草君の春夏秋冬・花鳥風月

いけばな・季節の花々・散歩道の風景

茶文化作法概要3

2015-04-11 | その他

 

冷凍寂枯

 

 16世紀の茶の湯美学の具体像を端的に理解するとなると、一言、「黒の美学」に極めることができると、矢部良明は、「千利休の創意ー冷凍寂枯からの飛躍ー」の中で書いている。

灰被天目茶碗を例にあげてみる。この茶碗は、一見するとなにごともない黒の無表情であるが、黒釉をかけたあとに灰釉を二重掛けにしているために、時にいぶし銀のような鈍い沈んだ色調をしめしはじめる。無表情の気迫に力が宿るのである。言われてみないと、なかなか気づかないことかもしれないが、やはり名物として今に残っているものを実際に目にすると、胸に迫るものがあるのは事実である。これを通常の美しさとは別次元の美、冷えたる・凍たる・寂びたる・枯びたる美の極地、「艶」というと、矢部良明は書いている。この「艶」は、連歌の美意識でもある。室町時代の連歌師心敬は、万色枯れ果てた冬。その冬に冷え冷えと凍てつく氷こそが艶の極まりであると、著書に書いている。鈍重な黒の茶碗の中に、黄を探し、白を見極め、黒い茶碗なのに、黄天目、白天目と名付ける。これは、脱俗であり、超克の美境の獲得なのである。

 冷凍寂枯の境地、美学は、私にメメント・モリという言葉を思い出させる。死を思え。

いつか訪れる死への覚悟、死を思うこと、潔く受け入れることを美しいとするのは、日本人の気質として今も残っているのかもしれない。

 

茶の本

 

 岡倉天心が英語で茶道を世界に紹介した書物である「茶の本」の中で、イギリスの茶人、チャールズ・ラムが、茶道についてこんな風に語っている。

茶道は、諸君が美を見出し得んがためにそれを隠しておく術であり、諸君があらわにいうのを憚るようなものを暗示する術であるからである。それはもの静かに、だが徹底的に、諸君自信を笑う高貴な奥義である。だからつまり、ユーモアそのものである。

 

 「それ」とは、俗世の現実の厳しさのことかと解釈していた。世の中は平等ではないし、理想は理想。夢は夢。なかなか実現しないことも多い。ただ、理想やきれいごとを語るものがいなくなれば、理想や美もその姿を消してしまう。しかしあからさまに語るばかりがいいとは限らない。隠すことによって暗示されるものが確かにあるのだ。前述の、冷凍寂枯の美の中に見出される「艶」のようなものかもしれないし、あるいはもっと即物的で下世話なものかもしれない。もしそうだとすると、ユーモアだという意味がわかるような気がするが、私はまだ若輩者故、その境地までは到底辿りつけない。

 

床飾 茶花

 

 茶室の床の間には、掛け軸、花、花入れ 香合を飾る。本日の茶会のテーマを表すのである。そして茶席での話題にするのだが、茶席の話題は清談がふさわしいとされる。

 利休の高弟、山上宗二が取り上げた連歌師、肖柏夢庵の狂歌に正客の心得(茶席にふさわしくない話題)が表されている。「我が仏 隣の宝 婿舅 天下の軍 人の善し悪し」。

 花は野にあるように入れよ とは、利休七則のひとつである。作法室にも季節感を添えるためにさりげない野の花を飾るようにしている。残念ながら生徒は、花にさほどの興味を示さないが。造花?印刷?(掛け軸)という問いかけがあって驚いたこともあるし、においをかいだり、触ったりするものもいる。床の間の花をである。和室、床の間などは、現代の建築では減ってきているものだし、無理もないのかもしれないが、しかし驚く。床飾を拝見するときは、飾り付けた亭主に敬意を払うものなのである。 美しい花がある。花の美しさというようなものは無い というのは、小林秀雄の有名な言葉であるが、ただそこにある美しい花を、花として純粋に見ること、そういう透明な部分を自分の中に残しておくことが大切なのではないかと思う。 一方、床の間に飾ってはいけない花もある。

「花入れに入れざる花は沈丁花 深山しぎみに鶏頭の花 女郎花 ざくろこうほね金盞花

せんれい花を嫌いこそすれ」。

 

 

美しい日本の私

 

 川端康成のノーベル文学賞記念講演「美しい日本の私」に、日本の茶道も、「雪月花の時、最も友をおもふ」のがその根本の心で、茶会はその「感会」、よい時によい友どちが集ふよい会なのであります。ちなみに、私の小説「千羽鶴」は、日本の茶の心と形の美しさを書いたと読まれるのは誤りで、今の世間に俗悪となった茶、それに疑ひと警めを向けたむしろ否定の作品なのです。

と、書いている。俗悪となった茶とはどういうことなのか考えてみた。川端氏がノーベル文学賞を受賞したのは、1968年のことであるから今から50年近く前のことである。現代の茶とはまた違ったものだったのかもしれないが、金満主義に走り過ぎたり、和敬の心や、禅をないがしろにした茶ということではないのかと想像する。小説、「千羽鶴」の主人公の男性の茶道に対する態度も発想もとても禅的とは言いがたい。川端康成が否定をするのはそういうところなのではないのだろうか。

 春は花 夏ほととぎす秋は月 冬雪さえて冷しかりけり 道元禅師の本来ノ面目と題する和歌が、この記念講演の冒頭にあげられているところからも、「禅」は、日本の美や伝統などから切り離すことができないものであると考えられる。春夏秋冬の自然をただ写しとっただけのようなこの歌の良さが、身に染みて感じられる感性は若い世代にはまだないかもしれないが、自然や日本の美や伝統文化に若いうちに親しむことによって、その感性の芽は彼らの中に育ち始めるのだと信じている。

 この「美しい日本の私」について、江藤淳がこう述べている。

スウェーデン学士院は、あるいは川端氏が、東と西のあいだに論理の橋を構築することを期待していたのかもしれない。しかし彼らの見たものは、おそらく黒々としたみぞであり、そのかなたに咲きはじめた一輪の花、むしろつぼみであった。そしてそのつぼみには、白く輝く小さな露が寄りそうていた。それが川端氏の「美しい日本の私」である。

 

終わりに

 

 と、いうふうに、たいへん高所から茶道を分析、説明してみましたが、茶道には様々な面や見方もあります。ただ高等学校の授業で教えるには、このくらいの格式の高さが必要だと思ったまでのことです。それは、最初に茶文化を作り上げるにあたって基礎を研究してくださった先生方のお考えでもあると思います。先生方のなかには生徒に茶道はもったいないという意見の方もいて、わたしとしては納得がいかなかったのですが、その理由がこのごろはよくわかります。わからなかった理由は、わたしが禅の精神に重きをおいていたからなのでしょう。もてなしの心は、自分がもてなされないと、ほんとうには理解できないと思ったのです。しかし茶道は、仏教とはいいつつも、クリスマス茶会があったり、京都の花街の方々もお稽古するのだから、宗教戦争が起きるほどの深刻さはないわけです。そのあたりは伝統文化といっても、格が高いがゆえの鷹揚さなのかもしれません。

 茶文化作法は、私一人の力で作り上げられてきたのではありません。座学を担当し、作法の助勤を務めてくださる先生方のお蔭でもあります。初期の担当者の方々には大変感謝をしております。様々な個性を持つ先生方とうまくやっていくために私が心がけたのは、理よりも感情を優先することと、本当の自分はひとつじゃない と、自分に言い聞かせることでした。目の前の相手に真摯に対応することこそが、一期一会の体現であると思ったからです。平野啓一郎は、著書、「私とは何か 「個人」から「分人」へ 」の中で、個人主義ではなく、リスクヘッジとしての分人主義を説いています。私たちは自分という人間を、複数の分人の同時進行のプロジェクトのように考えるべきだというのです。ここで詳しくは書きませんが、この考え方は仕事をしていく上で大変参考になりました。

 

 

参考文献

 

「茶道の哲学」  久松真一    講談社学術文庫

「茶と禅」     伊藤古鑑    春秋社

「千利休の創意」 冷・凍・寂・枯からの飛躍  矢部良明   角川書店

「茶の本」     岡倉天心   講談社バイリンガルブックス

「日常に生かす茶の湯の知恵」  福良弘一郎     PHPエル新書

「私とは何か 「個人」から「分人」へ 」平野啓一郎  講談社現代新書

「風姿花伝」   世阿弥                  岩波書店

「美しい日本の私」その序説    川端康成      講談社現代新書

 

 

 

 

 

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2 コメント

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Unknown (c_moon)
2015-04-12 13:05:57
三回、拝読して、
私の知っていた茶道は茶室でお茶を飲む、その表面の形式ばかりだった・・・ということが、すごくよくわかりました。

また、「終わりに」で、草君さんの深い考えが示されて、
全体として、とても説得力のあるものに!
しみじみ、こんな先生に習いたいなと思いました。

読むことができて、よかったなと思う貴重な文章だと思います、ありがとうございます。
ありがとうございます。 (草君)
2015-04-26 16:50:35
c_moonさん、コメントうれしいです。
でも、この文章を書いてからのわたしは、日々追いつめられていくばかりです。わからない深い溝は、わたしの思うよりより深く汚いもののように思います。
戦う勇気のないものは、滅びていくのを待つしかないのでしょうか。。

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