なぜ苦しみに遭うのか:唯識のことば25

2017年02月24日 | 仏教・宗教

 なぜ世間には衆生で重い苦しみの災難に会うものが見られるのか。

 菩薩は、衆生はカルマがあって苦の報いを受け、勝れた楽の結果をさえぎられることを見るからである。

 菩薩は、もし彼に楽なことを施せば、善を行なうことを妨げることを見るからである。

 菩薩は、彼に楽なことがなければ、眼のあたりに生死を厭う心を起こすことを見るからである。

 菩薩は、もし彼に楽なことを施すと、一切の悪い事柄を生長する因縁になると見るからである。

 菩薩は、もし彼に楽なことを施すと、他の無量の衆生を迫害する因縁になると見るからである。

 こういうわけで、菩薩にはこのような勝れた能力がないのではないが、世間には苦しみを受ける衆生が現われるのである。

                    (『摂大乗論現代語訳』第八章より)


 すべてがコスモスの美しい夢ならば、なぜこの世に苦しみがあるのか、と疑問を感じることがあります。

 特に自分が苦しみに遭った時、「何も悪いことはしてないのに、なぜ私がこんな目に遭うのか」と思うことがあります。

 上に引用した言葉に出会った時、そういう疑問に対して「なるほど、唯識はこう答えるのか」とかなり納得しました。

 もちろん理論的にであって、いつも実感というわけにはいかないのですが。

 仏・菩薩がいるのに、なぜこの世に苦しみがあるのかと問いを立て、アサンガは五つの理由・場合があると答えます。

 納得しやすい順に変えていうと、①楽なことつまり力や富や健康を与えると、いい気になって他の人や生き物をいじめる場合がある。そういう人間には苦しみを与えたほうがいい、と。

 これはわかりやすい。ぜひ、そうあってほしいくらいです。

 ②次も同様で、金や暇が余るとろくでもないことをする人間の場合も、そういうものを与えない。これも納得です。

 ③それから、あまりにも幸福だと、それに満足して、それ以上いいことをする気にならない人の場合も、わかります。

 ④望まないことですが、言われれば納得せざるをえないのが次で、「楽なことがなければ、眼のあたりに生死を厭う心を起こす」場合です。

 幸せだと人間はあまりものを考えない。

 ふつうの人生に疑問を感じ、それを超えたいと願うには、不幸という苦い薬が必要なこともある。

 不幸を通じて人間性が成長する、魂が深まるということは確かにあります。

 ⑤納得しにくいのは「カルマ」です。しかし、苦しみに遭った時、偶然の不運・不条理ととるか、そこから何か深い意味を読み取ろうとするか、そこで生き方が決定的に変わります。

 これは一歩誤ると迷信的な因縁話になりますが、すでに唯識を知っている人には、深い生き方への導きになります。

 つまり、意識では知りえない過去の悪しきカルマのために、今、苦しみを受けている。

 けれども、一方すばらしいカルマを積んできたこともまちがいない。

 なぜなら、現に唯識という真理のことばに出会えたのだから。

 だとしたら、後は、幸不幸は関係ない、今生で過去のカルマをどう清算し、さらにどれほどいいカルマを重ねることができるかだけが問題だということになるからです。

 これは徹底的にポジティヴな人生観ではないでしょうか。

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