旧「納豆炒飯と青いパラシュート」(愛国左派・楚練)☆過去重要記事セレクト公開中

※旧題「納豆炒飯と青いパラシュート(愛国左派・楚練ブログ)」、独自視点からの公安メールのテンプレ起草配布など。

[西洋哲学初級] ドイツ哲学入門(2)/ヘーゲルやニーチェの功罪

2016-10-08 23:33:02 | 人文3(西洋哲学)
前回はカントを中心に大雑把に検討した。そして実際のところ、哲学の「スタンダードな基本」はカントで最終回答が示されているように私は思っている(特に道徳や倫理の学としては、「当たり前すぎる」ようなカントの基本的な考え方が、おそらく全てのベースになる)。その後の哲学者はカントの変奏や焼き直し、各論的な掘り下げのように感じる。
今回は続きの補足としてそれを踏まえて、その後の哲学者のヘーゲルやニーチェなどの功罪を考えてみたい(連続掲載記事シリーズの「ドイツ哲学入門」後半)。


6.ヘーゲルの情熱(及びマルクスの失敗・キルケゴールの実存哲学)

一般には「ドイツ観念論の大成者」だとされ、「弁証法」による体系で知られる。
カントにおいては別々の能力・分野として別個に考察されていた悟性(感覚・認識)・理性(倫理・道徳)・判断力(美意識・価値観)の三つが、ヘーゲルでは相対対立するものを上の段階に止揚する「弁証法」という独特の思考法によって、連続した発展プロセスとして体系化されることになる。
そしてカントでは『判断力批判』の「付録」扱いになって「(あくまでも信念や願望として)留保」されていた「理性の目的論」の最終的な理念・理想が、ヘーゲルの哲学では実体的な普遍的真理として「断言」される。人間理性や近代キリスト教的な理想が強く肯定され、ついには現実の人類の歴史(の発展)にまで投影される。
確信と情熱に満ちたヘーゲルの思想は魅力的であるし、芸術的な審美的価値からすれば素晴らしく見えるし、理想主義的な多くの読者たちを魅了して心を励ました(実際にヘーゲルは非常な博学でもあり、理論家としての知力や説得力も卓越していただろう)。
しかしそれも「諸刃の刃」だった。ロマン主義的なヘーゲルは「人間理性の能力的な限界」を自覚していたカントの様な冷静さを欠いているのではないだろうか? ……一般に文学や芸術の分野などでも「ドイツロマン主義」は破滅的傾向があると言われるが、冷静さを失って情熱の虜となり、「全か無か」的に突き進むのみの人間は早晩破滅する危険が付きまとうことになる。

※ヘーゲルの『精神現象学』は平凡社の新書で訳が出ている。また、講談社学術文庫の「『精神現象学』入門」は解説書として、非常な名著であると思われる。ヘーゲルの思想は広く普及して大きな影響力を持ったようで、ロシアの文豪ツルゲーネフの『父と子』などでも、主人公の若者たちが「我々はヘーゲリアン(ヘーゲル主義者)です!」と情熱的に語るシーンがある。

そして、ヘーゲルの弁証法的哲学を批判的に継承したマルクス(科学的社会主義・史的唯物論)などにも、同様の弱点や欠陥が見られるようだ。……私(筆者)はマルクスに詳しくないのだが、理念的なものを現実の実在の歴史と混同し、無分別に妄信している狂信者の類としか思えない(カントの様に「無限に漸近的に理想に向けて発展していく、その着実な努力こそが重要だ」という謙虚さや手堅さがないのでないか?)。
だからマルクスの「暴力革命による理想社会の実現」というアイデアは、極めて眉唾だと考えている。資本主義の欠陥を指摘するのはわかるとして、たかが「暴力革命」一発で最終的な理想のユートピアが実現するのなら、誰も苦労はしない。……特別な理論や理屈がなくとも、社会の困窮と矛盾が限界まで進めば、自ずから反乱や革命や一揆は起こるのである。そんな騒乱は社会や歴史にとって偶発的・付随的な意味合いしかない。まさか人類の歴史が革命やクーデターが、フランス革命だけだったとでも言うのだろうか? 仮にたまたま社会発展や歴史の展開上に重大な意義を持つ騒乱があったとしても、しょせん「本質ではない付随的な話」でしかない。
マルクスの「暴力革命」の方法論は、しょせん伝統的なキリスト教の「アルマゲドン(最終戦争)の後の千年王国」の信仰と大差がない(一見科学的に見えても、実はそうではなく、「(あくまでも想定上の)理念や信仰」なのである)。しかも宗教の信仰箇条と違い、「科学的真理だ!」と居直って、「人間には究極的には不可知の事柄である」という謙虚さと自己反省の冷静さがないからなおさら始末が悪い(これこそが、悪しき「近代科学と理性への妄信」の典型例だと思う)。そんなものは「架空の魔法の杖」でしかなく、通俗的なマルクス主義者たちは手段と目的を取り違えているとしか思えない。……そんなふうな無思慮な輩だから、外国勢力にいいように踊らされて、自国内を無駄に撹乱して利敵行為することになるわけだ(笑)。

※ドストエフスキーやコンラッドの小説に出てくる「革命的な共産主義者」はしばしば頭の悪い(もしくは良心の欠落した)暴力的な連中ばかりだが、現実も似たり寄ったりである。まだソビエト連邦などの場合は最終的に失敗したとはいえ、国家や国民が主体性を持って人類史上の実験を実行した「挑戦者としての名誉」だけは残ったと思うけれど、その他の付随する国々での場合はおおむね「鵜の真似をする鴉」でしかない。上辺の理屈だけ真似して独裁者や悪代官同様の特権階級を正当化する理論に悪用され、さらには周辺各国内部の信じやすいお人良しや頭の悪い不平分子を焚き付けて、侵略を幇助して自国を破壊する外患誘致行為を誘発している。純粋に「害」しかない。
※私は一応は自分の政治的立場の分類として「保守(愛国)左派」を名乗っているが、どちらかと言えばより古い、もっと素朴な社会主義的ユートピアの理想や良識的なカントの考え方の方に共感する(自分として承認できるのは、せいぜいフランスの「共和制」が限度である)。実際的にはケインズ主義とか国家社会主義(穏健な意味で!)に近いのではないかと思っている。つまり、十分に賢い国民によって信任・信託・承認されるような、誠実な公共・国家の権力による監督・指導と諸々の調停措置と国民相互の相談・配慮によって、資本主義・自由主義の欠陥を皆でカバーし是正して、国や社会を恒常的に改良・発達させていく。社会の歴史段階や制度も大事だろうが、この世に地獄を生み出すのは往々にして、思慮と良識・良心を欠いた人間たち自身の責任なのである。

また、このヘーゲルの影響を受けた有名な哲学者として、デンマークのキルケゴールがいる。『死に至る病』で「死に至る病とは絶望のことである」と説き、弱さによる絶望(自己の現状から逃げようとする消極的な否定願望)と強さによる絶望(理想に到達できない自己への積極的な否定願望)、そしてソクラテス的な哲学の知恵の限界、そして単独者として神に対峙する信仰の覚悟を語る。
つまりは現実的な個々の人間というのは、ヘーゲルのような壮大な人類史的な規模とスケールで生きているわけではないのであって、ヘーゲルの哲学だけでは哲学的な問題の完全な解決にならないことを指摘し、個々の人間の切実な生を「実存」と呼んだ。ヘーゲルが人類史的な次元で考えた内容を、キルケゴールは個人の次元で考え直したようだ。
これも一見は否定に見えるが、別のケーススタディであり、カントやヘーゲルといった先人の思索への補完・補足的な応用編としての意味があると思われる。


7.ニーチェの「超人」は何を意味するか?

よくニーチェというと、「神は死んだ」のフレーズばかり有名で「既存道徳破壊」のイメージしかないようだが、それは一面的な見方である。
ニーチェが批判しているのは、硬直化・形骸化によって偽善的・欺瞞的(自己欺瞞を含む)になった道徳や空虚で意味を成さなくなった上辺の通念的な倫理(無思慮から来る、根拠のない漠然とした「良心の疚しさ」)のことでしかなく、別に一般的な善行そのものまでを全否定しているわけでは全くない。「贈り与える徳」「金は自らを贈り与えるからこそ価値を持つ」とも言っており、自己犠牲も否定していない。また「(自ら光を発する)太陽」を比喩として出して、「(個人の)主体性」の重要さを主張しているだけである。
 ※角川文庫に『若い人への言葉』という抜粋集がある。
その哲学の関心は、カントの「判断力・価値観」の研究分野と主に重複しているように思われる。ニーチェの「永劫回帰」の虚無の世界観というのは、当時の一般の社会通念や建前と化してた「理性の目的論・進歩的な歴史観」へのアンチテーゼに他ならない。……つまり、既存の理想や道徳価値が全否定されるような悲惨な状況に陥ったとしても、それでも自ら「生」に意義を見出す強靭な主体性(能動的ニヒリズム)を主張しているだけなのである。カントの道徳哲学では「たとえ自己に不利益でも、それでも『道徳律』への信念に従って善をなせ」であるが、ニーチェは「どんなに無意味で悲惨な世界でも、それでも挫けず自分で信じるように、『(主体的に)良い』と思うように有意義に生きろ」と言っているだけで、必ずしも両者は相反する言説ではない(むしろドイツ的な「不屈の敢闘精神」の強固さが両者には共通している)。前者が一般論寄りであるのに対し、後者は個人の判断を重視しているウェイトやバランスの違いこそあるものの、本質は必ずしも大きく変わらないように思う。
※理性主義全盛のヘーゲルの後の時代であるニーチェの頃には、既に近代の啓蒙主義や理性への信頼が危機に瀕していた。

カントの言う「判断力・価値観」を鍛え上げて、常時に杓子定規に一般論のみに頼らずとも自ら主体的に判断できることが、ニーチェの「超人」の理想なのである。社会通念としての定型的な既存の理想と価値観が懐疑され崩壊するような、苦悩と試行錯誤の時代にあっては、それが是非とも必要であるし、そういう人間がいないと逆に社会自体も停滞したり滅んだりしてしまうだろう。……もっとも、個人の自我があまりに強くなりすぎると、一般的な倫理や道徳を過剰に無視しすぎるようになる「暴走リスク」も伴う諸刃の刃ではあるが。
いずれにせよ、ニーチェの思想は必ずしもカントの哲学を全否定しているわけではなく、むしろ既存哲学の不足を補う考察であり、「基本」を大前提とした上での一種の「応用問題」を説いているだけなのだ。そもそもニーチェ自身が相当に博学な学者・読書家だったわけで、カントやヘーゲルの著作も当然読んで理解していただろうし、それを踏まえた上で「だったら、カントやヘーゲルの『理性の目的論』が間違っていたらどうするのか?」という条件を変えた思考実験の鏡像・変奏・続編なのである。

なお、ニーチェは古典文献学者の俊英であり、古代ギリシャ哲学や文化の研究に通暁していた。そのために、その方面の知識と視点から既存のキリスト教を見直す哲学史研究者という側面があったことも見逃してはならない(これも西欧知識人のルネサンス以来の伝統文化である)。しばしば自分を「デュトゥランポスを歌うデュオニュソスの徒」と規定しているが、デュオニュソス(バッカス)はギリシャ神話の神の一人で、初期のギリシャ文学研究の著作である『悲劇の誕生』以来よりニーチェの思想では重要な意味を占めていた。
また、最後の著作である『この人を見よ!』では「十字架に駆けられた者VS(対)バッカスの徒」などと叫んでるけれども、ニーチェは既存のキリスト教の在り方を批判していただけであって、イエス自身のことは個人としてリスペクトしていたようだ。
……ただ、そのリスペクト(尊敬)の仕方がニーチェ独特なので、しばしば誤解を招くだけである。つまり普通に全幅の信頼を寄せたり、盲従するのではなく、「(自分と同等以上の相手として)攻撃することによって敬意を表する」というひねくれた性格の持ち主なのである。なぜならば、「主体性のある自己判断」を良しとするニーチェからすれば、自分の考えもなく盲従することは、かえって相手を馬鹿にしたいい加減で無責任な態度である上に、さらには自分自身の品位をも下げる「畜群」同然の振る舞いだからだ。むしろニーチェの独立自尊の考え方からすれば、最高の人間であり神の化身であるイエス・キリストに対してすらも、自ら考え抜いて練り上げた思想と価値観で持って「イエスと同等の人格価値の他者(=超人)」として並ぼうと努力することこそが、最大の敬意と尊敬の表し方なのである。
ニーチェは膨大な学識と独自の考え方と理想、そして情熱的な性格が相まって誤解を招きやすいキャラクターだが、意志強固で不当不屈なドイツ哲学者という面では、やっぱりカントの同類や別パターンでしかないのだと私は思う。……ドイツの哲学者には、現れ方に違いこそあれ、そういう頑固なタイプの人間が実に多い気がする。

※余談だが、たとえばヤスパースは、ナチスからユダヤ系の妻と離婚を迫られたが徹底的に無視し、最後には危うく収容所に送られるところだった(そういう頑固さは少年時代からで、教師から「可愛くない奴」と難物扱いされていたようだ)。逆に同時代のハイデッガーは最初ナチスを支持したが、ナチスが暴走し始めると平気でユダヤ系の教え子を逃がしたりして穴掘り労働に動員される憂き目に遭い、さらには戦後に大学を追われても絶対にナチス加担のことを謝らなかったそうだ(周りの人間が弁護しなければ戦犯として死刑もありえただろうが、本人からすれば「私は自分で『良い』と決断したからナチスを支持したのだし、それを負けたからといって今更詫びるものか!」という気持ちだったのだろう)。方向性こそ真逆であるが、頑固さという面では共通している。……さらに余談だが。正直、私とかだってこのまま世界の情勢が加熱して行き過ぎてしまい、最悪の場合もしも韓国と北朝鮮に核が落ちて徹底的に空爆され半島内の内戦でトコトンまで殺し合い、ザイニチを含むコリアンが全世界で虚言や罪科を糾弾されて生存不可能になっていき、世界的に殲滅され絶滅していったとしてもそれを「やり過ぎた、悪かった」とは絶対に言わないだろう(一応は、そこまで行ってしまうのを避ける配慮だけはしているが……)。たとえ内心で哀れと思っても「でも彼らは、それだけの罪を犯しました、可哀想ではありますけれど完全に自業自得です」と言うに決まっている!
※ヤスパースの『哲学入門』は新潮文庫から出ている。デンマークの実存主義哲学者キルケゴールと似たテーマの、宗教的に内観を深めて個々人の実存の問題を研究し、内面充実を計るような内容。これもカントの基本的な近代哲学の補完という一面があるだろう。


8.フッサールとハイデッガー

一方、カントの認識論(『純粋理性批判』方面)を主に継承・発展させたのがフッサールの現象学的哲学だった。フッサールはデカルトの「我思う、故に我あり」から近代哲学を問い直し、人間の自我と世界認識を研究した。彼はそれこそ変質狂的なまでに人間の自我について、メカニックに記述したわけである。具体的には自我を「思うもの(主観側の能動的機能)」と「思われたもの(対象としてたち現れる現象)」に分けて考え、可能な限り科学的に人間の意識の機能や作用の詳細を分析・理論記述しようと試みた。
……なぜ一見不毛と感じられるそのようなことを試みたかといえば、当時のヨーロッパの社会(一次大戦から二次大戦直前までの時代!)と学問は崩壊の危機に瀕しており、数学分野の研究までが行き詰った窮状を呈していた。……そのためにどうしても、近代哲学そのものを問い詰めて再検討し直す必要があり、滅びに直面した近代の基本信条である「理性主義」の立場からそのテーマに挑んだのがフッサールである。主に「デカルト的な道(自我を思索の絶対的出発点とする)」と「カント的な道(世界が存在することを前提とする)」の二方面から登攀を試み、デカルトと同時代の(カント以前の)ドイツ哲学者であるライプニッツの「モナド(単子)」のアイデアを活用するなどして、可能な限り厳密な新しい「省察」を試みたこともある(デカルトの『省察』をやり直そうとした)。
その挑戦はあまりにも厳格を極め煩瑣に過ぎて、最終的に試みはフッサール自身の死によって挫折に近い形で終焉したようだが、しかしながら副産物は豊富だったようだ。必死でそれこそ虱潰しに可能性を片っ端から列挙し分析していく過程で、多くの見落としや研究課題が発見されたし、フッサールの講義や膨大な研究草稿の直接・間接の門下生からはハイデッガーやデリダなどの高名な哲学者たちが続々輩出してる(しかし最大の功績は、妥協せずに厳密に考え抜く、哲学研究の真摯な姿勢と態度を身を持って示しただろう)。
※木田元の翻訳した『超越論的現象学とヨーロッパ諸学の危機』(中公文庫)が有名。岩波文庫に『デカルト的省察』の翻訳がある。しかしながら、あまりにも詳細・煩瑣すぎて把握は困難である。フッサール現象学のあらましを知りたいならば、ちくま学芸文庫の『間主観性の現象学』(三巻本)の第一巻の最初の論文を読むと良いだろう(フッサール自身の書いた、現象学の基本方針の解説になっている)。

しかし「現象学」の弟子・後継者でもあったハイデッガーからすれば、フッサールの研究は近代理性主義の限界に囚われたものでしかなかった(理論と見解の違いを巡って決裂したようだ)。一般にハイデッガーは『存在と時間』(※自分は未読)が有名だが、元は古代ギリシャのアリストテレス研究から出発した哲学史の研究者でもあった。解説書などのよれば、フッサール現象学の影響下で著された『存在と時間』にも既にその傾向はあるらしい(木田元によれば単に「実存主義哲学の本」とばかりは言いきれず、ハイデッガー自身も「実存主義者」として一面的にレッテル張りされるのを嫌っていたとのこと)。そして研究生活の後期には自分の研究を「哲学の回想」と呼んでいたそうだ。
その西洋哲学史の批判検討の著作として『形而上学入門』という講義録が日本でも翻訳・出版されている(平凡社ライブラリの新書)。古典言語に通暁していたハイデッガーは、長い歴史の中でのギリシャ語やラテン語の哲学書の翻訳・継承の過程で、「存在」の哲学用語の意味合いが変遷してきていることを指摘し、古代ギリシャ時代の本義に深い関心を寄せた(これを興味深いと考えるか、懐古趣味と受け取るかは、多分に読み手の趣味判断だろうけれども)。
※直接にはハイデッガーと関係ない話かもしれないが、中世キリスト教哲学のトマス・アクィナスの「エッセ(存在)」なんていう研究テーマもある(日本でもマニアックな学術本が出回っている)。ラテン語のエッセとは現代イタリア語のエッセレであり、実は英語のBe動詞に該当する。これを一例として挙げれば、ハイデッガーの「存在」研究の一端もイメージしやすくなるのではないだろうか。


※※何故急にこんな連載記事をやり始めたか、おそらく奇異に思われる方もいるだろう。それは一つには「無知無教養で頭の悪いネトウヨが~」と、「声闘(ソント)」戦術で連呼している反日マスゴミや反日左翼の職業インテリどもへのアンチテーゼ(皮肉として)。なぜなら本当に「反知性主義」なのは、明らかに我々Web保守・愛国派ではなく、あいつらザイニチ(在日韓国・朝鮮人)や反日左翼の方である(沖縄で騒いでいる反日馬鹿左翼の暴力的な狂った実態をYoutubeとかで見ればいい)。中韓のパシリの走狗ども駆使する「朝鮮伝統技芸」の政治プロパガンダ戦術(声闘=ソント)は、自分たちの悪徳を敵陣営に投影・吹聴するのが常套手段である。「馬鹿っていう方が馬鹿」を地で行ってしまう見本のような奴らをちょっとばかり脅かしてやったらいいや、と。どのみち「奴ら」のお仲間は知性と良識のどちらかもしくは両方が、著しく欠如したような手合いばかりなのである。……もう一つは「[日本史初級]」のシリーズや「[KDG]」のギャグ小説と同様、読者の楽しみと一種の「客寄せ」だ。事態を知ったら戦列に加わってくれそうな新規読者を誘導している。下手にエロ画像なんかを貼ったりするより、よほど有効かと。ああ、そのうちどっかの変態先生のバタイユみたいに自作のポルノでも書いてアップするかもしれないですがね(笑)。
自分(楚練)はしばらくは「公安警察メール第三次B」の記事をなるだけ上の方に上げておく方針なのだけれど、ビギナーで関心を持たれた方は、Web保守の本丸である『余命三年時事日記』や、時事情報の『保守速報』や解説系の『待ち望むもの』などの保守系サイトを是非検索してみて欲しい。

ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 前の記事へ | トップ | 次の記事へ »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

人文3(西洋哲学)」カテゴリの最新記事

関連するみんなの記事

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL