こもれ日さんぽ

緑の中で深呼吸・・・そんな気持ちで自分と向き合えたらなぁと・・・

「ハイドリヒを撃て!」のプラハ

2017-08-13 07:57:31 | ドキドキの海外旅行

昨日観た映画「ハイドリヒを撃て!-ナチの野獣暗殺作戦」。

やはり、かなり神経が高ぶっていたらしく、なかなか眠れませんでした。

プラハの記憶も、いろいろ蘇ってきて・・・なおさら。

 

2014年春、プラハに着くとすぐ、

夕暮れの迫る中、「聖キュロリス・聖メトディオス正教会」の前に立ちました。

見学は後日にしても、せめて外観を、見たかったのです。(冒頭)

 

ローラン・ビネ 高橋啓訳『HHhH-プラハ、1942年』(東京創元社)を読んで

感銘を受けていたからでした。 

 

 

旅の高揚感もあり、ウキウキとはしゃいでいたと思います。

さすがに、プレートを見ると・・・

さすがに静粛な気持ちになりました。

 

けれど・・・実際に見学してみると・・・

とても、とても・・・・・・

 

 

 

第二次世界大戦下、

ナチスのナンバー3、プラハ総督・アルベルト・ハインドリヒを暗殺するよう

大英帝国と、ロンドンのチェコ亡命政府が計画した「エンスラポイド(類人猿)作戦」。

 

任務を帯びたヨゼフ・ガブチークとヤン・クビシュは、

ナチス占領下のチェコに空路向かい、パラシュートで降下、プラハに入ります。

その後、レジスタンスと協力者と連携しながら、作戦を実行(1942.5.27)・・・

 

ハイドリヒの死後、ナチスは、執拗に、すさまじいまでに、

犯人探しを始めました。

無関係の者も含め、5000人もの市民が命を落としたとされています。

 

中には、全くの誤解から、村ごと襲撃を受け

地図から消滅してしまった、リディツェ村のような悲劇もありました。

 

一方、実行者二人は、他の仲間らと共に、7人で、

、「聖キュロリス・聖メトディオス正教会」の納骨堂へと身をひそめます・・・

 

ところが、かつての仲間の密告したのです。

 

1942年6月18日、700人に及ぶナチスの親衛隊と、トラックが教会を攻撃。

6時間にも及ぶ、攻防の末、7人は、ほとんどが自決、

遺体となって発見されたのでした。

 

 

私たちが、見学のため教会を訪れた日は、雨模様。

朝一番で教会に着くと、やがて、教員に引率された中学生のグループがやってきました。

 

教会の下には、

THE NATIONAL MEMORIAL TO THE HEROES OF THE HYDORICH TERROR

ハイドリッヒ暗殺の国民的英雄記念とでも訳すのでしょうか。

 

とにかく記念する小さな博物館があるのです。

 

中学生についていくと、団体客に大わらわで、

受付のスタッフは私たちに気づいてくれません。

映画を見せるらしく、別室へと移動しようとします。

 

すると、「日本人が待っているよ」と、先生が声をかけてくれ

無事、入館することができました。

 

 

 

展示は、エンスラボイド作戦にまつわる流れの説明から

犠牲となった人々の記録、作戦に使われた自転車やカバン、銃などでした。

正直、がっかりして「これだけ?」と夫に尋ねると・・・

 

夫が、「何言っているんだ、あっちでしょ」と指さしました。

それが、納骨堂への扉だったのです。

 

なるほど・・・と、さして考えることなく

重い鉄の扉を開けると・・・

 

明けた瞬間、空気が違うんです。

 

「イヤ、イヤ、イヤ!

ここは行かない、入れない!」

思わず、叫んで、扉を閉めてしまいました。

 

「何言っているんだよ、ぴあ野が来たいって言ったから来たんでし!」

温厚な夫が、強い口調で言い、怖い顔で睨みつけます。

 

彼は、こういった場所に、あくまでも私の付き合いで来ているだけで・・・

本来は、絶対に来たくないはずなのに・・・

 

申し訳ない思いで、意を決し、再び重い扉を開け、

納骨堂へ入りました。

 

 (教会前の通りの石畳)

 

 

半地下ゆえ、薄暗いところに、ろうそくの明かりが揺らめき

花束が供えられた十字架が建てられ、

彼らの遺影が飾られています。

 

1942年のあの日、上の礼拝堂での銃撃戦の後、

小さな入口から納骨堂へSSが降りてくるのを

残ったメンバーが下から狙撃・・・

 

業を煮やしたSSは、通りに面した窓から、消火栓の水を流し込みました・・

 水の跡が壁に残っています。

 

それだけでなく、すべてが残っているような・・・

 

ああ、私には表現できません。

ローラン・ビネはこんな風に書いています。

 

「惨劇の後が、そこには恐ろしいほど生々しく残っていた...

...わずか数平方メートルの部屋に集められた、人間のありとあらゆる情熱があり、

戦争と死があり...

 

...これらの壁に永遠に刻みつけられたレジスタンスの精神があり、

生の力と死の力のあいだで繰り広げられた闘争の痕跡があり、

ボヘミア、モラヴィア、スロヴァキアがあり、

いくつかの石に封じ込められた全世界史があった。」

 

(『HHhH、プラハ、1942年』 13頁)

 

(通りに面して、プレートがある。弾痕の跡も生々しい・・・

この窓から水を流し込んだ)

 

 

今まで、オシフェンチウム博物館(アウシュヴィッツ収容所)や

旧東欧の国々の戦争に関する展示も観てましたが・・・

私の中では、この納骨堂が、一番の衝撃でした。

 

後日、その話をしたところ

「オシフェンチウムは、オープンだからではないですか」と

言ってくれた人がいました。

 

なるほど、オシフェンチウムでは、かつて収容された人々が

植えさせられたという、木々が大きく育ち、

建物を取り囲むように、緑の木陰を作っていました。

 

知らなければ、ちょっとしたピクニック気分にすらなれそうでした。

 

それが、ここは鉄の重い扉で閉ざされ、

明り取りの小さな窓があるだけの半地下です。

あのときの空気が、そのまま残っている気がするのも当然かもしれません。

 

 

・・・ここで、祖国のために、戦った人たちがいた・・・

 

あまりの生々しさとむごたらしさに、押しつぶされそうになりながら、

御数珠を握りしめ必死で「般若心経」を唱え、

十字架一つ一つに手を合わせてきました。 

 

 

(チェコは優れた絵本でも知られた国。

プラハで購入した絵本にも、この歴史が・・・)

 

 

ちょっとばかり、戦跡をめぐり、

戦争関係の本を読んだところで、

わかった風な顔をして・・・何をやっていたんだか・・・

 

自分が、ひたすら、恥ずかしく、情けなくなりました。

 

 

プラハでは、ナチス支配時代を歩くウォーキングツアーがあるようです。

それだけではなく、「プラハの春」以後に始まる、

実質ソ連の支配下と言うべき時代をめぐるツアーもありました。

 

東欧の国々をめぐると、ナチスの時代の方が

ソ連、KGBの時代より、マシだった・・・と、よく聞きます。

これでマシだなんて、いったい、ソ連の時代は、いかばかりだったかと・・・

 

 

日常が簡単に消えてしまう、戦争の狂気。

 

今年は、いっそう、怖ろしく感じられてなりません。

 

 

ダラダラとした旅行記(?)に、おつきあいいただき、

どうもありがとうございました。

勝手ながら、コメント欄は閉じさせてくださいね。

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