飛鷹満随想録

哲学者、宗教者、教育者であり、社会改革者たらんとする者です。横レス自由。

神武天皇

2017-04-02 23:30:32 | 日本論と宗教論
ヤコブさんのコメントへの返信第四弾(の加筆修正版)です。


>「実は、国民が何者かの財産である」。この何者かとはいったい誰なのですか?「裏天皇」のことでしょう。そしてこの「裏天皇」の座に就くべきはダビデ王ということになるのじゃないのですか?あなたはこの最も肝心なこのとへの明言を避けている。卑怯だ。

歴史上のダビデ王には「裏天皇」に就任した事実はないだろうと思います。逆に、ダビデ王に、アブラハムにとってのメルキツェデクの例に喩えることのできるような意味合いの「主」即ち「裏天皇」との本質的で深い従属関係があったことは事実でしょう。

旧約の中でイスラエルが救い主と言う時、それは全人類の救い主のことを意味しません。厳密に、イスラエルの救い主です。洗礼者ヨハネもイエスも、立法の形骸化と共にそのことをも一部、批判の対象としたくらいです。それに対して「裏天皇」の場合は、その活動の領域は最早国家という枠組を超え、全世界に広がるネットワークとなっています。ダビデ王の存在が本質的に「裏天皇」の存在と合致することなどないと思います。ダビデの子孫に表の天皇位が回ってくる可能性はないわけでないとは思いますが、過去のどの天皇家がそれに当たるのか、私には今は、何の閃きもありません。


>イエス派ユダヤ人の末裔である新羅系秦氏を悪魔と断じた人だから。

新羅も、秦氏の内新羅に拠点を持っていた秦氏も、それだけで悪とは言えません。ある時から新羅に閉じ込められていたエドム或いはカナンが新羅系秦氏に潜入し、この秦氏を含む新羅勢力が後に列島の東日本に移って山窩勢力に糾合され、山窩勢力の勃興と山窩勢力による中央政権乗っ取りの原動力となった、とは思っています。落合莞爾さんの「裏天皇」も「上田アヤタチ」も、どこかの時点で、この山窩勢力による乗っ取りにあってしまっている可能性が高い。

神武天皇の出自は、落合莞爾さんの言うように、九州豊国、海部の棟梁だったのでしょうか?私は、これは全然違うと考えます。神武とは、高句麗の歴史書で高句麗第三代王大武神(テムジン)として知られる人物が、海部氏の招きに応じて半島北東部から丹波という経路を通って列島に渡った後で、新羅王脱解(ダルへ)としての側面をも併せ持ちつつ同時に、かの金印で有名な九州を拠点とする委奴国王としても活躍した時以降の、列島での事績の統合体に付けられた名前であったという小林恵子さんの説の方に、何か重要な閃きが隠れているのではないかと感じ、それを密かに検討している最中です。因みに、ここに登場する海部は、丹波籠神社のあの海部とは、落合莞爾さんの指摘した通り、全く異なる、現在では海部の名称を放棄して別の名称で呼ばれるようになった海部のことであったに違いありません。そして、この人達こそ、列島における裏天皇の起源だったと考えます。琉球から九州、四国、紀伊半島を緩やかに統治していた奴国や、後の邪馬壹国(やまとこく)とはまた別の、中原の殷王朝との関わりの深いある勢力のことだろうとも推測しています。

この勢力が当時の燕王の配下に解(カイ。呉音はへ)を姓とする一族を有力な臣下として潜入せしめました。後に高氏の国(句麗)である高句麗が建国された際には、この解氏に命じて始祖朱蒙を取り除かせた上で、高句麗王の二代目を継承せしめ、高句麗の実態を解氏の国(句麗)即ち解句麗(カイクリ。呉音はヘグリ。即ち平群)に変えさせました。そうやって高句麗をコントロール下に置いた訳です。

この二代目を継いだ三代目の王は高句麗の領域を大きく広げ、後漢と激しく抗争します。この王は列島内のかの勢力をバックに置いていたわけですが、それに相応しく、列島勢力の半島における代理国家のひとつとしての新羅にも強い影響力を持っていました。

この王が或る時、かの列島勢力の世界戦略変更に伴って「亡命」し、その後は上に既に述べたような経緯を辿って、そうやって最終的に、神武の事績として一般に知られる事績をこの列島でその生涯の中盤を通して積み上げたわけです。神武の事績だけではなく神武の本体も、阿波の忌部氏と大和の葛城氏の後ろ盾の元でちゃんと存在していましたが、その本体の実際の事績は我々の知る歴史書の範囲内には記録されていません。

神武に自らの事績の中盤を譲った「高句麗王大武神」改め「新羅王昔脱解」及び「委奴国王」ですが、その後半生の事績は、「崇神」として我々の知る歴史書に登場します。この大王の時代に卑弥呼も邪馬壹国(ヤマトコク)女王として存在していました。

小林恵子(やすこ)さんの研究書を通して私に見えて来た神武天皇の正体は、概ね以上のようなものになります。

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