古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

サラリーマン論

2017-01-22 | 読書
司馬遼太郎さんが、司馬遼太郎を名乗る前に、本名の福田定一で出した『名言随筆サラリーマン』という本がある。大作家の司馬さんがサラリーマンというものをどう考えていたか、是非読んでみたいと思っていたが、手にすることがなかった。ぞの本が昨年12月、文春新書の一冊として『ビジネスエリートの新論語』という書名で出版されたと聞き、早速本屋で入手しました。
司馬さんのサラリーマン暮らしのあれこれについてのエッセイであるが、さすがに期待に背かぬ内容でした。その一部を紹介します。
老いてサダラリーマンは運命論者になる
 商人や政治家や芸術家の人生なら、実力が彼を推進するメインスクリューになりうることが多い。サラリーマンはそうではない。彼の人生を運転するものは「運」なのだ。サラリーマンの人生の目標が社内での出世、つまり課長や重役になることであるとすれば、最初一斉にスタートしたサラリーマンの何%がそうした目標に到着できるかまず数的にもその可能性に厳しい限界がある。
 出世するには、最初に規格がある。学閥、親分罰、部課罰、その他の縁罰、まずその一つか、できればそのすべてを持つ必要がある。
 ついで、人間ノタイプだ。独立自尊型、というのはあまり芳しくないようである。好空かれなくてはならない。というより、かわいがられるタイプでなければならない。すこし坊ちゃん坊ちゃんしている。多少頼りないとこえろがある。そのくせチョッピル直情径行なところもある。仕事をやらせれば十人並にはできる。が、ときどき女にダマされたりして、どうも一人でほっとけない。そんなのに、上役という者は、つい肩入れしてしまうものだ。・・・
 独立自尊型は、えてしてこうでない。仕事と人生に対する自信がまず、ツラツキに出ていて、かわいげがない。実力に対する自信があるから、実力相応に報われないとつい不平がでる。不満は多くの場合、自分を有能の士として遇しない上役に向かって放たれる、やがてそれが聞こえる。こういうのが引き立てられることは極めてまれで、せいぜいよくて地方の支店長辺りがトマリで、ついには言語動作まで野武士化し、同期の重役の無能を罵倒しつつ定年に到達するのがオチである。
以上の良き条件をすべて備えていたところでそれだけではどうにもならない。もし親分が死んだり、事故で左遷されたりしたら、それでフイだ。親分が隆々社の主流を占め初めて」彼の運は開ける。その命中公算の稀少さはパチンコ玉の比でない。
 だから、自然、10年も同じ社にいれば、好むと好まざるとにかかわらず、運命論の信者になる。「運」に大悟しない者は、はじめからサラリーマンになるのが間違っているのである。こういう人は、キケロの言葉を朝夕唱味するがいい。―――人間の一生を支配するものは運であって、知恵ではない。

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