small_happiness
   Farsideの過去ログ。




 ホラー好き、ゾンビ映画好きの私は、TVシリーズの"ウォーキング・デッド"も大好きだった。TVでこんな番組を放送できるということ自体にまず驚いたが、予算のかけ方や筋立てのハードさにも驚いてばかり。シーズン6まではそれで良かったのだが.....。正直、シーズン7からは話が残酷になりすぎているような気がする。原作のコミック通りの展開なのだとも聞くが、まさかグレンが死ぬなんて。


 ご存じの方も多いだろうが、ウォーキング・デッドは、ゾンビによって支配された荒廃した世界で生き残るために戦う人間たちの物語。最初はゾンビが敵だったが、やがて敵は人間へとかわり、ゾンビは過酷な環境を作り上げる"要素"の一つになっていく。そこまではまぁ、理の当然で理解できるのだが、そこにもう一つの"要素"が絡んでくる。いわゆる"数字"という奴だ。コミックスなら販売数、TVなら視聴率、映像ソフトなら閲覧数。人気を落とさず利益を上げ続けるためには、同じものを作り続けるだけでは無理なのだ。「刺激逓減の法則」で、10の刺激に対する反応は、最初は10でも、回数を重ねるごとに9になり8になり、観客の慣れと共に減っていく。それは人気の減少、利益の減少と直結している。10の反応を維持したければ、あるいは減少を最小限に食い止めたければ、刺激を増やし続けるしかない。


 人間同士が争う物語のカタルシスは、「悪い奴をやっつける」という単純な構図で出来ている。水戸黄門なら、ドラマの前半は悪党の「悪さ」を観客に見せ、やっつけたいという気持ちをもたせることに力を注ぐ。後半で黄門様が登場して悪党を糾弾し、介さん角さんが悪者をバッタバッタと倒してくれて、そこで観客はスッキリする。ドラマを成立させるのは、そのカタルシスだ。水戸黄門や大岡越前、仮面ライダーなんかは歌舞伎と同じ様式美だから、毎回同じことを繰り返して構わない。だが、様式美をもたない物語は、同じカタルシスを得るために刺激をどんどん大きくしていく必要がある。かの有名なドラゴンボールは、敵をどんどん強くしていくことで物語の自制心を失って崩壊してしまった。目的が「面白い物語を作る」から「出来るだけ長く物語を続ける」に変わってしまった以上、当然の結果だった。作者の鳥山明は、途中からは無理矢理描かされていただけで、自分が生み出した作品に愛着を持つことすら出来なくなっていたのは有名な話だ。
 ウォーキング・デッドでの刺激は敵の「強さ」ではなく「残酷さ」だ。シーズン7からは、敵であるニーガンの残酷さ、敵対者たちの醜さを延々と見せつけられる。これが「刺激」だから、この部分は必要なパートには違いないが、観ている方は不快で暗澹たる気分になる。ホラー好きの私ですら、もう見るのをやめようかと思ったぐらいだ。ウォーキング・デッドもまた、ドラゴンボールと同じ轍を踏んで自滅していくのではないかと思う。

 スターウォーズ・シリーズの敵役でいちばんたくさん出てくる者、すなわち一番多く死ぬのは白い装甲に身を包んだトルーパーで、顔も名前もない者たちだ。顔がなく、名前もなく、表情もなく、家族も背景もない。映画が帝国の兵士の人間性を観客に一切見せないからこそ、子供から大人まで帝国の兵士をやっつけることに快哉を叫ぶことが出来るのだ。倒すべき相手を「顔と名前のある人間」から「倒すべき対象」へと記号化することでその人間性を消去し、倒す(多くの場合殺害する)ことへの抵抗感や罪悪感を無くさせるという、王道の演出だ。記号化による人間性の消去は極めてありふれた一般的なもので、ショッカーの皆さん(こちらは予算的な問題から始まったものだが)もそうだし、ゾンビも同じだ。ゾンビ映画や、バイオハザードなどのゾンビを倒すゲームは、敵である対象から人間性を消去するから「娯楽」として成立するんである。私の好きなFallout4も全く同じ。
 ウォーキング・デッドの敵役が人間性のないゾンビから個性を持った人間そのものに移行してしまった今、同じ路線でシーズンを重ねるのなら、加速度的に人間の残酷さを描き続けるしかなくなってしまう。企業が利益を追求するのは最も自然なことだし、ドル箱の番組を続けることは大事だとは思うが、脚本で知恵を絞って、物語を引っ張っていける刺激的な新機軸を産みだしてくれることを願うばかり。



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