午後の雨やどり

つれづれパラレル日記

リアリティの欠如

2010年03月01日 15時31分57秒 | 日記
日本人の生ぬるさ、バカさかげんにムカムカする日々。こんな感想を書く日本人は私一人くらいのものかもしれないが、誰も不思議に思わないことのほうが不思議。

その不思議とは、浅田真央の‘銀メダル’。何をどう考えたら、金メダルが取れると本人も周囲も日本人の多くも思っていたのか、その理由を知りたい。フリーの演技で3Aを2回跳び、完璧演技で終了したとして、それで本当に金メダルが取れると思っていたのだろうか。

というより、金メダルが取れるような緻密な計算をしていたとはとても思えない、数々の「穴だらけ」の状態で、何をどう、お気楽・ノー天気に考えていたら「金メダル」と思えたのか、マジに聞いてみたい気分である。

浅田真央の今回の五輪の目標が、「SPで3Aを跳ぶこと、フリーで3Aを2回跳ぶこと」に尽きていたのなら、今回のような迎え方でよかったのだと思う。とにかく跳ぶこと。とにかく3Aを複数回跳ぶこと。これだけに賭けていたのなら、このような取り組みで満足するべきだ。

ところが、当人も周囲も真顔で言うではないか。「金メダルが欲しかった」と。そこで聞きたいのだ。「では、金メダルを取るための戦略はあったのか」と。とにもかくにも3Aさえ成功させれば、金メダルが取れるなどと、誰が考え盲信していたのか。本人か、コーチか、スケート連盟か。いったい誰だ?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

キム・ヨナの‘異常な高得点’が不健全であることも疑いがない。キム・ヨナ→浅田の順番であったために、「浅田3A2回成功・完璧演技」の時の点数を想定して、それよりもキム・ヨナが上位に来なければならないような得点を与えたのだろう。

そのような作為を感じるのは、なにもキム・ヨナだけではない。最終滑走の長洲未来のできがすこぶるよかった。キム・ヨナにも遜色のない滑りだった。で、こんな「出来具合が想定外」だったのか、得点が出るまでにやたらと時間がかかった。

解説のアナウンサーが「ずいぶん時間がかかっていますね」と聞くと、解説者は「ビデオで入念にチェックしているのだろう」とのたまった。競馬の判定ではあるまいし、長洲未来のどんなところが、そんなに長い協議を必要としたのか?

事実はそうではないだろう。あの素晴らしい出来栄えに対して、通常の採点方法を用いれば、思わぬ事態が出現する。それは、3位のジョアニー・ロシェットを追い抜いてしまうという、「あってはならないこと」である。

開催地であるカナダの選手、しかも直前に母親が急死というお涙頂戴ストーリーにもってこいのヒロインだ。このヒロインには、ぜひともメダルを取らせて表彰台に立たせたい・・・それを、最後の最後に高得点の出る演技で余計なことをしやがって・・・そんな意図を感じるような「長い採点時間」だった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

フィギュアの採点はずいぶん昔から疑惑のつくことが多かった。かつてのスルツカヤのケースもある。どう見てもできのいい選手の得点が低い。「なぜ」と思われる選手の得点が上回る。そこには、見えない大きな力が働いている…としか思えない、不健全さがついて回った。

今般、採用されている採点方式は明らかに「技術より表現力に重きを置く」ものだ。そのような流れになった背景にあるのは? この採点方式で優位に立つのは誰かと考えれば、思い浮かぶのはキム・ヨナしかいない。

フィギュア金メダルを国策として位置づけ、そのために金に糸目をつけず、なりふりかまわずえげつないことをする。その延長線上にあるのが、採点方式の偏向であるのならば、ある意味、キム・ヨナの金メダル獲得プロジェクトは完璧なものである。

こうした(金で取引されるような)傾向に反発して、あくまでスポーツの原点に立ち返った精神で立ち向かったのが、ロシアのプルシェンコなのだろう。表現力偏重、技術軽視という傾向が、なにゆえ現在の主流となったのか。たんにキム・ヨナ仕様が理由なのか、そこは杳としてわからない。

プルシェンコのように、技術軽視に反発すべく、真っ向勝負を挑むのであれば、それはそれで小気味いい。プルシェンコの場合、技術もさることながら、表現力にも富む。「なんだよ、これでも点をつけないのか」という挑戦的な態度が感じられる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ところが、浅田真央の場合は、かなり様相を異にする。キム・ヨナ仕様になっている審判形式に挑戦する、あくまでスポーツとしての原点で競いたいという志よりも、「とにかくジャンプさえ跳べたら勝てる」と、あまりに現実を直視しないまま勘違い的な練習に明け暮れていたのではないか。

浅田真央が、もっと周到に緻密にプログラムを組んでいたのなら、こんなにこきおろすつもりはない。ところが、あまりに生ぬるく甘いのだ。というより、一体何を勘違いして、この五輪に向けて仕上げてきたのか、首をかしげるばかりなのだ。

まず、すでに4年前、五輪を直前に控えた荒川静香ですら、「時流に合っていない」と見限ったような、「古いタイプのフィギュア観しかもてない」タラソワコーチを、なぜわざわざコーチに選んだのか。

表現力のなさが、それほどコンプレックスだったのか。あのタラソワコーチに師事すれば、表現力が増すとでも考えたのだろうか。私は以前にも書いたが、浅田の表現力のなさは「天賦のもの」だ。努力して補えるものとは思えない。残念だけれど、いいコーチについて、努力を重ねたからといって、浅田がキム・ヨナになれるものでもない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今回の浅田の取り組みについては、多くの疑問ばかりだ。まずタラソワコーチを選んだことが第一だが、選曲についても「?」だ。昨シーズンのフリーで使った曲(「仮面舞踏会」)をSPに使うという不思議。目新しさのないマイナスを考慮しなかったのだろうか。

そして、きわめつけは今でも評判の悪い、ラフマニノフの「鐘」だ。ロシア農奴の解放を願った云々という意味の深い曲だが、そもそもそれがフィギュアの曲としてふさわしいのか。そして、浅田真央にふさわしいのか。

タラソワコーチの夫はピアニストだそうだが、たんに自分の趣味の押し付けではないのか。この「鐘」は、本当はミシェル・クワンに使いたかった曲だというが、クワンが出場を取りやめたためにお蔵入りになったもの。そんなカビが生えたような曲を自己満足のために使うなよ。本気でそう思う。

タラソワコーチは浅田真央の何を見、何を評価し、何をどう引き出したかったのか。チャンピオンメーカーというが、真にチャンピオンを作りたかったにしては、見誤ったものが多すぎる。というより、すでに感覚が古い…あるいは「時代」というものを読めなかったのか。

「鐘」を滑っている時の浅田の表情は、怖い顔をして口を‘クワッ’と開き、まるで魔の競演のような雰囲気である。農奴の解放というより、悪魔との対決のような雰囲気を、しかも「無理して」演じている痛々しさのようなものがある。

誰もが認める浅田の個性は、いわゆる「ゆるキャラ」である。のほほんとした幼い顔つき、ほんわかしたあどけないイメージで、どうしてあんなに背伸びして合わないことに必死なのだろうという違和感ばかりが目立つ。

元のコーチである山田満知子コーチは、浅田のイメージを「妖精」ととらえている。どこか現実離れしたふわふわ感。「真央ちゃん」はそうしたイメージなのだ。その幼さを嫌って、大人っぽさを一足飛びに跳びこえた先が、あの重厚感。重厚というより、気が滅入る。

ああいう音楽は、見た目がちょっとコワイ系の臥体のいいロシア人年増ネエチャンにこそ、もってこいの選曲であって、その対極にいるような浅田にはミス・マッチもはなはだしい。タラソワコーチの、このこだわりがすべてを台無しにしたといってもいいのではないか。

山田満知子コーチも、言い方は控えめであるが最後まで「曲があっていない」ことを言っていた。もっと違うプログラムであれば、自分なら浅田の一番いい部分を引き出してやれるのにという気持ちが、透けて見える発言でもある。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

まずはタラソワコーチを選んだことが敗因の第一なら、すべてはそこから始まる。五輪を控えた直前の4ヶ月、コーチなしでほったらかし。ついていた若いロシア人の女性は振付師だという。つまり、もともと野放し的だった浅田は、ずっと野放し状態でいたということだ。これも信じがたい。

それを感じるのは、SPの衣装だ。浅田本人のデザインというが、どうしてあんな趣味の悪いコスチュームを…と絶句したのは私だけだろうか?もっと戦略的に詰めていけるスタッフが周囲にはいないのだろうかと、本気で思った。

だが、案外、浅田が強情なのかもしれないとも想像する。あまりの不振にタラソワですら、「鐘」の曲を変えようと提案したのに、これを頑として受け付けなかったのは浅田真央自身である。難しい曲を未完成のまま放棄するのはいやだということだが、そういう「ごたわり」が「金メダル」をどんどん遠ざけるとは思わなかったのだろうか。

頭が悪いわりに頑固・・・これがもっともてこずるタイプだ。ちゃらんぽらんとしか思えない行動のペースには、こんな理由があるのかもしれない。金メダルを確実に取りに行く。そのためには何が必要か。そこから始まった計画で、浅田が選択したのは「表現力を高めるために」時代遅れもはなはだしいタラソワコーチを選んだこと。

そして、現行の採点方式で、確実な得点源が何であるかを無視して「3Aを成功させて、高い技術をアピールすること」の2点に尽きるのではないか。だとしたら、金メダルなど取れるはずもない。昨今の金メダルは、素質だけで取れるほど単純なものではない。

いかにシステマティックであるか。数字を競うだけのスポーツですらそうなのに、審判員の主観が左右するフィギュアスケートの場合、そこを攻略せずして何が始まるというのだろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

これらを計算し尽くしたのがキム・ヨナだ。というより、キム・ヨナをサポートする韓国だ。「バンクーバーで金メダルを取る」ためには何が必要かを緻密に計算し尽くしている。拠点をトロントに早々とおいて、第二の故郷とする。

カナダという国を身近に感じながら日々訓練をする。カナダへのなじみもいいだろうし、時にメディアで取り上げられたら、キム・ヨナを印象付ける絶好の機会でもある。なにより、「バンクーバーで勝つため」に、コーチもカナダ人を選び、すべてを「カナダ仕様」に整えている。

カナダでは何が受けるのか。カナダ人はどんな傾向を好むのか。まるで営業戦略のような徹底ぶりだ。コーチ陣も、技術面から振付など分野別の人材をそろえ、そのうえに‘エッジ・ワーク専門のコーチ’までつけた。一分の隙もないように徹底して五輪対策を練っている。

また、2週間に一度の割合で国際審判員を招いて意見を聞くなど、ここまでするかという完璧に近い準備ぶりなのだ。こういう環境が可能だったのは、キム・ヨナの金メダルを国策としてとらえて、大財閥(とりわけ現代)が全面的なスポンサーとなったからだろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

となると、この時点ですでに勝ち目はないのである。もともとトリノ五輪の終了したその時から、4年後を見据えて、こんなに緻密で周到な(潤沢な資金も含めて)計画を練られていたら、誰にも勝ち目はないのだ。そのうえに、その選手に有利なように審判基準まで変更されていたとするならば。

だからこそ、そういう風潮に対して浅田真央側は、どのような対策を立てたのかということなのだ。3Aをバカのひとつ覚えのように神頼みにして、表現力・・・と一口にいってもなんの照準もあわせない、漠然とした表現力に賭ける。この生ぬるさ。

4年前、荒川静香を金メダルに導いたのは、現在安藤美姫のコーチをしているモロゾフだ。元々タラソワコーチとは師弟関係にあったが、意見が合わずに決別。そのモロゾフコーチが安藤に言い続けた言葉が「フィギュアはジャンプだけでやるものではない」。

浅田を超える4回転にこだわっていた安藤に、「ジャンプばかりにこだわっていたら勝てない」と諭し続けたのだ。そして、そのモロゾフの言に従って安藤が磨きを賭けたのが‘表現力’である。もっとも、安藤の場合、やり過ぎの感が否めないのだが…。

このモロゾフコーチの主張のように、難度の高いジャンプが跳べるだけでは勝てない…という「現実」をいかに受け入れて戦略を立てるかが、今のフィギュアスケートの必須なのである。そういう流れになってしまっている。

あくまで競技としての最高を追い続ける…のが五輪ではなくなっている。すでに五輪はビジネスと化し、利権をめぐって大きな力がうごめいている。もはや純粋なスポーツの祭典ではない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

フィギュアスケートで金メダルを取ると、次のメダリストが誕生するまでの4年間は、億にちかい金額を稼ぎ出せるという。あの荒川はサラリーマン家庭に育ち、母親がいくつものパートを掛け持ちして費用を捻出した。

それでも、足りずにトリノ五輪直前には3000万円近い借金があったといわれている。しかし、金メダルをとったことで、借金はあっという間に消えて蔵が建つとも言われた。それくらい、「ゴールドメダリスト」の肩書は金が稼げるのである。

そういうビジネスとして金メダルを欲しいのか、もっと純粋に欲しいのかは、その選手の置かれた境遇にもよるだろうが、少なくとも金メダルがさらなる‘金の生る木’となる現実だけは変わらない。選手のみならず、コーチ、監督はては協賛メーカーにいたるまで、多くの人間がぶら下がることができるのだ。

だからこそ、金メダルを取るためには緻密で周到な計画が必要となり、今般のキム・ヨナ陣営のようなプロジェクト・チームが存在した。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

このようなキム・ヨナ陣営の動きに対して、あまりに無防備かつ無頓着すぎたのが浅田陣営なのではないだろうか。技術力で勝るという自負も裏目に出たように思う。

浅田を天才、キム・ヨナを受験秀才と評する人がいたが、「世紀の大発明」を目指すなら、浅田のやり方でいい。しかし、「東大合格」を目指すのなら、まずはセンター試験をいかに高得点でクリアし、その次の二次試験で同じくいかに高得点を取るかが必須となる。

二次の筆記試験で、「いかに採点者に点をもらえるような答案を書くか」まで、周到に準備することが、最大の攻略法である。受験秀才など所詮、実力がない…と批判しても、現行制度がそうであれば、それに従うしかない。

自分はそんな馬鹿げた制度などクソ食らえである。そんな枠の中で評価などされたくないというなら、そのレースから降りるしかないのだ。「五輪でどうしても金メダルが欲しい」のであれば、結局はキム・ヨナのように「受験秀才」を目指すしかない。

・・・・・・・・・・・・・・・・

しかし、難度の高い技を回避して、みな無難を目指せばいいのだとは思わない。男子も女子も金メダルが‘安定志向’選手の手に渡った。プルシェンコではないが、これではもはや「競技」としては成り立たなくなる。技術よりも表現力が重視されるなら、フィギュアは「スポーツ」ではなく、「アイスショー」である。

そういう意味で、このままの路線が続くなら、フィギュアスケートは、五輪の種目からはずすべきだと思う。あくまで美しさを競うアイス・ショー大会にすればいいのである。そのほうが、ずっとすっきりする。

プルシェンコが現状の採点について強い不満を述べている、その姿勢は大いに評価できるのだ。自分はあえて技術の向上・進歩で勝負するのだという姿勢を鮮明にしている。だから、負けても泣いたりせずに、抗議している。

その点で、情けないと思うのが浅田なのだ。なぜ、3Aをもっと評価しないのか。現状の無難志向の採点はおかしいではないか。これではフィギュアのスポーツとしての発展は望めない…と、プロシェンコばりに抗議すればいいのである。

・・・・・・・・・・・・・・・・

だが、そうではない。閉会式を迎えて浅田の発したコメントに「次は加点がもらえるようにしたい」「ルールに沿ってやりたい」というものがあった。思わず「今頃気がついたの?」と、腰が抜けそうになった。

どんなに難度の高いジャンプを跳んでも加点はもらえない。ルールに沿わなければ、評価されない…ということに、今さら気がついたのかということである。というより、現行の採点方式で金ルダルを取るには、そこを押さえないと無理だよということを、浅田の周囲にいた人間は誰も気づかせてやれなかったのだろうか。

浅田のスケーターとしての能力の高さは抜きんでたものがある。だからこそ、どうしてそれを120%発揮できるようなプログラムにしてやらなかったのだろう。

ジャンプの精度に磨きをかけつつ、どこでどうつなげたら「加点」してもらえるのかとか、キム・ヨナとは別物の浅田ならではの魅力を十分に発揮できる「曲」「振付」を用意するとか、どうしてもっと浅田らしさをアピールできるような、入念な準備がなかったのだろうかと思う。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

さすがに最近は「ノーミスしたいです」とは言わないけれど、どこかに生ぬるさと甘さが漂う浅田に比べて、流暢な英語でインタビューに答えていたキム・ヨナを見て、これがリアリズムの違いなのかと、つくづく思い知らされた。

この浅田のありようは、じつは今の日本人のありようにとても似ている。素質がありながら、その素質だけに頼ってなんとかなると、根拠のない自信に溺れている。一生懸命やったんだから…で満足するのは自己満足。

きちんと「成果」を手にするためには、徹底した具体策が必要となる。なんとかなると「あなたまかせ」で生きてきた日本人の半世紀の集約が、あの浅田の銀メダルに思えてくる。もっとしたたかに生きていかねば、欲しいものは手に入らない。

だが、日本人はそこまでどん欲にならないのを良しとする風潮がある。いわゆる‘清貧の思想’というものだ。それはそれでいいが、だったらメダルなど関係なく、孤高のきわみをゴーイング・マイウェイで行くべきだ。この中途半端さが、日本的であり、今立ち行かないものの多くの理由だろう。
ジャンル:
ウェブログ
キーワード
プルシェンコ フィギュアスケート バンクーバー 山田満知子 センター試験 アイスショー スケーター マイウェイ トリノ五輪 スルツカヤ ミシェル・クワン ゆるキャラ ロシェット 仮面舞踏会 ラフマニノフ
この記事についてブログを書く
Messenger この記事をはてなブックマークに追加 mixiチェック シェア
« 偶然の橋 | トップ | 危機意識の違い »

コメント

コメントはありません。

コメントを投稿

現在、コメントを受け取らないよう設定されております。
※ブログ管理者のみ、編集画面で設定の変更が可能です。

トラックバック

現在、トラックバックを受け取らないよう設定されております。
※ブログ管理者のみ、編集画面で設定の変更が可能です。

あわせて読む