古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

日清・日露戦争をどう見るか

2014-12-22 | 読書
「日清・日露戦争をどう見るか」(原朗著、NHK新書、2014年10月刊)を大学図書館の棚に見つけました。序章の次の記述に惹かれて読むことにしました。
『日清・日露戦争について取り上げるとすると、・・・司馬遼太郎氏による『坂の上の雲』について若干の感想を述べることは避けられません。
『坂の上の雲』が朝鮮問題についてほとんどまったく描写していないのはなぜだろう、というのが私のかねての疑問でした。
【日清戦争ついて、「原因は、朝鮮にある。と言っても、韓国や韓国人に罪があるのではなく、罪があるとしたら、朝鮮半島という地理的存在にある。ゆらい、半島国家というものは、維持が難しい」という程度ですませたのはなぜなのでしょうか。
 それ以外にも有名な「明るい明治」と「暗い昭和」の対比・・・
 司馬氏は敗戦前の昭和を「暗い昭和」と呼び、軍部が統帥権を握ったことを糾弾します。しかしながら、実はその統帥権をつくって強めてきたのは「明るい明治」の時代で、そこにこそ根源があります。
 また、「昭和」も暗い時代で終わったわけではありません。戦後の苦しい復興期を経て、昭和後期の日本では高度成長が始まり、・・・・ついには「経済大国」と呼ばれるほどにもなりました。戦前の「暗い昭和」の時代の貧しさからは想像もできないほど生活は豊かになりました。「暗い昭和」の後に「明るい昭和」があった。】
 この文を見て「読んでみょう」と思った次第です。
 著者は、東大名誉教授。専門は現代日本経済史という。
この本の結論は『120年前に開始された日清戦争は、その名のとおり、日本と清国の戦いでしたが、その戦争目的はまず何よりも朝鮮半島の支配権でしたから、むしろ「第1次朝鮮戦争」と言ったほうがより適切ないか。同じく110年前に開始された日露戦争も、その名のとおり日本とロシヤとの戦いであったが、その戦争目的はやはり朝鮮半島の支配権でしたから、いわば「第二次朝鮮戦争」と呼んでもいいものだろう。』ということだ。
 19世紀から20世紀にかけて、列強諸国の紛争は植民地をめぐっての争いでした。当時の資本主義は、原材料を仕入れる先として、また製品を売り込む先として植民地がないと、経済を繁栄させることができないと考えられていた。しかも国の武力は国の経済力によって決まるようになった。
つまり、資本主義の世紀にあっては、強国として存在するには、周辺として植民地が必須であった。
http://blog.goo.ne.jp/snozue/d/20140407
だから、植民地の争奪戦争が繰り広げられた。時代が変わって、植民地を維持するコストが、得られる利益よりも大きくなったと喝破したのは、石橋湛山でした。彼は帝国主義に対抗する平和的な加工貿易立国論を唱えて台湾・朝鮮・満州の放棄を主張する(小日本主義)。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%B8%BB%E7%BE%A9

坂の上の雲」では、日清戦争の原因については、詳しくはふれられていない。そこで、この本により、その経緯を記述してみます。

「征韓論」をめぐる対立で、西郷、江藤などが下野した明治6年の政変は、よく知られています。しかし、この「征韓論」、西郷は武力行使に反対でしたから、正確には「朝鮮使節派遣論」というべきです。
 1875年、日本の軍艦雲揚号が江華島沖で朝鮮側の砲台と交戦する事件をお越し、これを契機に1876年、日本は軍艦をおくって日朝修好条規を結び、朝鮮を開国させます。その第1条には「朝鮮国は自主の邦にして、日本国と平等の権を保有せり」、これは朝鮮に対する清国の相主権を否定するものでした。この日朝修好条規は、治外法権を定め、関税自主権を与えないなど、かつて日本が欧米に強制された不平等条約と同じものでした。
 1876年以後、朝鮮国内では、近代化をすすめて日本に習おうとする「開化派」と中国チュ新の冊封体制を維持しようという「守旧派」対立していた。
1882年、国王の父の指示を受け守旧派が、当時実権を握っていた明成皇后に対して軍事クーデターを起こす。日本公使館の襲撃を行う。清国軍が介入して明成皇后は復権、事態は一旦収束した。1884年、「開化派」がクーデターを起こし新政府を樹立(甲申事変)、これも清国軍が「開化派」を支援する日本の守備隊を破り新政権は3日で崩壊、以後朝鮮の内政・外交の主導権を清国が握る。
1885年4月、伊藤博文と李鴻章との間で天津条約が結ばれ、朝鮮から日清両国の軍隊撤廃、将来の派兵の際は事前通告するなどを定めた。
1894年「東学党の乱」(現在は甲午農民戦争)が始まり、第二次伊藤博文内閣は派兵を決定した。清国も朝鮮国王の要請により出兵すると通告してきた。
乱が収束しても日清両軍は撤兵せず、日本は清国に対し、協同で反乱鎮圧と朝鮮の内政改革にあたることを提案したが、清国はこれを拒絶。
この間、ロシヤとイギリスが調停を試みるが、日本は受け入れない。朝鮮政府に対し期限を付した内政改革案を提出、7月20日朝鮮に「清国への宗属関係を破棄するよう」最後通牒を突きつけた。
1894年7月23日、日本軍はソウルの朝鮮王宮を攻撃して占領、朝鮮軍を武装解除した。
 7月25日、朝鮮政府(日本の傀儡政権)は清国との宗属関係を破棄し牙山の清国軍を排除するよう日本軍に依頼する。同じ日、日本艦隊は豊島沖で清国軍艦を攻撃し、東郷平八郎は清国兵を乗せたイギリス船籍の貨物船を撃沈して国際法上の議論を呼び、外交的にも大問題になった。8月1日の宣戦布告により日清戦争になりますが、此処までの経緯を見ると、「第1次朝鮮戦争」というべきだという筆者の主張は頷けます。
 日清戦争後の下関条約により日本が得た利権は、最恵国条約により列強各国が持つことになり、清国は半植民地状態になります。反面、日本は最後の帝国主義国になった。両者の分かれ目は日清戦争でした。
日清戦争の次に日本が行った戦争が日露戦争と思いがちですが、この二つの戦争の間に「義和団戦争」(あるいは「北清事変」)があります。
義和団運動は、日清戦争後列強により半植民地状態におかれた清朝を助け外国を滅ぼすべきという運動です。
1900年5月北京駐在の11か国が集まって清国政府に義和団の鎮圧を要求し、各国は軍隊をおくって鎮圧に乗り出すことを決めた。8か国の連合軍が太湖の砲台を占拠、清国軍も反撃、西太后は8か国に正式に宣戦布告する。8か国連合軍が勝利し、8月15日北京を占領して義和団を鎮圧した。
この戦争の8か国(日本、イギリス、フランス、ドイツ、ロシヤ・イタリヤ、オーストリア、亜米利加)の連合軍の中で大活躍したのが日本軍でした。
1900年10月、講和会議で、4億5千万両の賠償金を清国が受諾。北京の公使館地区への軍隊駐留が認められた。ちなみに、このことがのちの日中戦争の引き金になった盧溝橋事件の遠因になったそうです。
 詳細は省きますが、日露戦争においても、朝鮮をめぐる対立が日露戦争に至ったことが、この本の記述で理解できます。
日清・日露ともに植民地支配をめぐる帝国主義の戦争であった。だからと言って、当時の日本の戦争を批判するものではありません。帝国主義戦争に勝たなければ生き残れなかった時代だったということでしょう。




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