つれづれおもふ

思えば遠くに来たもんだ~ぼつぼつ語る日々の出来事

原発が動きだすという・・・。

2012年06月12日 | 徒然に、

今朝の朝日新聞声欄に、大飯原発再稼働に対する二つの意見が掲載されていた。

1つは容認論。今の日本の現状で、原発を止めることは現実的でないという意見。

 

もうひとつは、原発の安全性と経済性を両立できると考えること自体が幻想だという、反対論。

 

多分、私たちの多くが、この二つの意見両方を持っていると思う。 どちらの意見にも、その側に立つとそちらに傾いていく。

そして、それでもどちらかを選ばなければならないという場所に来て、苦悩しているように思う。

まるでシーソーの真ん中に乗っていて、覚悟を決めてどちらかに移動せよと言われているようだ。

ばば抜きの最後みたいに。

 

今、『とんでもなく役に立つ数学』と言う本を読んでいる。その始まりの章に「論理の階段」というものが出てくる。

数学では「公式に当てはめて」と言う言葉がよく出てくるが、「AであればB、BであればC、ゆえにAはC」という“あれ”

大学の先生は話がそれほど上手ではないので、この公式のように次々と論理を重ねた話し方をするそうだ。

この話し方は聞いている方には、長くて分かりづらい。

「AだからB」で終わる説明だとほとんど何にも考えなくても理解できるので、テレビに出てくる人のコメントはほとんどがそういう話し方だというのだ。

だが、数学が出来る人というのは、これが一万段、十万段くらい続いても耐えられるというのだ。

しかもその一段一段を正確にとんとんと昇っていけるという。将棋の棋士が手筋をどんどんとつなげ、取捨選択をしていくあれと同じことだそうだ。

答えが分かっているときは、それに向かって正しい段を重ねて行けばいいが、答えが無い時は、初めから一段一段辿って行くしかない。

どこにたどり着くかは、人によって違ってくるという。

数学は、一個一個の積み重ねは正しくやらないといけない。だけど方向は無限にある。

「Aが正しい」「Bが正しい」一段ずつの論理は一個しかなく、それが正しければ、仮定や条件による枝分かれはいくつにもなる。

それは「AはBで、Cになる」場合と「AはBで、CではなくDへと続く」場合とどちらも正しい論理だというのだ。

だから、数学ではある程度まで進むと、答えは無数に存在する。

と、いうようなことが書かれている。

 

大飯原発を再稼働するという一段を選び、次にどの段を選んでいくか、それはまだわからない。

でも、思うのは、その繋がった先にあるはずのその一段が、笑って暮らす私たち であって、

日本中が避難生活 でないことを願っていることは、どの立場の人も同じろう。

そこを目的地に間違いなくつないでいかなければならない。

過大に評価せず、過失から目をそらさず、そして、若い世代にゆっくりと渡せるようであってほしいと考えている。

 

 

 

コメント (1)
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