とんびの視点

野口聡一の愚痴の蔵

久しぶりのジョギング、そして『関西電力反原発町長暗殺指令』を読む

2012年02月13日 | エセー
昨日、久しぶりに軽くジョギングをした。2週間ぶりだ。自宅から荒川の土手に行き、そこで折り返して帰ってくる。ヒザの調子を試すための5kmほどの軽いジョギング。うちの奥さんと話しながら2人で走った。走り出すと、体が喜んでいるのがわかる。体がスピードを出そうとするのを頭で押さえ込む。

土手の手前では風速15メートルの表示。強い北風が吹いている。気温は低い。それでも季節が変わったのか、真冬の刺すような冷たさはない。太陽の力が少しずつ強くなっているのだろう。あっという間に走り終わる。物足りないくらいの距離だ。ただヒザには少しだけ痛みがある。ケガを治しながら、板橋市民マラソンに向けて走り込む。今回の目標はタイムとは違うところにありそうだ。

さて、『関西電力反原発町長暗殺指令』(齊藤真著、宝島社)という本を図書館で借りて読んだ。事故以来、原発絡みの本を読むようにしている。このもともと福島での原発事故とは別の流れで書かれたものだ。週刊現代に数年前に掲載された記事が、タイミング良く本になったというわけだ。

話しとしては簡単だ。関西電力が福井県の高浜町で原発事業(とくにプルサーマル)を推進しようとする。ところが町長はことごとく関電の方針と衝突する。現地には高浜の天皇と言われる関電社員の「K」という人物がいる。関電の方針を実現するためのキーパーソンだ。

関電(というかK)は、プルサーマル実施のためには施設の厳重な警備が必要だと考える。そして犬を使った警備を考える。どう猛な大型犬だ。Kの指示で現地に警備会社が作られる。(この本の中で実名で暗殺計画を暴露している矢竹と加藤という人物が中心になる)。そして犬を使った警備が始まる。Kは警備会社の事業展開をちらつかせ、2人を手足のように使う。

町長との対立が深まり、Kの思い通りにものごとが進まなくなる。そこでKは犬を使って町長を暗殺するという計画を立て、矢竹に実行を迫る。結局、暗殺計画は実行されず、プルサーマル計画も流れる。Kも現地を離れる。それによって警備会社の事業展開の話もなくなる。この仕事に人生を賭けていた2人は裏切られた思いで告発を考える。そして筆者に話しを持ってくる。

筆者は取材を重ね、週刊現代に発表する。しかし記事はほとんど黙殺される。マスコミも騒がず、関電からの抗議もなく、社会的な話題にもならない。唯一の反応といえば、矢竹と加藤という人物が未払いになっている犬の購入代金を取り立てに行った件が「恐喝容疑」となり、有罪判決を受ける。(なんとKに訴えられたのだ)。

正直、いまひとつ引っかかってこない本だった。話しに信憑性がないということではない。原発の利権を考えれば、殺人事件があってもおかしくはない。(岐阜県御嵩町では、96年に産廃処理場建設を巡って反対派の町長が襲われている)。おそらく「原発に反対する町長を犬によって暗殺する」という事件性に引っ張られすぎているのだろう。そこに関わる人たち(関電、K、高浜町民、町長、矢竹、加藤、そして取材してしまう筆者)のさまざまな事情のようなものが見えてこないのだ。

週刊誌の段階で大手マスコミが無視するというのは理解できる。関電も足並みを揃えて記事を黙殺するのもわかる。しかし週刊誌に報道されたのに話題にならないということは、一般の読者に今ひとつ届かなかったからだろう。福島の事故がなければ僕もこの本を手にすることはなかっただろうし、実際に読んでみても自分とはあまり関係があるように感じられない。

書いていてわかってきた。結局のところ社会的な意味では何ひとつ事件は起こっていないのだ。(皮肉なことに恐喝容疑だけが社会的な事件である)。関電が高浜町でプルサーマルを実施しようといろいろ現地対策を行なった。そのなかには怪しいものもあるかもしれない。でも、それ自体は別に事件ではない。町長が原発に反対するということもあるだろう。警備事業を巡っての不当な下請け切りもひどい話しだが原発に特有の問題ではない。そして何より、犬を使った暗殺というのは未遂であれ、実際に行われていない。

暗殺事件が起こっていれば、これらの話も一連の事件として読者に届いたかもしれない。しかし実際には事件は起こっていない。関電(というかK)との業務の契約や約束について不満を抱く2人の男がいろいろな話しをしているにすぎない。そう受け取られてしまう可能性がある。事件が起こらなかったからこそ、そういう事件が起こってもおかしくないという事情が描かれなければならない。

この本で僕がなるほどと思ったことがある。それは原発事業に関わっている人たちがそれを「誇り」と感じている部分があるということだ。実名で告白した2人も、原発の警備をやっているということを、子どもにも誇れる仕事だと胸を張っている。おそらく日本のエネルギーを支えているという気持ちなのだろう。

ほんとうは原発など嫌なのだが、ほかに産業もない。そんな地域が、原発にからむ雇用や電源三法交付金を念頭に誘致していると思っていた。中央が厄介なものを金で押し付けている、そういう図式で捉えていた。しかし、日本のために必要な原発を、ある程度のリスクも込みで引き受ける。それは誇りのある仕事だ。そんな風に思っている人たちが多くいても不思議ではない。(そもそも、原発はクリーンで安全なエネルギーということになっているのだから)。

考えてみると、そのあたりがよく分からない。原発に関して報道などで入ってくるのは推進派か反対派の声ばかりだ。多くの人たちは積極的に推進や反対を唱えたりはしないだろう。そこにある原発、あるいは原発誘致を、生活のための1つの条件として見ているのではないか。(あるいは見ていたのではないか)。

そう考えると、「原発を廃止すると電気代が上がる。産業界にも家計にも響く。だから云々……」というのは、中央の身勝手な言い分ということになる。原発で生活が成り立っている人たちがすでにいるかもしれない。(原発がなければ生活が成り立たない人かもしれない)。その人たちは、危険だが日本のためを思って原発を引き受け、その仕事に誇りを持ち、日々、額に汗して働いているかもしれない。

個人的には原発は反対である。だが原発で生活している人たちもたくさんいるだろう。そういうことを想像せずに反対を言ってみても「暗殺計画」のように何だか引っ掛かりの感じられない話しに聞こえてしまうだろう。この本を読んで、そんなことを考えることになった。
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虫取り網をもった守衛さん

2012年02月10日 | エセー
若潮マラソンから2週間ちかくたった。まだ膝が治らない。仕方がないので接骨院に行った。靭帯などには問題はないとのこと。治るのに必要な時間をかけるしかない。時間を短縮するために、しばらくは接骨院に通おう。走れないのでだんだんとむずむずしてくる。

周期的に、アウトプットが楽しい時期と、インテイクが心地よい時がやって来る。いまはどちらかというとインテイク気味。ブログもツイッターも乗り越えるべき壁として立ちはだかっている感じだ。こういう時、引っ越す前なら12階のベランダから外を見た。そうすると何か書けた。

この時期なら毎日のように富士山が見えた。夕焼け色の富士山は毎日見てもあきないほどだった。見下ろせば桜並木が見えた。冬には焦げ茶色の桜の幹と枝が冬らしい街の景色を作っていた。春には薄ぼんやりとした桜色の空気が感じられた。初夏には太陽の光と緑の葉のコントラストが楽しめた。夜には星は少ないが東京にしては広い夜空が見渡せた。遠くには池袋や新宿の高層ビルの窓の明りや赤く点滅する灯が見えた。そういうものをそのまま書いてもよいし、そこから思うことを書いても良かった。

いまロフトの窓から見えるのは、窓のすぐ外にある電線だ。何の情緒もない。ときどき鳥がやって来ることもある。雀と鳩の間くらいの大きさの鳥だ。(こんど名前を調べよう)。バランスを取るように電線の上でしばらくゆらゆらしている。首をあっちに向けたり、こっちに向けたりする。そして大抵はフンをして飛び去っていく。窓の向こうは2階建ての屋根が続く。(いずれは3階建てに立て替えられ、視界はふさがれるのだろう)。その向こうには十何階かのマンションが壁のように並ぶ。唯一、マンションの間に庚申塔に立つ大銀杏が1本見える。それらを見ていても、何かを書きたいという気にはならない。

あるいはそれは僕の感性の問題なのかもしれない。下町の小さな2階建ての屋根や、壁のような高層マンションや、マンションに囲まれる1本のイチョウの大木からイマジネーションを得る人もいるに違いない。やってみようじゃないか。

例えば、庚申塔の横のマンションに住む虫取り網をもっている守衛さんについての話だ。庚申塔の横のマンションには守衛さんが常駐している。近ごろのマンションはしてはめずらしい。ほとんどが警備会社と契約して、オートロックや防犯カメラを使って遠隔でセキュリティー対策をしているからだ。でもそのマンションには守衛さんがいる。

入り口の横にはちょっとした受け付け窓口がある。守衛さんはその内側でいつもテレビを見ている。机と椅子とテレビが入ると余裕がなくなるような狭い空間だ。でもその扉の奥には生活空間があるようで、どうも守衛さんは住み込みのようだ。守衛さんは小柄で優しそうなおじいさんだ。(こんな人でいざという時に大丈夫なのかと心配してしまうほどだ)。マンションに出入りする人にしずかな笑顔できちんと挨拶をする。

多くの住民たちは今どき守衛さんなんて必要ないと思っていた。面倒な人間関係がひとつ増えるだけだと思う人もいた。でも実際に住んでみると出入りするときに笑顔で挨拶する程度で、あとは話しかけてくることもない。なんだかんだ言っても守衛の格好をした人がいた方が不審者も入ってこない。何より管理費が高いわけではない。(近隣のマンションよりもかえって安いくらいだ)。きっと建て主と何らかの関係があるのだろうと住民たちは想像していた。

でもひとつだけ不思議なことがあった。守衛さんはときどき夕方に虫取り網をもってマンションの屋上に上がっていくのだ。あるいは朝早く虫取り網をもって屋上から降りてきたこともある。守衛さんは鍵を持っているから屋上に行き来すること自体は問題ない。でもなぜ虫取り網を持って行くのだろう。14階の屋上にまで上ってくる虫はそれほどいない。(屋上庭園になっているわけではない。ただのコンクリートの屋上だ)。何かの虫が発生したとしても虫取り網で捉まえるよりは殺虫剤を使うだろう。考えれば不思議だが、住民たちもとくに深く考えはしなかった。下手に質問してわずらわしい人間関係が発生してもめんどうだと思った。

じつは守衛さんは虫取り網で「三尸神(さんししん)」を捕まえていたのだ。住民の幸せを願って。

そもそも庚申信仰というのは道教の三尸説に基づく陰陽道系の信仰だ。日本では平安時代以来、朝廷をはじめひろく民間に普及した。道教では、人間の体内には三尸神とよぶ三匹の虫がいて、上尸神は頭、中尸神は胸、下尸神は身体下部の病をおこすと考えていた。

三尸神は庚申の日の夜に、つま先から抜け出して天に上り、天を支配している玉皇大帝(北極星)のもとへとおもむく。そしてその人間の悪事について報告をする。それを聞いた玉皇大帝は、その人間の死ぬ時期を決めた。人々はこれを恐れた。だから、庚申の夜には徹夜をして行いを慎んだ。つま先から三尸神が出て行かせなくするためだ。

僕のロフトの窓からは大きなイチョウが見える。庚申塔のイチョウだ。そして庚申塔のとなりはマンションだ。そのマンションには虫取り網をもったやさしい笑顔の年老いた守衛さんがいる。守衛さんは庚申の夜になるとこっそりと屋上に上り、虫取り網をしっかりと握る。そしてじっと待つ。日付も変わり、下町の夜が静かになる。住民たちはみな眠りについた。マンションの窓からひとつ、またひとつと小さな光が壁を伝うように上っていく。守衛さんは虫取り網を持って屋上の端っこを行ったり来たりする。そして小さな光をひとつ、またひとつと虫取り網で捕まえていく。東の空がうす青くなるまで。そうやってマンションの住民を守っているのだ。

なるほど、何とかなるものだ。やろうと思えば、電線でフンをする鳥からも何かが書けるかもしれない。思ってもいなかった展開になったが、ストレッチにはなったし、多少、アウトプットする気にもなってきた。合言葉は、まず手を動かしてから考えろ、だ。





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『できることをしよう。 僕らが震災後に考えたこと』を読みました

2012年02月04日 | エセー
『できることをしよう。 僕らが震災後に考えたこと』という本を読んだ。著者は糸井重里とほぼ日刊糸井新聞で、新潮社が出版したものだ。震災以降に「ほぼ日刊イトイ新聞」に掲載されたコンテンツを収録し、一冊の本にまとめたものだ。全体的なバランスや統一感は弱いが、読んでいて手応えのあるとても良い本だった。バランスや統一感が弱いぶん、それに対しての僕の印象もバラバラになっている。書きながら整理をしてみる。

本の内容は大きく分けて対談と体験記からなる。対談部分は、クロネコヤマトの社長や早稲田大学の講師など震災を支援する人とのもの、気仙沼や陸前高田で仕事を再開している人たちとのもの、防災の観点からNHKの人とのもの、そして糸井重里のロングインタビューからなる。体験記の部分は、糸井重里やスタッフが宮城県南端の亘理郡山元町に訪れたときのことと、一人のスタッフがひと夏をかけ高校野球の福島県大会を追いかけた部分からなる。

どの部分をとっても、個人に焦点が当てられている。震災に際して、あるいは震災後にさまざまな形でそれと関わった人たちが、具体的に何かを感じ、何かを考え、何を行動したかが書かれている。そういった個人を本の前書きで「ふつうの誰かさん」と呼んでいる。

『たいていのひとは、すばらしく立派な人でもなく、つくづく悪いやつでもなく、時にはおろおろ歩き、時には毅然として、「ふつうの誰かさん」として、好かれたり嫌われたりしながら生きています。そういう「ふつうの誰かさん」としての人間が、今回の大震災のような、とんでもない事実に直面したときに、どういう気持ちになるのか、どういうことをしはじめるのか、想像することはできませんでした。この本は、そういうぼくら「ほぼ日刊イトイ新聞」の人間達が会ってきたすてきな、「ふつうの誰かさん」の話しです。それ以上でもなく、それ以下でもないのですが、ぼくらはあえてよかったと思いますし、きっと読むとうれしくなったりもします。』

たしかに「読むとうれしくなる」という部分は多かった。たとえば被災直後のクロネコヤマトの社員の行動を社長がこう語っている。

『震災発生の数日後、地元ではもう、自発的に、わが社の社員が役場に直談判しに行って、救援物資の配送をはじめていた。「何でもやる、やらせてくれ」と。……現場判断で会社の車を使い、上司の承認も得ず、勝手にことを運ぶ。しかも無償で。これはね、ふつうの会社なら、権限違反なんです。』

大きな地震が来て、会社とも連絡取れない。周りではどんどん事態が悪くなる。救援物資が届かない。そんなときに、自分には車と日ごろ培ったノウハウがあると気づく。そこで行動を起す。内田樹の阪神淡路大震災の話を思い出した。被災地では、自分が失ったものを数え上げる人たちはどんどんダメになっていったが、自分に残されているものを数え上げる人たちは元気だった、というものだ。

悲惨な状況でも、限られた条件の中で最善を尽くす。そういう「できることをしよう」という姿勢が、状況の悲惨さを打ち破る「うれしさ」のようなものをもたらすのだろう。ほかにも地震発生後に上司に無断でツイッターで情報配信をしたNHKの人間、津波で泥に埋まった家々をスコップで綺麗にするボランティアたち、防護服を着て警戒区域内のペットを救助する人などそういう話しが出てくる。

スコップ団は『正直なところ、きれいにしても、住めるようになるかどうかはわからない。……自分たちは、世界を換えることはできない。だけど、こうして誰かの世界を変えることはできる。簡単なことだ。あきらめなければいい』と言い、動物保護をする女性は『こんなふうに、一匹、一匹保護したり、エサとか水をあげてても、意味ないんじゃないかと思うことは、ときどきある。……でも動物が目の前にいたら、そんなことはもう関係ない。……結果を出そうとしているわけじゃないし、誰かのためにやっているわけでもない。たぶん、被災地で残された動物たちを保護するのが楽しいからやっているんだと思う』と言う。

「うれしくなる」というのとは違う考えさせられたこともある。それは陸前高田と気仙沼で事業を再開する話しについてで、「半壊より全壊の方がよい」というものだ。陸前高田と気仙沼、どちらも津波の被害を受けた。陸前高田は文字通り「壊滅・全壊」したが、気仙沼は、船、漁師、漁師の腕など残るものは残った「半壊」だった。外部の人間からすれば、まだ半分でも残った方が良かったのではと簡単に思ってしまう。

しかし当事者からすれば、全壊ならばあきらめもつくし、すべてを新しくできる。しかし、半壊だと水産業を復興させるという命題や、今後どう建て直したらいいかという不安感も残るというのだ。その意味で、全壊と半壊なら全壊の方がいいと言うのだ。(もちろんすべての人ではない。そう考える人もいるということだ)。ただ僕がいちばん重く感じたのは、「その意味で、すべてが綺麗に残っているのに何もできない福島のつらさがある」という言葉だった。目に見えるものは何ひとつ変わらない。何ひとつ壊れていないからあきらめることもできない。建て直そうにも壊れているものが見えない。見えているのは数字としての放射能だけだ。これはきついだろう。

また、糸井重里がツイッターを介してつながった津波被災者の女性とのやりとりも考えさせられた。彼は「自分が東北に行っても何もできないのではないか」と尋ねる。「スポーツ選手が子どもに絵本を読み聞かせるシーンをテレビで見たけど、ぼくはそんなことはできないし。いや、やってもいいよ、でもそういうことじゃない気がする。何すればいいんだろう。何を見ればいいの、話せばいいの?」と。

帰ってきた答えは、「まずは話しを聞いてくれるだけでもいい」、「みんなが同じ経験をしたから、話しをする相手がいないんです」というものだった。よく考えたら当たり前のことだが、これにはハッとした。『みんなが同じ経験をしたから話しをする相手がいない』。確かにそうだ。誰かと一緒にマラソンを走る。お互い同じようにきつい時間を過ごす。その相手に自分がいかにきつい体験をしたかを語ろうとは思はない。お互いきつかったね、と確認するくらいだ。

厳しい体験をした人は、その体験を誰かに話すことで少しだけ楽になる。その相手は同じ体験をしていない人の方が良いのだろう。体験していない人が話しを聞くことで追体験をする。そのとき体験した人のきつさのようなものが体験していない人に少しだけ移動する。それによって少し楽になるのだろう。「聞いてくれるだけでもいい」というのはそういうことなのだろう。(ふと思ったのだが、「話しを聞いてもらう」ではなく「語りを聞いてもらう」という方が正確なのだろう。話しは理解すれば良いが、語りは受けとめることが必要になる、そんな感じがする)。

そう考えると、この本には「うれしくなること」も「きつくなること」も書いてある。全体的なバランスも統一感も弱いが、さまざまなことが読者に移動してくる。よみながら些細なことを追体験できる気がする。書かれていることが「ふつうの誰かさん」のことだからだ。そのあたりが読んでいて手応えを感じたあたりなのだろう。その手応えとは、理解ではなく、受けとめることなのだろう。いずれにしろ僕にとってはよい本だった。

(やれやれ。最初に書こうと思っていたことと、ぜんぜん違うことになってしまった。ざっと本の概要を説明して、一方では本の内容をフックに震災について、もう一方では糸井重里について吉本隆明や親鸞との絡みで書こうと思っていた。にもかかわらずこうなってしまった。この事態そのものが考えるに値しそうだ)。
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息は上がれど、脚は上がらず

2012年01月30日 | エセー
昨日の日曜日、館山若潮マラソンを走った。3時間45分、結果はパッとしないものだった。去年の倍近く練習したにも関わらず、タイムは去年とほとんど変わらない。何とも不思議な感じのするレースだった。それでも悔しさとか不満というものはぜんぜんない。平穏。心の岸辺に波はない、という感じだ。

そもそも今回のレースは去年の6月の喜多マラソンの失敗から始まっている。タイムは4時間3分。どんなことがあっても4時間を切る、という自分で決めたルールが守れなかった屈辱的なレースだった。自分で決めたルールを守れなくなると、人からルールを決められてしまう。僕はわがままなのでそんなことには耐えられない。だから自分で決めたことが守れないのはかなりまずい事態だ。

もちろんレース1週間前に合気道の稽古で足の指を捻挫したという理由もある。しかし人生の出来事は理科の実験室で行なうものとは違う。不確実なさまざまな出来事は前提条件なのだ(そうでなければ大抵は想定外となってしまう)。そういう中でも結果が出せねばならない。というわけで、かなり強い気持ちで7月から計画的に走った。目標タイムも僕がマラソンで狙う最高の3時間30分にした。去年の倍近く走った。でもタイムは去年とほとんど変わらなかった。

若潮マラソンには5年連続の参加になる。もっとも寒く、もっとも風が強く、今までで一番きびしい条件だった。直前の風邪、膝のケガ、長く治らない腰痛、そして風の強さ。記録を狙うのはかなり厳しい。でも諦めてはいなかった。20km地点までに3時間半のペースランナーを捕まえて、可能なかぎり食らいついていく。そういう計画だった。

午前10時にスタート。朝から曇っていたがスタートとほぼ同時に太陽が顔を出す。風も強そうだが、正面からの向かい風ではないので思ったよりも楽だ。いつものように最初の10kmくらいはランナー達も何となくざわざわしている。5km地点で23分30秒。予定より1分ほどペースが速い。そのせいか8km地点でペースランナーに追いついてしまう。かなりゆっくりしたペースに感じた。これなら3時間半は確実に切れる。そう思った。

コース右側には内房の海が見える。風のせいか白い波頭がいくつも、いくつも見える。快晴なら富士山が見えるはずだ。時おり海からの風が砂を運んで吹きつけてくる。13kmくらいか、房総半島の先端近くはちょっとした上りになる。このあたりで腰にわずかな痛みを感じる。でも気にするほどではない。20人くらいの集団がほとんど足音もさせず、上半身のブレないフォームで静かに走っている(足音がしだすと上半身もブレ、余裕がない走りとなる)。

18kmくらいで膝が痛み出す。でも気にするほどではいな。精神的にはかなり余裕がある。ハーフが1時間42分30秒。どうやら後半を5分多めにとるペース配分のようだ。コースを考えればこの5分は余裕ではなく、実際はイーブンペースだ。コースが少しずつ上りになる。ここから10kmは大半が上りで、下りと平坦な道が少しずつある。

上りが続き24kmくらいから少しずつしんどくなる。腰の痛みが強くなり、膝もおかしくなる。何よりも給水所で手にしたパンが食べられないのには驚いた。僕はマラソン中に食べ物をいくらでも食べられる(あえて取らないようにすることは多いが)。サロマ湖ではスタート時よりもゴール時の方が体重が増えていたくらいだ。パンを口に入れると気持ち悪くなる。風邪の影響だ。消化器系が復活していないのだ。

だんだんと腰が痛くなってくる。フォームが崩れているのが自分でもわかる。急に息が上がり始める。無理なフォームでスピードを出しているからだ。それでも不思議なことに精神的には余裕がある(やはり今回は走り込んだからだろう)。「息は上がれどスピードは上がらず」と下らないことを思い浮かべてちょっと楽しくなったりする。

28km地点。一挙にスピードが落ちる(ここまで劇的に落ちたことはいまだかつてない)。3時間半の集団がすーっと先に行ってしまう。これは絶対に追いつけないとわかる。腰が痛くて、上半身と下半身を連動させた動きが出来なくなっている。脚のつけ根から先だけの走りになってしまった。小股でちょこちょこ走っている感じだ。1kmあたりのタイムが5分から7分くらいに変わってしまう。

そこからは信じられないくらいのランナーに抜かれた。何百人という単位だろう。もう時計を見ることは止めてしまった。できる動きをしながら走りつづけるしかない。それが最短のタイムになるはずだから。そう思いながら、アップダウンの山の中を抜け、海沿いのコースに戻ってくる。32km地点くらいだ。ここから6kmほど近くゆるい上りが続く。毎年、1番苦しむところだ。

冷たい風が吹きつける。ペースが落ちたせいで1kmが遠くなる。それでも精神的には余裕がある。無理な走り方さえしなければ10kmくらい楽に走れるという自信がある。早くゴールにつきたいとか、あと何キロ残っているのだろう、というストレスも感じない。今の自分の最速で走りつづければいい、すっきりした気持ちだ。

フォームが崩れているのでふだん使わない筋肉を使うことになる。そのせいで脚のいろんな筋肉が痙攣をし始めている。ちょっとでもスピードを上げたらパンクするのがわかる。そうならないように淡々と走る。そんな僕をすごく苦しそうな表情のランナーが抜いていく。(端から見ると僕には根性がないように見えるのだろうな)。

ゴールの数百メートル前、道端の人が一生懸命応援をしてくれるので、それに応えてスピードを上げてみた。残りもわずかなので大丈夫かと思った。5メートルも行かないうちに脚が痙攣して動けなくなる。仕方がないストレッチをする。会場に入るとゴール横の掲示タイムは3時間45分を指している。そういえば去年もこんなものだったなと思い出す。ゴールラインを跨ぐ。そして振り返って帽子を取り一礼をする。

崩れたフォームで走ったせいで今日は筋肉痛がひどい。腰も痛むし、両膝ともやられている。おまけに足首もへんだ。僕は自宅での自分の仕事場はロフトなのではしごの上り下りが大変だ。久しぶりにひどい状態だ。

帰り道、暮れていく冬空を見ながら車を運転した。空はすでにうす暗くなり、西の方は弱いオレンジと灰色を混ぜたような色だ。葉を落した木々の黒いシルエットが浮かぶ。毎年、同じように走って、同じような景色を眺めながら帰路につく。

達成感もなければ、強い後悔もない。(長い練習を含めて)やるだけのことはやったという穏やかな充実感がある。不思議な感じだ。次のレースは3月後半の板橋市民マラソンだ。おそらくそこで僕は3時間30分を狙うだろう。ただ今回のレースに向けたような根を詰めた練習はしない。残念なことに、そこまでランニングに捧げる時間が僕にはない。

そう、残り10km淡々と走っていたときに、一瞬だけ心が震えるようなことがあった。僕を抜いていった高齢のランナーの緑のTシャツの背中に「走るの、好きか?」というプリントがしてあったのだ。目に飛び込んできた。少しずつ僕から離れていく。そのあいだずっとその言葉を眺めていた。「大好きだ。走るのが大好きだ」と声を出さずに言った。脚はろくに動かず、目標タイムにもぜんぜん届かないが、それでも走っていることがとてもよいことに思えた。

また1週間もすればランニングを再開するだろう。3月のレースを意識しないといったら嘘になる。でも結局のところ、タイムのために走るのではない、走ることが好きだから走るのだ。
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あさっては館山若潮マラソン

2012年01月27日 | エセー
いよいよ日曜日はレースだ。明日の朝には家を出て館山に向かい、明後日にはフルマラソンを走ることになる。予報では最高気温が6℃。かなりの寒さだ。風次第ではかなり厳しいレースになる。それにしても、すべての条件が理想的にそろったレースというのはまずない。今度の館山でフルマラソン以上のレースは21回目になる(いつの間にかけっこうな回数になったものだ)。それでも理想的なレースというのは思い返しても1回か、2回しかない。

きちんとトレーニングを積んだ。当日の自分のコンディションが良い。そして気象条件がよい。この3つがそろえば理想的と言えるだろう。今回に関しては、トレーニングはきちんと積んだ。気象条件は風次第だ。ただコンディションには不安が残る。痛みはほとんどないが膝には違和感が残る(レース中に痛み出す可能性は低くはない)。ずっと続いている腰痛が抜けない(レース中に痛み出す可能性は低くはない)。そして風邪が抜け切っていない。

膝や腰については、毎回なにかあるものなので仕方がない。しかし風邪はいただけない。5年くらい前だろうか。風邪を引いたまま荒川市民マラソンを走った。このときはひどかった。まず、あまりトレーニングを積まなかった。すでに何回かフルマラソンを完走していたので、いつの間にか甘く見ていたのだ。そのうえ、異常な強風だった。荒川の土手を北から南に向かって、風速15メートル以上(?)の風が吹いていた。コース沿いのテントはすべて畳まれ、停めてある自転車はすべてなぎ倒された。コースは前半が北から南、そして折り返して南から北への単調なコース。つまり折り返してからのハーフを強風に向かって走ることになる。

春先とはいえ、強い北風だ。体は冷えていく。だんだんと熱が出てくる。そして走り込み不足で脚が上がらなくなる。30kmを過ぎてついに歩き出す。後にも先にもレースで歩いたのはこのときだけだ。肉離れの痙攣をなだめるために少し歩いたことはあるが基本的には歩かない。(タイムは平凡なものだが、サロマ湖100kmでも一度も歩かなかった)。

それまで、走ることに比べてマラソンで歩くのは楽なのだと思っていた。しかし認識が一変した。辛い、走る以上に辛い。寒さで体が震える。1kmが信じられないくらい長い距離に感じる(そしてゴールはもっと遠くなる)。心が折れ、レース中なのに何かが終わってしまった感じになる(でも終われない)。このときは走りながら二度とマラソンなどやるものかと思った。

それでも、その後も何度も走っている。思うようなトレーニングが積めなかったり、当日の体調がいまひとつだったり、気象条件が厳しかったり、毎回、何らかの条件はつくが、それでも何とか歩くことなく完走している。結局のところ、あらゆる条件がそろわないところがマラソンの醍醐味なのだと思う。手持ちのカードでその場所を何とか満足のいくものにするしかないのだ。それは良く考えてみれば、人生と同じだ。充分な才能や機会や財力がなくても、手持ちのカードで何とかその場、その場で手応えのようなものを手に入れながら、やがて終わりを迎える。わかりやすい縮図なのだ。だからこそ、僕は(僕なりに)日々のランニングを含めてマラソンにきちんと向かい合うようにしている。そしてそこから何かを学ぶようにしている。

日々のランニングでもレースでも、「こんなことをやっていて、いったい何の意味があるのだ」と思うことがときどきある。それは自分の人生を眺めて「こんなことをやっていて、いったい何の意味があるのだ」と思うことと同じだ。走ってしまったのだから何も考えずにとにかく走れ。走ることについての意味を考えるのではなく、きちんと走ることに集中するんだ。意味なんて走り終わってから考えれば良い。走りながら自分にそう言い聞かす。走り終わってしまえば意味なんてどうでもよくなっている。反省や後悔する部分はある。でも基本的には走らないよりは走って良かったと思っている。(人生もそうありたいものだと思う。いろいろあったけど、生きないよりは生きて良かったな、と思えるような)。

『走ることについて語るときに僕の語ること』で村上春樹はこう書いている。

『個々のタイムも順位も、見かけも、人がどのように評価するかも、すべてあくまで副次的なことでしかない。僕のようなランナーにとってまず重要なことは、ひとつひとつのゴールを自分の脚で確実に走り抜けていくことだ。尽くすべき力は尽くした、耐えるべきは耐えたと、自分なりに納得することである。そこにある失敗や喜びから、具体的な――どんなに些細なことでもいいから、なるたけ具体的な――教訓を学び取っていくことである。そして時間をかけ、そのようなレースをひとつずつ積み上げていって、最終的にどこか得心のいく場所に到達することである。あるいは、たとえわずかでもそれらしき場所に近接することだ(うん、おそらくこちらの方がより適切な表現だろう)。』

トレーニングも積んだ。村上春樹の本も読み直した。風邪も何とか押さえ込みつつある。コース図をプリントアウトして何度もレースをイメージした。膝と腰は不安だが、考えても仕方がない。まあ行けるところまで行くまでのことだ。
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