随煩悩5:悩(のう)――悩ませること

2006年04月13日 | メンタル・ヘルス

 人に腹を立て、人を恨むと、嫌な表情や態度、あるいはもっと激しい態度、嫌味や意地悪、きつい言葉などで、人を悩ませてやりたくなります。

 いたずら、いやがらせ、陰口、悪口、シカト……凡夫が編み出す人を悩ませるテクニックには驚くべきものがあります。

 癡・愚かさとは、無知ではなくむしろ「悪知恵」の別名ではないかと思ったりすることがあるくらいです。

 その愚かさの根源にあるのは、自分が悩まされたのだから、相手を悩ませるのは当然の権利だという思い込みでしょう。

 その「自分が悩まされた」という感じ方には、極端な場合、「何となく虫が好かない=私の感覚に合わないので、嫌な気分にさせられた」、だから「意地悪したくなるのは当然だ」ということまで含まれます。

 いじめが問題になる時、「いじめは、いじめられる側にもそれなりの理由がある」といった言い方が出てくるのは、そういうわけではないでしょうか。

 凡夫の中にももちろん比較的ましな凡夫、善人というほかないほどの凡夫もいますが、かなりの数の凡夫が、どこか「自分の権利だ」くらいに思って、一見平気で人を悩ませることをするようです。

 彼らの場合、人を悩ませはするけれども、自分は平気なんだから、「煩悩」という言葉は当たらないのではないか、という疑問が起こるかもしれません。

 それに対して、唯識は、怒り、恨み、悩ませるに際しては、「熱悩(ねつのう)」とか「暴熱(ぼうねつ)」という言葉で表現されるような自分にとってもきわめて不愉快な感情が伴うことを指摘しています。

 もちろん、悩ませる自分と悩まされる相手との分離という思い込み・妄想を元にしているという意味でも煩悩です。

 私は、さらにそれに現代の深層心理的な洞察を付け加えることができる、と思っています。

 確かに、人を悩ませ、人をいじめたりして平然としていたり、むしろ喜んでいるように見えるサディズム的な性格というのはあります。

 しかし、それは意識上だけを見ればそう見えるということなのだと思います。

 考えて見ましょう。

 他者から認められ愛されることのない人生は、とても楽しいでしょうか?

 性格によっては、認められず愛されなくても全然平気、むしろ楽しいという人がいるのでしょうか?

 それは、そうではない、と私は捉えています。

 人間の本性上、認められ愛されることは普遍的で切実な欲求だと思われます。

 ただ、ありのままで認められ愛されることを、心の奥・無意識で、切望していながら同時にそんなことは不可能なのだと絶望している人の場合、心の防衛メカニズムとして、「認められなくっても平気だ」、「愛なんて甘っちょろいものはいらない」、「強ければ人は嫌でもオレを認めるんだ」と言ったり行動したりしているだけなのです(精神分析で「否認」とか「反動形成」というメカニズムです)。

 ところで、自分を悩ませる人・意地悪をする人を好きな人っていますか?

 いませんね。

 ということは、当たり前のようですが、他者を悩ませる=愛さない人は永遠に他者から愛され認められることはありえません。

 人を悩ませるということは、法則的に人から認めらず愛されないという結果をもたらし、したがって自分の無意識のしかし切実な願望が満たされることは決してない、絶望的だということです。

 さて、絶望はもっとも深い悩みなのではないでしょうか?

 まだ痛みなどの自覚症状が出ていない、しかし実は余命わずかという病気は、痛くなくてもまちがいなく病気です。

 それとおなじく、自覚していない絶望もまた実存哲学者キエルケゴールの言葉を借りれば「死に到る病」です。

 精神的な死に到る病は、実は悩んでいるということの自覚がない(抑圧している)としても病です。

 人を悩ませることは、悩ませているだけで自分は悩んでいないつもりの本人にとっても、そういう深く複雑な意味で実は恐るべき心の病・煩悩なのだ、と私は考えています。



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コメント (3)
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