聖女マリー・ルイスの肖像。

「ぼくの大好きなソフィおばさん」が完結しましたので、ブログ名が変わりました(笑)。

ぼくの大好きなソフィおばさん。-【3】-

2017-06-19 20:41:46 | ぼくの大好きなソフィおばさん。


 この小説に関してはわたし、そんなにここの前文で書くことなかったりして……そこでどうしようかなって思ったんですけど、この小説書いてる頃に読んでた小説のことでも少し書いてみようかな、なんて(^^;)

 いえ、お話のあとから寄宿学校のことなんかが出てくるので、少しパブリックスクールのことを知りたいと思ったものの――なかなかその種のことについて書いてある本などがわかりませんで。。。

 そして池田潔先生のこの御本も、情報としてはかなり古いということになるかもしれません。

 本の後ろのほう見てみますと、第1刷発行が1949年とありますし、池田潔先生のお生まれになったのが1903年ということで、池田先生がイギリスのパブリックスクールに通っておられたのは大体この頃……といったように推察していただければと思いますm(_ _)m

 本の内容のほうはとても面白く、その中でも特にわたしが心惹かれたエピソードについて、今回は引用させていただきたいと思いました♪(^^)


 >>数多いリースの教師の中に、校長と共にどうしても忘れられない人が一人いる。船から上ってそのまま入学してきた西も東もわきまえない日本の中学生を背負い込んで、校長は何とか三年の中に大学を通るだけの力を叩き込む責任をその人に託した。色の白い唇の赤い濃茶の髪を撫で分け、どこかナポレオンの肖像に似た顔をしたLという英文学の教師だった。

 規定の学課には全部出ること、午後の運動には必ず参加すること、自修時間と夕方の自由時間はL先生の特別授業を受けること、そして夜八時の点呼が終ったらL先生の自宅で特別授業を続けること、そんな日課が決って、その日からL先生との勉強が始まった。

 この国の三月といえば、まだ真冬だった。一日の課業が終り他の学生が寝室にゆくとき、外套の襟をたて空腹に震えながら、木枯しの吹く中を自転車で二十分はかかる郊外のお宅を訪ねる。

 LとRの区別、それにW音の矯正、湯殿から鏡を持ち出したり電燈の下に口を開かせてその太い指を突っ込んで舌を捻じ曲げたり、WOLF、WOLFと何十回か繰り返させ、気に入らないと椅子から立ち上がって、そんな狼、何が恐いものかと、それは怒号に近かった。

<よく新聞に広告の出ている『涙なしに語学の上達する方法』とか、『安楽椅子にもたれて覚えられる外国語の教授』そんなものが世の中にあると思ったら、とんでもない心得違いだぞ。語学なんてそんな生易しいものじゃないんだ。真っ赤な火の中に突っ込んで鉄床の上にのせて、こいつを鉄槌でガンガン叩くんだ。ガンガン叩く。火花が散る。ジューッと水につける。また叩く。叩いて叩いてまた叩くんだ。二、三年で忘れてしまうつもりなら外に方法もあるかもしれない。しかしほんとうにその語学を身につけるんだったら、地獄の火を通して叩かなければ駄目なんだ。>

 そして、また、初めからLとR、狼、狼、狼だった。これが十一時半まで続く。夫人が茶をもって入って来る。どうだ、辛かったろう。健康はどうだ、家から便りがあるか。友達は出来たか。そしていつの間にか、教室のあの物静かな先生に戻っている。

<昔、私の習ったフランス語の教師が、丁度この通りだったんだ。怒鳴る。喚く。口を開ける。舌を引っ張る。初めは狂人かと思ったが次には悪魔だと思った。今度指を突っ込んだら指を噛み切ってやろう。何遍それを考えたか判らない。君だってそう考えているさ。しかしフランスに戦争で出かけてみて、初めてその悪魔のほんとうの親切が判ったんだ。誰が面白がってそんな狂人じみた真似をするもんかって。さ、遅い、急いでお帰り。>

 戸口に立って棚から林檎を手にとると、『一日一個の林檎は医者を追払う』、必ずあれを独言いいながら、上衣でゴシゴシ擦ってよく艶を出してからこっちに投げてくれる。受け取る。お休み、途中気をつけろ、狼が出るぞ、狼、狼、そして戸がバターンと閉まる。

(『自由と規律――イギリスの学校生活――』池田潔さん著、岩波新書より)


 ……この素敵なお話の続きは、また次回の前文のほうで、と思います♪(^^)

 それではまた~!!



     ぼくの大好きなソフィおばさん。-【3】-

 翌週の月曜日にシンディと顔を合わせると、いの一番にウィリアム=レッドメインのことを聞かれた。彼の正体については他のウェイトレスたちも興味津々だったようで、その名前を告げた途端、ボ二ー・キャメロンなどは黄色い声を張り上げていた。

「レッドメイン製薬の御曹司じゃないですか!もちろん、即交際オッケーですよね!?あーっ、羨ましい。こんなところでお客からチップをせしめなくても十分楽に暮らしていけるだなんてっ!!」

「こんなところで悪かったな」

 その日、ジョンは珍しく不機嫌だった。数名のウェイトレスに囲まれてソフィがためらいがちにウィリアムのことを話す間、腕を組んだままどこかむっつりしている。

「でも、まだべつに……おつきあいするって決まったわけじゃないし。向こうも二三回デートしたあとで、こう思うかもね。『なんか、最初に思ってた人とは違うみたいだ』って」

 時刻は午後七時のことだったが、月曜日だったせいかどうか、客の数はまばらだった。そこでちょっとした時間の隙間を見つけて従業員同士、そんな話をしていたのだが――次に正面玄関の鈴が鳴り、どやどやと柄の悪そうな男が六名ほど入ってくると(彼らは全員何故か革のジャケットを着ていた)、四名のウェイトレスはそれぞれの持ち場へと散っていく。

 オーダーが入り、その日厨房担当だったソフィは、早速ぺペロンチーノやボロネーゼ、カルボナーラといったパスタ類を作っていったのだが――ピザをオーブンの中に突っ込んだあと、ジョンが珍しく仕事以外のプライヴェートなことに口を挟んだ。

「君らしくもないな。あんな男とつきあおうと思うだなんてさ」

 鍋のソースの温まる音や、ソフィ自身が動かすフライパンの音などで、最初ソフィはジョンがなんのことを言っているのかわからなかった。そこでパスタを炒める最中ずっと黙ったままでいたのだが、ジョンが先に気を利かせ、用意してくれた皿へ盛り付けようとすると、彼はまた同じことを言ったのだった。

 パスタやピザといったオーダーされた物を小窓から出すと、ソフィは腕組みしたままのジョンと向き合い、話の続きをすることになる。

「あんな男って……ジョンだって<君のプリンス・チャーミング>とか言って、笑ってたじゃない」

「まあね。でもそれはある種の皮肉だよ。白雪姫にキスできない、気の毒なプリンス・チャーミングっていう、そういう意味さ」

「ウィリアムが実は死体愛好家だとでも言いたいわけ?」

「違うよ」

 いつもなら、ソフィがフライパンやら何やらを洗って片付けるのだが、この日ジョンは洗い物を自分で片していきながら言った。

「彼はまったくもって君の好みじゃないし、彼がもしジェイのところに勤める整備工のひとりか何かだったら、君はつきあおうともしなかったんじゃないか?でも彼が金持ちだからちょっとつきあってみよう……そういうことなのかと思ってね」

「まあ、そりゃ多少はそういう面もあるけど」

 ジョンの鋭さにドキっとしながら、ソフィも彼の隣で調理道具を片付けはじめる。

「ふうん。君はそういう子じゃないと思ってたのに、残念だな」

 ジョンのこの物言いには、流石にソフィもムッとした。それでその日は仕事が終わるまでの間――ジョンとは仕事以外のことではほとんど口も聞かず、黙々と調理仕事だけをこなすということになる。

 十時がオーダーストップの時刻なので、閉店となる十一時まで、店内は差し障りのないところから順に片付けや掃除をしていくことになるのだが、最後の客が十一時少し前にいなくなると、ソフィとシンディは椅子をテーブルの上にあげ、モップで床掃除をはじめた。

 これは正社員の仕事なので、他のアルバイトのウェイトレスは十一時になると同時にさっさと帰ってしまう。このことについては、オリビアがいた頃から三人で愚痴をよくこぼしたものだった。こちとら八時間労働で疲れきってるんだから、最後の掃除の仕事なぞバイトの子たちにさせればいいと、シンディはジョンに食ってかかったこともあるらしい。

「悪いけど、これは僕の主義として曲げられないことなんだ」とジョンはにべもなく返して寄こしたという。「<ああ、今日も一日無事終わったな。ありがとう>とか思いながらさ、店の可愛い床を磨いてやってくれよ。テーブルとか戸棚の上の物なんかは、朝に早番担当のウェイトレスが拭けばいい。でも朝番担当の子はひとりだから、床のモップがけまではとても開店前までに終わらせられないからね。まあ、そんなわけでよろしく頼むよ」

「まったくもう、わかってないんだから、ジョンは!!」

 シンディはその日もガシガシモップをバケツの中のロールでしごきつつ、疲れきった顔で言ったものだった。

「ようするに、あたしたちにしてみたら、気持ちの問題なのよね。バイトの子たちっていうのは夕方の五時とか六時にひとりふたりとやって来るわけじゃない?でもあたしたちが遅番担当の時には、四時にはもうここに来てるんだもの。そこから十一時まで忙しい時だったらノンストップで調理したりなんだり大忙しよ。けど、ウェイトレスの子たちなんてどんなに客がこんでようとあたしたちよりは遥かに楽じゃないの。ただ注文聞いて、こっちが作ったものを運ぶだけなんだから。それなのに最後の掃除の仕事まであたしたちにしろってのは酷よ。あたし、厨房のものとか台所のものを片付けるのは正社員の仕事で当然だと思うの。でも一度でいいから言ってやりたいわけ。バイトの子たちが疲れきった顔でモップかけてる横を通りすぎ際、「それじゃお先に~」って明るい顔でね。アナべラがいた時なんて、あの子なんて言ったと思う!?「それじゃおばさんたち、頑張って」なんて言ったのよ、あの子。まったく、腹立たしいったら!!」

「まあ、実際ほんとにそうよね」

 ジョンがあれほど不機嫌な様子でいるのを見たことがなかったため――ウィリアムのことがそんなに気に障ったのだろうかと、ソフィは気になっていた。というのも、ジョンは基本的に平等かつ公正な目で人を見るため、ソフィは自分が卑しい動機で彼とつきあおうとしているのだろうかと、あらためて考えさせられていた。

「ちょっと、ソフィ!!それ、あたしが正真正銘のおばさんだから、能なしのウェイトレスどもにそう言われても仕方ないってこと!?」

「ううん、違うわよ」と、ソフィはハッとして、床を磨く手を止め、シンディのほうを振り返る。「わたしにも当然、シンディの言いたいことはわかるわ。今日なんて、わたしとシンディとふたりいるからいいけど、わたしたちのうちどっちかひとりが遅番担当ってこともよくあるじゃない。そういう時にひとりでモップがけしてると、凄く虚しい感じ。バイトの子たちなんて、四五時間しか働いてなくて若いから、体力なんてありあまってるって顔して笑いながら帰ってくのよね。逆にあたしたちはといえば、厨房の掃除と台所の片付けなんかもあって、最後にこのモップがけがないだけでもかなり違うんだけど……って、ジョンにはどうしてそこのとこがわかんないのかしらっていう、これはそういう話」

「そうそう。でもほんと、あたしあんたがいてくれて助かってるんだ、ソフィ。オリビアやマグダがいた頃も楽しかったけど、もしあんたがなんとなく気の合わない奴でさ、こっちの話にものってこないような奴だったらと思っただけで、ここの仕事は実際辞めたくなるもの」

 掃除がすっかり済み、モップを洗ってバケツと一緒に片付けると、ソフィはシンディと一緒にレジ上げをした。ランチタイムが終わった頃までの分は、一度ジョンが休憩する時に二階の事務室へ持っていくので、今日の喫茶店の売り上げ全部というわけではない。

「時々こうやってお金数えてるとき、『こんだけ頑張って、このくらいか~』なんて思うことない?」

「うん、たまに」と、ソフィはシンディが数えた紙幣を伝票に書き入れながら笑った。「それなりに込んだ日はいいんだけど、たまにどうしちゃったんだろうっていうくらい、お客さんが来ないこともあるでしょ。そういう時、もしこんな状態がずっと続いたら<ル・アルビ>は商売上がったりだわとか思っちゃう」

「そうなのよねえ。バイトの子たちは暢気なもんだけど、あたしたちはやっぱりさ、ジョンから信頼してもらってお金数えたりもしてるから、店に対する思い入れっていうのが違うのよね。マスターのジョンの人柄が好きだとか、もちろんそういうのもあるんだけどさ」

 紙幣をゴムで束ね、小銭類を金種別に封筒に入れて片付けると、ソフィはシンディと一緒に二階の事務室へ上がっていった。そこでは見るからに「くたびれた中年のおっさん」といった趣きのジョンが煙草を吸っているところだった。

「ジョン、これ、今日の売上の分」

「ああ、ありがとう。そんでもって今日も一日ご苦労さん」

 シンディは金庫にお金をしまい、売上伝票などを最後にジョンに手渡すと、冷蔵庫のアイスコーヒーを入れ、それを一杯飲んでから帰ろうとした。

「今日は、僕がソフィのことを送ってくよ。さっき厨房でちょっと喧嘩しちゃってね。だから、少し話し合おうかと思って」

「そう。でもジョンがソフィと喧嘩なんて変ね。あたしがいくら怒っても、ジョンって全然相手にもしない感じだから、怒鳴り甲斐なくてつまんないんだけど」

 シンディが「じゃあまた明日ね、ソフィ」と言って帰ってしまうと、ソフィはなんとなく気詰まりな感じがした。これまでソフィは、疲れきって口の重くなっているジョンを見たことはあっても、彼が不機嫌だったり怒ったりしたところを見たことがない。明らかにおかしな難癖をつけてきた客が帰ったあとでさえそうだった。それなのに今……長いつきあいもあってか、彼が<本気で怒っている>ということが、ソフィにはよくわかっていた。

「わたし、考えたんですけど……結局、わたしが誰とつきあおうとジョンには関係ないと思うんです。そういうのは仕事以外のプライヴェートなことで、もし仮にわたしがウィリアムとお金持ちだからっていう理由で、全然好みでもないのにつきあったとしても、別にいいじゃないですか。だからこの話はもうこれで終わりっていうことでいいですよね?」

「まあね。一応、理論上はそうなるんだろうね」

 ジョンは不承不承といったように頷き、疲れたような溜息を着いた。ぎゅっと灰皿に煙草を押しつけ、過剰なくらい何度も潰す。

「でも、君には仕事にまったく影響が出ないだなんて、本当に言い切れるかい?将来はお金持ちの彼と結婚するんだから、こんな喫茶店の仕事なんて真面目にするだけ馬鹿らしい……というより、いつ頃辞めようかしらとか、そういう感じなのかと思ってさ」

「やだ、ジョン。べつにわたしとあの人はまだつきあうって決めたわけでもないんですよ?とりあえず食事に行ったりして、お互いのことを知りあって、でもなんか違うみたいだって向こうかわたしが思えばそれで終わりなんです」

「だからさ」と、ジョンは口に出して言いたくもないことを言わねばならぬため、ソファから体を起こすと、目の前のソフィと向き合った。ソフィのほうは背もたれのない椅子に座り、シンディの入れてくれたアイスコーヒーを飲んでいる。

「だから今が一番大切なんじゃないか。あの男が君のことをすっかり気に入って、灰かぶり娘にガラスの靴を履かせようなんて考えだす前に――シンデレラはシンデレラで、別に相手が王子さまじゃなくても、しがない喫茶店の店主みたいなもんでもいいって言うんなら……僕にもまだチャンスはある」

 ソフィは思わずこの時、ごくりと大きな音をさせてコーヒーを飲みこんでいた。

「君を愛してるんだ、ソフィ」

「…………………」

 ソフィは答える言葉もなく、ただ黙った状態のままでいた。『君が好きなんだ、ソフィ』というのならまだわかる。けれど『愛している』というのは、何かの間違いかジョンの気のせい、あるいは気まぐれとしか思えなかった。

「君は鈍いから、たぶん全然気づかなかったろうけど、本当はね、仕事帰りに毎日でも僕が君を送っていきたいくらいなんだよ。けどそれじゃあ、あんまりあからさまだし、だから半分はシンディ、残り半分は僕ってことにしたんだ。でも、これからは時々あのジェイ言うところの<気障っちいダブル野郎>が横からしゃしゃり出てきて、君を送っていくだなんて耐えられない。僕の側としては、これはそういう話なんだ」 

(そんなの変だ)と、ソフィは思った。何故といって、たった今ジョンは毎日でもソフィを送っていきたいと言ったが、彼は時々いかにも<面倒な労働>といった顔をして、自分を車に乗せてきたのだ。だからそのお礼として、誕生日やクリスマス、あるいはバレンタインといった日には、ソフィは感謝の気持ちも込めて多少の色をつけた。けれどそれはそういう意味ではないと、ジョンにも絶対わかっているはずなのに。

「びっくりしたかい?でも、しょうがないんだ。僕はさ、君と二十も歳の離れたおっさんだし、君がもし前にカウンターに来てたような同世代の子と年相応に青春を謳歌するっていうんならいいんだよ。けど、あのダブル野郎は全然君の好みじゃないし、こう言っちゃなんだけど、ちょっとストーカーっぽい匂いのする奴だ。でもそんな奴とでも君は『金持ちだから』っていう理由だけでつきあうつもりだって言う。まあ、確かに僕とつきあったところで君に得なところは何もないとは思うよ、ソフィ。だからずっと黙ってたんだ。実際には――君が毎日ここに来て働いてくれるってことが、どのくらい僕の支えになってるか、君にはわからないくらいだとしてもね」

「そんな……ジョン……いつから……」

 ソフィは途切れ途切れにようやくそれだけ言った。そして何も言わなければ良かったとすぐ後悔した。

「君がうちで正社員になりたいって言って、割と真面目に働いてくれた頃からかな。最初はね、まあすぐ根を上げるかなって思った。けど、君は前の日が遅番で、次の日が早番でも、適当に手抜きして掃除したりとか、そういうところのない子だった。大抵の子は、僕が厨房にこもりきりなんで、ちょっとくらいさぼってもわかんないだろうと思って、注意されるまではそんなに気を入れて掃除しないから……で、君のその掃除の仕方っていうのが、いかにもひとつひとつの物を大切にするって感じで、僕はそういうところがいいなと思ったわけ」

「だって、ジノリの茶器とか飾ってあるんですよ?あれをもし床に落として割ったら、弁償しなくちゃいけないし……」

 ソフィは恥かしさのあまりそう弁解したが、ジョンが何を言いたいかはわかっていた。つまり、ソフィはそうした茶器類やアンティークな飾り物などを一種の芸術品として見ていたということだった。だから大切に扱う必要があると、そう思っていたのだ。

「まあ、なんにしても君は続いた。で、これからも居続けてくれるかなって思った。もちろんいつか今日みたいな日が来るだろうとは、僕にもわかってはいたけどね。けど、相手がさ、心から愛してるとかなんとかいうんじゃなくて、好みじゃないけど単にお金を持ってるからっていうのは、あんまりなんじゃないか?」

(そういうことだったのか)と気づき、ソフィは突然体の芯から熱くなった。恥ずかしさのあまり、ジョンのことを正面から見ることさえ出来ない。

「君は嫌かもしれないけど、送ってくよ。本当はこんなふうに仕事とプライヴェートをごっちゃにすべきじゃないと思ったけど、年甲斐もなくね、あんまり腹が立ったもんだから……言わずにはいられなかったんだ」

 確かにジョンは勝手だと、家に戻ってから、ソフィは突然怒りがこみあげてきた。車の中でもソフィは、今までどおり軽口を叩けず、不自然な会話しか出来なかった。けれどそういう中でもジョンのことを<大人>だと感じた。もしソフィのほうに同じくらいの恋愛経験値がありさえすれば――いつもどおりの何気ない調子で話が出来たに違いない。少なくとも、その振りくらいは出来たに違いないのに。

「こんなことが原因で、店を辞めるなんて言わないでくれよ」

 助手席から降りる時にそう言われ、ソフィは胸が痛んだ。何故なのだろう、ジョンがどことなく心細い少年のような顔をしていると、そんなふうに感じたせいかもしれない。


   *   *   *   *   *   *   * 


 ――ジョンから「愛している」と言われた三か月後、ソフィは結局<ル・アルビ>を辞めることになった。その頃ソフィはウィリアム=レッドメインから求婚され、ある事情から他の職場へ移ることを余儀なくされていたからである。

 ソフィはジョンには、ウィリアムとの間にどういったことがあったか、包み隠さずすべて話していた。彼からゴルフを教わったり、オペラのコンサートに行ったりする間、いかに退屈を噛み殺さねばならないか、また社交の場でいかに気を遣い、馬鹿のように微笑みを浮かべていなければならないかといったことを……。

「それでも、君は彼を選んだわけだ。愛してもいないのに、金のために結婚するというわけなんだね?」

 仕事が終わり、店の売上金を持っていったあと、二階の事務室でコーヒーを飲みながらソフィはジョンと話した。ジョンには彼の気持ちに応えられないということを、自分があんまり子供で、そういうことを考えながらでは一緒に仕事は出来ないということを、随分前に伝えてあった。

 そしてソフィは、ウィリアムとの交際もはっきり断ろうとしたのである。ところが彼は、理屈で納得できないことは承服しかねる性格らしく、三か月でいいから自分とつきあってみて欲しい、それで受け容れられないなら諦めるからと、そう条件を出してきていた。

 退屈な人間が自分を本当の意味で<退屈>と自覚していることは少ないものだが、ウィリアムはその点、「自分が退屈な人間である」ということを確かに熟知していた。ソフィがウィリアム=レッドメインという人間に惹かれたとすれば、おそらく唯一その点であったろう。それ以外の内面的でない外面的なこととしては、彼が金持ちであるということがまず第一に挙げられたに違いない。また、何故ソフィがジョンではなくウィリアムを選んだかといえば――まず第一には、「本当の大人の恋愛が恐ろしかったから」ということかもしれない。ソフィはジョンのことが好きだったし、<ル・アルビ>という喫茶店のことも愛していた。けれど、先のことは見えきっていると思った。ジョンはおそらく、二十歳も年下の娘のことを、最初の二年か三年くらいは最低でも大切にしてくれるに違いない。また、彼の母親のジュディにも何故かソフィは好かれており、実際のところ結構うまくやっていけるような気がした。それでもソフィがジョンではなくウィリアムを何故選んだかといえば、ウィリアム自身は退屈な男でも、彼との結婚には未知数のよくわからない点が多かったからである。

 ジョンはおそらく、仮に結婚したとしても、結婚した二年後くらいにはソフィが自分や<ル・アルビ>に与える愛情を「当たり前のこと」と思いはじめるだろう。そして仕事でくたびれきって二階へ上がってきたあとは、人の話を聞いているのかいないのかといった態度を示しはじめる気がした。もちろんジョンが、結婚後十年してもソフィのことを大切にし、お姫様のように扱ってくれるという可能性もないではない。そして厄介な性格のジュディばあやも、老後の面倒など一切かけることなく、ある日のこと、ベッドで冷たくなっているかもしれない。

 けれどソフィは――愛していないウィリアムと結婚したほうが、ジョンと結ばれるよりも<安全>だと感じた。ジョンと恋愛するということになれば、一時は確かにふたりで地球も滅ぼせるというくらい、愛しあうことが出来るとわかっている。けれど、そんな愛が冷めたあとの、荒涼とした大地といったものにソフィはぞっとした。やがてジョンのちょっとした癖さえイライラの原因となり、欲求不満とヒステリーの塊になりながら、一階の小さな喫茶店と二階にいる体の不自由な老婆の間を行ったり来たりする……それは若いソフィには、とても耐えられそうにないことだった。

 対するウィリアム=レッドメインはといえば、それこそソフィのことを会うたびにお姫様のように扱ってくれるのだ。デートのたびに「ちょっとしたサプライズ」として、ブランド物の時計や宝石類をくれたり、また誕生日には高級車をプレゼントしてくれたこともあった。しかも彼はそのたびに「僕にはこんなことしか出来ない」などと、ソフィの良心が痛むようなことを口にするのだった。あるいは、「君みたいな子が僕のようなのとつきあってくれるんだからね、このくらいのことは当然だよ」と言ったこともあった。

 もしかしてウィリーは(ソフィはウィリアムをそう呼んでいた)、上層階級の若いご婦人にこっぴどく恥をかかされ、振られた過去でもあるのだろうか?そこで今度は下層階級の娘に目が行くようになったのかもしれない……ソフィは時々そんなふうに思うことがあったが、ウィリーには彼の過去について求められない限りは詳しく聞こうとしなかった。

 なんにしても彼は、ソフィが「こんな自分のどこが良かったのか」と聞いた時、「あなたは他のウェイトレスとは存在がまったく別個だと思った」と答えていた。物の聞き方や言い方が上品で思いやりがあり、接客を通してさり気なくこちらを気遣ってくれるなど、とにかく<何かが特別>だったとウィリアムは言った。

「簡単に言えば、一目惚れってこと?」

「そうだね。僕にとってはちょっと違うけど、まあそういうことでも構わない」

 ウィリアムはソフィが想像していたとおり、週に二回は専用のジムに通って体を作っており、セックスの時彼はよく電気をつけたがった。ソフィは最初とても嫌がったが、彼が何度も頼みこむので仕方なしに承諾すると、暗闇の中でもランプシェードのそばでも、彼のすることには大して違いがないとソフィはすぐ気づいた。

 彼はセックスの間、自分の引き締まった筋肉美を恋人に褒め称えて欲しいという、ただそれだけだったのだから。


   *   *   *   *   *   *   * 


 ところが、ソフィは結局このウィリアム=レッドメインとも、一年と経たず破局を迎えることになる。

 原因は彼の母親だった。ウィリアムの母親のアリッサ=レッドメインは、最初態度にこそ出さなかったが、ウィリーがソフィと結婚したいと聞くと、あからさまにソフィのことを嫌うようになった。ようするに、最初は何かの物珍しさから<遊び>で息子が下層階級の娘とつきあい始めたと思ったらしい。

 アリッサはソフィ=デイヴィスとその家族とのことを徹底的に調べあげ、母親が病院で清掃婦をしていることや、知的障害を持つ姉のいること、また父親がレッドメイン製薬の工場で働いていることなどを突き止めた。そしてそうしたソフィの経歴といったものを見るにつけ(お話にもならない)と思い憤慨した。

 とはいえ、夫を助ける良妻賢母、また<慈善夫人>としてか弱き立場の人々を多く援助してきたアリッサである。息子の婚約相手がブロンドで胸が少し大きいという以外、これといってまったく取り柄がないというそれだけの理由で……可愛い息子に「あの娘は大学も出てないし、ピアノも弾けないからまるで資格なしですよ」などと、横暴なことは言えない。

 そこでアリッサは奸計を巡らせた。ひとつ目は、適当な男をあてがって不貞の事実をつかみ、その証拠をウィリアムに見せることだ。そしてふたつ目は、ソフィに無理難題を押しつけ、そこから決定的な落ち度を掴み、ウィリアムにソフィを幻滅させることだった。さらに三つ目――ここがこの計画全体のもっとも肝要なところだが、このふたつの計画と平行して、ウィリアムには相応しい女性に<それとなく>巡り会ってもらわなければならない。

 レッドメイン夫人はとても用心深い、慎重な性質の女性だったから、いつも通り(念には念を入れなければ)と考えつつ、この三つの計画を同時に始動させることにしたのである。

 まずは女をたらしこむのを職業にしているような男に金を積み、重々口を封じた上でソフィ=デイヴィスと寝たことがわかる写真、あるいは映像を撮るよう指示し、次にはソフィ本人を自分の部屋に呼んでこう言った。

「息子から、内々に婚約したということは聞いています。けどね、ソフィさん。こういうことはウィリアムに知られるとまずいんですけど……あなたのご経歴では、わたくしたちの家名に傷がつきますの」

 途端、ソフィの頬に朱が差した。そしてこの時ソフィは思った――どうりで話がうまくいきすぎると思ったと、何かそんなふうに。

「誤解なさらないでね、わたくし、何もあなたに息子と別れて欲しいなんて言ってるわけじゃないのよ。といより、小さな頃からさぞお大変なことだったでしょうね、重度の知的障害を持つお姉さまがいて、お母さまは彼女にかかきりきりだったのでしょうし……お父さまのことは、奥さまと一緒に本社のもっと責任ある仕事をお任せすることにしたらどうかしらって、夫のアルフレッドとも、今朝方話したばかりですのよ」

「あの、いいんです。父のことは別に……母と別れてから、パートナーの方とも十分うまくいってるみたいですから。それに、わたしと姉が成人して以降、養育費のほうはすでにお給料から天引きされてないはずですし、それと同時に母が慰謝料のほうももうどうでもいいなんて言って……父にとっては栄転になったりするより、今の境遇のほうがもしかしたらいいかもしれないんですよ。工場内には馴染みの友人などがたくさんいるものですから」

 アルマは元夫のダニエルが、最初の一二年くらいは養育費などを支払って、以降は経済的困窮を理由に一ドルも支払わなくなるかもしれない――そう弁護士に話をし、給料から毎月自動的に天引きがされるよう求めたのである。

「そうなの。じゃあわたくしも肝心なお話をさせていただきますけどね、ソフィさん。あなたと息子のウィリアムが結ばれるためには、それに相応しいシンデレラ・ストーリーが必要になると思いますの。息子がたまたまよく通っていた喫茶店にあなたがいて、そこで見初めたというのでも悪くはないんです……ただね、やはりあなたのお生まれのことなども考え合わせますとね、わたくしとしてはもう少し別の、マスコミ受けのするシンデレラ・ストーリーのほうがいいと思うってことなの」

「はあ……」

 アリッサがウィリアムとの結婚に反対でないと聞きほっとしたものの、彼女の言わんとすることがまったくもってソフィには掴めなかった。

「つまりね、これからソフィさんには我がレッドメイン財閥の福祉施設のどこかにお勤めいただいて――患者さんの介護をしているあなたを見てウィリアムが見初めたと、まあこういうことにして欲しいんですの」

(それは流石にやりすぎなんじゃないかしら)というのがソフィの直感ではあったが、とりあえずその場を丸く治めるために、アリッサの意見に同調しておくことにした。

「ちょうどうちにひとつ、あなたがお勤めするのにいい施設がありますわ。リハビリを主体にした医療センターでね、あなたはちょっとしたお手伝いをしてくださるだけでいいの。向こうにもそう言っておきますからね。で、そちらのほうにウィリアムが時々出入りしていて、患者さんを励ますあなたに感動したといった筋書きはどうかしら?」

 ソフィは思わず反射的に笑いたくなったが、アリッサがあんまり真剣な顔をしているので、反対することは出来なかった。<どこか神経質な美人>というのが、ソフィのアリッサに対する第一印象だったからである。

「その……ウィリーはなんて言うかしら?あの人はそういう作為的なことがあまり好きじゃないと思うんですけど」

「そうね。その通りよ」と、アリッサはいいことを聞いてくれたとばかり、何度もうなずいている。「ですからね、ソフィさん、ウィリアムにはこう言っておきましょう。障害のあるお姉さんがいることもあって、あなたは福祉事業に昔から興味があった、そこでどこかそういう施設で働きたいというので、わたしがそのリハビリセンターを紹介した……というのではどうかしら?」

「そうですねえ……」

 これはどうやらもう逃げられない選択らしいと悟り、ソフィはその場ですぐに決断した。もしジョンとの間にある種の気まずさがなかったら、ソフィはそう簡単にすぐリハビリセンターという場所で働こうなどとは思わなかったに違いない。

「わたしは実際は福祉なんていうことに、それほど興味があるってわけじゃないんですけど……というよりむしろ、姉の通ってる通所施設などを見てきて、そういうところとは関わり合いになりたくないとすら思ってきました。なんていうかその……姉を見ていてもわかるんですけど、そういうことって綺麗ごとだけじゃ済まされないところがあるものですから。母が姉に服のボタンを留めるのを覚えさせるってだけでも、本当に大変なことでした。それで、姉の通ってた学校なんかでも、先生が時々ヒステリーになりながら姉を叱ってるのを見ましたけど……他の生徒たちにも、やれ「貧乏ゆすりするんじゃりあません!」とか「鼻をほじるんじゃりあません!」とか、険しい表情でよく叱ってましたっけ。単に優しいとか慈愛に溢れてるとか、そんな綺麗ごとじゃ務まらないお仕事だなって、見ていてよく思いました。もちろん、リハビリセンターっていう場所は、そういうところとはまた別でしょうけれど……」

 ソフィの言いたいことはよくわかる、といったようにアリッサは何度も繰り返し頷き、(意外にこの子はわかってるわね)などと感心したりもした。(これでこの子がもう少し家柄のいい出であってくれさえすれば、わたしも文句はないんだけれど、そうした評判といったものは一生ついてまわるものだものね。可哀想だけど、これも運命と思って諦めてもらうしかないのよ)

「じゃあ、ウィリアムのほうにはわたくしから話しておきますわね。あなたが宅へお嫁入りする前に、うちのグループ内の施設で働いて福祉について勉強したいと言うから、わたくしがリハビリセンターを紹介したと、息子にはそう説明しますからね」

「はい。よろしくお願いします」

 一応、とりあえずの返事としてそう答えはしたものの――ノースルイスの高級住宅街にあるレッドメイン家の屋敷を出る時、ソフィはウィリアムにすべて話してしまおうかと迷っていた。アリッサにはそう言われて断れなかったものの、そういう作為的なことは嫌だし、そもそもリハビリセンターのような場所で働けるような自信もないといったことを。

 けれど、その日の夜にウィリアムに会うと、彼がすっかり感激した様子なのを見て、結局ソフィは自分の本心を飲みこまざるをえなかったのである。

「君は優しい人だとは思ってたけど、実は僕の想像した以上だったんだね。レッドメイン・リハビリセンターは時代の最先端を行く画期的なリハビリ施設なんだよ。脳梗塞で半身不随になった人や、交通事故なんかで脊髄を駄目にしてしまった患者が多いんだけど、機械の補助で駄目になった神経に繰り返し信号を送ることで、だんだん回復していくんだね。もちろん、こんなふうに口で簡単に言うより、実際はすごく大変なことだけどね、なんにしても結婚するまでの短い間だけでも、とても勉強になることだと思うよ」

 高級料理店で食事をしながらソフィは恋人とそんな話をしたのだったが、ナイフとフォークの扱いにいまだ慣れないため、彼女はますます頭が混乱するのを感じた。(ええと、一番外側から中に向かって順番に使っていけばいいっていうことだから……)などと考えながらの会話なので、こういう時ソフィは、実際にはウィリアムの話を半分聞いてないようなことも多い。

 なんにしてもソフィは結婚するまでの間、そのリハビリセンターへ半ば強制的に勤めに出ねばならない運命のようだった。とはいえ、今から結婚の準備をしてゴールに至るまでには最低一年はかかりそうであった。というのも、アリッサが<レッドメイン家に相応しい壮麗な式>というのを提案していたお陰で、準備に手間取りそうだったからである。

 そしてこの時ソフィは(一年間の我慢ね)と、心の中で重い溜息を着いていたのであるが――こうしたすべてがアリッサ・レッドメインの周到な計画によるものであること、また彼女の差し金によるものであることをソフィがはっきり知るのは、この三か月ほどのちのこととなる。


   *   *   *   *   *   *   * 


 アリッサがレッドメイン・リハビリセンターにソフィを紹介してから約一か月後、ソフィはその労働のキツさに根をあげそうになっていた。

 というのもアリッサは、ソフィと約束したようにはリハビリセンターの責任者に彼女のことを紹介せず、「なんの資格もない使い走りとして一番きつい部署に彼女をつけて欲しい」と厳しい口調で命じていたからである。ようするに、貧民街で育った娼婦スレスレのどうしようもない娘であり、知り合いからそんな彼女を矯正して欲しいと頼まれたのだ――といった話をセンター長にし、センター長が看護師長と話しあった結果、ソフィは朝から夕方まで汗だくになりながら、センターの浴場で働くということになったのだ。

 ようするに、首から下が不自由だったり、半身不随だったりする患者を助け、お風呂に入ってもらったり、体を洗ったり拭いたりするのだが、勤めはじめたのが夏場だったこともあり、体は脱水症状を起こす手前までいくしで、ソフィは勤めはじめて三日とせずにその仕事を放りだしたくなった。

 しかも、なんの経験も資格もない上、「あまり評判のよろしくない娘」という触れこみもあったことから、他の同僚職員たちのソフィの扱い方ときたら、まったく福祉の理念に反したものだとしか言えなかった。お昼休みや休憩時間をきっちり取れないだけではなく、下っ端として患者が浴場へ入る時の前準備、また仕事が終わったあとの浴場の清掃など、資格のない人間にあてがうにいい面倒な仕事はソフィがすべて担当することになっていた。

 その上、「準備が遅い!」だの「患者さんを待たせるんじゃない!」だの、ちょっとしたことで他の職員たちはストレス解消よろしくソフィのことをいじめ抜いた。掃除が終われば終わったで、「床にぬめりが少し残っている」とか「患者さんを滑らせて殺す気か」とまで言われ、ソフィは泣いたこともあった。

(でも、これもすべてウィリアムと結婚するため)――などとは、ソフィにはとても思えなかった。というより、そもそも本当の意味で彼のことなど愛してはいないのだから、明日からは無断欠勤を決めこみ、このままどこかへ消えてしまいたいとすら思った。

(そんなこと、もちろん出来はしないんだけれど)

 ソフィは浴場の清掃を終えると、自動販売機の並んだ休憩所でスポーツドリンクをごくごくと飲み干した。今は夕方の午後五時半である。そして明日も朝の八時半前には出勤し、ほとんど一日中半身不随の患者や脊髄を損傷した患者などを汗だくになって風呂介助しなくてはならない。

 ウィリアムは自分の恋人がラムゼイローなどという治安の悪い場所に住んでいるのが心配でならず、都心の外れのもっといい場所へデイヴィス一家を引っ越させていた。そこは築浅の高層マンションの上階で、前に住んでいたところなどお話にもならないほど素晴らしい住居だった。もちろん費用のほうはウィリアムが出しており、アルマはレッドメイン系列の病院で今、清掃の主任を任されているし、またダニエルに本社移動のことを一応話してみたところ「願ってもない話」と感激されてしまい……今ではソフィとウィリアムの結婚というのは、彼らふたりだけの問題以上のことに発展していた。

(でも、「わたしさえ我慢すればいい」だなんて、そんな綺麗ごとだけでここの仕事を続けられるものかしら)

 実際、ソフィは今の自分のこの苦境を誰にも相談できずに苦しんでいた。けれど、レッドメイン・リハビリセンターへやって来てから二週間ほどしたある日のこと――ソフィがすっかり疲れきって休憩所でぐったりしていると、車椅子の患者が通りかかってこんなことを言ってくれたのである。

「いつもお風呂に入れてくれるお姉さん。どうもありがとうね……他の職員さんは時々ちょっと乱暴なんだけど、あなたはそんなこともなくて、いつもあなたが担当になってくれるといいのになって思ってるのよ。この間、着替えてる最中に女性専用の浴室に男性の職員が突然入ってきたことがあるでしょう?ああいうの、すごく嫌なのよね。もちろんこんな八十にもなるババアの垂れた乳なんて向こうも見たくないでしょうけど、それでも突然ずかずか入って来られて裸を見られるなんて、嫌なものですよ」

「すみません。今度、カンファレンスの時にでも他の職員に言っておきたいと思います」

 もちろん、ソフィはなんの資格も持ってない下っ端のぺーぺーなので、そうした場における発言力はとても低い(というより、ただ黙って会議が終わるのを待つのがほとんどである)。けれど、患者さんがそういう話をしていたということは、やんわりと伝えられるはずだと思っていた。

 車椅子に乗った白髪頭の老女、マーガレット・アデールは、そのあとソフィと軽くたあいもないような世間話をしたのち――「大変な仕事と思うけど、頑張ってね」と最後に言い残し、去っていった。

 この時にふと、ソフィは仕事に対する考え方が変わったかもしれない。横の同僚の職員がなんだというのだろう。自分のしていることには確かに意味があり、心をこめてしたことについては相手の患者さんにもきちんと伝わっているのだ。その縦の部分を大切にして毎日仕事をしていくことが出来れば……もしかしたら今感じている仕事のつらさといったものは半減するかもしれなかった。

 そして実際ソフィは、そんなふうに患者たちから信頼を寄せられたり、感謝の言葉を述べてもらうことを日々の精神的な糧、心の支えとして日々仕事をこなしていくようになっていった。

 その後浴場担当の責任者のほうでも、ソフィのそうしたやる気や根性といったものに目を留めて、少しずつ仲間として認めてくれるようになったある日のこと――ソフィが浴室の清掃を終えていつもの休憩所でグリーンティを飲んでいると、斜め向かいのソファに白衣姿の若い男が腰を下ろしていた。

 手にはスポーツドリンクのペットボトルを持っていて、男はそれをごくごくと喉を鳴らして飲んでいる。

「もう秋だっていうのに、今日も随分暑いですね」

「そ、そうですね」

 ソフィは思わず声がうわずった。何故といって、彼がとてもハンサムで、魅力的な顔立ちと雰囲気を持っていたせいだった。金褐色の髪にアイスブルーの瞳をしたこの背の高い男は、突然何を思ったのかソフィの隣までやって来ると、彼女が手にしていた日本のグリーンティに目を留めた。

「それ、美味しいですか?」

 男があんまりまじまじと自分が手にしているお茶を見つめるため、ソフィはどぎまぎした。すぐにこの場から立ち去りたいと思う気持ちが半分、この男とこのまま話していたいと思う気持ちが半分あり、ソフィはその場から動けなくなってしまう。

「もし良かったら、お飲みになりますか?」

「ええ、是非」

 男はそう言われるのを待っていたというように、一瞬ずるそうに笑うと、ソフィから手渡されるのも待たずに、奪うようにペットボトルを取って緑茶を飲んだ。

「うえっ!なんだこれ、まずいな」

 男は口直しのためか、自分のスポーツドリンクの残りを一気に飲み干してから、大きな溜息を着いた。まるで命拾いしたとでも言いたげな顔つきだった。

「よく飲めますね、そんなもの」

「……わたしも最初は、今のあなたみたいに「うえっ!」て思ったの。でも、だんだん飲み慣れてくるうちに、この味が癖になっちゃって」

「ふう~ん。あなた、変わってますね」

(あなただって)という言葉を、ソフィは飲み込んだ。初対面の人間が口をつけたものを、なんの遠慮もなくごくごく飲めるほうが相当変わっているというか、実際図々しい話だと思っていた。

「僕、医者の卵なんです。今、インターンで実習に来てるんですよ」

「そうなんですか。大変ですね」

 男は髪の毛を指先に絡めると、それをくるくる巻きながら話をした。全体として態度がどことなく尊大で、すぐ問題を起こすのが玉に瑕……といったようにソフィの目には見えたが、実際どうなのかはわからない。

「そういえば、自己紹介がまだでしたね。僕、ミシェル・レギー二っていいます。あなたは?」

「わたしはソフィ・デイヴィスです。最近こちらの病院に来たばかりで……病院の一部分を行ったり来たりするだけなもんですから、広い病院の全体がどうなってるのかとか、いまだによくわかってなくて」

「ははあ、あなたがあの噂の……レッドメイン財閥のご子息と御婚約中なんですよね?それで福祉の理念を学習するためとかなんとかで、うちの浴室係の一員として放り込まれたとかって」

 ソフィはこの時、(変だな)と感じた。何故といって、ウィリアムとの婚約はあくまで内々に交わしたもので――浴室担当の他の職員たちも知っているとは思えなかったからだ。

「あの、どこでそのことを……?」

「レッドメイン系列の病院に勤めていて、レッドメイン・ファミリーの内の誰かと親しい者なら知ってることですよ。ウィリアムの母親があなたのことを気に入らなくて、どうにか婚約を解消させたいと思ってることもね」

 男の最後の言葉はソフィの胸にグサリと来た。もしかしたら彼は、レッドメイン一族の誰かと極親しいのかもしれなかった。というのも、レッドメイングループの企業のうち、約半数ほどのトップが、ウィリアムの親戚で占められているからである。

「でもお母さまは、わたしにレッドメインの家族になるためには、それに相応しいシンデレラ・ストーリーが必要だって……」

(その話自体がもし偽りだったとしたら、この三か月ほどの間、汗だくになって働いてきた自分の労働はなんだったというのだろう?)――ソフィはそう思った。

「あなたにはお気の毒なことですが、アリッサはすでに、ウィリアムに相応しいと彼女が考える女性を彼に紹介してるんですよ。もっとも、ウィリアムのほうは母親にそうした明確な意図があると気づいてないとは思いますがね。そしてあなたがここでの仕事に根を上げる頃、医師であるクリスティン・ダルトンとの結婚をまとめるつもりなのですよ。僕の話が嘘だと思うなら、今日これから家に帰ったあと恋人に電話でもして、最近彼女に会ったかどうか聞いてみるといい。彼女はゴルフとテニスの腕前がセミプロ級でね、同じ趣味を持つウィリアムと相当話が合う……ついでに言うと、ウィリアムの姉のエスターと彼女は親友なのですよ。これ以上の理想的な結婚が他にあると思いますか?」

 ウィリーの姉のエスターとは、ソフィも何度か会って話をしていた。至極感じのいい女性で、彼女もまた心臓血管外科医としては、国中で五指に入ると言われる夫の元へ嫁いでいた。

「……じゃあ、わたしが今ここでしている苦労はすべて、茶番だということなのね?」

「まあ、極簡単に言えばそうですね。ただ僕は、あなたにこう進言したかっただけなんですよ。結局のところウィリアムはマザコンのシスコンだし、仮にあなたが彼と結婚しても、長い茨の道が待っているということです。それも、ある日バシッと茨の鞭を食らって痛い思いをするというのでなくて、ちょっとずつ茨に締め上げられていって心が血を流すといったような苦しみです。僕はアリッサのやり方がどういうものかをよく知っているし、ウィリアムが自分の母や姉や親族に対して、いかに忠義立てするかといったことも知ってるんですよ。仮に、あなたひとりとレッドメイン一族の利益を天秤にかけた場合、彼の中であなたのほうが重いということはありえない。もし重かったとしてもそんなものは恋愛に夢中になってる今と新婚の間くらいなものでしょうね」

「どうして、そんなことをわたしに教えてくださるの?」

 ソフィは震え声で、ようやくのことでそう聞いた。途端、男の深い青さをたたえた瞳が、哀れみで色を濃くするのがわかった。

「僕もよく、ここの休憩所へやって来るからです。一度、あなたがここで泣いているのを見た時に、とても同情しました。何しろ彼女は、素行に問題のある娘を矯正してくれといったようなことをセンター長に言って、あなたをここで働かせてるんです。まわりの職員たちが何故冷たいのか、これであなたにもわかったのではありませんか?」

「……………」

 ソフィは黙りこんだ。ここへ来てからというもの、日々の労働で忙しく、ウィリアムとも週に一度程度しか会えていない。その間に彼は母親の紹介した女性と近づきになり、ゴルフやテニスに勤しんでいたというのだろうか?

 何よりもソフィは、ウィリアムのある種の冷淡さに近頃気づきはじめていた。ソフィはリハビリセンターでの仕事を、大変ためになる、良い仕事だといったようにしか彼には言っていない。何故といってそれ以上に説明しようがないからだ。「いじめのようなものにあっている」と言っても、彼は額面通りには受けとらず、まずは「君の誤解ということはないのかい?」といったようなことを口にするだろう。とかく彼は、福祉に携わる人間は善人ばかりといった見方をしたがる、実情のよくわかっていないお坊ちゃまなのだ。

「そこでひとつ、これは提案なんですがね」

 最初にソフィのグリーンティに目を留めた時と同じ、どこかずるそうな眼差しで、ミシェル・レギー二と名のる男は言った。

「あなたはこれから、うまく立ちまわりなすったほうがいい。ウィリアムがこれからクリスティンと急接近して、あなたを捨てようと思う時こそむしろチャンスなんですよ。彼はあの歳でいまだ性善説を信じているようなお坊ちゃまだから、一度婚約した女性を捨てるなどということに対しては、非常に胸が痛むでしょうね。あなたはそこを突いて、彼からもらえるだけのものや慰謝料をいただいて婚約を解消する……そのくらいのことを今から考えておいたほうがいいと思いますよ」

「わたしはあなたに、ここで『教えてくださってありがとう』とお礼を言うべきなのかしら?」

 ミシェルは肩を竦めると、「さあ?」といったような顔の表情をして、立ち上がっていた。これで自分の仕事の半分くらいは終わったも同然だと、ミシェルはそう考えていた。依頼主のアリッサには、彼女と寝て不貞の証拠の写真かビデオを撮れと言われたが、目的を達するのに、そこまでの必要性はないように思われた。もっとも彼はソフィのことを間近で見て、そうできないことを多少惜しいと思ってはいたのだが。

 実際、ミシェルはすでに、アリッサにこのことを話してあった。自分が観察していて思うに、ソフィ=デイヴィスはいつ心が折れても不思議でない状態にあるから、あとはほんの一押し、背中を押してやりさえすればおそらく息子のウィリアムとは別れることにするのではないか、と。

 ところが、ミシェルがまた翌日に休憩所へ行ってみると、ソフィはまだそこにいた。例のくそまずいグリーンティを彼女はまた飲んでいるところだったが、そのことでミシェルは自分の計画が頓挫したらしいと知ったのである。彼としてはもし彼女が今日ここにおらず、リハビリセンターを辞めていたとすれば、ウィリアムとの間に亀裂が入るのも時間の問題だろうと、そう考えていたのだが……。

「いつ、ここの仕事は辞めるつもりなんですか?」

 偽医者を気取ることの気持ち良さを感じつつ、ミシェルはソフィの隣に座ってそう聞いた。ただ白衣を着て廊下を歩いているだけで――なんと多くの人間が自分を素晴らしい人物と誤解し、尊敬の眼差しで見上げてくることだろうか。

「ああ、ミシェルさん、こんにちは。なんだかまだ、気持ちに踏ん切りがつかなくて……ウィリアムと別れることは、それはそれで構わないんです。ただ、ここを辞めても次の勤め先が見つかってるってわけでもないし、まだ暫くは様子を見ようかと思って」

(そうか、なるほど。元は超のつく貧乏な娘が億万長者と結婚しようっていうんだものな。結婚した先に待っているのが茨の道でも、やはり彼にぶら下がって出来る限りの金をせしめようという腹なのかもしれない)

 目の前の、自分より四つほど年下の娘がなかなか抜け目ないと知り、ミシェルはむしろ好感を持った。これでこそ、女というのは落とし甲斐があるというものだ。

「もし良かったら今夜、お食事にでも行きませんか?」

 ミシェルは大胆にそう誘った。ソフィのことを食事に誘ってもおかしくない理由が、いまや彼のほうにはいくらでもあるというわけだった。

「えっと、でも……」

「別に、ウィリアムに義理立てする必要はないでしょう?クリスティンという女性はなかなか抜け目のない人なんですよ。何しろアリッサから、息子のウィリアムを今の恋人から奪ってもいいというお墨つきを彼女は直々にもらってるんですから、あなたも同じように誰か異性とでも出かけて、楽しんだほうがいいと思いますよ」

 ソフィにとって、ミシェルの言うことにはいちいち説得力があった。というよりも、ソフィだけでなく彼に見つめられた大抵の女性がそうなのだが――彼が仮に多少間違ったことを言っていたとしても、ただ黙って言うなりになりたい魔力のようなものが、ミシェルの内側には潜んでいたといえる。

 こうしてソフィは少しずつ、ミシェル=レギー二の仕掛けた罠にはまっていった。一度目の食事の時には、彼は肩のこらないレストランにソフィのことを連れていき、思いきり愚痴をこぼさせてやった。そして彼はいかにもすべてをわかっているといった顔つきをして、これから信頼関係を築こうとする精神科医よろしく、彼女の話をなんでも聞いてやったのだった。

 二度目に食事へ出かけた時も、概ね似た感じのことが繰り返されたのだが、ここでミシェルは非常に興味深いことを彼女の口から聞いていた。なんと、ソフィは最初に出会った時からウィリアムに少しもときめきなど感じなかったし、向こうが「どうしても」というので、まったく好みでもないのにつきあいはじめたというのである。

「でも、つきあってみてその後感じが変わったりしなかったんですか?最初はタイプじゃないと思ったけど、だんだん好きになっていったとか……」

「ううん、全然よ」と、ソフィはお酒の入った勢いもあり、ミシェルに乗せられるがまま、この日も滔々としゃべりまくった。「ただ、婚約した時点で、話はわたしと彼だけのことじゃなくなってるってことなの。お母さんはレッドメイン系列の病院で清掃主任になってるし、お父さんは母さんと別れたあとに再婚した相手と、レッドメイン製薬の本社のほうで高い役職に就いてしまってるのよ。わたしが今住んでる立派な高層マンションも、家賃を払ってるのはウィリアムだし……だからね、わたしとしては彼が浮気して「ごめんよ、ソフィ。僕クリスティンと結婚することにした」って言ってくるまでは、黙って待つしかないのよ。そしてお母さんの奸計にも関わらず、もし彼がわたしを選んでくれたとしたら――それこそが本物の愛だと信じて、結婚しようかと思うの。あなたのいう、どんな茨の道が結婚後に待っていようともね」

 静かなホテルのバーの片隅で、そんな話をミシェルはソフィとしていた。すぐそばの窓からは、ノースルイスの街の煌く夜景が見渡せて、とても綺麗だった。ミシェルはそれとなくソフィの注文を操作し、口当たりは軽いのに、酔いが早く回るカクテルを頼んでいたため、うまくやれば今夜、彼女とどうにかなれるチャンスが回ってくるかもしれないと考えていた。

 もっともミシェルは、女性に不自由しているわけではないので、その<チャンス>というのは彼のほうから強引にかぶりつくといったものであってはならない。酔いに任せてであれなんであれ、ソフィのほうから行動を起こし、自分を求めてくるような種類のものでなくてはならなかった。

 ソフィは同じジンベースのカクテルを続けざまに五杯飲んでいたが、ミシェルが「大丈夫ですか?」と心配する振りをしているだけとも気づかず、六杯目を飲もうかというところで、少し呂律があやしくなってきた。日頃の仕事上のストレスもあってか、彼女はやがてすっかり眠ってしまい――ミシェルは前もって取ってあったホテルの一室へソフィを連れていったが、その日の夜は何もしなかった。

 翌朝、ソフィは「自分が何もされなかった」ことをとても残念に思っていることに気づき、バスルームで赤面したものである。そしてこのときになって初めて気づいた。自分はミシェル=レギー二という男に恋をしているのだということに。

 それから四度ほどデートを重ねた時に、ソフィはとうとうミシェルの前に陥落した。この前日、ソフィはウィリアムがクリスティンと浮気していればいいと思い、彼に対しそれとなく探りを入れてみたのだが――「クリスティンはただの幼馴染みで、妹のようなものだ」と、彼は断言していた。そして「君が嫉妬してくれるだなんて、むしろ嬉しいよ」と言われてしまい、ソフィは自分という人間に絶望を覚えるばかりだった。

(ミシェル、ミシェル、ミシェル……!!)

 ソフィはすでにこの時、ウィリアムのことなどもうどうでもよくなっていた。彼に手を握られても、生ぬるい体温の何かに掴まれたとしか感じないが、それがミシェルとなるとまるで違った。彼が何気なく肩に手を回してくれただけでもソフィの心は震えたし、何よりも彼は紳士で誠実で、とても優しい人だとソフィは思っていた。

 もっとも、体の関係を持つようになっていくらもしないうちに――ソフィはミシェルからこう打ち明けられることになるのだが。自分はミシェル=レギー二なんていうの変な名前じゃないし、医者の卵でもなければインターンでもなく、アリッサからソフィをたぶらかすよう雇われた、ただの詐欺師に過ぎないということを……。



 >>続く。




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