ディカプリオお味噌味

主に短編の小説を書く決意(ちょっとずつ)
あと映画の感想とかも書いてみる(たまに)

夜景列車⑩

2016-11-24 16:55:29 | 小説
 京急の普通列車に揺られて私は暗い藍に染まり込む外の景色に身を任せているようだった。高層ビルが建ち並ぶ品川駅を出ると、窓外を流れる景色は住宅地絵図として統一化され、何の面白みも優雅さもない、退屈で平凡なものとなる。まるで私の人生のように。
 明日もしかしたら東京に雪が降るかもしれないと今朝の天気予報は盛り上がりを見せていた。東京の11月の降雪は半世紀ぶりらしい。たしかに電車に乗り込むまでに、皮膚から伝わる冷たさはもちろんのこと、アイスを食べ終わった後のような、じーんとする痛みが耳から頭に響く感覚があった。
 何も考えることがない私は、美也子先輩にいわれたことを頭の中で反芻していた。
 優しい人たちに囲まれて、何不自由のない環境で生きてきた。
 そういわれればそうかもしれないが、そんな環境で生きてきたからってどうして合コンや男が嫌いになるのか、まったく論理的でないし、支離滅裂な言動である。見た目とは違って賢いと思っていたが、今回はかなり幻滅した。このままでは私は彼女のすべてを否定しかねない。だから考えるのはやめたいのだが、何度拭っても浮いてくる染みのようにそのことを考えてしまった。
 私の人生は――――まだ20年と少ししか生きていないのだが――――激動の瞬間などなかった。自分を完全燃焼させるとか、断崖絶壁に立ってさあ後がない、それでも自分に挑戦するとか、そんなもの何一つなかった。平凡で平和で、自ら極力波風の立たない、立たせない人生を送ってきた気がする。勉強に没頭したとか、それこそ男に没頭したことだってない。普通。普通が一番だと言い聞かせてきたわけでもないのに、誰かに何か誇れるものなど何一つない、普通の生活だった。
 そう考えると、美也子先輩のいうこともあながち間違いではないのか。優しい人たち、束縛されない自由な環境にいると、自分や周囲を変える必要がないと思えてくる。自分はこのままでいいと思えてくる。だから合コンとか男とか、そんな自分がいままでやろうと思ったことがないものに挑戦しようと思えないのか。
 いや、この主張はやはり無理があるし、ロジックに欠ける。これは単に自分の生まれつきの性格であって、環境ではない。現に同じような環境下で育ってきた妹は私とは真逆の世界にいるような女だ。
 それでは、初めからそうだったのだろうか。変化を嫌うという特性は果たして天性のものだったか。
 外の暗闇を覗き込んでいると、記憶が足音を立てて私に近づいてくるのがわかった。
 目を閉じた。美也子先輩のいったことは忘れて、私は一人で私だけしか入れない闇の世界に浸って、原因を探ろうと思った。
 天谷くんの家に担任に頼まれた書類を届けた際に勝手にビーフシチューを作った日から2日後。
 廊下を歩いている私を呼ぶ声がした。
「柴崎さん」
 振り向くと、天谷くんが目の前にいた。
「一昨日、届けてくれたんでしょ。先生に聞いた」
 嫌な予感がした。不思議なことだが、そういう予感というのは大抵当たる。
「あ、うん」
「わざわざ、ありがとね。あと――――なんか、飯も作ってもらっちゃって」
 これも不思議だが、危機管理能力が乏しい人間は事の重大さを知った瞬間に、後の祭りだが正常な思考回路を持つことができる。もとはといえば中身がなんだがわからない書類を届けにいって、それを届けたら彼は誰が持ってきてくれたのか妹に訊ねるだろう。性別を語らず一言同級生といっても、彼はその書類のことで担任に話しにいくだろう。そこで担任は届けた人物は私だと彼に告げるわけだ。ここまでは容易に事前に想像できたはず。そして勝手に作ったビーフシチューだが、もし妹さんが作ったものと説明されたとしても、レシートを要求されたらどうするか。それを置いてくるのを忘れた。しかしいい肉を買ったし、それで怪しく思われる可能性もある。こういうこと一つずつ考えれば、ばれるのは必然だったのだ。
 不意の言葉に、明らかに表情が強張ってしまった。その瞬間、とにかくばれたのだ。
 天谷くんは徐に後ろポケットから封筒を取り出し、「本当にごめんね」といって私の前にそれを差し出した。
 それが何を意味するか。私は恐怖で自分の両足が突然消えてなくなったかと思った。それほど崩れ落ちそうな衝撃があった。
 ごめん、私そんなつもりじゃ――――だが、言葉が出なかった。
「多分、足りると思うから。ほんと、ごめんね」
 彼は私の手を取って、その封筒を握らせて私の目の前から消えた。
 私はすぐにその封筒を覗き込み、5千円札が一枚入っていることを確認した。
 学校が終わった後、みんなが部活や自己の遊びに興じている中、家族のために働いたお金だ。時給が800円だとしたら、彼が6時間汗水垂らして稼いだ大切なお金だ。
 それに、かなりオーバーしている。
 でも、私に彼を追いかける力も自信も残ってはいなかった。
 どうして謝るのか。どうして私は謝られたのか。
 答えは簡単だ。私は彼にとってしてはいけないことをしたのだ。
 高校2年生が覚悟を決めて守ろうとした土地に、門外漢の私は土足で入り込んで、それを踏み荒らし、汚した。
 美紗希ちゃんと琴羽ちゃんがおいしいといってくれた笑顔は銃弾を受けた窓ガラスのように瞬く間に粉々になって散った。
 私はその封筒を握りしめて女子トイレへと走り込んだ。隠れるように一室に入り込み、ドアを閉めた瞬間に涙が出た。
 ブロークンハートというのか。きっと、最初で最後の気持ちだった。私は傷ついた。彼を傷つけたからだ。余計なことをして、彼を深く傷つけたからだ。私はもう何もしないと決めた。好きな人を傷つけてしまうくらいなら、自分が傷つくくらいなら、何もしない方がいいと決めた。衝動とか、本能とかに振り回されない自分になろうと決めた。
 握りしめていた封筒はくしゃくしゃになり、落ちる涙に濡れた。目を閉じればすぐに去来するほど、あの瞬間の天谷くんの顔が忘れられなかった。
 目を開けると、あのときと同じ風景が私の目の前を通り過ぎている。平凡で、暗くて、何もない、同じような住宅や雑居ビルが並ぶ絵。
 窓に映る私の頬に、あのころと同じ涙の通った跡がある。そこに佇む私が、惨めにも私自身に聞いているような気がした。
 変わらなくちゃいけないんじゃない?
 ふと我に返って、濡れた頬を袖で拭った。
 変わらなくちゃいけない?そんなこと、知らない。わからない。
 でも、そうなのかもしれない。

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