砂漠の音楽

本と音楽について淡々と思いをぶつけるブログ。

原田宗典「大サービス」

2017-07-31 16:37:57 | エッセー


まさかの一日に二回更新。
筆者がよほど暇だったことが、おわかりいただけただろうか・・・(ホラー番組風)


漱石とかRadioheadとか、今まで紹介した人に比べたらこれは地味かもしれないな、と懸念があったけど□□□とか空気公団とかも取り上げていたから、別にいいかと思った午後4時。あれ、これは遠まわしに失礼なことを言っている?気のせいか。うん、そうに違いない。
さて今日取り上げるのは原田宗典(はらだむねのり)氏のエッセー。この名前を見て誰それ?と思った人もいることだろう。早稲田卒、小説家であり舞台の脚本を書き、エッセーも書く、要するに物書きだ。確か数年前覚せい剤の使用か何かで逮捕されていた。それから今をときめく人気小説家、原田マハ氏の実兄でもある。かく言う私も、原田宗典氏の他の作品をまだ読んだことがない。読んだことはないんだけど、どうしてもこの本について書きたくなったので書くことにした。


なんでどうしても書きたくなったか?
生まれて初めて読んだエッセーがこの『大サービス』だからある。出会いはたぶん小学生低学年とか、中学年の頃だろう。夏休みに入る数週間前、学校で本の購入希望みたいなものが配られて(まあ一種のカタログのようなものだ)、そこで買った数冊のなかにこの本が入っていた。どういう理由でこの本を買おうと思ったのかあまり覚えていない。タイトルに惹かれたのもあるだろうが、当時の自分のことを考えるとおそらくジャケ買いである。イングウェイのCDをジャケ買いしたらそれはそれで格好いいけれど、本作をジャケ買いしたとなるとちょっとした黒歴史だ。まあ、今となっては「実に自分らしい」と思うわけだが。

いつか読み返したい、とかねてから思っていた。しかし実家を探しても見当たらないし、ずいぶん前の本だから近所の書店には売っていない。さりとてアマゾンでわざわざ注文するほどでもない。まあどこかで見つけたらそのうち買うか、くらいに思っていた。しかし先日友人たちとちょっと遠出をする機会があって、偶然にもこの本と巡り合ったのだ。場所は街中にあるちょっとしゃれた雑貨屋だ。「あ、いい雰囲気の店だな」と思って覗いていると、店先に「古本1冊100円」と張り紙がある。「うんうん、こういうところで思いがけない出会いってあるんだよなあ」と井之頭五郎のような気持ちで品揃えを見ると、原田氏のエッセーがずらりと並んでいたのだ。なんという僥倖、まさに天祐、といった大仰な気持ちで私は3冊ばかり手に取った。


というわけで約20年ぶりにこの本と再会し、久しぶりに読んでものすごくびっくりしたのである。
皆さんにもあるのではないだろうか。「昔どこかで読んだんだけど、なんだったっけな?」「どこかで聞いた覚えがあるけど、どこだったけ?」と感じることが。漠然と内容は頭に残っているけれども、出典がどこだか思い出せない、あのもどかしい経験。かゆいところに手が届かない現象(私はこれを勝手に「頭の中がかゆい現象」と呼んでいる)。
私にとってはこのエッセーこそがまさにそんな作品であった。およそ20年ぶりに手に取ってみたものの、ああこれどこかで読んだと思ったらこの本だったのか!えっ、この話もこの本に載っていたのか!と目からうろこが20~30枚程度落ちる思いがしたのである。ちなみに目から鱗とは聖書に由来する言い回しで、イエスの行いで眼病が直ったという一種の「奇跡」なのだが、本作との出会いは私にとっての「奇跡」であると言っても過言ではないだろう(ちなみに「めからうろこ」という居酒屋が蒲田にあるが、こちらは全く関係ない。奇跡とは程遠い存在である)。

しかしすべての内容を「あ~こんなこと書いてあったな」と実感を持つかというとそうでもなく。むしろ「あれ、こんなこと書いてあったっけ?」と思うような内容もいくつかあった。例えば「父との対話」という短いエピソード。これは珍しく父親とじっくり話して、父の意外な一面を垣間見たというありがちなエピソードなんだけれど、これが良かった。おそらく私が歳をとったのもあるだろう。昔読んでもピンとこなかった内容が歳をとってわかる、子どものときにわからなかった茶わん蒸しのうまさが大人になってわかる、そんな感じだ。あれ、違うかな。まあいいか。
そして大学で上京した私は東京の地名にも実感が持てるようになった。エッセーには三鷹や西早稲田など、自分が足を踏み入れたことがある地名がたくさん出てくるのでそれも嬉しさがある。当時わからなかったことが、実感を持ってわかる喜び。余談だが、小説に実在の地名が出てきたときはそこがどんな場所か想像力を働かせればいいと思うのだけれど、エッセーはその場所を知っている方が断然楽しい。おそらくエッセー自体が作者の生活の延長線上にある「地続き」のものであるのに対して、小説は(一部の作品を除けば)作者の手から離れて行った作品だからかもしれない。

それから驚いたことがもう一つ。このブログの文体と原田氏の文体が、どこか似ているのである。そして気づいたのだ、この一冊が自分の言葉の使い方だけではなく、考え方、ユーモアの在り方、エロスなものに対する見方など、いろんなところに影響を与えているのだということに。読者の皆様にもそういった「この人」という人がいるのではないだろうか。
私が強い影響を受けたエッセイストは、おそらく原田宗典、群ようこ、それに東海林さだおの3人だと思う。幼いころから東京にあこがれたのは、原田氏の本に書かれている東京という街が「なんかよくわかんないけど格好いい場所」に思えたからだし、猫が心底好きになったのは群氏の愛が溢れる動物エッセーのおかげである。それから美味いものに目がないのは東海林氏のユーモアあふれる食レポの賜物であろう。彼らの書いたものは何度も繰り返して読んだ。自分にとって宝物のような、小さい頃よく遊んだ玩具のような存在である。
哲学者のウィトゲンシュタインは「自分のオリジナルな言葉というものはない、すべてどこからか影響を受けたものだ」とどこかで言っていたが(これも出典を忘れた、頭の中がかゆいので知っている人がいたら教えて欲しい、30円までなら出せる)、こうした積み重ねが今の自分を作り上げているのだと思うと、原田氏には大きな感謝の念がいっぱいなのである。


エッセーの内容は玉石混交である。たぶん締め切りに追われて書いたんだろうというものや、本当にくだらない下ネタ系のものもあり、かと思えばハッとさせられるエピソードがいくつもある。昔は何の気なしに読んでいたんだと思うけれど、今読むとあらためて気づくことが多い。自分が大人になって昔ほど無邪気に楽しめないというか、ちょっと穿った見方をしていることに気づいたり、純粋にこの本に再会できた喜びであったり、ちょっと複雑な心境である。昔の悪友と会う、そんな気持ちにも少し近いように思う。お互い昔は悪さをしたけれど、今はすっかり丸くなってしまって、でも本気であの頃のことを忘れてしまったわけではない。うまく言葉にできないが、そんな感じだ。


最近好きなエッセーは長嶋有氏のものである。原田氏もそうだが、彼のエッセーも観察眼が鋭いし、何より読んでいて面白い。きっと彼の文章もどこかで私に影響を与えていることだろう。高望みであることは承知しているが、私の書いているこの駄文も、誰かにとってそういう存在になれたらこれほど嬉しいことはない。