宇宙(そら)は家

宇宙(そら)へ還ろう! 
そこは、いつでも還ることが
できる家なんだよ
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無 題(2)

2016-10-18 08:47:33 | 日記
神様につながる道は
そんなに考え込んだり
むずかしく祈りをしたり
そんなものでは
ありません
素直に
自分のそのままを
神様に
ぶつければいいのです

かっこうをつけたり
もったいぶって
心にもないことを
言ってみたりする
人がいるけれど
それは
神様から遠ざかるばかり

何故なら
神様っていうのは
円満なのだから
明るい
素直な魂を
送り出した方なのだから
自分の子ども達が
辛がっていれば
抱きしめて
哭いて下さるし
涙をふいて下さる
方なのです
涙をふいて下さりながら
でも 一人一人の
行く道筋は
ちゃんと備えて
下さっている
そういう方なのです

だから
心の中に湧き上がってくる
想いの一つ一つを
辛がって
神様すみませんと
くり返す
必要はない
すみません
と一度いったら
心にあかりをともして
想いを放って
明るく生きていけばいい

何事にも
素直
素直
素直
そのままの姿で神様と
お話することが
神様とつながる
ということなのです
大きなおおきな
我々の愛の源に
つながる道なのです

おごらず
ひねくれず
さげすまず
そのままのすがた
神様にむかって
声を出してください
その時
あなたは
光そのものに
なっているのです
生命の源である
光に

光というのは
みえても
みえなくても
元々
この世界に
満ちているものなのです
この肉体も
元は波動
細かいこまかい
光の粒子なのです

光は闇を
きらう
というよりも
闇があって
光を求める
人の心が
神様から
与えられているのだ
というのが本当です

もっと
本当のことをいうと
闇はないのです
でも
肉体をまとった
我々の波は
あらい
この世という
世界の中で
こまかい
光の波動に
すぐに
直結することは
出来ません

光のもとは
神様の世界
だから
徐々に徐々に
光に 神様に
つながって
ゆくように
この世の
不幸と
みえる
出来事や
おもいの波を
受ける
必要が出てくるのです

人間の感情や
心は
不幸のただ中に
ある時
この真理を
認めることは
とても出来る相談ではない
不幸ややり切れない
事実を前に
流す泪を
神様は
そのまま抱き取って
下さいます
決して
これが真理だとか
神につながる道だなどと
おっしゃりはしないのです
その泪をとおって
私達は
少しずつ
少しずつ
祈りの座に
近づくのです

この世は光です
あなた自身も
光の子です
けれども
何も真理に対して
あせる必要はありません

神様は
愛という光を照らして
真理にみちびいて
下さる方ですが
それは不動のものですから
あせる必要は
ないのです
愛が
いつもそこにあるように
神様も我々の親である
光も
かわらず
ひかりかがやいているからです

自分に
都合の悪いことや
何かがバレたら
困るという心
これらすべてを
やはり業と呼ぶのです

業というのは
善業もあれば
悪業もある
平たくいえば
人間が
心におもって何か一つを
したら
すべて
それらは業
今は悪いこと
ばかりのように
思われているけれど
そんな言葉ではありません

ただ逆に
悪いおもい
ごまかしや
恐れや
そういう心を育てる
種になるものを
かりとってしまう
ということを
神様は
人々の
業という言葉に対する
思い込みを通じて
なさるわけです

おもうこと
おもってしまうこと
これが悪いわけではない
ただ
死んで
霊界なんかに行くと
想いがたちまち
あらわれてくる
世界だから
大変といえば
これほど
大変なことはありません

だから
悪いおもいの種を
種の内に
地面に種が落ちない内に
かりとって
神様は
光の中に入れてしまわれるのです

光に
勝るものはありません
良いおもい
善業を
この世の中で
どのくらい
貯金できるか
つまり
どれほど
あかるい自分になることができるか
ということを
神様は
じっと見ていらっしゃるのです

本来
光である
人間が
光であることに
気付かない
永い時代が
つづいて

七却目に
入っています


光に立ちもどって
それぞれの天命を
素直に祈る
これが私に 
与えられた
神様からの
至上命令だったのです
私は天と地を光で
つないで
一人一人を神様に
お渡しする
役目なのです

素直に
神様と祈り
世界人類が平和でありますように
と 本来一人びとりが
かって祈っていた
祈りを
私は
もう一度
あなたがたに伝える役割を
与えられたのです

どうぞ
素直に
神様にむかって祈って下さい
あなたが祈れない時は
天から
私が
あなたに代わり祈っています

想いにしばられることくらい
人間苦しいことはありません
何の想いかというと
自分の心の中から出てくる
自分の評価への言葉や
価値にとらわれるそういう想いをいうのです
自分で自分を評価する
でも
その太初(はじまり)は
人の言葉であり
人の評価
ひらたくいえば
人の眼です

いいものばかりなら
気持ちがいいかも知れないけれど
なかなか
そう上手くは
ゆかなくて
色々な声がきこえてきます
その声に敏感であればあるほど
人間は
人の想いを
自分の想いにしてしまう
この想いにしばられるのが
一番苦しいのです

自分の
心の中から
出てくる声だと思ってもおもっても
多くは
人のおもい
波に心を染めて
それに気付かずに
苦しんでいる
全く
みていられないくらい苦しむ
何故
こういうことになるかというと
みんな自分の本当の家を
忘れてしまっているからです

昔々
はるか古代の星が
生まれるか
生まれないかという時代は
人は 
みな
霊だったのです
霊そのものでした
肉体という
面倒なものを
まとわなくても
お互い
会っただけで
ほほえんで
神様をおもう
そういう時代だったのです

今でも
私たちの宇宙の源である
神様は
その頃と
ちっともかわらない愛を
私たちに
注いで下さっているのですが
私たちが
おもいという
あつい
あらい波にはばまれて
すなおに
その愛を受けとることが
むずかしくなってきてしまったのです
送り手の方は
かわらないのに
受け手がかわってしまったとしたら
私たちは
もう一度
私たちのアンテナを
神様にあわせなければなりません

自分をしばる
心の中からの
いろいろな声を消して
少しずつ
神様の方に手をのばし
声をあげてゆけば
そのアンテナは
次第に神様の
おもいを
この身に
みたしてくれると信ずることです

信仰とは
信ずることなのです
絶対者は動きません
真理は動くことはないのです
あとは
ひたすらな
祈り心
それだけです

霊のいのちに
目覚めて
本心が生き生きし出すと
私たちは
私たちのまわりの
人の心の中に
入っていって
あいさつして
あかりを点す
ことが出来るのです

自分のいのちと
とけ合ってゆく
これが
自愛
他愛ということなのです
自愛
他愛
これが 
人間の
本来の姿です

自分を
本当に愛して
本心をかがやかすことで
霊のからだが目覚めてきます
肉体の
奥の
おくの
私たちを
活きづかせている
生命そのものに
こうして私たちは出会うのです

自分という人間が
この世だけに
存在していると
思う限り
死ねば
自分という人間は
無になってしまうわけですが
本来生き通しの
光である我々は
霊界にも
神界にも
その場を持って
働いているというのが事実です
それでなければ
生命は
今迄つづいてくる筈がないのです

何の為に
生命がここまで
つづいてきているかというと
それは
この宇宙をつくられた
神様のみ心を
そのまま
あらわす為なのです

丁度今は
くもりガラスのように
神様だとか
宗教だとかが
語られていて
本当の私たちが
一番知りたい
一番みたい
姿がかくされている
我々人間のおもいで
神様をみるから
いろいろな姿に
神様がみえて
丁度仮面舞踏会のように
神様を着飾らせているから
太陽の光のような
空気のような
神様がかくれてしまっている

そのくもりを
私たちの眼から
取るために
生命はつづいてきているのです
生命は
光の波動ですから
光をよびもどして
くもりを取るわけです
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