庭 NIWA 28

とにかく おもったこと を 書き綴る

実感

2016年05月08日 | Weblog

今 一番 生きてるという実感がわいている

今までもないわけではないが

一番生きてるんだと 感じてる

おそらく 精一杯生きてるからなのかなと・・・

肩の力を抜きながら 緩い感じで
精一杯ですね

毎日たのしいわい


1215

2015年12月15日 | Weblog

久しぶりのブログです

今年もいろいろとありました

出会いと別れ

僕らは生きた瞬間に死へむかってる

そう思うと 毎日がいとおしく 思えるし

昨日はもう来ないし

毎日が充実している

今年もあとわずか

ぼちぼちいきましょう

 


ひびの

2014年05月26日 | Weblog
ひさしぶりにかきます

きづけば2014年も半分が過ぎようとしてる

毎日が充実し 

すごしている

数年前と比べ

なにかいろんなところにアンテナを張り巡らせ

たくさんの再会や

あたらしい発見がある

そして
これかも背伸びせず 自分の丈に合う

生き方を

保ちつづけたいと願います

ぼちぼち生きましょう

沈黙もコミュニケーション  ほぼ日より

2013年12月23日 | Weblog
 

・吉本隆明さんが、最晩年に
 いちばんくり返し言ったのは、
 「沈黙」ということばではなかったか。
 
 とにかく、「ことばの幹と根は沈黙なんです」と、 
 何度も何度も聞いた。
 そして、「沈黙」というのは
 「自己問答なんじゃないでしょうか」と。

 じぶんがじぶんに問いかけ、じぶんがじぶんを疑い、
 じぶんがじぶんに教えられ、じぶんがじぶんをたしなめ、
 じぶんがじぶんを励まし、じぶんがじぶんと交わる。
 問答の材料は、他人から受取ってきたものもあるだろう。
 聞きかじりも、読みたての智恵や知識もあるだろうが、
 それを、ひとり、自己問答することで、
 じぶんの考えが生まれてくる。
 ぼくはそんなふうに受取っていた。
 
 矛盾が矛盾のままであることも、いくらでもある。
 解決や正解といったものから離れていってしまうことも、
 いまはあえて棚上げにしていることもあるし、
 さらなる熟成を待たねばならないこともある。
 じぶんのこころのなかで、さんざんやりとりされる問答。
 それが無言のうちにこころのなかで行われている。

 自己問答があったか、つまり沈黙の時間はあったか。
 そこを経ている考えかどうかで、ことばの根がわかる。
 ぼくが、よく人のことばにうたれるときに、
 「あの人、それについてさんざん考えてきたんだよ」
 と思うことが多い。
 たっぷりの沈黙を根に抱えていることばは、生きている。
 
 ぼく自身が、ツイッターなどでおしゃべりをしたり、
 ささっと答えを知ろうとして
 お気軽にネット検索をしたりしているとき、
 せっかく溜まってきた沈黙が、蒸発しているのかもね。
 いつ自己問答をするか? いまでしょ!
 自己問答の時間は、どこにあるか? 独りのときでしょ! 
 ネットにもつながっていない「ひとりの時間」を、
 もっとたくさん持ちたいと思います、来年はもっと。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
少なく語って、少なく力になれたら、強くなれると思うよ。 

できることはなに

2013年12月11日 | Weblog
糸井さん ごめんなさい 引用してます

できること と できないこと

自分にとって できることは限られておりまして

そして、無理しないことなんだろうと 思ってます

庭をつくるのも 音楽奏でるのも そこに住む人がいたり 

聴いてくれる人がいて、 嘘はつけないんですよね

背伸びもできない

自分のそのままが出る

妥協もこだわりもすべて

今日のダーリンとは離れてきてはいますが ふと再確認しました



今日のダーリン
・じぶんに「できること」はなんなのか。
 とてもちいさい、しかし、「できること」というのと、
 ずいぶんおおきいが、「できないこと」というのがある。
 この見分けは、ほんとうにむつかしい。
 
 ひとりの人間のことでもそうだし、
 組織というか、チームのことでもおなじだ。
 なにができるのか、「できること」がわかること、
 そこにしっかり向き合うコストを、
 しっかりかけるのがいいように思う。

 「できること」は、「得意なこと」によく似ている。
 不得意なことを「できること」だと思ってがんばっても、
 なかなかできないので、前にも進まないし、
 後で役に立つような失敗もできない。
 それでも、たくさんの人が、たくさんの場面で、
 りこうそうな「できないこと」を選んだりするものだ。
 じぶんなら「できる」と思っているのか、
 できなくても、そっちを考えるほうが正しいというのか。
 「できること」の「できること」を信じていないのか。

・それはそうと、こんな話がある。
 街の歩道に、落葉樹の葉っぱがたくさん落ちる。
 風情があると思うのは、一瞬だけで、
 たいていはただのゴミになってしまう。
 「落葉反対!」と叫ぶのか、
 「行政のゴミ処理問題をなんとかしろ」というか、
 「ゴミになる木を植えた者の責任」を問うのか、
 「落葉しない落葉樹の研究」をはじめるか、
 「ゴミとはなにか」を論議するのか、
 「樹木を伐採しよう」というのか、
 「落ち葉を管理してくれる業者」を探すのか?
 それとも、
 「家の前の落ち葉を掃除する」のか?
 「できること」とは、最後のひとつだったりする。
 「ほぼ日」の入っている古いビルの1階は、
 昔からある洋服屋さんである。
 その店の女性たちが、落ち葉を掃除しているのを見た。
 この季節の街は、こうやってきれいになっている。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「雨が降ったら傘をさせばいい」は、大好きなことばです。