sigh of relief

くたくたな1日を今日も生き延びて
冷たいシャンパンとチーズと生ハム、
届いた本と手紙に気持ちが緩む、
感じ。

アウティング

2017-03-22 | Weblog
半年前に話題になった事件だけど、書きかけだったのをアップしとこかな。
その後どうなったんだろうなぁ、事件自体は2015年の夏に起こってます。
ちょっとぐぐったけど新しい情報は見つけられなかった。(検索力ない・・・)

一橋大学ロースクールに通っていた25歳の男子学生(当時25)が、
ゲイであることを同級生にばらされ、苦悩の末に校舎から転落死。
その後遺族は、秘密をバラした(アウティングした)同級生や大学を提訴。
事件に関する記事のリンクはいつまであるかわからないけど一応ここに→*

学校の対応の間違いや問題も重大だけど、その前にアウティングについて。
亡くなった学生は以前から好きだった友達に告白をするけど振られます。
でも友達同士でいようという感じになって、それまで通りに普通にしてたのだけど
あるときその友達が、他の友達もいるグループLINEで彼がゲイであることを
いきなり勝手にバラし、その後起こった事件でした。
アウティングした方の学生は、
「恋愛感情をうち明けられて困惑した側として、
アウティングするしか逃れる方法はなく正当な行為だった」と主張しています。
・・・ってそこ、わたしには意味がよくわからない。
いったい何から逃れる方法?
自分の、同性愛に対する差別と偏見と勝手な困惑から逃れる方法???
意味わかんない。

加害者のこの言葉だけだと彼なりにどう対応したらいいのか悩んだようにも読めるけど、
個人的な葛藤や悩みを信頼できる人に打ち明けることと、複数の前で晒すのとは別だし、
すでに3人に話した後にさらに8人いるLINEグループで、
本人に断りなく、本人の目の前で暴露する意図は、わからないでしょ。
普通に考えて、なんらかの悪意があるように思えてしまう。
しかも元々同性愛を生理的に受け付けないと公言する友達もいるらしい環境の中で。
これ晒しの意図は全くなかったって言うの、通用しないと思います・・・。
なんの自覚もなくやったのかもしれないけど、通用しないと思う。
アウティングした子だけを責める問題でないのはわかってるけど。
少ない情報で勝手な判断や推測でよく知らない人を責めるべきでないのもわかってるけど
亡くなったこのことを思うとやりきれなくてつい。すみません。
でも、悪気がなかったにしろ、軽い気持ち、というものが、
時にどんなに人を傷つけるものか、忘れずにいたいと思うし、
ましてや、ほんの少しでも悪意や晒しの気持ちがあったなら、
それは相手が差別される側のマイノリティだとわかってる状況では
やはり差別に関わる問題になると思う。

事実関係を一つか二つのニュースからしか知らない状態で、
誰かを責めるようなことは言いたくないんだけど、
アウティングした男子が、彼なりに悩んだ末の行為だったとしてもやっぱり
差別心がどこかにある加害者なのは変わらないし、
もしもこのゲイの子のことをあざ笑うようなことがほんの少しでもあったなら、
絶対に絶対許せないと思ってしまう。
どれだけのことをしたか自覚ないんだろうな。よく調べて欲しい。
情報不足の他人のわたしには今は何もジャッジできないけど。

その後、ツイッターでゲイを不快に思うのは自然と言い張る人と不毛なやり取り。
同性からの告白は「速攻で強烈な不快感に直結する」って言われた。
同性愛者から好かれると「やっぱり不快」「物凄い不快感」って、何度も繰り返す。
そういう人も世の中にはいるかもしれないけど、
なんで「不快」に思うのが普通だと言い切る?
100歩譲ってゲイを不快に思う人がいるとしても、
それを当然だなんて言い切るのは間違いです。そんなことは絶対ないですから。
そもそも、わたし自身は一滴も不快じゃないけど、
もしも心のどこかで不快に思うんだったとしても、
そういう自分を恥じて黙るしかないと思う。
自分の差別心を恥ずかしいとも思わず「不快なのが当然」とか言えるのって
いったいどういう理屈なんだろう。

この事件のアウティングした人についてツイッター上で
自分の推測だけで無責任にたくさんつぶやいてしまったことは、
自分でもちょっとどうかなと思うんだけど、
結局わたしが反論したいのは、この当事者たちの誰か個人というより、
同性愛者を傷つけることに無頓著なこういう人たちに対してなんだろうなと思う。

自分は在日で、それを秘密にしたことは一度もなくて、
不当な差別なんかに負けないしなんともないと思ってきたので、
若い頃はそれのできない人を見下すようなところがありました。
それを隠す人たちに対して、差別を助長するのかと非難する気持ちがあった。
わたし若かったし馬鹿だったし優しくなかった。
今は違います。少し大人になりました。
戦うのは立派かもしれないけど、戦えない人を責めるのはおかしい。
だってそもそも間違ってるのは差別する側なんだもん。
差別される側にどこまで負担を強いるんだよって話で、
だから亡くなった男の子を迂闊だの男女間ではよくある話だのと責めるのは
お門違いと思う。

アウティングした学生が、言葉通りに困惑の末相手を傷つける自覚なくしたことなのか、
なんらかの悪意なり嘲笑なりがあったのかは、訴訟にもなってることだし、
その後のLINE内外でのやりとりや周りに学生への聞き取りなどで
はっきりすることでしょうから、わたしがあれこれ決めつける立場じゃないですね。
だからわたしがぶつぶつ反論してるのは、このアウティングした子に対してではなく
それを擁護する人たちに対してなのだと思います。
その擁護の中のいつくか、納得のいかないものに対して。
(中には納得いくものもあります)

自分のしたことが人の命を奪ってしまうことにつながる自覚は、
悪意のあるなしに関わりなく、この加害者にはなかったろう。
だから、どこまで罪を問うのかは、司法の問題で、
外野のわたしたちが糾弾したりリンチしたりすることではない。
でもわたしは、この加害者のしたことを許せない気持ちだし、
そういうちょっとした無自覚がどれほど、
社会で被差別者として生きているマイノリティを傷つけるかということは、
もっとみんな学んだ方がいいと思う。

以下は差別について時々話し合う友達の冷静なつぶやき。
>そうか。差別が一度ある程度まで固定化されると、それを無くそうとした時にマジョリティ側の人がそれまでやってきたツケの一部を支払う事になるのか。それでもマイノリティ側からするとまだまだ全然対等ではないけど、マジョリティ側からすれば、こんな事今までしなくて済んだのにとなるのか。
>差別がある事でマイノリティが一方的に押し付けられてきた損害のツケを、差別をなくすためにマジョリティも一部支払う必要が生じたというだけなんだけどねえ。それでも、全体として(その属性という側面だけ見れば)マイノリティが不利な状況はまだ覆せていないんだけども。
>なんにせよ「差別」っていうのは、わかりやすく誰かが誰かを虐待してるという話というのではなく、当事者が強い恐怖や怒りを感じるようなあれこれが、多数派によって常に「そんな大げさな」「大した問題ではないでしょ」とされてしまう、その絶望と向き合わされる状況のことなのだなと思う。
>「ちょっと大げさじゃない?」「被害者意識強すぎない?」が積み重なって人が死ぬ。その時人々は、彼/彼女の苦痛が死に至るほどのものだったという事実を急激につきつけられ、罪悪感にうろたえる。そこで懺悔が始まるならまだいいが、現実を直視できず被害者の「弱さ」や「落ち度」を探しだすことも多い。

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