砂漠の音楽

本と音楽について淡々と思いをぶつけるブログ。

立川談春「文七元結」

2017-06-22 17:40:56 | 落語


死んじゃいけねえんだよ、なんだかわかんねえけど!!

本とか音楽の話をするとか言ってたけれど、今日取り上げるのはとうとうと言うか、いよいよと言うべきか、落語である。しかも人情噺。ブログの方向性が自分でもわからなくなってきている。ただ、何について書こうかと思いながら音楽プレーヤーを眺めていたら「立川談春」という文字が目に飛び込んできて、無性に落語について話したくなった。そういうわけで今日は落語について書いてみたい。

落語との付き合いはそう長くない。昔、おそらくまだ自分が小学生の頃だろうか。父親が落語を好きで自分に落語の本をくれたことがあったが(なんでくれたんだろう)、当時は積極的に落語を聞くことがなかった。父の運転する車でときどき聞いたり、あるいはごくたまに飛行機に乗ったときに聞いたりする程度だった。そのころの自分は、落語家が話すネタの中身よりも、彼らの語り口調や時代錯誤感が好きだったと思う。この平成の世で、こんなことをしている人がまだいるのだな、失礼かもしれないがそんなことを思っていた。
中学生になってからはやかましい音楽を熱心に聴き始めたものだから、しばらく落語を聞くことはなかった。しかしそれからややあって、大学の指導教官が大の落語好きだったことも影響して、落語に対する興味が再燃したのである(落語好きが高じて先生は落語の本を1冊書いているし、仲間を集めて年に2回落語会を開いている。この本がまたいい内容なのである)。奇妙なめぐり合わせもあるものだ。


今日は数多くあるネタのなかから、自分がもっとも好きなネタのひとつである「文七元結(ぶんしちもっとい)」を紹介したい。今まで紹介していた本や音楽よりもはるかに馴染みが薄いと思うので、あらすじを簡単に記そう。

舞台は江戸の師走、年の瀬が迫る頃である。話は左官の親方である長兵衛がばくちで負けて着物を取られ、法被姿(お祭りの衣装)で叩きだされたところから始まる。家に戻ると17歳になる娘のお久の行方が昨晩からわからなくなっていて、妻はばくちに明け暮れている長兵衛を責め立てる。折よく吉原の店から使いが来て「娘さんがうちの店に来ています」と長兵衛に告げた(ちなみに吉原というのは今でも現存するが、歌舞伎町のような場所、当時の歓楽街である。簡単に言うとおたくの娘が来ているぞ、と風俗店から連絡が来ている状況だ)。
長兵衛が店に出向くと、娘がそこの店長に事情を話していたようだった。お久が言うには「お父さんがばくちに明け暮れて、母に暴力を振るいます。ばくちをやめられれば、昔のように仕事に出られれば、元のお父さんに戻ってくれると思います。借金を返すために、私のようなものでもお金になるでしょうか?」とのことだった。要するに自分の体を売って借金のかたにしてくれ、というのである。現代でもありそうな話だ。落語だからと言って、決して遠い昔の物語ではない。ナニワ金融道とか、闇金ウシジマくんでも描かれている世界だ。
店長が言うには、さっそく店に出すのはかわいそうだから、お金は貸すが待ってあげるという。この待つ期間が噺家によって1年だったり2年だったり異なるが、談春バージョンでは2年だ。2年で50両。ただし店長は「その代わりあんたがばくちを打ったっていう噂を聞いたら2年待たずに、その日のうちにこの子を店に出すからね」「どうするんだい?ばくちは本当にやめられるのかい?」「性根据えて返事をおし!」と長兵衛に凄む。彼はばくちを止める決意をし、金を借りる。

お金を借りて帰る途中、吾妻橋のところで身を投げようとしている若者(文七)がいて、長兵衛は咄嗟に彼を止める。止めようとする際に一発殴るのだが、「なにするんですか!怪我でもしたらどうするんですか!」と文七が怒るのが面白い。これから死ぬ人がそんなことを気にするなって話。ちなみに吾妻橋も現存している、浅草を出てすぐの、隅田川にかかっている大きな橋だ。
長兵衛は文七にどうして死のうと思ったのか事情を尋ねる。彼はお店の大事な売上金50両を盗まれてしまった、それで申し訳ないからお詫びに死のうと思うことを話す。長兵衛は「親に泣きつけ!」とか「死んだって金が出てくるわけじゃない、悔しくても素直に謝って歯を食いしばってがんばれ!」と説得を試みるのだが、「死ぬこと」しか頭にない彼は「わかりました」と返事をするものの、長兵衛が行こうとするとすぐ橋の欄干に身を乗り出して飛び込もうとする、という行動を繰り返す。あまりにもしつこいものだから、長兵衛は「お前なんか知ってんじゃねえだろうな・・・?」と疑う、緊迫した雰囲気のなかで笑えるシーンだ。
どうにもならないと思った長兵衛はとうとう、娘が身売りをして借りた50両を彼にぶつけるように渡す。長兵衛がなぜ50両持っているのか、訝しむ文七に「訳を話してやらあ。いっぺんしか言わねえぞ、よく聞けよ!」と言って自分の話をする。ここが実にぐっとくる場面だ。

「俺はなぁ・・・酒とばくちでめちゃめちゃになっちゃったんだよ・・・お前じゃねえんだよ、生きてたって仕方ねぇのは俺なんだよ。死、死んだ方がいいけど、死んだ方が楽だけど、死ねねえんだよ。うちにはお久っていう17になる娘がいるんだよ、いい娘なんだよ。その娘が俺のしでかした不始末のせいで・・・今晩吉原の佐野槌ってところに身を売ったんだよ。・・・それで貰った金がこの50両だ」

と長兵衛は言う。全部伝えるのは野暮なもので、そのあとなんやかんやあってハッピーエンドになるだけど、この橋のシーンが私はとても好きだ。「死んじゃいけねえんだよ!なんだかわかんねえけど!」となかば自棄になって、でも不思議と説得力のある口調で長兵衛が文七に言う。そうなんだよな、死んじゃいけないんだよな、なんでだかわかんないけど。思わず頷いてしまう、膝を打つ場面だ。立川談志のヴァージョンでは苦しみ悩む長兵衛の様子がしっかり伝わってくるが、談春の方が長兵衛の「どうしようもなさ」「ままならなさ」がいきいきと描かれていて、個人的には好みである。


自殺する人が多い国に生きている私たち。あまりに多いものだから、人身事故で電車が遅れたとしても「はぁ、今日もか」くらいにしか思わない。どんな思いで死のうと思ったのか、その人がどんな痛みや苦しみを抱えていたのか、考えない。もちろんいちいち考えていたら身が持たない。でも身近な人が自ら命を絶つ可能性だってゼロではない。他人ごとではないのだとして、誰かが強く死にたいと思ったとき、どんな言葉をかければいいだろう?私たちは「死んだ方が楽だけど、死んじゃいけねえんだよ!なんだかわかんねえけど!!」という長兵衛の力強い言葉を、ときどき思い出す必要があるのではないだろうか。それは小沢健二の「天使たちのシーン」の最後に歌われている

―神様を信じる強さを僕に 生きることを諦めてしまわぬように
にぎやかな場所で かかり続ける音楽に
僕はずっと 耳を傾けている


という歌詞に通ずるものがあるように思う。落語というと古臭いように感じるかもしれないし、まあ別に古臭く感じたっていいのだけど、そのなかには現代にも通ずる普遍的な人間の在り方みたいな部分が描かれているのだろう。そういった部分を、この立川談春という落語家は非常に上手に演じている。特に彼の呼吸のリズム。怒っているとき、追い詰められているとき、そして自分のやったことを心底悔いているとき。そういった場面を呼吸の仕方で表現できるのは、現代に置いては彼が一番うまいのではないだろうか。師匠の談志をして「古典をやらせたら俺の次にうまいのはこいつだ」と言わしめた理由がよくわかる。


なんだかクサい話になってしまったが、きっと人情噺だからということもあるだろう、たぶんそうだ、なんだかわかんねえけど。
ともかく、おあとがよろしいようで。