とんびの視点

まとはづれなことばかり

ベルマーク

2009年07月26日 | 雑文
先日、私の奥方が「ベルマークの集計」なるものをやっていた。長男の小学校での役割分担でベルマーク担当になったようである。ベルマーク、懐かしい響きである。そう言えば30年以上も前、僕も小学生の時にベルマークを集めて学校に持っていったものだ。やたらと集めて大量に持ってくる生徒もいれば、まったく持ってこない生徒もいる。大量に持って来た生徒は自分の手柄を誇るように大声で騒ぎ立て、まったく持ってこない生徒は「なんでお前、もって来ないんだよー」と責められたりしていた。

考えてみれば、そんなことで責められるのも可哀相な話しだ。責めている方だって自分でベルマークを集めている生徒などほとんどいないだろう。大抵は母親が集めているはずだ。親の不出来を子どもが責められる。自己責任という言葉がなかった時代の話だ。いずれにせよ、ベルマークを集めるというのはそれなりの手間がかかるはずだ。そして子どもが学校に持っていくために保護者が集めているというがほとんどの場合ではないだろうか。

そんなわけで、学校で集められたベルマークの行方など気にしたこともなかった。赤い羽根募金とかあしなが募金とかのように何からの善的な方向に流れていくのだろうと漠然と思っていた。そのベルマークがわが家にやってきたわけである。端で見ていたがとにかく大変な作業である。やたらと時間がかかる。

ベルマークに点数がついていることはご存知であろう。僕も知っていた。集計といってもせいぜいそれらの点数を数える程度だろうと思っていた。ところが話しはそれほど簡単ではない。やたらと点数が細かくつけられているのだ。奥方の記憶では、最小単位は「もやし」で0.3点、最高は東芝の16点だった。少なくとも0.3点から16点までが0.1点刻みで混在している訳である。かなり細かい計算になる。

それだけではない。ベルマークの集計は協力会社ごとに行わなければならない。集計に当たっては会社名の入った袋が40種類くらい渡される。当然、まずベルマークを会社ごとに仕分けすることになる。次に会社ごとに点数を計算して、袋に入れ、合計点を書き込むということになる。こういう作業をやっているのを端で見ていると、不毛さを感じ始める。何か変だ、直観がそう警告を発する。

何のためにこんなことをやっているのだろうか?そういう根本的な疑問が浮かぶ。ちょっと調べてみた。ウィキペディアには「ベルマーク運動とは、学校といった教育施設、福祉施設での設備の助成を目的とした運動で、朝日新聞社創立80周年記念事業として1960年に始まった。ベルの形は『国内外のお友達に“愛の鐘”を鳴り響かせよう』との意味合いがある」とあった。

具体的には、商品の包装紙やパッケージにつけられたベルマークを切り取り、学校などの教育施設に集めて財団に送ることにより、点数に応じて設備購入の助成が受けられるようになっている。つまりどこかで誰かが設備購入の助成を受けるために私たちはベルマークを集めているわけだ。その中間作業として、わが家では奥方がベルマークの集計をしていたのだ。ほぼ1日半にわたって。仕分けには長男も借り出されていた。そして集められたポイントはほぼ2000点。1点1円換算だそうである。大人が1日半の時間を費やして2000円程度の貢献である。(といっても、我が奥方が2000円の貢献を生み出したわけではない。それ以前に保護者たちが集めている。これで受け取り側が点数の確認をしていたらお笑いである)

もちろん何事もお金に換算し、費用対効果的な見方をするのは間違っている。社会はもっとゆるやかな「思い」のようなもので繋がっている方が良い。だからこういういっけん無駄な作業も何らかの意味はあるのかもしれない。実際、奥方も基本的には「面倒だけど、まあ仕方ないわね」と言った感じだった。

彼女が一番文句を言っていたのは「湖池屋」のベルマークだ。湖池屋のベルマークは点数が細かく14種類もあったそうだ。その上、ベルマークが「べたべた」している。そりゃそうである。ポテトチップやらスナック菓子の包装紙からそのまま切り取ったベルマークである。油まみれの小片を1枚、1枚確認し、点数を足していく。1.2点とか2点とか1枚ずつ確認する。僕だったら、1.2円、2円と数えながら集計するだろう。「92円、何回数えてもあと8円足りない」とか言いながら。社会はべたべたなベルマークのようなもので繋がっているのかもしれない。(たしかに、湖池屋のポテトチップスはおいしい。)




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