・吉本隆明さんが、最晩年に
いちばんくり返し言ったのは、
「沈黙」ということばではなかったか。
とにかく、「ことばの幹と根は沈黙なんです」と、
何度も何度も聞いた。
そして、「沈黙」というのは
「自己問答なんじゃないでしょうか」と。
じぶんがじぶんに問いかけ、じぶんがじぶんを疑い、
じぶんがじぶんに教えられ、じぶんがじぶんをたしなめ、
じぶんがじぶんを励まし、じぶんがじぶんと交わる。
問答の材料は、他人から受取ってきたものもあるだろう。
聞きかじりも、読みたての智恵や知識もあるだろうが、
それを、ひとり、自己問答することで、
じぶんの考えが生まれてくる。
ぼくはそんなふうに受取っていた。
矛盾が矛盾のままであることも、いくらでもある。
解決や正解といったものから離れていってしまうことも、
いまはあえて棚上げにしていることもあるし、
さらなる熟成を待たねばならないこともある。
じぶんのこころのなかで、さんざんやりとりされる問答。
それが無言のうちにこころのなかで行われている。
自己問答があったか、つまり沈黙の時間はあったか。
そこを経ている考えかどうかで、ことばの根がわかる。
ぼくが、よく人のことばにうたれるときに、
「あの人、それについてさんざん考えてきたんだよ」
と思うことが多い。
たっぷりの沈黙を根に抱えていることばは、生きている。
ぼく自身が、ツイッターなどでおしゃべりをしたり、
ささっと答えを知ろうとして
お気軽にネット検索をしたりしているとき、
せっかく溜まってきた沈黙が、蒸発しているのかもね。
いつ自己問答をするか? いまでしょ!
自己問答の時間は、どこにあるか? 独りのときでしょ!
ネットにもつながっていない「ひとりの時間」を、
もっとたくさん持ちたいと思います、来年はもっと。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
少なく語って、少なく力になれたら、強くなれると思うよ。