古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

11月3日の駅ちかウオーキング

2016-11-05 | 旅行
 11月3日は、駅ちかウオーキングに行きました。スタートの堀田駅に10時。コースマップを貰って1番出口から堀田通りを直進。100mほどでブラザー記念病院と並んでブラザーコミュニケーシヨンスペースがありました。ブラザーは、前身の安井商会から数えると100年を越し、 展示は、“100年以上にわたって培ってきた「モノづくりのDNA」を製品展示を通して紹介“とありましたが、世界最初のミシンなど展示していました。ミシン、工作機械、プリンター、タイプライターなどの数々が展示され、ブラザーの歴史をビデオで紹介もしてもいました。小生50代、60台とマラソン大会で全国各地を回りましたがどこに行っても目抜き通りにブラザーの支店があったので、この店舗の土地だけでもたいへんな金額だと感服した記憶があります。
 もう一つブラザーについての記憶はカラケです。一時、不況で苦しんだとき、利益の大半を通信カラオケ事業で稼いだことがあります。ブラザーに勤めていた知人に「カラオケを開発した男は変わった男だった」と内輪話を聞いたことがあります。機械メーカーにいてカラオケで稼ぐという発想ができるのは相当変わった人でないとできないでしょう。
 ロボットの展示もありました。

ここで小一時間展示を見た後堀田通りを北に。7丁目で西へ曲がり新開橋東で右折して新堀田橋西から左折、神宮東公園に来ます。公園の池には水鳥が集っていました。
 ここで、「通過証」を渡されました。これを見せないとゴールで「完歩印」を押印できませんという。途中を中抜けしてゴールへ行って「完歩」というのは不可というわけ。
ここから杉原千畝スタンプラリーと言うのをやっていました。ここと、雁道商店街と瑞陵高校の3か所でスタンプを貰うと記念バッジが貰えるというのです。
第二次世界大戦、リトアニアのカウナス領事館に赴任していた杉原は、ナチス・ドイツの迫害によりポーランド等欧州各地から逃れてきた難民たちの窮状に同情。1940年7月から8月にかけて、外務省からの訓令に反して[2]、大量のビザ(通過査証)を発給し、およそ6,000人にのぼる避難民を救ったことで知られる
「杉原千畝人道の道」を歩きましょうと言うのが、今日のウオーキングの惹き句になっています。「杉原千畝」は瑞陵高校の前身愛知五中の出身なので、彼が通った道を「杉原千畝人道の道」と名付けて整備するのだそうです。
 3km余歩いて日本ガイシの傍を通過して雁道の交差点、渡ると商店街です。62年前、大学入学時にこの近くで下宿していました。ここの近く旧制八高の校舎があり、当時大学の教養部が置かれていたのです。現在は名古屋市大になっています。
 歩いてみても62年前の面影は全くありません。
 間もなく瑞陵高校です。

五中―瑞陵80年記念碑がありました。中に入ると、杉原千畝に関連する展示の数々、スタッフに聞くと千畝は6期生(愛知五中)とのこと。
庭には千畝の出身地、岐阜県八百津の特産品を売るマルシェが開かれていました。
瑞陵高校を出て、東へ歩くと瑞穂通り。区役所の草店を左折しました。この辺りで5km。
かなり疲れてきました。昔は42kmのマラソンを完走したこともあるのに、5~6km歩くだけで疲れてしまうのだから、80歳をすぎたという齢は争えない。
名古屋市博物館に来ました。
「禅の心と形 総持寺の至宝」という企画展をやっていたので1000円のチケットを買って入場しました。
曹洞宗の本山は永平寺と思っていましたが、永平寺の他に総持寺がある、2本山制なのだと初めて知りました。それに、総持寺は神奈川県の鶴見にありますが、昔は石川県輪島にあったが明治年代火災で焼け失われ、鶴見に再建されたという話でした。
 展示を見た後、市大病院前を右折、歩きに歩いて東山荘。ここは以前来たことがありますが、都心にあるとは思えない庭園です。

ここまで7km、その後は山崎川畔の散策路を歩いてパロマの瑞穂スポーツパークがゴールでした。1時半ゴールの受付を済ませ、「やれやれ疲れた」と思ったのですが、その後、瑞穂運動場東駅まで、たった500mほどですが、疲れてしまい歩くのが疲労困憊でした。
帰りにナゴヤドーム前で下車し、日課の水泳をやったのですが、500mで足がつってしまい、そこで泳ぎを止めてしまいました。体力の低下は否定できません。帰宅は4時45分でした。

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