シンポジウム参加者募集が始まりました

2006年09月14日 | 持続可能な社会

 下記の要領で、シンポジウム「日本も〈緑の福祉国家〉にしたい! スウェーデンにまなびつつ」の一般参加者の募集が始まりました。

 環境問題をぜひ解決したい、そのために自分にできることをしたいと真剣に考えておられる方々の参加を心からお待ちしております。


                    


 本シンポジウムは、環境問題について一般的な知識をお伝えするというより、趣意書のような方向性について予め理解していただき、基本的に合意できそうだと思われる方にお集まりいただいて、その方向性を再確認し、可能ならばご一緒にその先の展開を考えていただくことを目指しております。

 そのため、シンポジウムの進行もスケジュールをきっちり決めるのではなく、ごく大まかに、開会から午前中、大井玄(元国立環境研究所所長・東京大学医学部名誉教授)、小澤徳太郎(環境問題スペシャリスト・元スウェーデン大使館環境保護オブザーバー)、西岡秀三(国立環境研究所理事)、岡野守也(サングラハ教育・心理研究所主幹)によるシンポジウムの趣意についての確認の発題、午後から4者の対談の後、出席者からのメッセージ、コメント、質問をいただく、というふうに考えております。

 また、討議内容をその場かぎりでない実りあるものにするため、ご参加のお申し込みをいただいた方には、シンポジウムの発題の内容のパンフレットを予めお送りしてお読みいただけるようにする予定です。

 皆様、それぞれに大変お忙しいことは十分承知しておりますが、なにとぞ趣旨をご理解いただいた上で、ぜひ、万障繰り合わせて、ご出席・ご参加いただけますようお願い申し上げます。

 また、意思はあるが都合で今回は参加できないという方には、ぜひ、メッセージをいただきたいと思っております。


日 時 2006年11月19日(日)午前10時~午後5時

会 場 龍宝寺 玉縄幼稚園講堂

住 所 247-0073 神奈川県鎌倉市植木129(JR大船駅より徒歩20分、バスの便あり) 
   
参加費 2000円(昼食のお弁当・お茶代を含む。お支払いは当日受付にて)


●お問い合わせ、お申し込みは、シンポジウム事務局宛にファックス(0466-86-1824)またはメール(greenwelfarestate@mail.goo.ne.jp)でお願い致します。お名前、お仕事、ご住所、お電話・ファックス番号、メールアドレスをご明記下さい。お申し込みいただいた方には後日、発題パンフレット、地図等、資料をお送りします。

 終了後、インフォーマルな二次会も行ないたいと思っております。併せてそちらへのご参加の有無もお知らせ下さい。

 申し込み締め切りは、9月30日とさせていたきます。

   2006年9月14日

 
  シンポジウム「日本も〈緑の福祉国家〉にしたい!」事務局


*ご賛同いただける方は、ぜひ、趣意書やこの記事をコピーしていただいて、たくさんの同じ気持ちの方にお伝えいただけると幸いです。

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実現に不可欠な4つの面の条件

2006年09月14日 | 持続可能な社会

 どうしたら本当に「持続可能な社会」が実現できるのかを考えるうえで決定的にヒントになると思うのがケン・ウィルバーという思想家が『進化の構造1・2』(松永太郎訳、春秋社)で書いている存在の「4つの象限」という考え方です。







 ウィルバーは、世界や人間を全体として捉えるためには4つの面=象限を区別したうえでそれぞれをすべて見る必要がある、と言っています。

 「4象限」というのをわかりやすく図式化すると、縦軸、横軸で区切られたグラフになります。上は個別・個人の象限、下は集団とか社会の象限、右は外面、左は内面です(ウィルバー『進化の構造1』春秋社、p.196 より引用)。






 『進化の構造』では、この4つの象限で物を考えないと、世界の全体像が見えてこないということがきわめて詳細に説得的に語られていて、私にとっては目から鱗が落ちるという本でした。

 例えば消費行動というのは、まず外側で見える個別の行動です(右上象限)。

 それは、実は購買意欲という個人の心の中・内面で起こっていることと関わっています(左上象限)。

 ところが、いくら買いたいと思っても、貨幣経済という集団の共有する文化(左下象限)がなければ、ただの紙であるお札がお金と見なされて物を買えるということが起こりません。

 さらに、実際に買い物ができるためには、社会の外面として商品流通システム(右下象限)があって、商品が流通していなくてはいけません。

 他のことについても自分でシミュレーションしていただくと納得いくと思いますが、こういうふうに、私たちの世界で起こっていることにはすべて必ず4つの象限があるというのです。

 そういう視点から見ると、これまでエコロジーが問題になってきた時、エコロジカルな技術や消費者行動をどうしたらいいか、あるいは環境にやさしい社会システムはどうやったらできるのか、という外面・右側象限の話はかなり深められてきたけれども、左側が十分ではなかったのではないかということが見えてきます。

 例えばいちばん典型的なのは、国連大学が中心になってやっているゼロ・エミッション社会の構想です。あれは外面の形としていえば、実現できるのなら、とりあえずはほぼそれでいいわけです。

 ところが、日本国民の一人一人ということになると、そういうことをほんとうにやる気があるのでしょうか。さらに、日本国民の中でそれをやるほんとうに実行力のある集団、あるいは国民的合意が獲得できているのか、という問題になると、ここはほとんど抜けているのです。本音で言うと、「無理なんじゃないの」と国民の大多数が思っていたり、特に指導者たちは「今の高度産業社会を急に変えるわけにはいかないじゃないか」「まず景気対策が先だ」「いくら環境を壊すといっても、やっぱり公共事業をやらないと景気は回復しないだろう」という話になってしまうのです。

 ここのところについては先ほども言ったように、市民や学者は批判をしてきたのですが、どうして個人と国民全員の内面を変えていくかという基本的な視点や方法については、問題意識が不十分だったのではないか、と私は見ています。

 その結果、35年、かなり多くの心ある方々が外側のことに真剣に取り組んできたにもかかわらず、リーダーの内面=基本的な価値観や発想は変わらず、国民の大多数の内面=気持ち・欲求構造も変わらなかったので、全体に集団の内面としてのエコロジカルな文化は形成されず、集団の外面としての社会システムも変化しないままだった、ということではないでしょうか。

 そして世界全体としては依然として、後進国は先進国に追いつこう、先進国はやっぱり経済成長を続けよう、ということになっており、日本もそれに追随しているわけです。

 これでは、世界全体も日本も、大量生産-大量消費-大量廃棄というパターンを抜けることはできません。

 では、ほんとうにエコロジカルに持続可能な社会の実現には何が必要かというと、まず第1・右上象限では「環境に調和した個別の技術や個人の行動」です。これをどうすればいいかについては、そうとう程度見通しがついていると思われます。

 次に、第2・左上象限の「環境と調和した生き方をするのが、いちばんいい生き方でいちばん幸せなのだと感じるような個人の欲求構造」です。環境を壊してまでぜいたくな生活はしたくない、「してはいけない」のではなく、「したくない」と思うような心の欲求構造のあり方です。そうした欲求構造を育むことは、容易ではありませんが、可能だ、と私は考えています。

 それから第3・左下象限の、環境との調和を最優先して、なおかつ個人に対しては自然な欲求を育んでいくような方向付けを絶えずするような文化です。つまり、例えば子どもが学校で教わっていると自然と環境を壊すようなことをしたくなくなるような教育が行なわれているような社会ということです。

 そしてもちろん言うまでもなく、第4・右下象限の、環境と調和した社会システム、特に生産システムが必要です。

 この4つの象限の条件が全部そろえば、「エコロジカルに持続可能な社会」はまちがいなく実現するでしょう。

 そして、この中の右上象限と右下象限のヴィジョンに関して言えば、スウェーデンでは当面向かうべき目標はほとんどできているようです。

 しかし、私はスウェーデン・モデルでもまだ不十分で、さらに行き着くべき先は〈自然成長型文明〉という文明の方向を考えています。これについては、あとで述べます(このブログでは先に書きました)。

 ほんとうに持続可能な社会秩序を創り出すために必要なものは4つの側面であり、さらに実行レベルでいうと、まず4つの象限をすべてカバーしたヴィジョンが必要だということです。目標設定をするためには、ヴィジョンが必要です。

 それから、高度産業社会から自然成長型文明までは大変な距離がありますから、そこに到るまでのプロセスとしてスウェーデンの「エコロジカルに持続可能な社会=緑の福祉国家」をモデルにして、日本は日本にふさわしい、各国は各国にふさわしい形をどうやって設計するかという発想も必要でしょう。

 そして、今日本でいちばん欠けていて、いちばん大事なのは、主体の問題です。誰がそれをやるのかということです。

 私は譬えとしてよく言うのですが、ネズミとネコの寓話をご存じでしょうか。ネコがネズミを絶えず食べにきて仲間たちがどんどん減っている、「どうしよう」とネズミたちが相談します。「ネコの首に鈴をつけたら、来るのがわかるから逃げられる」という意見が出て、「それはいい、それはいい」と全員が同意しましたが、さて、誰がやるのかということになった時、みんなやりたがらなかったのです。そして結局、1匹ずつ食べられていって全滅しました、という話です。

 それに似て、ヴィジョンとプロセスの設計ができても、実行の主体がなかったら何にもなりません。国民が「私が実行の主体になるんだ」という意欲をもたないかぎり、「政治家がやるべきだ、官僚がやるべきだ、学者が考えるべきだ」と言っている間は――35年間できなかったわけですし、その傾向は変わっていませんから――できないでしょう。

 だから、「あなたたちがやらないのなら、私たちがやる」、つまりデーモス・クラティア=民主主義です。「あなたたちがリーダーとしてふさわしい行動をしてくれないのであれば、私たち国民が主権者として、私たちの望むリーダーを選びなおします」、今「持続可能な社会」を望んでいる国民はそういう決意をもつ必要があるのではないでしょうか。

 まず日本人の中のどれだけの人間が、さらに人類全体の中のどれだけの人々が、それだけのエネルギーや意欲や決意をもちうるか、持続可能な社会を実現する本当の主体になれるかということが決定的な課題だ、と私は考えています。

 そして、その課題はもちろんやすやすというわけにはいかないにしても、やがて必ずクリアできる、と信じています。




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