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きのうを思い、きょうを実感し、あすに想いを馳せよう。
若年性或いは老人性痴呆症にならない為にもね?

Cuando Caliente SHIZUOKA #2

2005年11月23日 | Weblog
 このあたりで、私としても所謂「皇位継承問題」に積極的に参戦してみようと思う。というのは、この静岡県において最初に口火を切られたのは他ならぬ「石川嘉延」静岡県知事であるし、三笠宮寛仁殿下の内輪の同好会の「論文」に賛同した意見を述べられていた。

 その後、静岡新聞の投稿欄には「袋井」であったか「磐田」であったか記憶にないのであるが、現在代議士をしておられる方が東京大学在学中に「皇室典範に関する有識者会議」の座長、吉川弘之元東大学長は現役であったが、彼は専門が「ロボット工学」であるから、日本歴史における「天皇」を考えるうえで「適切な人材」であるかということに疑問を投げかけておられた。
 敗戦後の合理精神で日本精神を「破壊」し、スクラップ・アンド・ビルドすればよいなどと、日本史における「天皇」の評価について、そのような合理精神をもってするのは、はなはだ場違いではないか。「皇位継承伝統切捨て反対」と意見を述べられていたのに対し、藤枝市の五十五歳の主婦の方が、真っ向から異論を唱えている。

 耳を傾けてみよう: この投稿をされたM氏は吉川弘之先生のいう「内なる敵」を伝統を非合理なものとして切り捨てる心」と捉えております。しかし、私はこの「内なる敵」とは「伝統という名に縛られる非合理性」なのではないかと捉えました。芳川先生は伝統に縛られている男系男子による皇位継承を固守するという非合理を打破することが、内なる敵を克服することと考えているのではないかと思うのです。
 日本の伝統だと思われている家父長制度は、明治憲法を制定する際、前時代の武士階級でおこなわれていた「家」を民法という形で法律的につくったものだというはなしを聞いたことがあります。それまでの時代には女性も経済活動を行ったり、財産分与もあり、夫婦も別姓であったりしていたというのです。残していきたい伝統もたくさんあるとはあるとは思いますが、男性と女性が人格として同等でないという非合理に基づいた伝統は、もう一度考えてみる必要があるのではないでしょうか。

 論戦を仕掛けられたM氏は、はてはて、どのようにお答えになるのであろうか。「敵様」は「生粋の日教組一味」で御座るよ。

 凝り固まった思考の持ち主は男女不平等国アジア大陸へでも行って、体験学習でもしてもらわなければ「躾」は身につくまい。
 伝統が、不合理に基づくものであるゆえ、スクラップ・アンド・ビルドしなければならないなどと、恐ろしく馬鹿げた理論である。今の合理はおそらく将来の不合理でとなるであろう。
 こと天皇制に関する限り、男系の血筋であったればこそ、日本国二千年の風雪に耐えたのである。
 ことは、今後の議論の進展に委ねられているのだから、なんとも言えないのであるが、女系を万が一にも容認した皇室典範ができあがったら、皇室の「権威」は庶民の「血統」と何ら変わる所ではなくなる。
 というのは、民間から皇室に嫁がせた実家が我々とて皇室の端くれであるという主張をし出すこと請け合いである。
 この問題に関する限り「男女同権」などという「負け犬の理論」を持ち出すべきではない。
 何故、男系でなければならないかといえば、天皇の系図に女系を容認する価値観を持ち込めば、雑種ばかりになってしまい、香しき日本民族の誇りさえ喪失してしまうであろう。

 平安時代、あれ程権勢を欲しいままにした「藤原一族」でさえ、娘を皇后の位置ににつけ、外戚として政治基盤を確立したにすぎない。この時代から既に、皇后の親は「天皇」にはなれないという「掟」が厳然と存在したのである。その理由は、男系による皇位継承が正当なものとして確立していたからである。

 事此処に及んで、得体の知れない「専門家が何を血迷ったか分けも分らぬ結論」を出したというのであるが、この者たちにこそ、皇統ニ千年の呪いがかかるであろう。
 この際、元皇族方も言論自由の世の中であるから、粛々とお考えを述べられたらと思うのであるが。

1 コメント

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Unknown (Unknown)
2005-11-24 22:21:50
これこれ、「B級国民」なんていう、わが国の憲法にも法律にも存在しない概念を使い、また合理精神を当然のように批判するような人が、法律の話に積極参加しちゃだめですよ。
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