白雲去来

蜷川正大の日々是口実

最近はアドバルーンを見ない。

2017-04-19 11:57:22 | 日記
四月十七日(月)曇り。

春に三日の晴れの日なし。とのことわざのような曇りの日。夜半から大荒れの天気。正に、夜来風雨の声、花落つること知る多少である。案の定、雨漏りだ。何と言っても、もう三十年近い、文字通りの陋屋。屋根も壁も床も手直ししなければならないが、ガビーンと言うほど金がかかる。あと二年は、騙し騙し暮らさなければ。

作詞 星野貞志、作曲古賀政男で昭和十一年に流行した「ああそれなのに」という歌がある。 「空にゃ今日もアドバルーン さぞかし会社で今頃は おいそがしいと思うのに あゝそれなのにそれなのに ねえおこるのは おこるのはあたりまえでしょう」。今でも意味の良く分からない歌なのだが、おそらく子供の頃にテレビか何かで聞いたものだろうが、最初の「空にゃ今日もアドバルーン」という歌詞だけは良く覚えている。

私の通っていた、横浜市立太田小学校は、三春台という山の上にあり、校舎からは富士山がはっきり見えた。また帰り際には、右手には根岸の海が夕日に輝いているのが見え、左側には、まだ数の少なかった伊勢佐木町や関内のビルが遠望できた。そのビルからは、幾つものアドバルーンが上がっていたことをよく覚えている。私の小学校時代の原風景である。最近は、アドバルーンなどほとんど見なくなった。

アドバルーンと言えば、思い出すことがもう一つ。その昔、ビーバップ・ハイスクールで有名になった清水宏次郎氏のバックバンド・リーダーだったのが、N・Sさん。そのバンドが解散した後に、同じ会社の宣伝部に配属になり、そこでの仕事が、アドバルーンを上げる仕事だった。アドバルーンは、当然上げたならば、下ろさなければならない。早い話が、デパートの営業が終了する直前まで、アドバルーンの下で管理していなければならない。一旦上げてしまえば、下ろすまで何もやることが無い。ただボーッとしているだけだ。その時に、彼は、「こんなことをしていて、一体何になる」と自己嫌悪に陥り、一念発起して、宅建の免許を取得して不動産業に転職した。当時は、「叩く不動産屋」(値切るのではなく、彼がドラマーだったことから)と一世を風靡したが、残念ながら、都心にビルを所有すると言う、出世には至らなかった。風の噂では、何やら東北の方で、初心に帰って、再び、澄んだ空を見上げているとのこと。まっ元気ならそれでいい。

夜は、大人しく酔狂亭で独酌。


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葉桜の風の言葉は独り聴く

2017-04-19 10:23:53 | 日記
四月十六日(日)晴れ。

野村先生の句に、葉桜の風の言葉は独り聴く。というものがあるが、我が町の桜の名所も既にほとんどが葉桜となっている。桜と言えば、正岡子規は早熟で、十歳の頃にはすでに雅号があったそうだ。その雅号というのが、何と「姥桜」。(随筆集『筆まかせ』)子規の生家の庭の桜にちなんだものだった。姥桜とは、葉が出るよりも先に花が開く桜のこと。「葉がない」→「歯がない」→「姥」(老女)にかけた言葉。本来の意味は、女盛りを過ぎても、美しさや色気が残っている女性のこと。皆さん違った意味で使っているのでは・・・。

今日は、女盛りを過ぎても(失礼)、美しさや色気が残っている女性、アコチャンとサエちゃんの誕生会を仲良しの佐伯さんのお世話で、保土ヶ谷の「うな平」にて行った。良い天気で、長袖では暑くて仕方がないので、パーカーの下は半袖のTシャツを着て愚妻と共に出かけた。そのお店は、佐伯さんのホームグラウンド。まず持ち込みの「モエシャドン」で乾杯。お刺身や鰻を肴に、話が弾む。さて二次会となったが、まで昼間、相鉄線の駅近くに昼間からやっているお店があるとのことで、向かう。ここでしばらく飲んでから解散。昼酒でヘロヘロになった。

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