創価学会の信仰に功徳はあるか?

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322.「君よ、執念の巌窟王たれ」は法華経精神でも日蓮精神でもない。反宗教な歪んだ執念。

2011年07月10日 01時15分38秒 | 創価学会
◯ ◯◯日記/巌窟王になるということ - GREE

巌窟王になるということ
あなたのお言葉を聞いていると、
この胸が張り裂ける様です。……
ですが、メルセデスさん、よく聞いてください。

わたしとしては、どうにもほかにしようがなかったのです。
愛するすべての人たちからは忘れられ、
知らない人たちからは虐げられた前半生、
おお、なんという恐ろしい不幸、むざんな苦しみだったでしょう。

それが急に自由のみとなり、しかも、あのすばらしい富、
目のくらむような富を得ました。
わたしは、たしかに神様が、なにか大きなたくらみをお持ちになっていることを
信じずにはいられませんでした。
そして、そのたくらみを、わたしをしておこなわせようとなさっているのを
信じずにはいられませんでした。

それからというもの、わたしは、
この世の楽しい生活、この世の平和な生活など、
ぜんぜん見向きもしなくなりました。
思うのは、ただ復讐のこと、復讐のこと、
いざという時にそなえてからだを鍛え、心を鍛え、
腕は敵を倒す事ができるように、
目は、あらゆる苦しみを平然とながめることができるように、
口は、どんな恐ろしいことでも微笑をもって言えるように、
すっかり慣らしたものでした。

こうして、かっては人を疑うことを知らない、純真そのものだったわたしも、
いつか執念ぶかい、冷酷な、非常な、目も見えず耳も聞こえない
運命それ自身といったような人間になりました。
復讐の鬼と化したわたしは、
わが前にひらけた道の中に、いっさんに飛び込んで行きました。
そしてめざす相手をつぎつぎと倒しました。
目的を達した今になって、
わたしは自分が、やりすぎたというような不安を感じずにはいられません。
わが道の上にあった人々こそ災難です。
ことにあなたに対しては、わたしは……

---世界大ロマン全集十四巻 巌窟王(下)初版 p258~259より---

2011/7/3 21:16・いいね!・コメントする
--------------------<引用ここまで>--------------------

以下は私がgreeの◯さんの別記事に書いたコメントをブログ用に一部改変した物。

●学会と岩窟王について

学会ではよく「仇討だ」「敵(カタキ)を取れ」「悪に勝て!」と勝手に敵を創り上げて戦わせようとします。
その中の言い方の一つとして
「岩窟王たれ!」
「君よ、執念の巌窟王たれ」
って言いますよね。ネットで「"岩窟王" "たれ"」や「君よ、執念の巌窟王たれ」で検索すると出てきますね。

池田大作氏の教えは要約すると
「巌窟王の様に怨みを持て。執念をもて!」
ということなのでしょう。
これが非宗教的、反原始仏教的であることは言うまでもないことですね。

明らかに法華経の常不軽菩薩の教えではありませんね。
つまりは常不軽菩薩を重視した日蓮の教えでもありません。
常不軽菩薩は杖や枝、瓦石で迫害されたときに10倍返ししたり、他の人に
「お前も怨め!」「お前も怒れ!」「お前も許すな!」
などと言っていませんよね。

池田大作氏の個人の歪んだ怨みや執念が創価大学生や男子部や創価班など末端への学会員の指導に入っている、ということかと。

●岩窟王

岩窟王の趣旨や評価についても登場人物が
「怨みを持つべきではなかった」
とするところに評価が高いのか?それとも
「人は怨みを持って生きるべきである!!!」
に評価が高いのか?

これは巌窟王を読んだ人の感想ですから、人それぞれ自由です。
ですが仏教、あるいは大乗仏教、日蓮仏法(仏教)と呼ばれるものを現代人が信仰する際に過去の先人たちの失敗や果たせなかったことを現代人が努力して変える必要はあるでしょう。
非現実的な非行動的な祈りではなく。
(十分に脱創価、脱カルト出来ている人には祈ったらダメとは私は言いませんが、問題教団の信徒会員の祈りが自己満足的な一面を持つ点には十分な注意が必要です。)

 少なくとも新しく日蓮信仰をする人、つまり日蓮さんの信徒になりたい人にとっては創価学会の精神、学会精神、池田氏の精神というのがいかに酷く歪んでいるかは私の文章で分かってもらえると思います。

池田氏や学会員は怨みではなく
「不屈だぁぁ!!!!!」
「不屈の精神だぁぁ!!!!!」
「諦めないのが学会精神だぁぁ!!」
と言いたいのかもしれませんが、上の文章を見ても解るとおり岩窟王は後悔していますよね。
原始仏教は無常無我が基本です。
無常、常にあるもの無し、なのですから、常に何かを持ち続けようとすることこそ「正統派」でも「直弟子」でも「師弟直結」でも原始仏教の「正しい」理解でもありません。

(なお、日蓮さんが愚痴を書いた真筆遺文があることは高木豊さんの書籍を紹介した過去記事を参照のこと。)

一般の人から「お釈迦さんに近い原始仏典を読みきれず、間違いのある法華経を読みきり、間違えた日蓮さん。やっぱり日蓮さんの現代の弟子信徒は間違えがお似合いだ。」と言われるんじゃないですかね?
こうして(間違えたかもしれないけど)日蓮さんの宗教性やバランス感覚は誤解され失われていく。


>いつか執念ぶかい、冷酷な、非常な、目も見えず耳も聞こえない
>運命それ自身といったような人間になりました。
>復讐の鬼と化したわたしは、
>わが前にひらけた道の中に、いっさんに飛び込んで行きました。
>そしてめざす相手をつぎつぎと倒しました。
>目的を達した今になって、
>わたしは自分が、やりすぎたというような不安を感じずにはいられません。
>わが道の上にあった人々こそ災難です。


諦める・諦めないは個人の自由ですが、巌窟王を引用して「不屈の精神」を教える際、
こういったことが書かれている点を学会では正確に教えていません。
私の体験では一度もありません。
教団による教団都合な悪しきMCですね。
創価学会は偉人や先人の言葉を引用することが多いですが、中身はなくMCでしかありません。

日蓮正宗が日蓮さんを引用しても創価学会とほぼ同質のものでしょう。

●文章の書き方。

巌窟王の件、たぶんxxxさんとの会話の中で出てきたのでしょう。

1.読までのxxxさんとの会話や経緯を簡潔に書いた日記、
それと
2.今回の本文。
3.◯さんの感想日記。

3つのうち、どこかに問題提起があればいいと思います。
順序もおまかせします。

思考停止しているということは記憶についても都合の悪いことは忘れますから、こちらが理解して書く必要のないことも逐一書く必要が出てくるのかもしれません。

もしよければ、◯さんの既存の日記や本文を転載させてくださいまし。

ではでは
よねやま

●まとめ

◯さん、転載許可有難う御座いました。
池田氏および学会本部職員って法華経や日蓮も読んだこと無いおバカさんの集まりか、読んだことあって、確信犯的にやっている 「とても性格の悪い人たち」 なんでしょうね。
宗教性のある・ない、それ以前の問題でしょうね。

以上。
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