かつての日本人はなぜ一丸となって戦えたか:国家神道について

2010年08月27日 | 歴史教育

 今日の記事は、かなり長くなります。

 7月末、岩波新書で友人の島薗進氏の『国家神道と日本人』が出たという新聞広告を見て、買わなくてはと思っていたところ、送っていただきました。


国家神道と日本人 (岩波新書)
島薗 進
岩波書店

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 前期末の厖大な数のレポート採点と久しぶりに秋に出す本(『アドラー心理学と仏教――自我から覚りへ(仮題)』佼成出版社)の原稿締切りとで、すぐに読むことができなかったのですが、それが終わってちょうど終戦記念日(というより敗戦記念日)をはさんで数日かけて読み終えました(いつもなら新書一冊は半日もかからないのですが、重要な内容だったのでじっくり読んだので少し時間がかかりました)。

 昨日の記事に書いたとおり、非常にすぐれた分析で、「おもわず膝を打つ」という表現がありますが、そんな感じでした。

 戦前の日本という国家(大日本帝国)のコスモロジーであり、日本人のアイデンティティとなったのは、まぎれもなく「国家神道」だったことが、コロンブスの卵――自分では思いつかないのにやって見せてもらうと「なんだ、そんな簡単なことか」と思ってしまうこと――風に了解できました。

 その直後、小室直樹『日本国民に告ぐ――誇りなき国家は、滅亡する』(ワック出版)も読んで、さらにうなづくものがありました。

 そちらについてもできればまた記事を書きたいと思っていますが、今日はまず、『国家神道と日本人』の要点――だと私が思ったところ――を引用‐紹介しておきたいと思います(島薗さん、私の問題意識に引きつけすぎた曲解だったら、ごめんなさい)。


 「国家神道とは何か」が見えなくなっているために、日本の文化史・思想史や日本の宗教史についての理解もあやふやなものになっている。当然、「日本人」の精神的な次元でのアイデンティティが不明確になる。「国家神道とは何か」を理解することは、近代日本の宗教史・精神史を解明する鍵となる。この作業を通して、明治維新後、私たちはどのような自己定位の転変を経て現在に至っているのかが見えやすくなるだろう。このことこそ、この本で私がもっとも強くした主張したいことだ。(はじめに~)

 明治維新後の皇室祭祀の展開が、神道の近代的な形態のきわめて重要な一部であること、また、それが伊勢神宮を頂点として組織化されていく神社界と密接不可分なものとして理解されてきたことは、誰の目にも明らかである。また、国体論が天皇「神孫」論や伊勢神宮崇敬と結合し、皇室祭祀や神社界と切り離しがたい関係をもっていたことも否定のしようがない。これらを総合的に捉えて、国家神道と呼ぶのはきわめて自然なことだ。(八二頁)

 それ(『神社本義』――引用者注)によれば、日本の「歴代の天皇は常に皇祖と御一体であらせられ、現御神として神ながら御代しろしめし」てきた。戦時中のこの文書では、天皇は「現御神」「神ながら」の特性をもつ、神的な存在として仰ぎ見られている。そして、「国民はこの仁慈の皇恩に浴して、億兆一心、聖旨を奉体し祖志を継ぎ、代々天皇にまつろい奉つて忠孝の美徳を発揮」してきたという。こうして「君臣一致の比類なき一大家族国家を形成し、無窮に絶ゆることなき国家の生命が、生成発展し続けて」いるのだ――『神社本義』はこう述べている。
 確かに国家神道は、人々をこのような信仰の境地にまで進ませた。第二次世界大戦の末期などはそうした信仰が昂揚し、多くの人たちがそれに巻き込まれていった。天皇陛下のために命を投げだすことも覚悟する人々が少なくなかったのだ。しかし、一九三〇年頃までのことを考えると、このような境地に達していた人はそう多くはなかった。(六六頁)

 実際には神社神道は皇室祭祀と一体をなすべきものとして形成されていった。そしてそれらは国民に天皇崇敬を広め、それによって国家統合を強化しようという意図と切り離せないものだった。……その導きの糸となった理念は、祭政一致とか祭政教一致とか皇道と呼ばれたものである。神道祭祀や天皇崇敬を核とする、あるべき国家の像が江戸時代末期に形成され、維新政府の政策の指標となった。そうした指標に従って、神社政策、宗教政策、祭祀政策、国民教化政策が行われていった。神道祭祀と天皇崇敬が核にあるという点で、それらの諸政策は相互に連関しあっており、天皇崇敬の周囲に形作られた「祭」や「教」は一体をなすものであり、「国家神道」と呼べるような全体を形づくっていた。(九二頁)

 まず注目したいのは、「大教」「皇道」などの語である。明治維新後の早い時期にこうした理念が聖典的な意義をもつ天皇の言葉、つまり「詔勅」として提示され、以後も正統理念としての地位を失わなかった。それは、万世一系の「国体」や天皇崇敬と神道の祭や神祇崇敬を結びつけ、国民の結束と国家奉仕を導き出すことができる理念だった。一方、それはまた多様化や自由化を含意し、個々人の自発性を尊びながら富国強兵に向かう国家を支えることができるような理念としても捉えられていた。今、私たちが「国家神道」とよんでいるものの観念内容(「国家神道の教義」にあたるもの)は、明治維新前後の時期に「大教」「皇道」などとよばれていたものとおおよそ重なり合うものなのだ。(一〇六~一〇七頁)

 教育勅語の成立によって、学校では天皇による聖なる「教」が絶大な威力を発揮することになった。そうした帰結と見比べるとき、少数の関与者のやりとりを通して進行したその成立経緯は、必然性を欠いた歴史の気まぐれのような印象を与える。しかし、巨視的に見れば、元田と明治天皇を動かしていた力は、明治維新の枠組みそのものが準備したものである。すなわち皇道論や「祭政教一致」の建前が掲げられ、それに従って制度構築が進められ教育勅語に結晶したのだ。(一三一頁)

 国家神道の祭祀体系の形成と「教育勅語」に至る「教え」の形成は、いちおう別個の過程をたどっている。しかし、それらはどちらも天皇崇敬と祭政一致・祭政教一致の理念に基づいたものである。その導きの糸となる天皇の言葉は、皇道論者が起草した一八七〇年の「大教宣布の勅」によって示されていた。そこでは「天皇の祭祀」と「皇道」「治教」とが一体のものと考えられ、新たな国家の根本原則と見なされている。その意味で「大教宣布の勅」は、天皇自身が示した国家神道のグランドデザインを示す文書となったと見ることができる。(一三五頁)

 学校や軍隊や国家行事を通してナショナリズムが育てられるのは、欧米をはじめとして世界各地の国民国家で広く共通に見られることである。日本ではナショナリズムが国家神道という宗教的要素と絡み合って展開した。世俗的ナショナリズムが標準的と考えられたヨーロッパとは異なるパターンであるが、世界各地を見渡せば、ナショナリズムと宗教が重なり合って展開する例は珍しくない(ユルゲンスマイヤー『ナショナリズムの世俗性と宗教性』)。宗教的ナショナリズムが目立つ国として、インド、イスラエル、イランを初めとするイスラーム諸国が思い浮かぶが、ロシアや東欧諸国やアジアの仏教国もそこに含まれよう。
 このような観点に立つ時、国家神道が国民自身で担い手となる下からの運動という性格を帯びるようになったことに注意する必要がある。ナショナリズムが国民によって下から支えられていく性格をもっていることは広く認識されている。国家神道も武士層が鼓吹し国家制度に取り込まれて広まっていったのだが、やがて民衆に受け入れられ、下からの国民運動として、あるいは宗教的ナショナリズムとして広まるようになっていったと見ることができる。(一六六~一六七頁)

 こうした近代日本宗教史の見解を理解する上で示唆に富んだ指摘をしているのは、久野収・鶴見俊輔『現代日本の思想』(一九五六年)の久野が執筆した「第四章 日本の超国家主義」だ。久野は宗教について論じているのではなく、政治理念について論じているので少々文脈は異なるが、国家神道の歴史という問題に適用してみる価値があると思う。
 久野によると明治憲法の国家体制は、国民向けの「顕教」とエリート向けの「密教」との組み合わせで成り立っていた。
 天皇は、国民全体にむかってこそ、絶対的権威、絶対的主体としてあらわれ、初等・中等の国民教育、特に軍隊教育は、天皇のこの性格を国民の中に徹底的にしみこませ、ほとんど国民の第二の天性に仕上げるほど強力に作用した。/しかし天皇の側近や周囲の輔弼機関から見れば、天皇の権威はむしろシンボル的・名目的権威であり、天皇の実質的権力は、機関の担当者がほとんど全面的に分割し、代行するシステムが作り出された。/注目すべきは、天皇の権威と権力が、「顕教」と「密教」、通俗的と高等的の二様に解釈され、この二様の解釈の微妙な運営的調和の上に、伊藤の作った明治日本の効果がなりたっていたことである。(久野・鶴見『現代日本の思想界』一三一―一三二ページ)
 国民全体に対しては、無限の権威をもつ天皇を信奉させる建前を強化し、国民の国家への忠誠心を確保しようとした。これが「たてまえ」、つまり「顕教」だ。他方、国家と社会の運営にあたる際には、近代西洋の民主主義や自由主義の生徒に準拠し、経済や学問知識の発展、そのための人材活用を尊んだ。これが支配層間の「申しあわせ」で、「密教」にあたる。
 憲法解釈に即していうと、「顕教」は天皇=絶対君主説となり、「密教」が立憲君主制の立場であり天皇機関説となる。「小・中学校および軍隊では、「建前」としての天皇が決定的に教えこまれ、大学および高等文官試験にいたって、「申しあわせ」としての天皇がはじめて明らかにされ、「たてまえ」で教育された国民大衆が、「申しあわせ」に熟達した帝国大学卒業生たる官僚に指導されるシステムがあみ出された」(同前、一三二ページ)
 伊藤博文や井上毅の意図では、この「密教」の立場が政治システムを統御し続けるはずだったが、「顕教」を掲げる下からの運動、そしてその影響を受けた軍部や衆議院が統御を超えて「密教」の作動を困難にしていく。「軍部だけは、密教の中で顕教を固守しつづけ、初等教育をあずかる文部省をしたがえ、やがて顕教による密教征伐、すなわち国体明徴運動を開始し、伊藤の作った明治国家のシステムを最後にはメチャメチャにしてしまった。昭和の超国家主義が舞台の正面におどり出る機会をつかむまでには、軍部による密教征伐が開始され、顕教によって教育された国民大衆がマスとして目ざまされ、天皇機関説のインテリくささに反撥し、この征伐に動員される時を待たねばならなかった」(同前、一三三ページ)
 近代的な政治は世俗的な力によって動くと考えていた久野は「超国家主義」という「イデオロギー」が基軸だったと考え、宗教用語をたとえとして用いているが、久野のいう「顕教」は事実、国家神道としてとらえるのが適切なのだ。(一七八~一七九頁)

 ……この書物では、これまであまり注目されてこなかった理由に目を止めている。――国民国家の時代には国家的共同性の馴致が目指されるが、民衆自身の思想信条は為政者や知識階級の思惑を超えて歴史を動かす大きな要因となる。また、啓蒙主義的な世俗主義的教育が進む近代だが、にもかかわらず民衆の宗教性は社会が向かう方向性を左右する力をもつことが少なくない――。日本の国家神道の歴史は、このような近代史の逆説をよく例示するものだろう。(一八一頁)


 「国家神道」こそ「ほとんど国民の第二の天性」となったものの基礎、つまり江戸末期に始まり、大東亜戦争期に完成された、「日本人の国民的アイデンティティ(大和魂)」の基礎となるコスモロジーだったのです。

 それは、聖徳太子「十七条憲法」を出発点として形成‐完成された日本のコスモロジーである「神仏儒習合」を換骨奪胎して「天皇教」としたものであり、だからこそ、国民はただだまされて信じたのではなく、かなり自然に本気で信じることができるようになったのだ、と考えられます(軍神杉本五郎『大義』参照)。

 それがあったからこそ、日本人は一丸となって植民地化される危機を乗り切り、近代国家を形成し、富国強兵へと邁進し、植民地化される側から植民地化する側にまわり、そして先に植民地化をしていたイギリスや遅れて植民地化に向かったアメリカと植民地をめぐる利害が対立した時、自らの正当性(大義)を信じて本気で戦うことができたのではないでしょうか。

 (どうも、「明治維新は善、大東亜戦争は悪」では、話のつじつまが合わないような気がします。たとえ、その中間「坂の上の雲」まではよかった、でも、どうも……)。

 善悪、功罪の評価をする前に、その歴史的事実をしっかりと認識しておく必要があると思います。

 本気で信じて死ぬつもりだった若者が、敗戦によってどのようなアイデンティティ・クライシス(危機)に陥ったか、自らの体験をベースに描いた城山三郎の『大義の末』『忘れ得ぬ翼』『硫黄島に死す』を読みながら、その後、日本人の魂はいまだにアイデンティティの再構築をできないままさ迷っているなあ(それどころか、すべての物語〔つまりコスモロジー〕の「脱構築」が正しいかのような言説がこの間まで流行しており、まだかなり強くその名残があります)、それでは環境問題を筆頭とする現在の国家的危機に対して一丸となれないのも戦えないのも当然だなあ、と慨嘆しています。

(何度も繰り返しておきますが、私は右でも左でもありません。国家神道の復活を考えているわけでは全然ありません。両方の正当な部分を統合したいと思っていて、統合のためには右のエッセンスが何だったかをも知っておく必要がある、と考えているのです)。



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