sigh of relief

くたくたな1日を今日も生き延びて
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届いた本と手紙に気持ちが緩む、
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映画:サーミの血

2017-10-17 | 映画


サーミ族の人たちについてはぼんやりと、
サーミ族の人が出てる好きな映画→「ククーシュカ」で知ってるくらいでした。
自由で強い女性が主人公の、ちょっとファンタジックな映画だったので、
その少数民族のサーミ人にこのような差別の歴史があったとはと、どきっとした。
日本ではアイヌの人たちのことを思い浮かべるという感想も、
多くの人が述べていることですが、それ以上のもののある、印象的な映画だった。

映画は、今はスウェーデンに住むサーミ人の年老いた女性が、
妹の死で、何十年ぶりかに故郷へ帰るシーンから始まります。
そこから1930年代、彼女の少女時代、ラップランドでトナカイを放牧し
サーミ族としてテントに住んでいた頃の話に移ります。
そこから、その少女は全寮制の寄宿舎に妹と一緒に入れられますが、
そこは当時サーミ人を劣等民族だと決めつけた行政の指導の下にある学校で
スウェーデン人の洗練されたきれいな感じの女教師が厳しく管理していました。
サーミ語は禁止されているけど、スウェーデン語でどんなに頑張って
いい成績を取っても上の学校には進学できない、そういう風になっていて、
さらに、中央から来る調査?の人たちに、身体を測定されたり
全裸で前後ろと標本のように写真で記録を取られたりと、
人としての尊厳など全く与えられていない環境。
この聡明な主人公エレ・マリャは教師になりたいけど、進学も許されず
叶わぬ夢で、先生にも諦めるように冷たく言われてしまいます。
そんな中、身元を隠して忍び込んだ夏祭りでスウェーデン人のニクラスと出会い
彼を頼って都会へと、逃げ出すのです。
そんなことは知らないニクラスの家へいきなり押しかけて
強引に頼み込んで泊めてもらったり、お金を貸してくれと頼んだりする展開は、
彼女の世間知らずな無謀さ、無知、図々しさ、強情さなどもあって
はらはらするし、いやそれは無理でしょうとも思う。
でも文化が違うってこういうこともあるんだろうなと思う。
彼女の住んでいたところでは、おかしなことではなかったのかも。
そしてこの主人公は、ほんの、10代半ばの多感で思いつめた少女なので
彼女の行動を責めることはとてもできませんね。
この主人公は、ときどきすごいおばさんのように見える時もあるし
まだ寄る辺ない少女に見える時もあって、複雑な役をよくこなしました。
いい演技だったと思う。
聡明に整った目鼻立ちで、ぽっちゃりして存在感と強さがあり、
いわゆる欧米の俳優さんとは違う雰囲気があります。
この映画では頑固で気難しい顔の場面が多かったけど
この女優が明るく笑っている映画も見たい気がします。

最後にまた現代のシーンに戻って、妹のお葬式のあとも
かたくなにサーミ族の人と距離を置き近寄ろうとしないどころか、
ホテルではサーミ族非難するスウェーデン人の中に入り、
自分はどこどこ出身の元教師だと、やはりサーミのことは隠すのです。
でも、この経歴は多分嘘。
彼女の人生のほとんどは描かれないのではっきりしないけど、
それは彼女がその名を真似て名乗った寮時代の女教師の出身地で、
ヒロインがこの差別的ながらスマートでエレガントで都会的な女教師に
複雑な憧れを抱いていたことはわかるので、
教師だったというのが嘘である可能性はとても高いのです。
サーミを捨てた頃からおそらく半世紀以上、彼女はこうして
自分の中のサーミを捨てて、踏みつけて、逃げ続けてきたのでしょう。
そこにはとても複雑な葛藤があったはずです。
妹も母も、亡くなった父のことも彼女は愛してたようだし
サーミの誇りも持っていたはずの、凛とした少女だったのです。
・・・どんなにか辛い人生だったろう。

これね、このヒロインのエレ=マリャのことを、
自由を求めて飛び出した少女という風に書いて褒めてたり勇気付けられたとか
そういうコメントや評があるんだけど、
うーん・・・。
確かに彼女は劣等民族として差別されることから逃げたいと思い
そのために勇気ある行動をしたとは思うけど、
彼女は差別に反対したり戦ったりしたのではなく、
差別する側に入ることで自分だけ助かろうとしたんですよ。
厳しい言い方だけど、わたしは彼女を全然責める気持ちはなくて、ただ、
彼女は差別される側を見捨てて、自分だけ差別する側に入り込んだことで
きっと生涯自分を晴れ晴れと許すことができなかったんじゃないかと思うのよ。
差別の加害者側に逃げて紛れ込んだけど、彼女はその前も後も被害者なのです。
最初は差別される側として、そこから逃げた後は、嘘をつき続け、
愛するものを裏切り続けるという罪を背負わなければならなかった、被害者。
自身もサーミ人とのハーフだというアマンダ監督はそれを、
「精神の植民地化」をされてしまったと、言っています。
誇り高く生きるために、自分のルーツを捨て、過去を葬り、嘘を生きることで
自由になったんじゃなく、囚われつづけた悲しい悲しい人生。
その彼女が今、故郷に戻って何を思うのか。
自責の念、借りものの人生の悲しさ、他にどうしようもなかった絶望・・・。

この映画をわたしがひとことで言うなら、
「差別されることから逃げたら、欺瞞とともに生きるしかなくなって、
自分自身の欺瞞に痛めつけられ苦しみ続けた悲しい女性のお話。」かなと思う。

そういうヒロインの葛藤を描いた映画なのに、そこはほとんど描かれない。
人生の始めと終わり、ヒロインが故郷を捨てて街へ出て行くまでと、
そこで何十年も経ったあとの場面だけが描かれていて
身一つで街へ出て行った少女がどうやって成長し働き息子を生み育て、
年老いて妹を失くすまで生きてきたのかは一切書かれていません。
その前と後、普通なら省略される部分の方を、メインに描いているのがすごい。
ドーナツの穴を描いてドーナツを感じさせるような技です。
この、大部分を描かずに見せるのには唸りました。
そして、何十年かぶりの帰省のあとの、これからの彼女も読み取れない。
この帰省で何か変わるのか、変わらないのか。
彼女の複雑な厳しい表情から、何を読み取るかはそれぞれの問題なんでしょう。
難しい映画だけど、よくできてると思います。
この終わり方を選んだ監督はこう言っています。なるほど。
「監督業の良いところは、明確な答えを持たなくて良いところ。
明確な答えを持つのではなく、鑑賞者に答えを投げかけることができること」


この映画を、自分の問題に引き寄せて考えてしまう部分もありました。
最後までかたくなに故郷を否定するヒロインは、
差別側にまわって隠れ逃げ切った人生だったのかもしれないけど、
彼女を責めることはできないなぁとも、強く思ったのは、
民族の問題では同様のことが在日にもあるからです。
出自を隠し、差別する側に埋没、同調して生きる人たちを、
若い頃は軽蔑し責めていたけど、
今はその人たちの辛さも想像することができるから。
その人たちは差別の被害者だったわけで
そもそも差別がなければ、そんなことをする必要もなかったのです。
だから自分はそんな人生は嫌だけど、そういう人を責められない。

だから、欺瞞の中に生き続けるしかなかったヒロインの人生を、
戦って手に入れた晴れやかな自由な人生のように言ってのけるコメントの
呑気さにあきれ、腹を立ててしまった。
だって、彼女には選べなかったのよ。
差別される人生か、
差別する側に隠れて紛れて一緒に差別の言葉を口にする人生かどっちかしか。
その窮屈さを苦しさ痛みを、全く読み取らずに、
この映画を素晴らしいと褒める人の鈍感さに、ほとんど傷ついたから。

このヒロインには、共感するところも、バカだなーと思うところもあるけど、
サーミ人は脳が劣っているとされ、動物のように身体を計測され、
標本のように裸の写真を撮られるところでは、怒りに震えて涙が出た。
思い出しても涙が出る。
本当に世界のどこでも差別はあって、
人間はどこにいても、差別を作り出す生き物なんだと思ってるけど、
よくなっていってるところもあるし、もっとよくなるはずだと思いたいものです。

もうひとつ、監督の言葉。
「多くのサーミ人が何もかも捨てスウェーデン人になったが、
私は彼らが本当の人生を送ることが出来たのだろうかと常々疑問に思っていました。
この映画は、故郷を離れた者、留まった者への愛情を
少女エレ・マリャ視点から描いた物語です」
わたしは本当の人生を送ることができているのだろうか。

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