・・・この「恍惚」の秘法には二つの道がある。まず日常的な生活の平面で出会う些細な”もの”や動物 (たとえば木、草、小石、蜘蛛、黄金虫等々)、それ自体では意味のないものにむかって知覚を集中し、意識を恍惚の状態に導いてゆくこと。そうした対象の空虚を熟視することで、そのとき意識のなかで時間が停止し、人間の魂は永遠に近づけるのではないか。 それが極小の方向への動きであるとすれば、 もうひとつは太陽、海、空など、広大な宇宙的なものとの同化によって実現するはずの、意識の「恍惚」へむかう運動である。意識はそのとき空間的に極大の状態までひろがる。
・・・・ル・クレジオの小説に、「物質主義的恍惚」の秘術を駆使して、あっぱれ向う側の世界へ超脱していった人物はほとんど登場しない。
しかし、いうまでもないことだが、
”失敗は終りであるのではない。”
この秘術は ”試みることに意味がある”
、、というか、成功、失敗という結果がそもそも問題であるのではなく、 この秘術は
”折角あたえられた生を深く生きようとする人間にとって、どうしても試みなければならない性質のもの” なのである。
(ル・クレジオの短篇小説 「PAWANA」 の翻訳者 菅野昭正による解説文からの抜粋)
この”秘術”は濁点を打ってやると、そのまま、ぼくにとっての”美術”になる。
・・・・ル・クレジオの小説に、「物質主義的恍惚」の秘術を駆使して、あっぱれ向う側の世界へ超脱していった人物はほとんど登場しない。
しかし、いうまでもないことだが、
”失敗は終りであるのではない。”
この秘術は ”試みることに意味がある”
、、というか、成功、失敗という結果がそもそも問題であるのではなく、 この秘術は
”折角あたえられた生を深く生きようとする人間にとって、どうしても試みなければならない性質のもの” なのである。
(ル・クレジオの短篇小説 「PAWANA」 の翻訳者 菅野昭正による解説文からの抜粋)
この”秘術”は濁点を打ってやると、そのまま、ぼくにとっての”美術”になる。