『日本国民に告ぐ』について:暫定的コメント 1

2010年08月30日 | 歴史教育

 先日の『国家神道』に続いて、小室直樹『日本国民に告ぐ――誇りなき国家は、滅亡する』(ワック社、2005年、クレスト社、1996年の改訂版)のポイントを紹介し、コメントしておきたいと思います。

 今日も、話は長くなります。

 小室氏は、まず最初の方で、日本国民に向かって、次のような警告をしています(一行空きは筆者)。


 日本滅亡の兆しは、今や確然たるものがある。人類は一九九九年に滅亡するとノストラダムスが言ったとか。中国は香港返還後半年で滅亡する、と長谷川慶太郎氏は言った(『中国危機と日本』光文社)。しかし、より確実に予言できることは近い将来における日本滅亡である。

 滅亡の確実な予兆とは、まず第一に、財政破綻を目前にして拱手傍観(きょうしゅぼうかん)して惰眠を貪っている政治家、役人、マスコミ、そして有権者。
財政危機は先進国共有の宿痾(しゅくあ 持病)である。欧米では、人々は財政危機と対決し、七転八倒している。政治家も有権者も、早く何とかしなければならないというところまでは完全に一致し、そこから先をどうするかを模索して必死になって争っているのである。
それに対し、はるかに重要で病すでに膏肓に入っている日本では、人々は案外平気。財政破綻とはどこの国のことか、なんて顔をしている始末。

 日本絶望のさらに確実な第二の予兆は、教育破綻である。
 その一つは、数学・物理教育の衰退枯死。このことがいかに致命的か。
日本経済は技術革新なしに生き残ることはできない。しかし長期的には、日本の技術立国の基礎は確実に、崩壊しつつある。工学をはじめ「理科系」へ進学する(あるいは進学を希望する)学生が急激に減少している。まことに由々しきことである。
 技術立国のためだけではない。数学・物理は、社会科学を含めたすべての科学あるいは学問の基礎であるとまで断言しても、中(あた)らずといえども遠からず。このことをトコトン腑に落とし込んでおくべきである。

 だが、さらにより確実な滅亡の予兆は、自国への誇りを失わせる歴史教育、これである。
誇りを失った国家・民族は必ず滅亡する――これ世界史の鉄則である。この鉄則を知るや知らずや。戦後日本の教育は、日本の歴史を汚辱の歴史であるとし、これに対する誇りを鏖殺(おうさつ)することに狂奔してきた。
(小室直樹『日本国民に次ぐ――誇りなき国家は、滅亡する』ワック社、二〇―二二頁)


 ここでまずコメントしておくと、小室氏があげている三つの予兆は、筆者もまさにそのとおりだと考えています。これらはみなまさに大問題・死活問題です。

 しかし、不思議なことに小室氏は日本の多くの学者、政治家、財界人と同様、環境問題という根本的な「滅亡の予兆」についてはまったくと言っていいほど注目していません。

 環境問題への適切な対処をしなければ滅亡するのは人類であって、日本国民だけではありませんが、もちろん人類には日本国民も含まれているのですから、「日本国民に告ぐ」べき滅亡の予兆には環境問題もぜひ含まれる必要がある、と筆者は考えます。

 しかし、もう一度言うと、3つの予兆については、確かにそのとおりだと思いますし、それがどうして生まれてきたのかという社会学的分析については、きわめて鋭く適切で、教えられたことが多くありました。

 小室氏がソ連崩壊の10年も前に崩壊を予測していたことは、知る人ぞ知るです(『ソビエト帝国の崩壊』光文社、1980年、私も本が出た当時、すぐに買ってざっと読んだ覚えがありますし、さかのぼって1976年に出た『危機の構造――日本社会崩壊のモデル』(現在中公文庫)も買って読むには読みましたが、その時点では正直なところ小室氏の警告の本質的な意味を理解することができたとはいえませんでした)。

 その小室氏が、基本的に同じ理論から日本の崩壊を予測しているのですから、賛成するしないは別として耳を傾けるに値するのではないでしょうか。

 小室氏が拠って立つ基本的理論は「アノミー論」と呼ぶことができるでしょう。

 その概要は、小室氏自身が「カリスマの保持者は、カリスマを手放してはならない」という小見出しのところで、以下のように要約しています。


 アノミー (anomie) とは何か。「無規範」と訳されることもあるが、それよりも広く“無連帯”のことである。…

 アノミー概念を発見したのは「社会学の始祖」E・デュルケム(フランス人、一八五八~一九一七年)である。デュルケムがアノミー現象を発見したのは、自殺の研究を通じてであった。彼は、生活水準が急激に向上(激落の場合だけではない)した場合にも自殺率が増加することを発見した。
 なぜか。生活水準が急上昇すれば、それまでつき合っていた人たちとの連帯が断たれる。他方、上流社会の仲間入りを果たすのも容易ではない。成り上りものと烙印を押され、容易には付き合ってくれない。かくして、どこにも所属できず、無連帯(アノミー)となる。連帯(ソリダリテ、solidarite)を失ったことで狂的となり、ついには自殺する。
 これがアノミー論の概略。このように生活環境の激変から発生するアノミーを「単純(シンプル)アノミーと呼ぶ。その心的効果は「自分の居場所を見出せない」ことにある。どうしてよいか途方に暮れる。そして正常な人間が狂者以上に狂的となる。

 アノミーには、この単純アノミーのほかに、「急性(アキュート)アノミー」と呼ばれる概念がある。これは、信じきっていた人に裏切られたり、信奉していた教義が否定されたときに発生するアノミーである。
 急性アノミーが発生すれば、人間は冷静な判断ができなくなる。茫然自失。正常な人間が狂者よりもはるかに狂的となる。社会のルールが失われ、無規範となり、合理的意思決定ができなくなる。

 精神分析学者のフロイトは、急性アノミー現象を、軍隊の上下関係の中に発見した。どんな激戦・苦戦に陥っても、指揮官が泰然としていれば、部下の兵隊はよく眠り、よく戦う。厳正な軍規が保持され、精強な部隊であり続ける。しかし、指揮官が慌てふためいたらどうなるか。急性アノミー現象が発生し、部隊は迷走。あっという間に崩壊する。

 ヒトラーはこれをローマ教会に似た。ローマ・カトリックは、なぜ一五〇〇年以上も世界最大の宗派たりえるのか。それは、ローマ教会が絶対教義の過ちを認めないからである。これが世界最大の教団でありえた理由であるとヒトラーは説明する。

 かくて、急性アノミー理論は、別名「ヒトラー・フロイトの定理」ともいう。この定理を換言すれば、こうなる。カリスマの保持者は絶対にカリスマを手放してはならない。傷つけてもならない。もしカリスマが傷つけば、集団に絶大な影響が及ぶ。もしカリスマを失えば、集団は崩壊する。筆者が、フルシチョフによるスターリン批判を踏まえ、昭和55年(1980年)、『ソビエト帝国の崩壊』(光文社)を著したのも、実はこの急性アノミー理論によるのである。


 国民同士の間に規範と連帯がなければ国家が滅亡するのは、自明の理、時間の問題と言ってまちがいないでしょう。

 上記のような理論を基にして、小室氏は「なぜ戦後日本は無連帯(アノミー)社会となったのか」について、以下のような鋭く適切な分析をしています。


 終戦により発生した熾烈な急性アノミー、これを利用したGHQによる巧妙なマインド・コントロールによって、戦後の日本の「急性アノミー」は、さらに深く広いものとなっていった。

 根本的な原因は、GHQの「日本人洗脳計画」に基づき、「太平洋戦争史観」すなわち「東京裁判史観」を植え付けられたからである。「自存自衛」の「大東亜戦争」が、「侵略戦争」と断罪されたからである。間違った戦争だとされたからである。日本軍が「南京大虐殺」をやったと脳髄にたたき込まれたからである。しかも、繰り返し繰り返し。新聞、雑誌、ラジオ、映画、そして学校教育によって。
 日本の歴史は間違いだった、日本軍は大虐殺をやった、日本人は悪い人間である、と教えられた。これは恐ろしい。日本人には大虐殺という概念がなかった。欧米や中国ではあったが日本にはなかった。
 ところが、日本軍が大虐殺をしていたということになった。日本は大虐殺をする侵略国家とされた。多くの善良な日本人が、後ろめたい心理状態になったのは当然だ。GHQの「日本人洗脳計画」によって骨の髄から「贖罪意識」を植え付けられたからである。

 戦後、日本人はGHQによって、日本人としての誇りを奪われた。しかし、戦前の日本はそうではなかった。学校でも家庭でも日本人であることに誇りを持てと、繰り返し教育した。誇りは規範や倫理の根本である。特に、軍人が「お前らは日本人の鑑になれ、手本になれ」と教えられた。一般の日本人も、「兵隊さんだったら悪いことはしない」と当然のように思っていた。だから、民家に兵隊が泊まる場合でも、誰もが安心し、喜んで宿を提供した。実際に、悪いことはしなかった。……
 (『日本国民に告ぐ』二九三~二九六頁)


 戦前の日本を支えていた根本は何か。トップにおいては天皇共同体。天皇イデオロギーによる共同体である。天皇と日本人は、共同体を作っていると考えられた。GHQはこれを破壊しようとした。天皇イデオロギーの破壊は、天皇の人間宣言に始まり、そこで終わった。……
 カリスマの保持者は、カリスマを手放してはならない。カリスマが失われ、それまでの正当性(レジテマシー)が変更されたとき、その集団は崩壊し、崩壊した集団は急性アノミーになる。
 ――実は朕は人間であった――
 かくて天皇イデオロギーによる共同体は、天皇の「人間宣言」によって崩壊した。

 これはあたかも、アラーがイスラム教徒に「わしは実は悪魔であった。コーランはみんなさかさまに読め」と言ったような話ではないか。そうなったらイスラム教はどうなる。
 世界の国家(民族、宗教)には、それぞれ、その国がよって立つ正統性がある。アメリカなら建国の精神、中国(漢民族)や中華思想、イスラエルならユダヤ教、といった具合だ。かつてのソ連ならマルキシズム。正統性はその国家の背骨だから、失われたり、大きく変更されたりしてはならない。そんなことすると国家はアイデンティティーを喪失してアノミーを起こす。

 ソ連崩壊の原因がフルシチョフによるスターリン批判だったことは、すでに述べた。だから世界中の国は、その国の正統性を教育によって子供に叩き込む。戦前、日本の正統性は天皇イデオロギーであった。それが天皇の人間宣言によって崩壊したのである。
 (『日本国民に告ぐ』二九九~三〇三頁)


 小室氏はさらに、日本国民が深刻なアノミー――無規範、無連帯――状態に陥ったもう一つの原因とその結果について次のように述べています。


 一方、天皇イデオロギーによる共同体とともに、戦前の日本を支えていたもう一つの共同体が、村落共同体。天皇イデオロギー共同体を頂点とするが、底辺にあったのが村落共同体であった。……占領政策によって、頂点における天皇システムは大打撃を受けた。底辺における村落共同体も、高度成長の始まりとともに昭和三十年頃から急速に解体した。かくて、日本を支えていた共同体が頂上と底辺の両方から破壊された。そして、まさに無連帯、大アノミー。

 では、破壊された共同体はどこに吸収されていったのか。……ほとんどが大企業、その他、お役所。いずれも、本来は機能集団(ファンクショナル・グループ)。それが急速に共同体化した。
 つまり、企業という機能集団が共同体となってしまったのである。戦前、戦中までは、基礎的な人間関係は天皇との関係であり、村落における人間関係だった。しかし、そうした人間関係が全部崩れて、企業が共同体になってしまった。日本社会を作っていた共同体が、機能集団である企業の中にもぐり込んでしまった。

 これがいかに恐ろしいことか。本来、企業集団にはその集団の存在理由、目的がある。民間企業であるが収益を上げることであり、官庁であれば国益を追求することだ。ところが、機能集団が一度、共同体と化せばどうなるか。

 すでに述べたように、共同体の社会学的特徴は二重規範である。共同体の「ウチの規範」と「ソトの規範」とは、まったく異なる。「してよいこと」と「してはならのこと」とが、共同体のウチとソトでは、異なるのである。つまり、ウチでもソトでも共通に通用する普遍的な規範が存在しないことが、共同体の特徴なのである。
 したがって、企業集団が共同体と化せば、そこには普遍的な規範は存在しない。共同体のソトでは悪いことでも、共同体のウチではよいことになってしまう場合が出現する。たとえば、薬害エイズ事件での厚生省の対応。厚生省の本来の存在理由である国民の健康守るという国益は蔑(ないがし)ろにされ、身内の失策をかばうという内部規範が優先されたではないか。
 (『日本国民に告ぐ』三〇三~三〇五頁)


 続いて小室氏は、受験戦争が急性アノミーを拡大生産したことを指摘していますが、これもまたまったく同感するところです。


 戦後日本に発生した「急性アノミー」を拡大再生産したのが、いわゆる受験戦争である。受験勉強は、なぜいけないのか。子供たちが泣くのが可哀相というだけではない。最大の問題は、友だち、同世代の人間が全部敵になることだ。子ども同士の連帯がズタズタになる。若者にとって最も大切なのは、同じ年齢の人びととの連帯感。それが破壊されてしまった。……

 そもそも、教育とは何か。ルソーは「教育の目的は機械を作ることではなく、人間を作ることだ」(『エミール』)と述べた。つまり、自分の頭で物事を考えるような人間に育てるということである。そして、実生活で直面するさまざまな問題を解決する能力を与えることである。そのために必要な知識を教え、知力や体力を育てることだ。それは、人間は教育されたことを土台としてしか、問題を解決できないからである。

 ところが、戦後日本の教育はどうだ。人間を作ることではなく、条件反射するネズミを作ることを目的としているではないか。……入学試験で出題される問題には、あらかじめ「正解」が用意されている。答えるべき「正解」は一つである。マークシートの上で、唯一の正解を塗り潰すことに成功したものだけが、優秀と言われエリートとして選抜される。正解に達することができなかった者は、人生の落伍者となる。……

 実生活で直面する問題に「正解」があるとは限らない。むしろほとんどの場合、「正解」が用意されていないと言ってよい。仮にあったとしても、「正解」が一つであるという保証はない。正解が一つであったとしても、求める方法がないために、近似値にしか近づけない場合もある。まさに「一寸先は闇」なのだ。その闇に果敢に立ち向かっていくための土台を築くことが本来の教育の目的なのである。

 ところが、受験勉強というプロセスの中で、問題には必ず一つの正解があるという刷込みを受ければどうなるか。正解が用意されていない問題に直面したとき、右往左往するばかりで、どう対処してよいか分からなくなるではないか。

 日本人がすぐに思考停止するのはこのためである。決して自分の頭で考えようとしない。右往左往しながら、誰かが正解を教えてくれるのを待ち望み、教えられたことだけを従順に信じこむのである。

 だから、日本人はアメリカが偉いとなったらアメリカだけ。南京大虐殺があったと教えられれば、鵜呑みにする。何が正しくて、何が正しくないかを判断する能力がなくなった。誰かが、これが絶対に正しいと言えば、盲目的についていく。その意味で象徴的だったのがオウム事件である。
 一流大学を卒業した四十代の医師が、「教祖」から地下鉄にサリンを撒けと言われたら、「ハイ」と撒く。事件の全容が次第に明らかになるにつれ、世間は「なぜ、あんな真面目で優秀な人が」と驚いた。精神に狂いが生じたわけではない、アノミーなのである。

 オーム事件は、まさに現代日本の縮図であった。なんでもアメリカ様の言うとおり。アメリカ様の言うことはすべて正しい。アメリカ様に逆らえば、地獄に落ちる……。「アメリカ」を「教祖」に置き換えれば、まったく同じ構造ではないか。
 (『日本国民に告ぐ』三一〇~三一五頁)


 自虐史観・暗黒史観を教育され、受験競争で育った子どもたちが、社会のエリートになった時、何が起こるか、それはまちがいなく日本という国家の滅亡だ、と小室氏は警告します。


 本来なら友だちとなるべき人びとを敵と見做し、アノミーを起こしながら、ひたすら暗黒史観を頭に書き込んだ連中が、拡大再生産されている。その中で暗黒史観を最もしっかり記憶した者がエリートとなって、この国の中枢に入っていく。日本よ、汝の日は数えられたり。(『日本国民に告ぐ』三三〇頁)




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