記事に書いたとおり日蓮は念仏を題目に置き換えてやきなおしで布教した点や、天台宗念仏系の源信の往生要集を参考にしての日蓮遺文があることなどから、神札や真言系曼荼羅を参考やヒントにして、日蓮は曼荼羅が完成されて入ったのかもしれない、というのが私の考えです。

>日蓮の曼荼羅は、『法華経』的には100点。

ここは私の考えでは100点と断言は避けて「十分な合格点」と書いておきます。

>密教的には100点満点の理解ですが、日蓮的にも『法華経』的にも0点の理解です。

周りからこう言われても仕方ないですね。創価及び正宗系教団には謙虚さや慎重さが全くありませんし。

私自身はに法華経信仰をするのに、曼荼羅も題目不要だと思っています。勤行や唱題(創価などの早口題目でなく日蓮が行ったゆっくりとしたもの)の際には仏像でも曼荼羅本尊でも構わない、あっても良いとという考えです。宗教ならば、ですが。

なお、いくつかある条件のうちの一つに「他宗や他人の考えを必要以上に否定しない」というのがポイントです。批判や否定は絶対にしてはいけない物、ではありません。

●聖密房御書

「儀軌」つながりで、日蓮宗電子聖典から日本語訳を読んだら、驚いたことに日蓮さんは経文や仏教の歴史に対して、慎重な姿勢が見られます。
「儀軌」と前後しますが、日蓮は経文が翻訳であったことを知っていたみたいですね。

書き下し文
>日蓮勘へて云く、大日経は新訳の経、唐の玄宗皇帝の御時、開元四年に天竺の善無畏三蔵もて来る。法華経は旧訳(くやく)の経、後秦(ごしん)の御宇に羅什三蔵もて来る。その中間三百余年なり。

日蓮宗電子聖典、日本語訳
>このことについて日蓮が考えてみますと、大日経は新訳の経で、唐の玄宗皇帝の開元四年(七一六)に、インドの善無畏三蔵が中国へ将来し訳されたものです。それに対し法華経は旧訳の経で、鳩摩羅什が中国へ将来し訳されたもので、大日経よりも三百余年も前に中国に将来されたものです。


書き下し文
>真言宗の名は天竺にありやいな(否)や。大なる不審なるべし。ただ真言経にてありけるを、善無畏等の宗の名を漢土にして付たりけるか。よくよくしるべし。

日蓮宗電子聖典、日本語訳
>真言宗の名前がインドにあったかどうかは明らかでありません。インドではただ真言の経があったのを、善無畏三蔵らが中国に将来してから真言宗を名乗ったのでありましょう。この点はよくわきまえておく必要がありましょう

日蓮さんが、「わからないことはわからない」「知らないことは知らない」そういえるのは彼のマトモなバランス感覚だと私は思います。

日蓮さんはサンスクリットなどを部分的知識として知っていたかもしれませんが、原始仏経典は読んでいない可能性が高そうです。
翻訳された現代で言うところの書籍名が本尊、というのは、やはり現代人には考えにくいですが、法華経仏説、五時八教を日蓮さんは信じていたんですね。でもちゃんとした宗教者だったと思います。
言うまでもなく、創価などの正宗は非宗教、反宗教です。


返信する
参考 (米山士郎)
2011-01-04 21:01:59
院長のコラム>密教と空海
http://mitsuo-cl.com/mitsuo/colum/colum30.html

次の年の、806年、大同元年丙戌、3月長安を出立し、橘逸勢(たちばなのはやなり)や高階遠成らとともに、新訳経142部247巻、真言讃42部44 巻、論疏32部170巻、仏像、法具9種、法曼荼羅、三昧耶曼荼羅、伝阿闍梨の影十鋪、嘱物13種をもちかえり、8月に帰国する。

どのくらい正確な記述かわかりませんが、「法曼荼羅」とあります。

参考までに。
返信する
少し補足 (米山士郎)
2011-01-04 22:02:57
なお、いくつかある条件のうちの一つに「他宗や他人の考えを必要以上に否定しない」というのがポイントです。批判や否定は絶対にしてはいけない物、ではありません。

上の文章に少し補足。

原始仏教から見れば日本仏教はほとんど全部間違っています。この前提にたって他宗の考えや本尊を必要以上に避難や否定しなければ、法華経の曼荼羅本尊でも、周りの人々から許容されるかもしれません。

創価など、教団都合な団体のありようは、日蓮さんに興味が薄れる人が増えるどころか日蓮さんの欠点を指摘され、日蓮自身がバカ呼ばわりされたり、日本人的な宗教心が失われるばかりだと思います。

返信する
ねむい (Libra)
2011-01-06 02:16:00
 時間がありませんが、睡眠時間を削ってコメントしてみます(笑)


1.法曼荼羅
 「法曼荼羅」とゆーのは、わたしの先のコメントの中の「四曼」の一つです。先のコメントの中で紹介した小川一乗先生の解説にも出てきていますよ。

  密教の即身成仏は作り話(小川一乗)
  http://fallibilism.web.fc2.com/061.html

 日蓮の曼荼羅は、四曼でいうなら、「法曼荼羅」というよりはむしろ「大曼荼羅」でしょう。

 もっとも、日蓮の曼荼羅には2つの梵字がありますから、その部分は法曼荼羅チックに見えるかもしれませんけども。

 この2つの梵字については、最後の7で述べるように、多宝如来の「郎従」として「金胎両大日」を描いているだけの話でしょう。


2.儀軌
 儀軌じたいは読んだことがないので「最も常識的かつ正統なものとして知られている」「法華曼荼羅」が具体的にどのようなものなのかをわたしは知りませんが、日本では『蓮華三昧経』とゆーものが作られており、そこでは完全に密教化した法華曼荼羅が案出されています。わたしのHPの以下の資料を参照されたし。

  蓮華三昧経の法華経曼荼羅の構成(水上文義)
  http://fallibilism.web.fc2.com/076.html


3.「日蓮は経文が翻訳であったことを知っていた」
 それはあたりまえでしょう(笑)


4.「翻訳された現代で言うところの書籍名が本尊」
 たぶん、日蓮なら、「ナムサッダルマプンダリーカスートラ」でもいいと言うと思いますよ。

 目連の時代に鳩摩羅什訳の『妙法蓮華経』なんて存在しなかったわけですが、日蓮は以下のように言っています。

────────────
目連尊者と申す人は法華経と申す経にて正直捨方便とて、小乗の二百五十戒立ちどころになげすてて南無妙法蓮華経と申せしかば、やがて仏になりて名号をば多摩羅跋栴檀香仏と申す

(「盂蘭盆御書」、全集、p. 1429)
────────────

 同じく、天親が鳩摩羅什訳を知っているはずがありませんが、日蓮は以下のように言っています。

────────────
南無一乗妙典と唱えさせ給う事是れ同じ事には侍れども天親菩薩・天台大師等の唱えさせ給い候しが如く・只南無妙法蓮華経と唱えさせ給うべきか

(「月水御書」、全集、p. 1203)
────────────

 これは、日蓮が【そういう意味の言葉でありさえすれば何語で唱えてもいい】と考えていた証拠でしょう。詳しくは以下の拙文を参照されたし。

  題目は呪文ではない
  http://fallibilism.web.fc2.com/z024.html


5.日蓮のサンスクリット知識
 日蓮がどこまでサンスクリットを読めたかは謎ですが、本人は「あらあら披見に及び候」とか言っています。
 
────────────
抑法華経の大白牛車と申すは我も人も法華経の行者の乗るべき車にて候なり、彼の車をば法華経の譬喩品と申すに懇に説かせ給いて候、但し彼の御経は羅什存略の故に委しくは説き給はず、天竺の梵品には車の荘り物其の外聞信戒定進捨慚の七宝まで委しく説き給ひて候を日蓮あらあら披見に及び候、先ず此の車と申すは…

(「大白牛車御消息」、全集、p. 1584)
────────────


5.日蓮は原始仏経典は読んでいない可能性が高い?
 なにをもって「原始仏経典」とゆーのかがまず大問題ですが、少なくとも漢訳の阿含経は読んでいる可能性が高いのでは?
 
 その上で大乗経典の『法華経』を選んでいるのでは?


6.原始仏教から見れば日本仏教はほとんど全部間違っている?
 なにをもって「原始仏教」とゆーのかがまず大問題ですねぇ。

 部派仏教と大乗仏教では、どちらが釈迦の精神をより忠実に体現していたんでしょうかねぇ。

  大小乗の意味(平川彰)
  http://fallibilism.web.fc2.com/133.html


7.日蓮の曼荼羅の2つの梵字は密教的なのか?
 独歩さんは日蓮の曼荼羅の2つの梵字を金胎両大日だと言っておられますが、これはそのとおりでしょう。

  日蓮と梵字 (2)
  http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/50832083.html
  
 ただし、それは、多宝如来の「郎従」として描かれているだけの話でしょう。日蓮はハッキリと以下のように言ってますから。

────────────
月氏には教主釈尊・宝塔品にして一切の仏を・あつめさせ給て大地の上に居せしめ大日如来計り宝塔の中の南の下座にすへ奉りて教主釈尊は北の上座につかせ給う、此の大日如来は大日経の胎蔵界の大日・金剛頂経の金剛界の大日の主君なり、両部の大日如来を郎従等と定めたる多宝仏の上座に教主釈尊居せさせ給う此れ即ち法華経の行者なり天竺かくのごとし

(「報恩抄」、全集、p. 310)
────────────

 詳しくは以下の拙文を参照されたし。

  http://fallibilism.web.fc2.com/kangaeyou_02.html#tahou
返信する
やっちまったぜ (Libra)
2011-01-06 02:21:02
 投稿した後に読み返したら、「5」が二つありますね。

 脳内変換でよろしく。

 眠いんで寝ます。

 明日仕事きつそう(笑)
返信する
あらら。ゆっくり寝てください。 (米山士郎)
2011-01-07 00:29:38
私も誤字脱字だらけです。すいません。>ALL

>2011-01-04 20:50:16

私自身はに法華経信仰をするのに、曼荼羅も題目不要だと思っています。勤行や唱題(創価などの早口題目でなく日蓮が行ったゆっくりとしたもの)の際には仏像でも曼荼羅本尊でも構わない、あっても良いとという考えです。

私自身は法華経信仰をするのに、曼荼羅も題目も不要だと思っています。
勤行や唱題(創価などの早口題目でなく日蓮が行ったゆっくりとしたもの)の際に本尊は仏像でも曼荼羅本尊でも構わない、本尊はあっても無くても構わない、という考えです。


>少し補足 (米山士郎)
>2011-01-04 22:02:57

他宗の考えや本尊を必要以上に避難や否定しなければ、

他宗の考えや本尊を必要以上に非難や否定しなければ、

----------------------------------------------------
勤行の意義や方針は過去にLibraさんのコメントままでいいと今でも思っています。内容理解や意味を知る、等々。
私の言い方(心理っぽく?)だと、ブッダの教え、あるいは 心の持ち方や大乗としての救済方法の事例を ”覚えておく(忘れない)” というニュアンスでしょうか?
他にも宗教的な心構えとして日蓮遺文の「不軽菩薩と法華経、または二十四字と妙法蓮華経」でもいいでしょうし、「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」でもいいんでしょうね。あくまでも相手への思いやりですよね。
相手に対して勝ったとか言い切ったとか、破折した!とか魔を切った!とか、馬鹿馬鹿しいです。それを本気になって信じて実践し、また、信じていたのが私ですが。(笑)

========================================

1.法曼荼羅

>日蓮の曼荼羅は、四曼でいうなら、「法曼荼羅」というよりはむしろ「大曼荼羅」でしょう。
>日蓮の曼荼羅には2つの梵字がありますから、その部分は法曼荼羅チックに見えるかもしれませんけども。

  日蓮は『法華経』=釈迦仏と主張(末木文美士)
  http://fallibilism.web.fc2.com/120.html

法華経は釈迦仏、上のリンク以外にも遺文に「文字一つ一つが仏である、」という記述があったと思います。

梵字の一文字なのか漢字の複数文字なのかの違いだけで、「法曼荼羅」と考えました。
「大曼荼羅」なら、”像”つまり手足や顔のある絵姿、と私は考えました。

4.「翻訳された現代で言うところの書籍名が本尊」
>たぶん、日蓮なら、「ナムサッダルマプンダリーカスートラ」でもいいと言うと思いますよ。

柔軟な考えの持ち主でないと、なかなか言えない意見ですね。
やはり心理面で、「許された人、愛された人という方は許す、許容のある意見が出る」そんな気がします。


>目連尊者と申す人は法華経と申す経にて正直捨方便とて、小乗の二百五十戒立ちどころになげすてて南無妙法蓮華経と申せしかば、
>(「盂蘭盆御書」、全集、p. 1429)

この辺りはどうしても厳密に見てしまう現代人の私と鎌倉時代の日蓮さんでは意見が違ってしまいますね。
でも、日蓮さんの理解が原始仏教に原点回帰していたという点で大事なポイントであり、意味合いとして大筋で賛成です。

(それぞれ歴史的な変遷はあるにせよ)小乗も大乗もブッダの教えの内だった。
「「南無妙法蓮華経」」とそのままには言ってないと思いますが、「「ブッダの言葉」」を記憶して目蓮自身が実践し、他者に慈悲をもって「「ブッダの言葉」」を教えてあげて、ブッダ同様、具体的な功徳を積む他者救済もしたと思いますね。


厳密には「「南無妙法蓮華経」」=「「ブッダの言葉」」ではありませんが、法華経を読めば、(特に創価などの正宗系教団の人は日本語訳をしっかり読んで理解するべきです。)ブッダの教えとブッダと弟子の会話であることが一目瞭然ですね。


>同じく、天親が鳩摩羅什訳を知っているはずがありませんが、日蓮は以下のように言っています。
>南無一乗妙典と唱えさせ給う事是れ同じ事には侍れども天親菩薩・天台大師等の唱えさせ給い候しが如く・只南無妙法蓮華経と唱えさせ給うべきか
> (「月水御書」、全集、p. 1203)

むむむむ。ここまで歴史が後代で、天台系の内容だと勉強不足で仏教者でない私にはそこまで言い切れません。(^_^;)(汗)


5.日蓮は原始仏経典は読んでいない可能性が高い?

>少なくとも漢訳の阿含経は読んでいる可能性が高いのでは?

申し訳ありません。ここは私の書き方が乱暴でしたね。
法華経の翻訳が複数あるように、阿含経も複数あったのでしょうかね?わかりませんが。
どの訳本を読んだのかは少し気になりますね。

鎌倉時代の天台宗にどの経典があって読まれていて、どんな位置づけだったのか?これも少し気になりますね。

>なにをもって「原始仏教」とゆーのかがまず大問題ですねぇ。
>部派仏教と大乗仏教では、どちらが釈迦の精神をより忠実に体現していたんでしょうかねぇ。

ええ。ホントに。第一結集の仏典が残っていればよかったのに。。。。
今ある経典では、おおよその内容しかつかめませんね。

池田大作氏と公明党がイラク戦争を肯定してくれたおかげで、あの辺りで貴重な仏典が消失したかもしれませんぜ。まったくあいつら。。。。嘘ばっか言って、騙すことばっかして。ホント権威権力に弱いな。

7.日蓮の曼荼羅の2つの梵字は密教的なのか?

確かに密教的ですよね。
曼荼羅、これ自体が密教のアイテムですし。

コメントがあれば時間のあるときか土日とかに。平日はゆっくり寝てくださいまし。


ではでは
米山士郎

返信する
ボソボソ。 (米山士郎)
2011-01-07 00:50:38
>心理面で、「許された人、愛された人という方は許す、許容のある意見が出る」

と書いたんだけど、、、、ふと思った。

http://kamakura.cool.ne.jp/gomoyama/keijiban/shingon.htm

問答迷人さんと無徳民さんの意見交換で、

1.保田妙本寺に真筆の感見記が現存。
1.感見記には、密教の相伝を受けた、、とのはっきりとした記載あり。

私には感見記を見ても読めないのだけども。。。。

日蓮が密教の相伝を受けた、その結果として”梵字のある”曼荼羅がある。
独歩さんの意見では日蓮曼荼羅は允可(いんか)状。

つまりは、曼荼羅を渡して允可(いんか)する?際、日蓮の弟子の誰かに、日蓮がうけた密教の相伝も渡した可能性があるのだろうか?うーん、さっぱりわかんないな。w

自分が譲り受けた密教の宗教性は弟子にも、やっぱり譲り渡した?
密教の相伝も含まれていたのか???。。ねぇ。。。。。?

日蓮に説得されて改宗した真言出身の弟子で一定以上の修行を納めていれば、渡す曼荼羅がより密教ぽく特別に書かれているとか?そんなのあるのだろうか?

返信する
仏教学者じゃなくてもわかるヒント (Libra)
2011-01-07 01:49:50
ヒント:天親はインドの仏教僧です。漢字とか知りません(笑)
返信する
日蓮の曼荼羅のオリジナリティー (Libra)
2011-01-07 01:50:39
 さて昨日の続きです。


1.日蓮の曼荼羅にオリジナリティーはあるのか?
 昨日のコメントにも書いたとおり、わたしは儀軌じたいを読んだことがありませんので「最も常識的かつ正統なものとして知られている」「法華曼荼羅」とゆーものがどのようなものなのかを知りません。

 しかし、日蓮じしんは、じぶんの曼荼羅を「常識的なもの」だなんて全く考えていなかったことだけはたしかです。

 例えば、日蓮は、ある曼荼羅に、ハッキリと「大覚世尊御入滅後経歴二千二百二十余年 雖爾月漢日三ヶ国之間未有此大本尊 或知不弘之或不知之 我慈父以仏智隠留之為末代残之 後五百歳之時上行菩薩出現於世始弘宣之」(『山中喜八著作選集Ⅰ 日蓮聖人真蹟の世界 上』、雄山閣出版、1992年、pp. 58-59)と書いています。

 「本尊問答抄」でも以下のように述べています。

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此の御本尊は世尊説きおかせ給いて後二千二百三十余年が間一閻浮提の内にいまだひろめたる人候はず、漢土の天台日本の伝教ほぼしろしめしていささかひろめさせ給はず当時こそひろまらせ給うべき時にあたりて候へ

(「本尊問答抄」、全集、p. 373)
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2.日蓮の儀軌理解
 日蓮は、「不空三蔵の法華儀軌は宝塔品の文によれり、此れは法華経の教主を本尊とす法華経の正意にはあらず」(「本尊問答抄」、全集、p. 365)と理解しています。


3.日蓮じしんは何を本尊とするのか?
 日蓮は「釈尊と天台とは法華経を本尊と定め給へり、末代今の日蓮も仏と天台との如く法華経を以て本尊とするなり」(「本尊問答抄」、全集、p. 366)と言っています。

 要するに、「法華経の教主(仏)」ではなく、「法華経(経)」を本尊とするのがじぶんの立場(天台宗)だというのです。

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問うて云く日本国に十宗あり所謂倶舎成実律法相三論華厳真言浄土禅法華宗なり、此の宗は皆本尊まちまちなり…、何ぞ天台宗に独り法華経を本尊とするや、答う彼等は仏を本尊とするに是は経を本尊とす

(「本尊問答抄」、全集、p. 366)
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 釈迦も天台も日蓮も【法を本尊としている】とゆー話は、前にもここでしましたのでくりかえしません(以下の記事の「回答(2007.01.11-03)」と「回答(2007.01.11-04)」に記録してあります)。

  日蓮思想の現代的意味
  http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-5.html


4.経を本尊とするのが法華経の正意
 経を本尊とするのが法華経の正意であるという日蓮の理解は正しいと思います。例えば、「法師品」に以下のような記述があります。

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また、だれかがこの最高の菩提を求めて、満一劫ものあいだ私に合掌し、幾コーティ・ナユタもの多数の詩頌をもって面前で(私を)賛美するとしよう。〔一二〕
彼は私を賛美して喜びを生じ、そこで実に多くの福徳を得るであろう。他方、だれかが、かの(この経典の受持)者たちを讃えて説くとしよう。その人は、前者よりもいっそう多くの福徳を得るであろう。〔十三〕

(松濤誠廉・丹治昭義・桂紹隆訳『法華経Ⅱ』〔中公文庫〕、中央公論新社、2002年、p. 13)
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5.日蓮の曼荼羅の中尊は法華経の題目
 日蓮の曼荼羅の中尊は法華経の題目になっています。

 日蓮の曼荼羅は、登場するそれぞれの存在を絵とかで表現するのではなくて、基本的に、各存在の名前を文字で書くとゆーことで表現されています。

 「法華経を本尊する」とゆーなら、当然、法華経の名前(題目)を中尊として文字で書くことになります。


6.日蓮の曼荼羅のオリジナリティー(1)
 法華経の名前(題目)を中尊とする法華曼荼羅は日蓮の発明なのではないでしょうか?

 そうではなくて、日蓮より先にこのようなコンセプトですでに法華曼荼羅を描いた人がもしいるとゆーのならぜひ教えて下さい。


7.日蓮の曼荼羅のオリジナリティー(2)
 日蓮にとっては、法華経の名前(題目)とゆーのは、「上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字」(「法華取要抄」、全集、p. 336)であったり、その内に「法華経の肝心」(「唱法華題目抄」、全集、p. 13)であるところの「一念三千(=縁起・空)」がつつまれているものであったりするわけで、その点にもオリジナリティーがあります。

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一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹〔つつ〕み末代幼稚の頚〔くび〕に懸けさしめ給う

(「観心本尊抄」、全集、p. 254)
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 虚空会の付嘱の儀式とゆーのは、日蓮にとっては、釈尊から上行への五字の付嘱の儀式です。

 だから、虚空会の付嘱の儀式を描いた日蓮の曼荼羅では、釈尊・多宝は西を向いていて、上行は東を向いているように描かれています(釈尊と上行は向かい合っている)。

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月氏には教主釈尊宝塔品にして一切の仏をあつめさせ給て大地の上に居せしめ大日如来計り宝塔の中の南の下座にすへ奉りて教主釈尊は北の上座につかせ給う、此の大日如来は大日経の胎蔵界の大日金剛頂経の金剛界の大日の主君なり、両部の大日如来を郎従等と定めたる多宝仏の上座に教主釈尊居せさせ給う此れ即ち法華経の行者なり天竺かくのごとし

(「報恩抄」、全集、p. 310)
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 曼荼羅では、我々から見て左が北で、右が南となっています…。宝塔の中の北の上座に釈尊が、南の下座に多宝如来が西を向いています。北が上座で南が下座となっているのはインドの「右尊左卑」の考えによるものです(法華経はインドの霊鷲山で説かれたという設定になっていますので)。ちなみに、日寛の「三宝抄」にも「仏宝は月氏風に准ずる故に右尊左卑也」とあります。

 右尊左卑の考えからすれば、最上位の弟子である上行菩薩は、弟子の中でも最前列の右にいることになるでしょう。もし上行菩薩が釈尊や多宝如来と同じく西を向いているとすると、北の上座にいなければおかしく、我々から見て左にいなければなりません。しかし、曼荼羅では、我々から見て右に上行菩薩がいます。このことから、曼荼羅の中の上行菩薩は東を向いていることがわかります。

 上行菩薩が釈尊と向かい合っているということは、法華経のストーリーからすればあたりまえのことなので、上記説明は本来なら不要だろうと思うのですが、曼荼羅の構造それ自体からも明らかであるということを強調するためにあえて書いておくことにしました。
(「本尊論メモ」の〔05.09.24 補足2〕
http://fallibilism.web.fc2.com/z013.htm
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