聖女マリー・ルイスの肖像。

「ぼくの大好きなソフィおばさん」が完結しましたので、ブログ名が変わりました(笑)。

ぼくの大好きなソフィおばさん。-【11】-

2017-07-12 16:17:53 | ぼくの大好きなソフィおばさん。
【悔悛するマグダラのマリア】ジョルジュ・ラ・トゥール


 今回はちょっと、ちょうどいいところで文章を区切れなかったんですよね

 なので、中途半端なところで切って>>続く。ということになってますm(_ _)m

 なんにしても引き続き、ここの前文には特に何も書くことなかったりするので(汗)、再びディキンスンの詩の紹介でも、と思いました♪(^^)


「過去」というのは 奇妙な生き物
 その顔を覗きこんでご覧なさい
 恍惚が見えて来たり
 恥辱が見えたり――

 武装なしで 「過去」と出会ったりしたら
 すぐ逃げること――
 錆びついた弾丸が
 また 飛んできますよ

(『エミリ・ディキンスン詩集~自然と愛と孤独と~第4集~』(中島完さん訳/国文社刊)より)


 後悔は目の冴えた記憶
 仲間はいっせいにざわついて
 過ぎ去った行いが
 窓や戸口に現われる

 過去は心のまえに置かれて
 マッチの明りで照らされる
 読みやすくして
 考えをひろげるために

 後悔はいやせない
 神にも治すことのできない病気
 なぜなら神が定めたもので
 地獄と同じものだから

(『ディキンスン詩集』新倉俊一さん編訳/思潮社より)


 今回もまた、なんとも見事ですねえ♪

 ディキンスンはやはり、詩人としてだけでなく思想家としても優れていると思うのですけれども、やはり<死>というものに対して洞察が鋭く、そこから出発してこうした詩の背後に優れた思想性といったものが編みこまれるのかな、という気がします

 ではでは、次回もディキンスンかフェルナンド・ペソアの詩紹介でもしようかなと思っていますm(_ _)m

 それではまた~!!



     ぼくの大好きなソフィおばさん。-【11】-

 夕方ごろ、ソフィとアンディがノースルイスの屋敷のほうへ辿り着いてみると、そこにはアンディの予期していなかった人物が待ち受けていた。

 この日は木曜だったので、父親のバートランドが帰っているとは、アンディは想像していなかったのである。

「アンドリュー、ソフィやサラから話は聞いているぞ。前までは生っちょろいただのチビだったが、田舎の無神経な子たちに揉まれたせいか、少しはいい顔をするようになったじゃないか」

「田舎の子たちはちっとも無神経じゃないよ、父さん。優しくて思いやりのある、いい子ばかりだよ」

(あなたとは違って)という言葉を呑みこみ、アンディは急いで二階の自分の部屋へ続く階段を上っていった。途中の踊り場のところでふと振り返ると、ポロシャツに麻のズボンという、いかにもリラックスした格好の父親が、愛するおばのラベンダーのサッシュあたりを抱いて、夫婦の寝室へ向かうところだった。

「この夏は、アンドリューの奴に君を独占されてしまったからな。次の休暇にはもちろん、わたしの願いを入れてくれるだろうね?」

「もちろんよ、バート。それで、来月あるチャリティパーティのほうの首尾はどうなの?」

 ふたりがそんな会話をしているのを最後に聞くと、アンディは何故かとても悔しい思いが込み上げてきて、ダッと一息に残りの階段を上り、自分の部屋へと駆けていった。

(なんだよ、父さんの奴!あんな馴れ馴れしく当たり前みたいにソフィおばさんの腰を抱いたりなんかして。おばさんもおばさんだ、あんな奴に媚を売るような話し方なんかしちゃってさ!)

 もちろん、ふたりは夫婦なのだから、むしろそれが普通なのだと、アンディにもよくわかっていた。けれどこののち十代の思春期を通し、アンディはこうした奇妙に矛盾した感情を抱いて、自分の実の父であり、また義理の母であるソフィのことを見つめ続けるということになる。

 だが、<怒り>とか<不満>といった感情は、一般にはマイナスに属するものとされているが、この時のアンディにとってはプラスに働いたかもしれない。何故といって、アンディは今自分が抱いている感情に<憎しみ>という名は付けなかったとはいえ、それにも等しいエネルギーを身内に蓄えつつあった。その力は凄まじいばかりのものであったため、新学期がはじまったら今度はうまくクラスに馴染めるだろうかだの、友達は出来るだろうかといった不安を思いだすことが、実はあまりなかったのである。

(学校で友達なんて出来なくても、それでいい。でもいつか必ず、あの高慢ちきで嫌な奴の鼻をへし折ってやるんだ。友達なんて、ヴァ二フェル町にいるあの子たちだけでも僕には十分だ。そう思ったら、もう何も怖いものなんかないぞ)

 随分あとになってから気づいたことだったが、アンディのこうした感情は、ソフィの愛情に裏打ちされていてこそ、意味のあるものだった。もし彼女の愛情が一切なかったとしたら、アンディはおそらく学校へ戻ろうという気力すら、今も持ちえないままだったに違いない。

(僕はこれから……少しずつでも努力して、おばさんが義理の息子として自慢に思えるような人間になろう。それは結局、父さんのことをも満足させる生き方かもしれないけど、逆に言ったとすれば、それはおばさんを困らせることにもなるんだから。おばさんには海辺の別荘にいる時に、「父さんのことを本当に愛してる?」って聞いたことがあったけど、おばさんの返事は歯切れの悪いものだった。もしかしたら、結婚する前まではおばさんも、もう少し父さんとのことに期待するものを持ってたのかもしれない。でも父さんは結局、自分と自分にとって得になることしか考えてない人だっていうことがはっきりわかって、幻滅したんじゃないだろうか。もちろんおばさんは僕に、子供にそんな話を聞かせるのはよくないと思って、父さんのことを悪く言ったりすることはないだろう。でもたぶん、おばさんの本心はそうなんだ。おばさんはきっと、口に出してはっきりそう言うことはなくても、父さんなんかと一緒にいるより、僕とふたりきりのほうが楽しいに決まってるんだ)

 八月の中ごろ、フィッシャー・エンタープライズが主催する慈善パーティに出席するため、ソフィはヴァ二フェル町から一番近くにある飛行場より、首都ユトレイシアへと出発していた。他に女性のパートナーのいるのが適当とされるパーティのことは、どうにかうまくバートは切り抜けていたが、そのイベントだけはどうしても<若く美しい妻>が隣にいる必要があったのである。

 このソフィのいない三日ほどの間、アンディは本当につまらなかった。身の回りの世話をするためにノースルイスからサラが派遣されていたが、彼女のことを見ていると、まるで自分がノースルイスにいた頃とまるで変わっていない気がして、アンディはイライラするものさえ感じて過ごしたのだ。

 アンディが自分のベッドに突っ伏し、悶々とした気持ちを持て余していた頃、フィッシャー夫妻の寝室では、我が家のひとり息子のことが話されていた。

 もっとも、バートランドは一人息子のことを自分から話すということのまずない人間ではあったが、ソフィは彼がもっとアンディに目をかけてやるべきだと思い、うるさがられない程度に義理の息子のことを話すことが多かったのである。

「この間にあったパーティで、ハワード夫人がおまえの着ていたもののことをとてもよく褒めていたよ。だが、そういう格好も悪くはないな。まるで大学に通う女学生のようにも見えるじゃないか」

 バートランドが、ノースリーブのワンピースの肩紐のところをずらすと、ブラジャーの細い紐だけが肩に残る。そこで彼はそれをそのままにして、ソフィのブロンドの髪をかき分けるように、何度も首筋や肩にキスを繰り返した。

 この夏、バートランドはヴァ二フェル町へ出かけていくということはしなかった。ソフィがそこで親子三人水いらずなどという茶番を自分に強制しなかったことを、彼は感謝すらしていたのである。

「アンドリューが私立の寄宿学校に入るまで、あと二年か。なに、今は長いと感じるかもしれんが、一度そうなってしまえばもうおまえに面倒はかけまいよ」

「あなたったら……そんな寄宿学校が自動的に子供を一人前に育ててくれるなんていう考え方、いけませんわ。アンディは、秋から学校へ戻るそうですよ。きっと、勉強の点ではあの子には物足りないでしょうね。でも、集団生活に挫折したまま私立中学に入るよりは、そのほうがいいかもしれません。もしそれで、あの子がまた馴染めなくて学校へ行かなかったとしても、大したことじゃありませんわ。そしたらまた家庭教師の先生についてもらえばいいだけのことですもの」

 この時にはすでに、バートランドはソフィのワンピースのファスナーを下ろし、右手を太腿に置き、そして左手ではブラジャーの上から胸を掴んでいたが――ここで不意に大声で笑いだし、両手とも離していた。

「ハッハッハッ!!おまえも随分あの坊主に甘いもんだな、ソフィ。まあ、いい。わたしもまさかおまえがそんなに教育熱心だとは思ってもみなかったからな。アンドリューのことについてはおまえに任せよう。好きにするといい」

 子供の話をしたことで、すっかり興がそがれたのだろうか、バートランドはそのことにソフィがほっとしているとも気づかず、夫婦の寝室から出ていった。

(この結婚は失敗だった)とソフィが気づくのに、実際そう時間はかからなかったといえる。もしこれでアンディという子がこの屋敷にいなかったとしたら、結婚生活はさらに耐え難いものになっていたことだろう。

 バートランドは目的を達するのに手段を選ばないタイプの男であったため、結婚前の彼は非常に優しく紳士的に振る舞っていた。もちろんソフィとて、男の瞳の奥にある、何か動かしがたい冷たさのようなものに、まったく気づかなかったというわけではない。けれど、人間は心が弱っていたり心細かったり、将来に不安を感じるような時――自分に伸べられた細い糸のようなものに、過剰に希望を見て期待してしまうものなのかもしれない。

 無論、結婚後のバートランドが手のひらを返したように突然冷たくなったとか、そういったことでもなく、ただ、ソフィは思い知っていた。彼にとって<女>というものは、それが妻であれ高級娼婦であれ、抱く思いにさして差がないのだということに。

(アンディのお母さんが自殺したのも……もしかしたら無理もないことだったのかもしれないわね)

 この世界には、愛情というものを持って生まれない人間がいる、と聞いても、実際にそのような人物を間近で見るなり、観察でもしない限りは――そんな人間などいるはずはないと、ほとんどの人が思うことだろう。

 だが、バートランド・フィッシャーは事実、そのような人間だった。彼にとってはすべての人間関係がゲームであるか、あるいは<駆け引き>か<取引>により、どれだけの損得勘定がはじき出されるかといった数字上の加減乗除にしか過ぎないものであるようだった。

 それが仮に自分の親や子供であったにしても、<愛情>というものは清水のように自然と湧き出るものであって、上から強制したり、「こうすべき」と教えたりしてどうにかなるものではない。ソフィはバートが頭の中で、アンドリューという自分の血の繋がった子を秤にかけ、まだまだ目方が足りないとか、結構な教育資金を投資しているのに、見返りの配当が少ないであるとか、そんなふうに考えているように見えて仕方なかった。

(そして、結局のところわたしに対しても、思考法としてはまったく同じことを適用してるのだわ、あの人は……)

 その論法でいくと、ソフィは今はまだ見た目が二十代のようでも、これから歳を取って体にたるみやシミが増えるにつれ、妻としての価値が下落する一方ということになるだろう。だがまあ、そんなことが理由で離婚することになり、バートランドがまた若い妻をどこかから娶ろうというのなら、それはそれで構わないとソフィは思う。その際には彼は、それなりの慰謝料といったものを自分に支払ってくれるだろうし、今ではそのようになってくれることを心の中で望む自分のいることに、ソフィは何か諦めの溜息を着くのみだった。

 無論、そのような愛情の欠如した人間がこの世に誕生したからには、その人物の両親におそらくは問題があったのだろうと、そこに解決の糸口を見いだそうとする人は多いに違いない。だが、女中のサラやアンナなどから話を聞く限りにおいて、バートランドの母親のエイドリアン・フィッシャーという女性は、母性のある素晴らしい人であったようなのである。

 ソフィはアンディを見ていて、一通りの躾といったものが普通以上に行き届いていると感じ、幼い頃の彼を育てたという、エイドリアンおばあさまのことにとても興味を持っていた。アンディはヴァ二フェル町でよく、海辺の風景や近くの森や泉や池の様子、あるいは鹿といった動物や、植物や昆虫などを色鉛筆で画用紙に描写していたのだが――彼は最初に一枚目の絵を描こうという時、六十色ある自分の色鉛筆のコレクションを、実に自慢げにソフィに見せようとしたものである。

「ソフィおばさん、僕の色鉛筆のコレクション、見たい?」

「べつに見たくないって言っても見せてくれるんでしょ、坊やは」

 確かそれは、朝食がすみ、食堂のテーブルをソフィが布巾で拭いていた時のことだった。アンディは金持ちの子の割には食べ物を粗末にせず、食べこぼしといったこともほとんどしない子だったため、ソフィは彼がどういった教育を祖母から受けたのか、前から知りたいように思っていたのである。

「おばさんもいけずだなあ。こういう時はね、仮に社交辞令としてでも「お願いだからアンディ、見せて」って言わなきゃ駄目だよ」

「そうね、アンディちゃん。おばさん、あんたの色鉛筆が見たくて見たくて堪らなくなってきたわ」

「そうこなくちゃ、おばさん。じゃないと、僕も見せ甲斐がないよ」

(子供というのは、なんて面白いものだろう!)そう思いながらソフィは、布巾を畳んでキッチンに置くと、食堂のテーブルに着いた。

「じゃじゃーん!凄いでしょう?全部で六十色もあるんだよ」

「なるほど、確かにこれは凄いわね。坊やが自慢したがる気持ちもよくわかろうというものよ」

 次いでアンディは、「これがカーマインでしょ、でね、こっちがバーミリオン。それからこれがヘリオトロープで、こっちのがプルシアン・ブルーなの。一口に赤とか紫とか青とか緑って言っても、実際には色んな色のバリエーションがあるんだよ」と、実に嬉しそうにスケッチブックに線を引いては、ソフィの知らない色の名前を教えてくれた。

「それでこの六十色もの色鉛筆は、クリスマスにでも坊やがプレゼントしてもらったものだったりするの?」

 アンディはこの時、タンジェリンの色鉛筆で、餌を食べるパメラのことを描きつつ、ソフィに返事をした。

「ううん、この色鉛筆はね、おばあさまが毎週一本ずつくださったものなの。デパートのカタログでさ、僕が六十色入りの色鉛筆を指差して、「どうしてもこれが欲しい!」って言ったらおばあさま、買ってはくださるけれども、毎週一本ずつだけですよっておっしゃるの。僕が「どうして?」って聞いたらおばあさま、最初から六十色あっても使いこなせいだろうからって言うの。でも僕、この時相当駄々をこねて頑張ったよ。どうしても今すぐ六十色欲しいんだ!って」

「それで、どうなったの?」

 パメラの餌箱に、少しばかりドライフードを足し、水も新鮮なものに替えてから、ソフィはもう一度座席に着く。

「うんとね、最初は黒に近い茶色い色鉛筆を一本くださっただけなんだ。で、僕、このことには実際大いに不満でね……こんな変な色の色鉛筆が一本あってもしょうがないや!って怒ったの。そしたらおばあさまは、一本色鉛筆があるたけで、どのくらいのものが描けるかやってごらんなさいっておっしゃって……おばあさまはね、怒るとすごくおっかないんだ。だから僕、その予兆のようなものを感じとって、本当はふてくされてたけど、一週間の間一本の色鉛筆だけで絵を描いて過ごしたの」

「ふうん。なるほどね。それで次の週には何色の色鉛筆をもらったの?」

「クリムゾンレッドだよ。普通の赤とはちょっと違う色だったから、僕嬉しくって。それでその週は、太陽とか薔薇とか、とにかく赤い色のものばかり描いて一週間過ごしたの。で、三週目にはコバルトブルーの色鉛筆をもらったよ。だからその週はずっと海とか空とかあじさいとか、青っぽいものばかり描いてたんだ。それから四週目がエメラルドでね、そうやってちょっとずつ色鉛筆は増えていったけど、三百五十四色集めた時に、おばあさまが亡くなって……僕、その次の月からお小遣いをもらうようになったから、おばあさまと約束したとおり、やっぱり一週間に一色ずつと思って、色鉛筆を増やしていったんだ」

「そうだったの。とても優しい、いいおばあさまだったのね」

 ソフィは少しばかり屈むと、パメラの首筋のあたりを揉むように撫でてそう言った。

「うん。僕にとっては最高のおばあさまだったよ。おばあさまも、僕が成人するまでは生きていたいっておっしゃってて……僕、おばあさまが亡くなった時、あんまり悲しくってね、花に囲まれて棺桶に入ってるおばあさまのことを忘れないようにと思ってスケッチしてたんだけど、そしたらサラにこっぴどく叱られちゃって……良家のお坊ちゃまっていうのは、そういう道徳的でないことをするものじゃないんだって。でも僕、その時描いておいて良かったんだ。なんでって、写真のおばあさまよりも僕の描いたおばあさまのほうが、もっとずっとおばあさまらしかったから……」

 このあと、餌を食べ終わると同時に、パメラが重い体重を引きずるようにしていなくなったため、「ダメだよ、パメラ。まだスケッチの途中じゃないか!」と言って、アンディはデブ猫のあとを追っていった。そして一生懸命おだてるようなことを言いながら、リビングのクッションの上に彼女をのせると、パメラのほうでも「おまえは世界一の猫だ」と言われてまんざらでもなかったのか、暫くモデルとしての役を務めていた。

 ――この話をアンディから聞いた時、ソフィは(大したものだ)とエイドリアンおばあさまに対して感服した。おそらく彼女にとっても、アンディという存在は孫として目に入れても痛くないくらい可愛くて仕方のない存在だったろう。しかも、ソフィの実家のように貧乏だったのならわかるにしても、お金がたっぷりあるにも関わらず、色鉛筆セットを一度に与えないでおくというのは……なかなかどうして、容易に出来ることではない。

 というより、お金がなくて買える物が制限されることを子供に説明するよりも、お金がたっぷりあって、何が子供にとって<本当に必要で大切な物なのか>を判別することのほうが、実は意外に難しいものである。

 そしてそんな、教養のあるおばあさまにアンディだけでなく、バートランドも育てられたはずなのに――この<差>といったものは、一体どこから生まれてきたものなのだろうと、ソフィは不思議でならなかった。もちろん、可能性としてひとり息子のバートの養育法で失敗した経験から学んだことを、もしかしたらエイドリアンはアンディに実践したのかもしれないにしても……。

 それともうひとつ、バートランドに関しては、<母>よりも<父>の存在のほうが、何かより大きいらしかった。バートランドの父親は、フィッシャー・エアプレインという航空会社を創設した実業家だったのだが、皮肉なことに自社の飛行機で移動中に事故で亡くなったという人物だった。バートランドはこの父親のことを非常に尊敬しており、「今も、もし父が生きていたらどうしたか」ということを基準にビジネスをしていると、何かの折に話していたことがある。

 ソフィはこうしたことを色々と考え、また思いだしながら、バートランドに半分脱がされた服をクローゼットにしまい、彼の好むシックで上品なドレスを選ぶと、軽く化粧直ししてからディナーの席へ着いた。

 長い間車に揺られていたせいで、疲れたせいもあるのだろう、アンディは食事の間中、どこかふてくされた顔をしたまま、自動的に皿の上のものを口許まで運ぶといった具合だった。アンディのその態度の中には、自分に対する反抗心のようなものまである気がしたが、さりとてソフィにはどうすることも出来なかった。

 父親がいつものようにどこか横暴な物言いで「今度はちゃんと学校へ通い続けられるんだろうな?」などと聞くのに対しても、「べつにいいじゃないの、あなた。なんだったらまた、マクレガー先生に付いていただけばいいだけのことなんだし」と、少しばかりフォローするということしか出来ない。

 するとバートランドは、「ふん!」と鼻で笑ったのち、「おまえはアンドリューに甘すぎる」と、せせら笑ったのだった。アンディはこの時、七割方食事を終えていたため、口許を拭いたナプキンをテーブルに叩きつけるようにしてから食堂を出ていった。

「バート、しつこいようですけどね、あの子はまだほんの十歳なんですから、父親として温かみのある言葉をもう少しかけてあげないと……」 

「温かみのある言葉だと?わたしはもう十分、あいつには父親としての務めを果たしているとも。十分な食事と、着る物に小遣い、わたしが何か息子に出し渋ったものがあるか、なあサラ?」

 給仕のため、脇に控えていたサラにバートがそう問いかけると、彼女は「さようでございますとも、旦那さま」というように、澄ました顔で頷いていた。

「ほら、わたしは何も間違ってはおらんよ。必要なものをすべて与えられているにも関わらず、結果を出せないのはアンドリューのほうに問題があるからなのだ。だがまあ、ソフィ。おまえは気立ての優しい女だからな。おまえに免じて、あいつのことは長い目で見守ってやるとしよう」

「あなたったら……」

 ――この日の夜、久しぶりに夫の腕の中に抱かれながら、ソフィはやはり、この男が相手では自分の心の中にある空虚な穴のようなものは埋まらないと感じていた。ところが、この冷血な男の息子ときたら、特に何もしないでも、ただ「そこにいる」だけで、ソフィ自身が明日も生きていける糧のようなものを……これがあればこそ、自分は生きていけると感じるものを、十分与えてくれるのだった。

 ソフィはこの夜、まだ自分は新婚といっていい身分なのに、(こんなことをいつまで続けていけるかしら?)と感じる自分に戸惑っていた。この夏に経験した、密度が濃く深い幸福のことを思えば、それと引き換えにするように我が身を差し出すことなど――もっと言うならば、夫のことを楽しませるべく演技することなど――ソフィにとっては今のところまだ深刻な問題ではない。

 けれど、いずれ夫との関係にも限界がやって来るだろう。それはまず間違いのないことだった。その時果たしてアンディはいくつになっているか、ソフィはそのことが気がかりだった。エイドリアンおばあさまはアンディが成人するまで生きていたいとおっしゃっていたという。そしてその気持ちはまた、ソフィにしても同じだった。

(でも、あの子はいずれ、二年もすれば寄宿学校へ行ってしまうだろうし……ああ、もしそんなことになったら!この屋敷で週末に夫が帰ってくるのを憂鬱な気持ちで待つだけの存在に、わたしはなってしまうだろう。どこの学校でもいいから、アンディがここから通えるところへ行ってくれるといいのだけれど……)

 だがそれは、父親バートの価値基準とは合致しないものであるため、仮にどんなに頼みこんだとしても、実現する見込みは限りなく低いといって良かった。ソフィは夫に抱かれながら、最愛の男セスのことをこの時思いだし、その息苦しいような苦しみが頂点に達すると、夜更けに夫婦の寝室を出、忍び足でキッチンのほうへ向かった。

 彼女がこうした気持ちになることは、人生の中で今までほとんどないことだったが、ソフィは今酒の力を必要としていた。以前までは、断酒会のドキュメンタリーなどを見ても、自分も一歩間違えばそうなる……とまでは思っていなかったのに、いまやソフィはそうした<酒にでも溺れるしかない>人々の気持ちというのが、痛いほどわかる気がしていた。

 誰もいないキッチンで、安い酒のある在処を探すと、そのウィスキーを氷で割ってソフィは飲んだ。もちろん、高級な酒ならば夫バートがコレクションしているものがあるし、このキッチンの地下にあるワインセラーにも、目の飛びでるような値段のワインがあると、当然ソフィは知っている。

 けれど今ソフィは、セスがよく飲んでいた銘柄のウィスキーを飲み、彼がよく酒を買っていたリカーショップの親父と軽口を叩く様子を思い出さずにはいられなかった。

(ああ、セス。あんた今、一体どこにいて、何をしてるの?わたし以外の女とよろしくやってるから、もうわたしの元へ戻る気はないっていうことなら……せめて最後にそうはっきり言って欲しかった。そしたら今ごろは、もっと諦めきって自分の人生をやり直せたかもしれないのに……)

 けれど結局、それと同時にソフィは、そんな事実を<はっきりとは知りたく>なかった。そしてその矛盾したような感情の狭間で、アリ地獄の蟻よろしく、ソフィはもがき苦しんでいたのだった。

 この時不意に、薄暗いキッチンに明かりが灯され、ソフィは一瞬ギクッとした。だが、おそらく相手はサラかアンナあたりだろうと思ったにも関わらず、入口のところにパジャマ姿のアンディの姿を認め、突然ソフィは自分という存在が恥かしくなった。

「ま、まあ。どうしたの、坊や。こんな夜遅くに……」

 ヴァ二フェル町にいる間、ソフィは酒といったものを一滴も飲んだことはなかった。けれど今、ソフィは義理の息子に見せたことのない女の顔をして、安酒をチビチビやっていたのである。しかも、絹のガウンを着ていたとはいえ、その下には下着というものを一切身に着けていなかった。

 ソフィはガウンの手前側をかきあわせると、あらためて帯をぎゅっと締め、居住まいを正していた。

「……おばさん、もしかして泣いてたの?」

「どうしてそんなことを思うの、坊や。おばさんはね、ちょっと喉が渇いたってだけなのよ。それで水を……」

 そう嘘をつきかけて、キッチンのステンレス台にのったウィスキーが物語るものを悟り、ソフィは黙りこんだ。アンディが「へえ」と言って、どこか軽蔑したように、酒の入ったグラスを眺めたせいでもある。

「僕はね、おばさん。時々眠れないと、こうやって今みたいに屋敷の中を探検して歩くの。うちの警備員は九時・十二時・三時って、夜は三時間おきに屋敷を回って歩くんだけど、その時間帯だけを外せば、まあ大体何ごともなく探検して遊べるんだ」

「坊やったら、おばさんがいびきをかいてぐーすか寝てる時にも、そんなことをしてたのね。いけない子だわ。もし外の暗がりなんかで足を滑らせたりしたら、大変じゃないの。来週の月曜からは学校へ行くのだし、もうそんな危ないことはしないって、おばさんに約束してくれるわね?」

「うん、約束してもいいよ。っていうかね、おばさんがうちにやって来てからは、そんなことも全然してないんだ。でも今日は……今夜はどうしてもなんかイライラして眠れなくって。ううん、一度は本当に物凄くぐっすり寝たんだよ。そしたら三時間も経ってなくて、今度はお目々がぱっちり冴えてきちゃったんだ。もしかして、おばさんもそうだったの?」

 ソフィは目尻にあった涙をぬぐうと、アンディの子供らしい真っ直ぐさ、清らかさのようなものに心が和むあまり、セスのことを一時的に忘れることが出来た。海辺の別荘にいる間もそうだったのに、やはり夫のバートといると、自分のした選択の愚かさが悔やまれてくるのだった。

「そうね。おばさんもちょっとは寝たんだけど、なんだか目が冴えてきちゃったの。そしたら今度は寝つかれなくなっちゃって……」

「それで、お酒の力を借りて眠ろうとしたんだね」

(可哀想に)という目で十歳の子供に眺められ、ソフィはこの時、笑いだしたいような、不思議な気持ちになった。そして、この時彼女は不意に気づいた。この子はセスに似ているのだと。具体的に顔がということではない。鳶色の髪に、灰色がかった青い瞳をしたところもそうだし、何より一緒にいると体の一部が繋がっているように感じられるところが似ているのだ。

「おばさんは、父さんとふたりきりになると、どんな話をするの?」

 アンディはキッチンの隅のほうからパイプ椅子を持ってくると、ソフィの側に置いた。そして自分はステンレス製の大きな冷凍庫のほうへ取って返し、アイスクリームの箱のあるあたりを物色しはじめる。

「まあ、アンディちゃん。あんたもしかしてこうやって時々、夜中に盗み食いをしていたりするんじゃないでしょうね?」

「ほんのたまにだよ。それよりおばさんもアイスどう?チョコマーブルとかイチゴとか、クッキー&クリームとか、色々あるよ」

「おばさんには、ハーゲンダッツのチョコミントのをちょうだい」

「うん、いいよ」

 それからふたりは、銀のスプーンでアイスをすくって食べる間、いつもどおり他愛のない話をしては笑いあった。けれどアイスを食べ終わり、どちらともなく寝室へ戻ろうかという時――アンディはソフィの絹のガウンの裾を掴むと、どこか必死な眼差しでこちらを見上げてきたのだった。

「おばさん、おばさんは決してこの屋敷からどこへも行ったりしないよね?」

 この時ソフィは何故か、(僕のお母さんみたいに)と言われている気がして、胸が詰まりそうになった。もちろんアンディは、実の母であるフローレンスが自殺を――それも胸に拳銃を押しあてて自殺したなどとは知らない。また、彼女が首都ユトレイシアにあるフィッシャー家の本邸でそのような非業の死を遂げたことから、首都から千キロ以上も離れた別邸で自分が育てられることになったとも、当然知らない。アンディには、母親は病死したのだと話してあると、バートランドからはそのように聞いている。

「まあ、坊や。何を言うの。おばさんはどこにも行きゃしませんとも。もしどこかへ行くのだとしても、それは可愛いアンディちゃんも一緒にっていうことよ。わかるでしょう?」

「そうだよね。ただ、僕、心配だったんだ。さっきキッチンで最初におばさんを見た時……なんか、おばさんがユーレイみたいに見えてさ。父さんから、何か意地悪なことを言われて泣いてたのかなとも思った。おばさん、僕、おばさんのことが心配だよ。自分なんかのことよりもたんとね。だから僕には……なんでも本当のことを話してほしいって、そう思ったの」

「坊やったら……」

 ソフィはアンディに向かって屈みこむと、その鳶色の髪を優しく撫で、額と頬にそっとキスした。

「心配しなくても、おばさんはどこにも行きませんよ。ただ、お父さんはこんな大金持ちでしょう?だから社交上のことで、嫌な人にもいい顔しなくちゃいけないとか、おばさんにも気苦労が色々あったりするの。でも、あんたも来週からは頑張って学校へ戻るのだものね。そう思ったらおばさんの気苦労なんか、実際大したこっちゃないわ。明日にでもそう手続きしてくるけど、坊やは本当にそれでいいのね?」

「うん。僕、よくはわからないんだけどね、何故だか今度はうまくやれそうな気がするんだ。何よりおばさんが、学校なんか行かなくても大したことじゃないとか、家にずっといていいんだって言ってくれたことが嬉しかったの。だから僕、きっと頑張ってやっていかれると思うよ」

「そう。でもまあ、あんまり頑張らなくてもいいのよ。坊やくらいの歳の子は、そんなところで無理して余計な力を使ってしまうと……のちのちの精神状態に影響しますからね。それよりは学校へ行かないででも、家の中で充実した時間をなんの不安も感じずに過ごしたほうが、よほど有意義というものだわ」

(この人はどうしてこんなに自分のことをわかってくれるのだろう)、あらためてそう不思議に思いながら、アンディはソフィにおやすみのキスを返して、自分の寝室へ向かうべく、階段を一段飛ばしに上っていった。

 アンディのそうした喜びの態度がソフィにもまた嬉しく思われ、ソフィは今では自分の心が酒で雲っているどころか、むしろ逆に晴れ晴れとしているのを感じていた。

(子供というのは、まったく本当にいいものだわ。かといってわたしの場合、自分の子が欲しいかといったら、そういうことでもないんだけれど……これはわたしが義理の親馬鹿になってそう思っているというのでなく、あの子は本当に特別な子なのだわ。ヴァ二フェル町にいる間も思ったことだけれど、まわりの同じくらいの歳の子よりも思想が進んでいるし、言葉の話し方なんかもまるで違うんですもの。あの子はとても大切な子よ。実の父親に、その真の価値がわかってなかったとしても……そうだわ。アンディが将来何になるのだとしても、あの子がなりたいと思うものの障害は、なるべく取り除いてやらなくては。そのためにも、あの子の父親とは良好な関係を続けることが必要だし……)

 ここでソフィはハッとして、突然生きる道標べを見つけるような思いに捕われた。

(あの子の味方をするためなら、たぶんわたしはどんな犠牲を払うことも出来るだろう。愛してもいない男のことを愛している振りをし続ける欺瞞にも、おそらくは耐えていける。何故といって今わたしの心には、こんなにも愛が……胸の奥から溢れて止まらないほどの愛情がある。このことを思えば、これからも大抵のことは耐えてゆかれるに違いない)

 心の中でそう結論が導きだされると、ソフィは愛してもいない男の傍らへ戻ることに、若干の意義を覚えることが出来た。ソフィは間違いなく、バートランド・フィッシャーという男のことが人間として好きではなかったが、彼にもいくつか良いところはあるし、何よりも金のことでは出し渋りをしないところが、バート最大の魅力でもあった。

(そうだわ。この男に本当の愛情なんてものはない。バートのような男は、仮に百人以上の女と寝たところで、女という生き物を真に大切にすることを学びはしないだろう。けれど、だからといってわたしが絶望する必要はないんだわ。だってわたしは、この人のことを本当の意味では愛していない……愛してなどいないんですもの。これがもしウィリアム・レッドメインが相手で結婚していたとしたら、向こうが自分を愛していると知っているだけに、苦しみや罪悪感といったものは今より重かったに違いない。そう思えば、バートとの結婚には、絶望的な救いのようなものがある。お互いに真の意味では愛してなどいないのだから、世間が必要とする体裁の面において裏切らなければ十分なのだという意味において……それに、わたしにはアンディがいる。今となっては、もし仮に自分に腹を痛めた子があったとして、これほどまでに愛しいと感じられるかどうか、疑わしいと思うまでにあの子のことが愛おしい。バートが夫として与えてくれないものを、代わりにあの子が与えてくれるのだから、わたしはそのことを支えにして、この絶望的な結婚というものをどうにかしていけるに違いない……)

 ソフィは半分眠くなってきた頭の中でそこまで考えると、憎しみよりも遥かに愛情のほうが勝っている自分の心理状態に満足して、目を閉じた。もちろん、ソフィは夫のバートランドのことを憎んでなどいない。何故なら憎しみというものは、まず先に愛情があってから生じるものだからだ。そういう意味においてバートのことをこれからも憎まずに済めばいいとソフィは思った。その他の、彼が求める外面的なこと――社交の場において、己が身をわきまえた適切な態度を取るといったことや、あるいは内面的なことでは、彼の求めることになるべく不満を唱えず、むしろ感謝している振りさえする……といったようなことは実際、可愛いアンディのことを思えばなんとか耐えてゆけそうな気がした。もちろん、時には微笑むことが難しく、心の中では歯を食いしばるようなことがあったとしても……。

(ああ、セス。どうやらわたしは、あんたの代わりにあの子に愛情を注ぐことで、自分という存在をどうにかしていけそうよ。けど、あんたがそうだったみたいに、いくら愛情なんて注ごうとも、あの子もいずれわたしから離れていく……それは寂しいことだけれど、その頃にはまた何かが変わっているかもしれないものね。「一日の苦労は一日にて足れり」だわ。まずは明日、アンディの通う公立校へいって、校長先生とお話してこなくちゃいけないわね……)

 親が「子供のため、子供のため」という呪文を唱えながら、実際は自分のために行動することがよくあるように、ソフィはアンディに対してしていることを、100%純粋に彼のためにしていると思ったことはなかった。<与える喜びのために与えている>という場合、やはり自身に喜びを帰した時点で、そこには何かしらエゴというものが含まれているに違いない。

 なんにしてもこの時以後、セスへの思いを断ち切るために、ソフィはますますアンディのことばかりを考えて過ごすようになった。まずは公立の初等学校の校長に会いに行き、義理の息子を再び学校へ通わせたいがどうすれば良いかと相談しにいった。すると、ノースルイスの第一学区の校長は、ソフィが応接室へ入っていくなり、相好を崩して彼女のことを迎えたのだった。

 アンドリュー・フィッシャーの義理の母親が面会したいと申し出ていると、職員玄関脇にある守衛室から電話があった時、実は校長のフランク・ウィルシャーは渋い顔をしたのだが、彼女のことを応接室に迎えた途端、父兄がまたも苦情を一くさり言いに来たのでないということがはっきりわかったのである。

「そもそもうちのアンディは何故、四学級の途中で学校へ行かないことにしたんでしょうか?」

 控え目なダークブルーのスーツに身を包み、膝の上でレースのハンカチをいじりつつ、一通りの社交辞令的挨拶の済んだのちに、ソフィは頭の禿げた初老の校長に向かってそう聞いた。校長なぞというものは、大概が保守的なものだが、それでもウィルシャー校長の青い瞳の中にはどこかユーモアを感じさせるところがあり、ソフィはそこに賭けてもいいような気がしていた。

「うちは一学年に四百名以上も生徒がいるもので」と、その昔頭髪のあった頃が忘れられないとでも言いたげに、ウィルシャーは頭の後ろに手をやって言った。「各生徒さんのことは、担任の先生に話を聞いてみませんと、まあなんとも言えんというのが普通ですが……フィッシャーくんのことは例外的に、わしのほうでも話を聞いています。というのも、担任だった女教師が、まだ若いせいもあって非常に意欲に燃えていましてな。あんなに成績の良い子が学校へ通わなくなるだなんてこんな惜しいことはないと言って、相当熱心に学校へ戻るよう説得したらしいんですが……」

「そのことはわたしも女中などから話を聞いています」この女中というのは、言うまでもなくサラやアンナのことである。「お坊ちゃまはあの女性がやって来れば来るほど鬱陶しがって、むしろ依怙地になってしまったんじゃないかって……何分、わたしが今の主人と結婚する前のことなもので、詳しいことはわからないのですけど、それでうちの子が不登校になった原因というのは、一体なんだったんでしょう?」

「息子さんから、そのあたりのお話を聞いてはおられませんので?」

 ウィルシャーは、ソフィのことをなんとなく真正面から見ることが出来ず、彼女が胸元に留めているカメオをじっと見つめながら話していた。

「ええ。だって、子供にもプライドっていうものがありますからね。わたしがアンディの立場でもやはり、いじめにあっただの、こういう嫌な思いをしただのいうことは、仮に実の親でも……実の親であればこそ、言いたくなかったでしょうね。まあ、大切なのは過去よりも未来と言いますし、わたしはアンディが無事進級できるかどうかお聞きできればそれで良かったりもするのですけど」

「ふむ」

 ウィルシャーは白い口ひげをひねると、(見た目以上にわかっとるようだな)と感じ、まずは相手と「まともな話」が出来そうなことにほっとした。近頃はとんとおかしな親が増えてきており、家庭ですべき基本的な躾のことまでも学校ですべきなどという、話すだけ無駄といった価値基準のPTAの来訪に、ウィルシャーも苦慮しているのだった。

「まあ、いじめというのかなんというのか……とにかく、フィッシャーくんは四学級のクラスに馴染めなかったようなのです。あの子は同学年の子よりも頭がいいですし、特に<これ>といった理由があったわけでもなく、友達が出来なかったようですよ。わたしの見たところ……担任の教師のほうもまだかなり力不足でしてな、「みんな仲良く」とか「フィッシャーくんのことも仲間に入れてあげなさい」とか、そんなふうにクラスをまとめようとしたようです。けどまあ、奥さんが先ほどおっしゃったように、わたしなんかはフィッシャーくんのプライドの高かったのが問題だったのだろうと思いますよ。こう聞いて何か思い当たるところはありませんかな?」

「今の校長先生のお話だけで、大体はわかったような気がします」

 ソフィは微かに頬を赤らめてそう答えた。ソフィ自身は無論、アンディのそうしたプライドの高さや繊細さを含め、可愛くて仕方ないのだが、そうした性質が集団生活では裏目に出てしまうというのは、なんともわかる気がしていたのである。

「そうですか。まあ、五学年へは進級試験を受けることで、それに合格すれば留年は免れるということにしましょう。なんといっても今日は金曜ですからな、明日の土曜にフィッシャーくんには試験を受けてもらい、すぐ採点して合否をはっきりさせましょう。試験にパスすれば来週の月曜から、適当なクラスに入ってもらいます。お母さんのほうはこれで異存ありませんかな?」

「ありがとうございます、校長先生。本当に、なんとお礼を言ったらいいか……」

 ソフィは立ち上がると、ウィルシャーに向かって深々と礼をした。と同時に、他の人間から<お母さん>などと呼ばれ、面映いような照れくささも感じたのだった。

「いえ、喜ぶのはまだ早いですよ。フィッシャーくんが頭のいい子なのはわかっていますが、それでも猿も木から落ちるというか、万一ということがありますからな」

 口ではそう言いながらも、校長自身もまた十中八九試験はパスするであろうと思っているのが、その態度というか、わざともったいぶった雰囲気から窺い知れた。その後、試験は明日の十時から行うことや、五教科合わせてたっぷり五時間以上もかかること、ゆえにお弁当を持たせてくださいといったことを告げられてから、ソフィは校長の応接室を辞去していたのである。

 ノースルイス第一区初等学校からの帰り道、ソフィは運転手が運転するリムジンの後部席で、ほっと満足の吐息をついていた。マクレガー先生の出した課題を、ソフィも少しばかり見たことがあったが、そこには几帳面な字で長い数式などが書き込まれていたため、おそらく試験のほうは問題ないだろうという気がしていた。

 もとより、ソフィ自身はアンディが官公立学校へ戻ることには、普通の親ほど熱心な思いを持っていなかったといえる。というのも、ソフィ自身が高校で学校生活から弾き出されていたため、その時の自分と同じように、毎日青い顔をして胃の具合を悪くしながら学校へなぞ行くよりも――今はアンディにとって<溜め>の時期なのだと考え、個人の可能性を最大限に伸ばし、それをやがてはどこかで花開かせることが出来ればいいと思っていたせいである。

(人生にはまったくまあ、無駄ということがないものねえ。高校の時に挫折した経験が、まさか子育てに役立つ時が来るなんて、思ってもみなかったわ)

 黒い鏡のような仕切りがあるため、運転手のライナスの姿は、こちらからは見えない。だが彼は、ソフィがどこへ行くのかを知らされると、善良そうな瞳を実に輝かせていたものだった。

「奥さん……奥さんはまったくまあ、良い方ですね!」

 他に言葉が見つからないといったようにそう言われ、ソフィはなんだかおかしくてたまらなかった。屋敷の従業員たちは、そのほぼ全員が、新しくやって来る継母はあの賢いお坊ちゃまに害を与えこそすれ、良い影響を及ぼすことはないであろう――何かそんなふうに決めつけていたらしいのである。

 そしてソフィはこうした形で、ある意味屋敷の従業員の心をも、徐々に掴んでいったといえる。アンディが進級試験を受けるという日、ソフィは早起きして自分の手製の弁当を息子に持たせたし、試験に無事合格したとなると、その翌週の月曜の朝には、手作りの魔法のグミキャンディをアンディに持たせてやっていた。

「おばさん、これ何?」

 朝から口数が少なく、緊張気味のアンディを元気づけるため、ソフィはハート型の缶の中から、薄い包み紙にくるまれたグミキャンディを義理の息子に渡していた。

「元気のでる魔法のキャンディよ。このうっすらピンク色をしたのが、恐怖心を克服するキャンディでね、こっちの薄紫のが緊張を緩和する効果のあるキャンディなの。学校へ行く途中に一粒ずつ、良かったら食べていきなさい」

「うん……僕、そうしてみる」

 アンディが学校へ向かう途中、ピンク色のキャンディを口に含んでみると、それはどことなく薔薇の香りの味がした。また、薄紫のほうはラベンダーの味のような気がしたものの、アンディに確証はなかった。というのも彼は、ラベンダーの花を食べたことはなかったから。

 魔法のキャンディのお陰かどうかはわからないにしても、この日を境にアンディの学校生活は概ねうまくいようになっていった。実際には、校長のウィルシャーが第五学年の学年教師たちと話をし、彼のような子はどこのクラスに入るのが適当か、よくよく検討がなされたから……という裏の事情があったというのが事実であるにしても。

 こうしてアンディは、初等学校の最後の二年をうまくやりおおせたのだが、それでもヴァ二フェル町の子供たちほど、心の通う友達は出来なかった。そしてこの二年の間も、学校で何かの発表の機会があったりした折には、「おばさん、あれちょうだい」と言って、アンディはソフィに魔法のキャンディをねだったものだった。

 魔法のグミキャンディには、他にもいくつか種類があり、「勇気のでるキャンディ」は薄い黄色をしていたし、ネガティブな気分の時に効果のあるキャンディは薄い水色をしていた。怒りを収めたい時には薄茶のキャンディ、不安を和らがせたい時には白いキャンディといったように、ソフィはその時の彼の気分を聞いて、それらのキャンディを適宜<処方>したものだった。

「ねえおばさん、これってどうやって作るの?」

 アンディは時々とても不思議そうに、そのキャンディを陽の光に透かしながら聞いたものだった。実際は、果汁ジュースにゼラチンや水飴を加えたものを、貝やイルカといった型に流しこんで作るだけなのだが――ソフィは<魔法の効力>を守るため、そのレシピを絶対に明かしたりはしなかった。一応、不安や緊張などに効力のあるものとして、花のエキスを薄めたものを一滴入れてあるものの、他に不思議なところは何ひとつとしてないのだった。

 けれどアンディはいつも、「おばさんのあれ、すごく効いたよ」などと、何か大切な秘密でも囁くように、ソフィに耳打ちして教えてくれるのである。たとえば学芸会のあった日であるとか、グループ研究の発表をしなくてはいけない日であるとか……ソフィはそのたびにアンディの鳶色の髪を撫で、「それは良かったわね、坊や」と言って、義理の息子にキスをするのを習慣にしていた。

 そしてこの二年の間、ソフィとアンディは夏休みだけでなく、他に休暇のあった折にもヴァ二フェル町の海辺の家へと出かけていった。ふたりとも、電車にはもう懲りていたので、二度目からは常にソフィがランドクルーザーを運転して行った。また、そうした休みの期間中だけでなく、アンディは町の子供たちと頻繁に手紙のやり取りをしており、アンディは自分が不在の間も、ヴァ二フェル町で何が起きたのかを大体のところ把握していたといえる。



 >>続く。




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